好きになっても良いですか?

 守沢くんから「頭の良い人が好き」って聞いた、その日の夜。おれは机に向かっていた。その理由はもちろん勉強するためだ。たくさん勉強して、もっと頭が良くならなきゃいけない。だから、机に向かって()いたんだけど──。

「な、何度読んでも、意味が分からない……」

 数学の教科書を開いた瞬間、おれの集中はふわ〜っとどこかに飛んでいった。いくら教科書を読み込もうとしても、頭にちっとも入ってこないんだ。なんかもう、ページの上で数字たちがダンスして見える。

(おれの脳みそ、数字がニガテすぎるんだよなぁ……)

 でも、頑張らないと。守沢くんの好きなタイプに近づくために……!

「よし……まずは公式を覚えよう……!」

 おれはノートを開いて、ペンを握る。そうして、教科書に載っている公式を写してみた。

「これは……シグマ? ていうか、なんでこの“C”は大きいの?」

 数学をやっているはずなのに、目に入るのが英語や見たことない記号ばかりで混乱する。いつものように語呂合わせで覚えるつもりだったけれど、まずどういうふうに読めばいいのか分からないのでお手上げだった。
 というか、そもそもこんなヘンな式で、本当に答えは出せるのかな……?

「えっと、nに四をダイニュウして……」

 今日の授業で習った部分をおさらいしながら解いてみる。教科書通りに式へ数字を入れてみると、たしかに答えは同じものになった。
 次の問題に進む。時間をかけて、ダイニュウする数字を間違えないように気をつけながら計算すると、おれは式の中に「十五」と「八十二」という数字を見つけた。

(……ん?)

 十五と八十二? ……一五八二?

「これって……」

 脳内で何かがピンと閃く。
 おれは学校鞄を開いて中から別の教科書を取り出し、ぱらぱらとページをめくった。目的のページは、これまた今日の授業で扱ったところ。

「あった。……本能寺の変!」

 一五八二年に起きた出来事。織田信長が、えっと……誰かに狙われたのだ。……そう、明智光秀って人に。それで死んじゃって……明智光秀は三日坊主で……ううん、違う。たしか、三日天下、だったはず!

「一五八二年は、『いちごパンツ』だよね」

 ノリがそう覚えるといいって言っていた。たしかに数字と語呂がぴったりで覚えやすい。数学の公式も見習ってほしいくらいだ。

「でも、それはそれとして、いちご柄のパンツはな……」

 織田信長って、教科書の写真を見る限り、普通におじさんだ。そんなおじさんにいちごパンツってどうなんだろう。

「柄物じゃなくて、普通に無地のパンツがいいんじゃない?」

 下着って、自分しか見ないけれど、だからこそ大事だよね。

「いちごパンツ……いちごパンツ……」

 ぶつぶつ呟いていたら、母親が部屋の前を通りかかって「アキ……?」って顔を青ざめさせた。

「いちごパンツってあなた……何かに目覚めちゃったの……!?」
「目覚めてないよ。勉強だよ」
「いちごパンツが!?」

 うん。いちごパンツも、立派に勉強です。





 翌日。おれは登校してすぐ、いつメンに昨晩の勉強ノートを披露した。

「見て! おれ、昨日めっちゃ勉強したんだ!」
「おっ、やるじゃん」
「どれどれ……」

 おれがフフンと誇らしげにノートを見せると、いつメン三人は中をじっと覗き込む。……が。

「……アキ」
「なんだこのノート」
「なんで数学が途中から日本史になってんだよ」
「つか、日本史ですらないし」
「『いちごパンツ』って、どういうこと?」

 その反応は想定外なものだった。だって予定では「すごい!」、「よくやった!」、「アキもやればできるじゃん!」みたいな拍手カッサイのつもりだったのに、実際はみんなの呆れた目つきが冷たいだけだった。

(なんで!? これじゃあ、逆に風邪引いちゃうよ……)

 おれは念の為ノートを確認する。ページを開くと、そこには数学の公式から日本史の年号、それからパンツについてが書かれている。その途中に出てきた「おじさんはいちご柄のパンツを履くべきか?」って課題は、最終的に「ブナンに、無地のボクサーパンツの方が良い!」という結論に至っていた。
 問題テイキ、調査、コウサツ、結論……流れはバッチリなはず。うーん、やっぱり何も間違っていないと思うのだけど。

「でも、無地って良くない? シンプル・イズ・ガストだよ」
「『ベスト』ね。そっちはファミレス」
「あと、この『第6天ま王にもオススメ!!』ってメモは何だよ」
「だって、織田信長はおじさんだよ? おじさんには、いちご柄より無地の方が似合ってない?」
「おじさんがいちごパンツでも良いだろ。多様性の時代だぞ」
「タヨウセイ? タヨウセイ……多用、性?」

 たしかに多用性の時代だ。ただのボクサーパンツより、海パンを兼ねるパンツの方が良かったかもしれない。

(くっ……そこまで頭が回らなかった……!)

