僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

19
「お姉ちゃん、お風呂あがったよ。……って、なんでお酒飲んでるの!?」

 しまった。紫木がいつ出てくるか完全に忘れていた。
 グラスの最後の一口を見て、もっと早く飲んでおけばよかったと今さら思う。

「大人の深夜タイムってものだよ~」
「お姉ちゃん、ほんとそういうの適当なんだから!」
「ごめんごめん。父さんと母さんに内緒にして?」
「言いつけたってどうせ気にしないでしょ。それに羽冬も!未成年はお酒飲んじゃだめって知らないの!?」
「ごめんなさい……」
「謝りながらまだ飲んでるし!お姉ちゃんももうやめて!」

 ……何だこの状況。

「はいはい。じゃあ姉ちゃんもお風呂入ってくるから、理香、ヨルがのぞきに来ないように見張っといてね~」

 そう言い残し、紫木姉は勝手にカウンターを出て、奥の私用通路へ消えた。

「……のぞくの?」
「するわけないだろ。」

 いや、そこ本気で確認するのか?

 紫木はTシャツに短パン、タオルを肩にかけ、髪も下ろして眼鏡も外していた。
 学校とはかなり印象が違う。

 さっきまでの説教モードを変えたくて、僕は話題を振った。
「眼鏡ないと、雰囲気変わるな。」
「そ、そう?どこが?」

 紫木は肩のタオルで髪を拭きながら近づいてくる。
 湯上がりのせいか、顔がほんのり赤い。

「少しお姉さんに似てるな。」
「えっ。それって、いいことかな?」

 僕の隣のカウンター席を引いて座り、首を傾げた。

「外見の話なら、いいほうだろ。」
「そっか。姉ちゃん、きれいだし、何でもできるし。私、昔から勉強以外はだいたい全部、姉ちゃんに負けてるんだよね。」

 そう言って、目の前に置かれていたオレンジジュースをストローで吸った。

 ん?それ、いつの間に用意されたんだ。
 てっきりこっちに話しに来たのかと思ったら、本当の目的はそれか。

「そうか?勉強できるだけでも十分すごいだろ。」

 そうだ。勉強さえできれば、それでいい。

「そうかな。でも私、それしかできないから、家の社交の場とかも基本姉ちゃんが出るの。守られてるって意味では楽だけど、たまに、もう少し頑張るべきかなって思う。」
「あの人みたいになるのも大変そうだけどな。」
「そうね。」

 窓の外では、相変わらず雨が激しく降っていた。
 やがて紫木はジュースを飲み干し、立ち上がる。

「私、髪乾かしてくる!羽冬、姉ちゃんのお風呂のぞいちゃだめだからね!」

 ……僕って、そんなに信用ない顔してるのか?
 頭の中で想像するのと、実際にやるのは別だろ。

「……今夜、長いな。」

 髪を下ろした紫木、なかなかいいな。

 そう思いながらスマホを取り出し、姉さんにもう一度連絡するか迷ってやめた。
 あの人がこんな面白そうな状況を終わらせるはずがない。

 どうせ雨が止んだら入口で待ち伏せして、無理やり連れて帰るしか……
 いや、待て。

 雨が止んだなら、僕、自力で帰れるじゃないか。
 そこでようやく全部がおかしいと気づき、急いで入口へ向かう。

 ……あの女、わざわざ雨の中で服だけ持ってきてまで僕を残す気だったのか。
 しかも「雨が止んだら制服は置いとく」と言って、こっちにそう思い込ませた上で。

「服、見つけた?」

 入口で少し濡れた制服と着替えを拾って戻ると、ちょうど紫木姉も私用通路から出てきた。
 あの「全部分かってるけどね」という顔で僕を見た。

 この女たち、いったい何を企んでるんだ?

「こんな格好だけど、気にしないでね?」

 白い細い肩紐の短めのキャミソール。
 姉さんが家で着てるのと、ほぼ同じタイプだ。

「気にしたほうがいいですか?」
「気にしても変わらないけどね。ほら、ヨルの番だ。案内する。」

 ……はあ。

「お邪魔します。」

 紫木姉に連れられて私用通路へ入り、浴室でさっさと身を洗う。
 ……ん?同じタイプってことは、もしかして――
 ノー……ブラ?
 ならば、気にしないに決まってる――本当ならそう言いたいが、そんな冗談を言う気力すら削がれるくらい、紫木姉の空気は妙に強い。

