僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

16
 4月14日木曜、放課後。パンドラ高校野球場。

「ラスト!」

 風が打ち上げた最後のフライを守備側がしっかり捕り、今日の練習が終わった。

 以前見た三年生たち、望月の兄も含めて、あの日以来見かけない。
 風はまだ学生なのに、練習の強度調整がやけにうまい。前に見た鋭いゴロや、やけに高いフライも少なくなっていた。
 
 結果、僕が呼ばれた理由は、ただの野球場の整備だけだったらしい。

「そのブラシを引いて、マウンドから外へぐるっと回れ。ほかの連中は塁間を往復してるから、交わるところまで行けばいい。」
 倉庫横の大ブラシを指しながら、風が説明する。

「先輩、なんでまた急に、暇なら来いって話になったんですか?」

 風は少し考えたあと言った。

「この前いた先輩、覚えてるだろ?望月の兄。」
「覚えてます。」

 あの僕を殺しそうな目つきは忘れようがない。

「望月先輩、ああ見えて妹のことになると妙に敏感なんだよ。半年前のある試合、当時まだ中三だった望月に松谷(まつたに)先輩が少し話しかけただけで、ほとんど喧嘩になりかけてたし。」
「ああ、シスコンか。」
「そこまでじゃないかも。ただ妹をかなり気にかけてるだけだと思う。」

「で?それを僕に警告したかったんですか?」
 僕が苦笑した。

「でも、三年の先輩たちが練習に戻ってくるのは六月くらいだし、それまでは望月とどう絡んでも、望月先輩に見張られずに済む。こういうスリル、好きそうだろ?」

 こういう、ちょうどいい具合に邪悪なところが、僕はわりと好きだ。

「へへっ。」

 二人で顔を見合わせ、同じようにろくでもない笑い方をした。

「先輩と羽冬くん、何をそんなに楽しそうに話してるんですか?」

 望月が加藤と一緒に歩いてくる。
 今の話、聞かれてないよな?

「別に。ただこき使われてるだけ。望月も付き合ってくれる?」
「はい!羽冬くんが疲れたら、途中で私が代わってもいいですよ!」

 ブラシを引きずり、望月とマウンドへ向かう。風と加藤はその場に残った。
 がんばれ二人とも。

 マウンドまで歩くわずかな間に。
「で、先輩って本当に君たちに重い物持たせたりしてるの?」
「ううん、全然ないです。私もなんでそんなことを高木くんに言ったのか分からなくて。」

 あれはやっぱり、ただの僕への感情的な脅しだった。
 そういえば高木は今ちょうど、一塁と二塁の間をならしている。

「野球って本当に手間がかかりますよね。道具も多いし、終わった後に戻すのも大変だし。バスケなら、ボール一つとシューズだけで帰れますもんね。」

 望月は、僕がならした場所を踏まないよう軽い足取りで前を歩いている。

「そうですね。毎日残る足跡やボールの跡って、みんなが強くなろうとした証でもあるんです。兄さんも、野球選手ならいつだってグラウンドへの敬意を忘れるなって、よく言ってました。」

 この妙な設計の球場にもか。

「そうだ、羽冬くんも高木くんも、バスケ上手でしたよね。今日の体育で少し見ました。パンドラ祭、頼みますね。」
「望月こそだろ。学校中探しても、望月より上手い女子なんてそうそういないと思うけど。僕たちより、むしろ望月のほうが勝負の鍵だよ。」
「もう、羽冬くん、わざと私を笑わせようとしていますか?」
「本当のこと言ってるだけ~」
「へえ~?」

 今日の体育では、先生が出場希望の男子十人を二チームに分けて試合をさせた。
 普段の相手がヒロみたいな化け物だからか、クラスメイト相手なら僕でもそこそこやれた。
 とはいえ、高木は身長も運動神経もあって、認めたくはないが、たぶんD組男子で一番強いのは彼だ。

