僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

17
「よっ。」
「おかえり。」

 紫木は本に目を落としたまま、足音にも挨拶にも顔を上げない。
 だから自然と、頭頂部に向かって話しかけることになった。

「ひと区切りつくまで待つよ。」
「うん、ちょっと待って。」

 その間に、実行委員会の全体グループを確認した。
 
 デザインはまた進捗を急かされている。
 伊藤委員長は、来週火曜の会議には完成稿を出してほしいらしい。
 公式SNSにも、校内に掲げる大幕にも、このメインビジュアルを使う予定なのだから。
 
 デザインのグループを開き、先輩たちの議論に加わった。
 最終的には、僕が各ブロックのメインカラーを指定し、先輩たちが色を入れ、仕上げの細かい調整を僕が担当することになった。

 一人でやったほうが早いんだけど、これはいわゆる「チームワーク」ってものなんだろう。

 続けて姉さんとのLINEを開き、今夜の予定だけ伝える。

『今日は外で晩飯食べる』

 うっ……既読、早っ。

『(悠月)誰と?夢ちゃん?」
『違う』

 この「違う」を見た姉さん、今ごろ絶対「へぇ~?」とか笑ってる。
 案の定、次に来たのは、妙に含みのある猫のスタンプだった。まあ、報告は済んだし、返信は要らない。
  
「よし、終わった。行こう!」

 校門を出て、パンドラ商店街へ入る。ちょうど店の灯りが一番きれいに映える時間帯だ。

「で、何を食べるの?」
「ふふん……」

「羽冬は?何食べたい?」

 え、決めてるんじゃないのか?

「ラーメン?」
「やだ。服が汚れやすいし。」
「寿司?」
「やだ。小さい魚の切り身と白いご飯じゃん。」
「オムライス?」
「うーん……今日はそういう気分じゃない。」
「……」
「どうした?」
「選ばせる気がないだろ。」

 そう指摘すると、紫木は「あら、バレちゃった」みたいな顔をした。

「ご飯おごるってなったら、やっぱ洋食でしょ!」
「マック?ハンバーガーもポテトも洋食の定番だし、マックだな?」

 紫木は僕を一瞥し、「もう一言言ってみろ」とでも言いたげな顔をした。
 いや、僕、結構マック好きなんだけど。

 次の瞬間、紫木は殺気を解き、自分でも可笑しくなったみたいに口元をゆるめた。

「秘密基地に連れてってあげる。」

 紫木のあとについて歩くうちに、商店街を抜け、学校南側の森林復育区域へ入っていく。
 よく見れば、木々の間に、たしかに人が通っていそうな細い道がある。

 ん?秘密基地……森の小道……趣味は解剖……

「紫木……どこに連れてかれるの?」

 今日が命日なのか?
 そんな警戒を察したのか、紫木は立ち止まり、ためらいなく僕の手を取った。

「いいから、ついてきて。」

 いつの間に、こんな自然に触ってくるようになったんだ。

 さらに進むと、一軒の平屋が見えてきた。廃倉庫じゃなくてよかった。
 けど、森の中にぽつんと普通の家があるのも、犯行に絶好の死角じゃない?

 無意味な疑いはさておき、建物は派手さのない木造家屋で、むしろ落ち着いている。

「いらっしゃいませ。」

 迎えた店員は、紫木と同じ緑色の髪。どこか見覚えがある。

「二名です。」
「お好きなお席へどうぞ!」
「どこ座る?」
「では、窓際で。」

 木造の内装からは、ほのかに檜の香りが漂っている。
 商店街の喧騒から離れていただけでも十分静かだったのに、店内に入るとその隔絶感はいっそう強くなった。

 右手には磨き込まれたカウンター、その奥には色も形もさまざまな酒瓶が並び、小さな酒の博物館みたいだ。
 隣には高級茶葉のコーナーまであって、緑茶、紅茶、烏龍茶、ハーブティーなどがきれいに陳列されている。