 昨日あんなにたくさん考えたのに……! 頑張ってコウサツしたのに……! 悔しい……!

「ノリ、お前ヘンなこと言うな。アキがまたアホなこと考えてる」

 シンはため息をつきながらノートを閉じる。

「アキ、お前はまず『何を勉強する』のか決めろ」
「何を……?」
「勉強する科目を一つに決めるんだ。数学をやるんだったら数学だけやる。日本史には行かない」

 シンの説明はもちろん理解できる。けれど、それが結構難しいのだ。特に数学は、集中がふわ〜っとどこかに飛んでいってしまう。

「無理に問題を解く必要はないんだよ。最初は教科書読むだけでいい」
「教科書……読むの……?」
「読むんだよ」

 おれはしょんぼりしながら教科書を開く。読み始めるとまた、ページの上で数字たちがダンスし始めた。

(数学って、なんでこんなにおれの脳みそをキョヒするんだろう……)

 そのせいか、別のことがまた気になり始めてしまう。

「うーん……織田信長がいちごパンツな方が気になる……」
「織田信長はいちごパンツじゃねえよ」
「あっ……もしかして、いちごパンツなのは明智光秀の方なの!?」
「まじでどういうこと?」


 ◇ ◇ ◇


 いつメンと別れ、席に戻る。おれは朝礼まで、数学と格闘することにした。
 相変わらず、数学は難しい。まずは教科書を読めと言われても頭には入らないし、問題は教科書を見ながらでないと解けない。
 あと、何度も聞くけど、なんで数学なのに英語がこんなにいっぱい出てくるの?

「ニコウテイリに出てくる“C”とは、英語のコ、コンビ……“combination”……うぅ、読めない」

 ノートに演習問題の式を写し、薄目で教科書を見ながら数字をダイニュウする。
 気分はまるでボールを追いかけるワンコみたいだ。放り投げられたボールを追いかけては転び、追いかけては転び──……その繰り返し。何度も問題を解いてみて、解き方の手順を覚えようとする。でも、やっぱりできる感じがしない。
 ……と、そのとき。

「……滝本くん?」

 後ろから声がして振り返ると、すぐそこに守沢くんが立っていた。

「えっ……あ、あの……!」

 おれは慌ててノートを教科書で隠す。よく分からない数式とか、大量に書かれた「いちごパンツ」とか、見られたら死ぬ……!

「勉強してるの?」
「え、えっと……はい……!」

 守沢くんは少し驚いたように目を瞬いた。

「昨日、ぼくが言ったから……?」
「え? あ、その……」

 おれは後頭部を掻きながら、正直に言った。

「……頭、良くなりたくて。勉強得意じゃないんだけど、守沢くんの好きなタイプに……ちょっとでも近づけたらなって……」

 守沢くんは目を丸める。でも、すぐにふっと笑った。
 桜の花が咲いたみたいな、あの優しい笑顔だった。

「……そっか。じゃあ、少しだけ教えようか?」
「えっ……!」

 思わず心臓が跳ねる。

(そんな……好きな人に勉強を教えてもらえるなんて!)

 ワンコがご主人様に尻尾をぶんぶん振ってるみたいな気持ちになる。いや……もしかしたら、おれは本当にワンコなのかもしれない!

「数学と日本史、どっちがいい?」
「に、日本史? なんで急に……」
「でも、そっちのページに『いちごパンツ』って……」
「へ? わああああああああああ!!!!」

 おれは机に突っ伏した。教科書で隠したつもりだったけれど、結局ほとんど隠れていなかったのだ。つまり、いちごパンツは丸見え。恥ずかしすぎて死ぬ……。
 守沢くんはくすくす笑いながら、鞄から筆記用具を取り出した。

「ふふ。もしかして年号、語呂合わせで覚えるタイプ?」
「う、うん……」
「一五八二年だから本能寺の変か。明智光秀が反旗を翻したやつ」
「は、ハンキ……? そ、そう! でも三日坊主になっちゃったやつ!」
「三日()()かな」
「あっ……そ、そっちか……」

 せっかく昨日おさらいしたはずなのに、やっぱり間違えて覚えていたらしい。おれは本当に頭が悪い。
 だけど、目の前の守沢くんはすごく楽しそうで。

「滝本くんって、すごく面白いんだね」
「……!」

 その言葉だけで、おれの顔はぱっと明るくなる。好きな人に笑ってもらえて、しかも「面白い」と言ってもらえて、おれは嬉しかった。
 おれと守沢くん、一対一の小さな授業が始まる。教えてもらうたび、ノートにはおれの犬の足跡みたいな字が続いていった。守沢くんの教え方はすごく分かりやすくて、一人で教科書を読むよりもするっと頭に内容が入ってくる。
 朝礼までの十分足らず。いつもおれを置いてダンスしていた数字が、そのときだけはおれと一緒に踊ってくれているみたいだった。