 女子は立候補が十人に足りず、残りは背が高い女子たちが先生によって補充されていた。
 試合が始まると、望月の動きに先生が目を丸くしていた。
 しかも彼女は周りとの実力差を察し、途中からはちゃんと力加減をして、試合が一方的にならないようにしていた。

―「君たち、かなり優勝狙えるんじゃないか?」

 最後に先生がそう言ったのも、高木と望月の出来を見れば納得だった。

 ちなみに、前に少し調べてみたら、パンドラ高校のバスケ部は、男女ともほぼ毎年一回戦負けらしい。
 つまり高木や望月が、現役部員より強い可能性すらある。

 パンドラ祭のクラス対抗バスケは、一・三クォーターが男子、二クォーターが女子、四クォーターが男子三人・女子二人の混成。
 特に第四クォーターは面白そうだ。男女のマッチアップで、男子が本気で行くのか遠慮するのか、それだけでも見ものだ。

 しかも5月1日の体育祭当日には、どの球技も決勝と三位決定戦だけなので、予選はもうすぐ始まる。
 僕も高木も「スポーツキャラ」みたいな扱いで、バスケ以外にもサッカーやバレーに放り込まれているが、一番気にしている競技は言うまでもない。

「そういえば、風先輩もかなり上手いらしいですよ。去年の優勝クラス、風先輩のクラスだったそうです。」
「……ああ、そうなんだ。」

 もうやりたくない。
 何でもできるのか、あの人は。一年で優勝って、さすがにずるいだろ。
 少し沈黙が落ちたあと、ふと試してみたいことができた。

「望月。」
「ん?どうしたの?」

 前を向いたままの望月が、少しだけ振り返った。

「加藤のこと『奈奈ちゃん』って呼んでるよね。」
「そうですよ。」
「それ、望月の発想?」
「違いますよ。奈奈ちゃんって最初、すごく静かだったじゃないですか。どう話しかけたらいいか分からなくて。だから、前の学校で友達に何て呼ばれてたのか聞いたんです。」
「なるほど。それで『奈奈ちゃん』か。」

 やっぱ気遣いのできる人なんだな。

「そうです。でも、どうして急に?」

 そろそろ本題だ。

「じゃあ、僕は?」
 
 そう。いつまでも「羽冬くん」じゃ距離があるだろう。
 さあ来い。今日から「夜夜ちゃん」とか「良良ちゃん」とか、そういう甘いもので呼んでくれていい。
 望月は立ち止まり、僕をじっと見てきた。

「私と羽冬くんって、仲良くないですか?」
 
 無垢なのに探るような目。薄い膜をかけたみたいに柔らかな声。
 全部は言わず、半分だけ相手に委ねるやり方だ。相手に想像させて、埋めさせる。
 別の誰かなら、この時点で落ちていてもおかしくない。

「いや、なんか『くん』がずっと付いてると、ちょっと変だな。」

 冷静になって考え、「夜夜くん」なんてやっぱりキモい。

「なるほど!羽冬くんがそういうの気にするか分からなかったから。だって、羽冬くんって紫木さんとはもっと仲よさそうですし。」
「紫木はな。最初から勝手に『羽冬』って呼んでた。」

 望月は少し考え、何かを決めたように、口を開く。

「羽冬?」
  
 語尾がほんの少し上がっただけなのに、心をまともに打ち抜かれた気がした。
 こ、これが、恋か?

「どうしたんですか、羽冬。急に黙って。」

 ……しまった。今の一声にちょっと浸ってた。

「こうしたら、もう一回呼んでくれるかなって。」
「へえ~ずるいです~」

 語尾が弾んでいる。その軽さが、二人の間の線が一本消えたことを告げていた。
 望月の「羽冬」が最後に添えられたおかげで、今日の部活は妙に完璧な終わり方になった。

 野球場を出て、一人で良見楼へ向かった。