僕らは正しい答えを見逃したようです。第一巻

12
「羽冬くん。」

 紫木と教室を出ようとしたところ、扉の前ですれ違った女子が、急に振僕を呼び止めた。
 たしかクラス委員長だが、名前が思い出せない。

「どうしたの?」

「羽冬くんって、絵が上手いって聞いたんだけど、本当かな?」

 ……ん?

「パンドラ祭で使うポスターとか、価格表みたいなのを描いてもらえないかな?」
「へえ、絵まで描けるんだ。さすがオタク。」

 人の褒め方が本当に上手で、まったく嬉しくならないな、紫木さんは。

「いいよ。役に立てるなら。」
「よかった!でも、羽冬くんって、実行委員だよね?」
「一年はそこまで忙しくないらしいから、たぶん大丈夫。」
「じゃあ明日、詳しく相談するね!ありがとう、羽冬くん!」
「わかった。また明日。」
「またね、瀬戸《せと》さん!」
「また明日、紫木さん! 二人ともお疲れさま!」

 ああ、瀬戸か。あとでまた忘れそうだな。

 「絵が上手い」なんてクラスで話した覚えがない。
 いや、そもそも野球部と紫木以外、まともに会話すらしていないはずだ。

「意外だね。羽冬が断ると思ってた。」
「僕もこのクラスの一員だろう。」
「うわ、中二っぽいセリフ。」

 自分でもなぜ引き受けたのか分からない。ただ、瀬戸との会話に残った違和感だけが頭に残っていた。
 良見楼を出て、会議室のある管理棟――「荘厳楼《そうごんろう》」へ向かう。五階の会議室へ上がる足音が、変に真面目な空気を作る。
 ……が、その空気もすぐに誰かにぶち壊された。

「なんか緊張する。私、こういう行事って初めてなんだ。」
「大半そうだろ。」

 荘厳楼の北側階段を上がると、会議室は廊下の左手にあった。
 黒板を正面に、長机は後方に開いたE字状に配置され、右から一年、二年、三年の委員席が並んでいた。
 その正面に幹部席があった。
 委員席の前と幹部席の左には、それぞれ「教師席」と書かれた三角札まで置かれていた。

 東側の窓からは、まだ校内を歩く生徒や先生の姿が見える。
 西側の窓は、さらに廊下を挟んでから日差しが入る造りになっているせいで、日が沈むまで室内に差し込む光はあまり多くなさそうだった。少なくとも一年の席には、今のところ陽は差していない。

 もしこの会議室が午後の会議のために設計されたものなら、設計者に満点をやりたい。あの妙すぎる野球場とは大違いだ。

 全員がそろうと、正面中央に座る実行委員長が会議を始めた。

「みなさん、こんにちは。まず一年生のみなさんに自己紹介をします。私は生徒会長、二年H組の伊《い》藤《とう》優《ゆう》斗《と》です。今回のパンドラ祭実行委員会では委員長を務めます。隣にいるのは副委員長で、前生徒会長、三年B組の柳《やなぎ》田《た》俊《しゅん》介《すけ》先輩です。本日の会議は私が進行しますので、ご協力よろしくお願いします。」

 ……なかなか面白い組み合わせだ。パンドラ祭って、春休み前から準備していたはずだろ。なのに当時まだ一年だった伊藤が委員長で、三年の先輩が副委員長なのか。

「私たちが入学する前は、副委員長が会議を回してたらしいよ。今日から正式に委員長へ引き継ぐんだって。」

 近くに座っていた一年生の小声が、疑問に答えてくれた。
 そう聞くと、これはたぶん生徒会の引き継ぎの一環なんだろう。

 年齢だけ見れば伊藤委員長はまだ若い。三年生までまとめるのは簡単じゃないはずだ。
 でも会議は驚くほど手際よく進み、各部署の進捗報告も表面上は問題なさそうだった。
 
 どうやら僕たち一年は、本当にただの追加人員らしい。

「次はデザイン。」
「はい。」
「メインビジュアルの進捗はどうですか?」

 その質問で、さっきまでの流れが急に止まった。

「ラフは、もうすぐ完成します。」

 リーダーの話を聞いて、委員長がわずかに眉をひそめた。

「まだラフ段階ですか?今日は線画提出予定でしたよね?」
「はい……」
「人手不足ですか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」

 芸術って本当に厄介だ。
 一人だと何も浮かばないこともあるし、逆に人数が多すぎても意見がまとまらない。
 今みたいに四、五人の班でも、リーダーが決断力に欠けると、簡単にこうなる。
 しかもラフは、ゼロから生み出す一番きつい段階だ。

