僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

13
 「パンドラの箱の希望」の象徴は入れたい。同時に、この学校が勉強だけの場所じゃなく、各分野で競い合う場所だという感じも残したい。――そんな感じか。

 デザインの先輩たちと少し話したあと、LINEグループに追加された。
 入る前のトーク履歴は見えないが、アルバムのラフはどれも面白い。ただ、どれもあと一歩決め手に欠けると感じていたのだろう。
 ああいうイメージをメインビジュアルにまとめるのは簡単じゃない。

 普通の人には。

 少し手間だけど、いくつかの下描きを仕上げつつ、最後に自分の案も一つ描くことにした。
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 ん?もう午前三時?

 こういう作業に没頭すると、昔みたいに時間が飛んだ。
 五枚のラフを線画まで整え、写真を撮ってグループへ送った。
 ずっと起きていたせいで溜まっていた疲れが、その瞬間になって一気に押し寄せてきた。
 僕は自動操縦みたいにベッドへ倒れ、一秒で眠った。
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「リン―」

 ……ん?もう六時か?早すぎるだろ……
 少し遅めに出ればいい。そう思ってアラームを止めた。どうせ普段から保険でいくつか設定してある。

「リン―」

 だが、すぐまた鳴った。そこでようやく頭が少し動いた。
 さっきのと今の、アラームじゃなくてLINE通話の着信音らしい。

 見れば「理香ちゃん♥」からのLINE通話だった。

 …この表示名、本当に腹立つな。次に思い出したら絶対「紫木」に直す。

「どうした?」
「えっと、羽冬。もう一時間目終わったよ。友子先生が、どうしたのか電話してみてって。」
「は?何言ってんの?今ってまだ……」

 スピーカーに切り替え、画面左上を見る。

「9時38分!?」
  
「やっと気づいたんだ。おかげで今日は、靴下の片方がちゃんと履けてないの、誰にも教えてくれなかったよ。トイレで鏡見て初めて気づいた。最悪。」

 靴下なんて今どうでもいいだろ!しかも君、普段アンクルソックスなんだから、多少ずれても誰も気づかないだろ!

「次の先生には“羽冬くんはトイレ行ってます”って言っといて。十時までには着く。頼む、カバーしてくれ。」

 そう頼みながら、急いで制服に腕を通す。

「は? 先生に嘘つけってこと? 私――」
「ありがとありがと、頼んだぞ。紫木は一番だ、最高だ、大好きだぞ、じゃあな!」

 そう言って電話を切り、そのまま歯磨きする。
 この時、自分がどれだけ気色悪いセリフを吐いたのか分かっていなかった。

「ヨル?まだ家にいる?琉香《るか》、ちょっとね。うちの馬鹿弟、まだ家にいるんだけど。」

 リビングを横切る僕を見て、朝食中の姉さんが悲鳴混じりに言う。スマホからは「はい~」と気の抜けた声。

「姉さん!なんで起こしてくれなかったんだよ!」
「は?いつも勝手に早く出るじゃん。分かるわけないでしょ。」
「靴がまだ――」
「はいはい、言い返さない。今日は友達と出かけるから、気分下げないで。ほら、こっち向いて。」

 靴はまだ玄関にあるんだよ!
 言い返す前に、口へ何かを突っ込まれた。
 ゆで卵だった。

「はい、さっき剥いたの。本当は自分で食べるつもりだったけど、もう朝ごはん買う時間ないでしょ。ちょっと雑でごめんね。さっさと行ってきな。」
「いっえいあう!」(行ってきます)

 この女、心配してるのかしてないのか、本当に分からない。

「今、失礼なこと考えたでしょ~?」

 悪寒に振り返ると、姉さんは“綺麗な”笑顔で、“優しく”ドアを閉めた。
 ――バタンッ!
 ……とっても優しい。

 読心術でも使えるのか?
 全力で走り、十時前には教室へ滑り込んだ。
 授業中だが、紫木が何とかしてくれている……はず。
 鞄を外に置き、トイレ帰りのふりで入る。

「先生、すみません、今――」
「羽冬、夜良くん、ですね?」

 その妙にゆっくりしていて、しかも少し圧のある口調を聞いた瞬間、僕は察した。

 紫木、失敗したな。
 今さらだが、なんで紫木に頼んだんだ?高木か望月のほうがまともだっただろ。

「授業中にあなたの件をここで扱うつもりはありません。この件は茂木先生に報告します。紫木さんの分も含めて。外の鞄を取りなさい。」

 「紫木さん」のところだけ妙に強調し、教室の一番後ろを見た。

「はい。」

 たかが寝坊で、また注目を集めるとは。どうぞどうぞ、好きなだけ笑ってくれ。
 席へ戻る途中、紫木と目が合ったが、すぐ逸らされた。
 教科書を出すと、スマホが震えた。