 風呂を出ると、正面の部屋から紫木が襖を開けて出てきた。

「あ、お風呂終わっ……え、何その格好。」
「じゃあ、制服で寝ろって言うのか?」

 今は姉さんが制服と一緒に持ってきたインナーのタンクトップしかない。
 下はちゃんと履いてる。そこは安心してほしい。

「う……まあ、それは……」

 そんなに視線の置き場に困らせているなら悪かったな。

「布団、敷いておいたから。私、もう寝る準備してるし、疲れてるなら入ってきて。」

 どんな状況でもおかしい一言を、なんでそんな平然と言えるんだ。
 紫木について部屋に入ると、畳の上に布団が三組並んでいた。

 今さら不安になる。二組や三組の問題じゃない。なんで今まで思い至らなかったんだ。

「僕、やっぱ外で机に突っ伏して寝ていい。」
「え?なんで?」

 真ん中の布団に入ろうとしていた紫木が、きょとんと振り返った。

「なんでって、姉妹と一緒に寝るとか、変だろ。」
「うっ……」

 男より危機感が薄いあたり、さすが紫木だ。

「たぶん……大丈夫だよ。外で寝られると、こっちがすごく悪い気がするし。」

 どうやら、すぐには逃がしてもらえそうにない。
 僕は諦めて、押し入れの襖にもたれるように座った。

 紫木は困ったように、僕と布団と入口を何度も見比べた。
 そして名案を思いついたように、急に目を輝かせて、自分の布団を持って、こっちへ来た。

「な、何?」
「真ん中のを空けて、羽冬と姉ちゃんが両端なら大丈夫でしょ?」
「いや、戻れよ。座ったままでも寝れるし。」
「だめ。ちゃんと布団で寝て。」

 そのまま二人とも動かず、妙な膠着状態が続いた。
 沈黙を破ったのは、少しずつ寝息に変わっていく紫木の呼吸だった。

「……紫木?」
「ん……?」

 意識の底から無理やり返事をひねり出したみたいな声。

「ほんとに寝ないのか?」
「だい……じょうぶ……」

 全然大丈夫じゃないだろ。
 しばらくして、右肩に重みがかかった。

「紫木?」
「……」

 無理してたくせに、限界だったんだな。

 近すぎるせいで、シャンプーとボディソープの匂いがふわっと届く。
 まあ、とにかくいい匂いだ。

 そういえば、今日の僕も同じ銘柄のやつ使ったんだったな。

 ここまで寝落ちしてるなら仕方ない。
 紫木をそっと抱き上げ、真ん中の布団にそっと寝かせた。

 そのまま外へ出ようとした瞬間、部屋の前に立っていた紫木姉と目が合う。
「紳士だね。」
「見てたんですか?」

 答えない。ただ、静かな目の奥にやけに鋭いものがある。

「まだ飲める?」

 その一言は、誘いというより命令に近かった。
 正直、嫌な予感しかしない。
 でも、このまま眠れる気もしなかった。

「カクテルはもうやめよう。理香を起こしたくないし。これならいい?」

 そう言って彼女が棚から取り出したのは、いかにも高そうなウイスキーだった。ラベルを向けたまま、じっと僕を見た。

 いや、さっきのウォッカ・マティーニだってシェイカーは使わなかっただろ。

「一杯だけ。氷なしで。」
「やっぱりこだわるね。」

 グラスを二つ出し、自分のほうにだけ氷を入れた。

「紫木さんって、よく飲むんですか?」

 琥珀色の液体が注がれていくのを見ながら聞いた。

「『紫木さん』って距離あるなあ。一緒にお酒飲んだ仲なのに。」

 ……誰の教育だ、その言い回し。

「紫木って呼ぶと、変だろう。」
「どこ?私と理香と区別できない?今理香いないし、問題ないでしょ。じゃなきゃ琉香でいいよ。私だって『ヨル』って呼んでるんだから。」

 わざと「ヨル」を強調しながら、氷なしのグラスを僕の前に置く。

「別に許可した覚えないですけど。」
「そういうものだよ。人生には、どうにもならないことがたくさんあるんだから。さあ。」

 そう言って、彼女は自分のグラスを軽く差し出す。
 グラスを合わせ、それぞれひと口含む。

「……うん、やっぱり好きじゃない。」
「自分で選んだんじゃないですか。」
「ここまで種類あるなら、一個くらい当たりがあるかと思って。まだ出会えてないの。」
「僕はわりと好きですけど。」
「あんた、年齢のわりにもう酒飲みだね。」

 少し悪い笑い方だ。もう酔ってるのか?

「十八歳の人に言われたくないです。」
「来年の五月には二十歳だもん。その頃には、未成年で隠れて飲んでるのはヨルだけになるよ?」

 ……それ、これからも一緒に飲む前提で話してないか?

「じゃ、そろそろ本題に戻ろうか。」

 さっきまでの軽さを消し、彼女はグラスの残りを一気に空けた。
 そして、グラスを持った左手をテーブルにつき、僕へ向き直った。

「理香と付き合うのは許さない。」
  
「……!?」
 驚いたのは一瞬だけだ。僕はできるだけすぐ表情を戻した。

「どういう意味ですか。」
「最初からちょっと違和感はあった。でも、さっき見て確信した。」
「何を?」
「あんた、理香にまったく興味がない。」
「……根拠は?」

 我ながら、完全に犯人みたいな返しだと思った。

「さっき部屋で、理香を布団に寝かせたあと、もし少しでも気があったなら、あんなふうに一度も振り返らずに出ていけるわけない。」

 この女……

「あんたの中には、別の誰かがいるんでしょう?誰なの?周りの女の子には親しげで、でもちゃんと距離も取って、気まぐれで、紳士的で、過剰なくらい理性的で、男の本能に逆らってまで失いたくないくらい、大事な存在か。」

 心底、気持ち悪い。

「ずいぶんはっきり言いますね。」

 たった数時間、僕と紫木を見ただけで何が分かるんだ。そういう言葉は、偶然当たっただけの推測にすぎない。

「そう?妹のことだもの。手遅れになる前に、こっちが止めないと。」

 一度深く息を吸ってから、紫木姉に向き直る。
「僕の中に、紫木さんの言うような『大事な存在』はいません。」

 ところが、紫木姉はその返答を聞いた瞬間、吹き出した。

「っ、ふはっ……あははははは……!」

 ……声でかいな。紫木が起きるだろ。
 一しきり笑ったあと、彼女は初めて僕のフルネームを口にした。

「ねえ、羽冬夜良。」
「人があんなに慎重に質問に答える時って、だいたい二通りしかないの。」
「一つは、正式な場合。」
「もう一つは――」

「自分は嘘をついてないって、装いたい時。」

「他人は騙せても、自分までは騙せないよ。」