「メインビジュアル以外は予定通りですし、確認も基本は形式的なものです。ですが、この進度だと心配です。」
「はい……」

 委員長はリーダーが理由を出せないのを見て続けた。

「このままでは厳しいですね。人員を追加しましょう。一年で、絵やデザインが得意な人、いませんか?」

 人を増やせば解決するとは限らない。だが、今の膠着を破るには、外から一人入れるしかないのかもしれない。

「ねえ、手挙げたら? 絵上手いんでしょ?」
 紫木が楽しそうに囁く。

「やだよ。」

 紫木に言われても、目立つ気はない。僕はただ小山に流されてここにいるだけだ。
 けれど、紫木の一言で、さっきの違和感がまた浮かんだ。
 そして次の瞬間……

「あの、こちらから一人推薦があります。」

 そう言って手を挙げたのは、一年委員席の前、教師席に座っていた友子先生だった。会議室が一気に静まった。

「1年D組に、協力できる生徒がいます。」

 その一言で、部屋中の視線が僕と紫木に集中した。

「え?私たち?」

 不安と戸惑いに包まれ、加速し続ける鼓動が少しずつ僕の感覚を奪っていく。
 見えるものも、聞こえるものも、感じられるものも、ただ周囲にまとわりついて離れない闇だけで、紫木の困惑にもまったく構っていられなかった。
 そんな中、友子先生の次の一言が、ようやく僕を現実へと引き戻した。

「そうでしょう?『羽冬先生』。」

 …なるほど。
 茂木友子、お前だったのか。

 あの笑顔の中に、善意なんて一つも感じられない。

「先生って……?」

 紫木だけじゃない。会議室中の人が、その意味不明な呼び方にざわつき始める。聞き間違いかと、隣同士で確認し合う声が広がった。

「みなさん、静かに。」

 ざわめきを止めたのは、余計なことには興味がなさそうな、ただ会議を進めたいだけの委員長だった。

「羽冬くんですよね。中核作業を一年に任せるつもりは本来ありませんでしたが、状況がよくありません。協力してもらえますか?」

 ここで露骨に断るほど空気が読めない人なら、この十五年は何だったんだって話になる。

「はい。よろしくお願いします。」
 立ち上がって無難にそう答え、席に戻った。

「ありがとう、羽冬くん。では次に――」

 その後の会議は、ほとんど耳に入らなかった。紫木が時々何か話しかけてきても、ろくに返事をする気になれない。会議が終わるなり僕は外へ出て、友子先生を呼び止める。

「あら羽冬。どうしたの?」
「何かを知ってる?」

 僕の語気に驚いたのか、友子先生は少し間を置いた。

「生徒が親しくしてくれるのは嬉しいけど、こんなに早く敬語がなくなるのは、あまりよくないでしょう?」

 まだはぐらかすつもりか。
 そうだ。瀬戸が知っていた噂も、昨日の妙な気遣いも、今日のあの言動も、全部あいつらの仕業に決まっている。

「あいつらから聞いたのか?」
「誰のこと?何の話?」

「羽冬夫婦。」

 友子先生は驚き、それから厳しい声になった。
「羽冬。自分のご両親をそんなふうに呼ぶものじゃないでしょう。そう、ご両親からは入学前に連絡をいただいていたの。びっくりしたわ。まさか君が――」

「もういい!」

 先生が続けようとしたが、もう無理だった。あいつらの話なんて一欠片だって聞きたくない。

「羽冬……」

 何かを察したのか、友子先生の声が少し沈む。
 正直、自分でも驚いた。「あいつら」とあんなによそよそしい呼び方をするとは、自分でも思っていなかった。先生に名前を呼ばれて、少しだけ頭は冷えた。けど――

「『茂木先生』に任された仕事は、ちゃんとやります。」
「でも、もう僕のことは放っておいてください。」

 そう言い残して、後ろの扉から会議室へ戻った。去り際の友子先生がどんな顔をしていたかは見ていない。わざと呼び方を変えた意味くらいは察してくれればいい。

「羽冬……」

 ああ、この人がいたんだった。

「大丈夫?」
 紫木は、まるで危険生物にでも声をかけるみたいに、ひどく慎重だった。

「何でもないよ。」
「さっき、結構大きい声だったよ。」
「そっか?」
「友子先生、少しつらそうに見えた。」
「見てたのか?」
「うん。後ろの扉から。私の前を通った時、ちゃんと呼んだのに、全然気づかないで無視して行っちゃったし。」

 少しふてくされたような紫木の顔に、思わず小さく笑ってしまった。

「何よ。」
「いや、別に。」

 気づけば、僕と紫木はしばらく見つめ合っていた。
 紫木にじっと見つめられると、なぜかこちらは目をそらせなくなる。

「羽冬くん、ちょっと来てもらっていい?」
「はい。」

 デザインの先輩たちに呼ばれた時点で、羽冬夜良の残業は確定した。

「紫木。」
「何?」

 紫木が僕の目を直視する。

「ありがとう。」
「あ?わ、私、何かした?」
「別に。何となく。じゃ、お互い頑張ろう。また明日。」
「……う、うん。また明日。」

 そう言って、紫木は荷物をまとめ始めた。
 本当に、彼女は何もしていない。ただ、なぜだか礼を言いたくなっただけだ。でもその一言で露骨に戸惑う様子は、笑えるというより――

 ちょっと、可愛かった。