『(理香ちゃん♥)ごめんなさい』

 ……は?
 画面を見て首をひねる。

『大丈夫 あとで話そう』
『(理香ちゃん♥)うん』

 休み時間になり、先生が出ていった。さっき“あとで”と送った時から、少し嫌な予感は今、当たりそうだった。

「は~ねふ~ゆく~ん♪」

 ここまで高頻度で来られたら、嫌でも名前を覚える。小《お》山《やま》真《ま》衣《い》。

「理香ちゃんにあんな大胆なことをさせるなんて、羽冬く――」
「真衣、私が話すから。」

 紫木が珍しく強い口調で遮る。

「最初はちゃんと先生に言ったの。でも信じてもらえなくて……羽冬が三時まで描いてたの知ってたから、つい口論になっちゃって……」

 小山は空気を読んで、妙な目配せだけ残して離れていった。
 何だその目配せ。余計なお世話だ。

「別にいいって。無理させたのは僕だし、ごめんな。」

 先生に嘘をつかせるなんて、真面目な彼女にはさすがに重すぎた。

「本当にごめん。全然力になれなかった。」
「気にすんなよ。どうせ怒られるだけだし。それに友子先生って優しいから、たぶん大ごとにはならない。」

 それでようやく紫木は少し笑った。

「全部羽冬のせいだからね!先生と口喧嘩なんてしたことなかったのに!」

 怒りながら笑えているなら大丈夫だろう。

「ごめんごめん。ていうか、なんで昨日そんな時間まで起きてたの知ってるんだ?」
「デザインの先輩が、今朝、メインビジュアルの線画を委員会の全体グループに上げてたの。羽冬が夜中に仕上げたって、すごく感謝してるって書いてあった。」
「え?」
「見てないの?」
「君の電話で起きて全力疾走だったんだぞ。見る余裕あるかよ。」
「今朝、本当に面白かった……あ。」

 紫木が急に赤くなる。

「何?」
「た、たとえ本気で私を口説くつもりでも、あんなこと気軽に言わないでよ!」
「ちょ、声でかいって!」

 また教室が静まった。
 ざわつきが戻ってから聞いた。

「僕、何言った?」
「自分で忘れたの?」
「忘れた。ていうか、そんな大げさなこと言わないだろ。」

 紫木は少し考え込み、

「き、聞き間違い?」
「たぶんな。」
「とにかく気をつけてよ!さっきの空気、どうするの!」

 僕に聞くなよ。

「はあ……、何とかしてみる。」

 授業開始の鐘が鳴り、僕は前を向いて、高木と望月にLINEを送った。

『誰かに聞かれたら 誤解だって言っといて』

 これしかない。こういうのは、下手に説明するほど泥沼になる。

『はいはい どうにかなるならな』
『わかりました ちゃんと協力します 紫木さんのためにも』

 返信を見たあと、デザインのグループを開く。

『羽冬やばすぎ』『描きかけまで仕上げてくれた』『神』『どの案がいい?』『羽冬案だ』『私もそう思う』『では全体グループに上げるね』『賛成』

 満場一致か。
 さらにリーダーは全体グループへ――

『委員長へ:こちらが決定稿ラフです。羽冬くんが午前三時まで作業してくださったなんて、本当に優秀です。問題なければ着彩と仕上げに入ります。』
  
 どうにか進行はぎりぎり元に戻ったらしい。めでたい話だ。
 着彩も本来は一緒に詰めるべきなんだけど。正直、そこまで僕がまとめてやってしまってもいい。

 人生の役に立たない技能のくせに、こうして褒められる。
 ……滑稽で、つまらない。

 そういえば、クラス用の価格表とポスターもあった。瀬戸と話さないと。終わるまでは名前を忘れないようにしないとな。

 それと、紫木があそこまで赤くなった原因の言葉は、実は反応を見た時点で思い出していた。でも紫木は、人付き合いに関していつも迷っていて、自信がない。だから少し疑ってみせれば、彼女もまた自分を疑う。
 元は僕の失言だ。
 けれど、こう処理したなら、紫木を傷つけないはずだ。

 そうだろ、望月?