 カウンター以外の客席も広々としていて、テーブル同士の距離も広く、騒がしさや人目を気にせず話せる。
 まるで、日常から少し切り離されたい人のための場所だった。

 席へ案内した店員は、僕らが座るまで意味ありげに見ていた。
 観察しているような、面白がっているような、何とも言えない視線だ。
 
 メニューを置いた瞬間、胸元の名札が目に入り、ようやく既視感の正体に気づいた。

「へへ、まさかって思ったでしょ。」

 確かに驚く。学校の近くにこんな場所があったなんて。

「ここは?」
「『Purple Forest』。うちのお父さんのお店。Googleにも出てこない、隠れ家的な高級レストランだよ!」
「やっぱりか。」

 反応が薄かったのが意外だったのか、紫木が首を傾げた。

「え、あんまり驚かないんだ?」
「あの店員、紫木の姉か?」
「えっ、なんで分かったの?」
「最初に見た時からちょっと似てると思ったし、名前も名札に書いてあった。」

 「紫《ゆかり》木《き》 琉《る》香《か》」とあった。
 でも、紫木とのつながりとは別に、「琉香」という名前にも、どこか覚えがある気がする。

 紫木はなぜか頬をふくらませた。
「なんか、秘密を先に見破られたみたい。」

 ああ、分かった。次はちゃんと驚くようにする。
 でも、今日の紫木は機嫌がいいみたいで、すぐに笑顔に戻った。

「今日は遠慮しないで頼んでいいよ~。どうせ私、お金払わないし。」
「じゃあ……遠慮なく。」

 洋食レストランかと思いきや、メニューにはパスタやハンバーガーだけでなく、和食もある。

「お姉ちゃん、注文いいよ~」

「ご注文は?」
「カツカレー丼。飲み物は緑茶、無糖で。」
「茶葉は何かご希望ありますか?」

 前にまとめ買いした茶葉を思い返したが、ひとつも覚えていない。
 やっぱり、興味のないことに勢いだけで深入りするものじゃない。

「一番人気ので。」
「かしこまりました。」
「私はボンゴレ・ビアンコ。飲み物は紅茶。」
「お砂糖は?」
「大丈夫です!」
「少々お待ちください。」

「砂糖、いらないのか?」
「温かい紅茶なんだから、そんなに砂糖入れなくても平気だよ。うっ、なんでそんなこと聞くの?」
「この前、飲み物は甘くないとおいしくないって言ってただろ。」

 あの発言はいまだに衝撃だった。世の中には、あんなに甘い飲み物を平然と飲める人がいるらしい。
 でも紫木はすぐに返さず、一度だけ視線を窓の外へ逃がした。

「お……覚えてたんだ。」
「数日前の話だろ。」
「そ、そう……高い茶葉は、そんなに甘くしなくてもおいしいから。」

 うつむいたまま、指先を落ち着きなく絡めたり離したりしている。その様子が、小さな呼吸の乱れみたいに見えた。
 少し長めの沈黙のあと、紫木姉が料理を運んできた。

「ごゆっくりどうぞ~」

 また同じ笑顔だった。

「おいしい!」
 一口食べただけで、思わず声が出た。

「よかった。気に入ってくれて。」

 反応を見て、紫木も自分のパスタに手をつける。

「羽冬って、人のこと観察するの好き?」
「ん?何で急に?」

 口の中に飯が残っていたから、発音はかなり怪しかったと思う。

「すごく細かいところ見てるよね。いや、そういうのとも違うのかな。」

 目の前で真面目に分析されるのは妙に居心地が悪い。
 けど、紫木に悪意はない。ただ本気で考えているだけだ。

「それとも、羽冬みたいなオタクって、みんなそんな感じなの?」

 ……
「そうだ。そんなに覚えるの得意なら教えてあげる。さっき候補に出してた食べ物、私、実はどれも結構好きだよ。」

 さっきって……?

「ラーメン、寿司、オムライス?」
「そう!」
「マックは?」
「うっ、それは別にそこまで。」

 何でもない話をしているうちに、少しずつ距離が近づいていくのを感じていた。
 全部がちょうどよくて、次の瞬間、小説みたいな何かが起きてもおかしくない空気。

 そして、その「何か」は本当に起きた。

 ゴロゴロゴロ――

 何の前触れもなく雷が鳴り、大粒の雨が窓を打ち始めた。

「……雨だ。」

 同時に外を見て、同時に視線を戻し、ほんの一秒だけ目が合う。
 その一秒の静けさは、雷の音よりずっと強かった。