推し活に命をかけているオタクが余命10日と宣告された話

 白く無機質な病院の診察室で、医師から告げられた言葉は「余命10日」。突然の発症、手遅れの病状、どうすることもできなかった。

「え、余命10日ですか……?」

 小宅(おたく)将也(まさや)25歳は病室で絶望した。一番最初に頭に思い浮かんだのが、アニメの推しキャラ『小玉(こだま)花梨(かりん)』が二度と推せなくなるということ。

 普通の人なら「家族」や「やり残した仕事」を想像しただろう。しかし、25歳、小宅将也の脳裏に一番最初に浮かんだのは、ライトノベル『星屑のメロディ』の推しキャラ『小玉花梨』の笑顔だった。

「もう、秋の新作劇場版は見られない」
「来月のバースデーイベント祭壇は作れない」

 自分の死そのものより、「推しを二度と推せなくなること」への絶望が波のように押し寄せてくる。

 スマホの連絡先を開く。一番上にある「母」の文字。3年前、「いい加減、その気持ち悪いオタクを辞めなさい!」と推しのフィギュアを捨てられそうになり、家を飛び出した記憶がフラッシュバックした。

 余命10日で家族ではなく、あいつに会いたいと思った。母にいい加減オタクを辞めろと言われて行ったあいつの家。

 今さら余命10日と伝えて母親に連絡して泣きつかれるのも、死に際に「オタクを辞めておけば」と説教されるのも御免だった。その時、数少ないリアルの友人の顔が思い浮かぶ。

 一飯(いっぱん)劉(りゅう)。唯一、SNSでつながっていない数少ない友人。小宅と違い、彼はオタクではない。普通にアニメを娯楽として楽しむ一般人だ。それでも、小宅と絡みがあるのは、あいつの好奇心からだろう。

 一飯はオタクではないし、趣味も合わない。ただ、小宅がどれだけ熱弁しても「へえ、物好きだね」と鼻で笑いながら、なぜか一緒にコラボカフェまでついてきてくれた男。

 小宅の部屋にあるあの膨大な「遺品(グッズ)」を冷酷に、しかし確実に処理してくれるのは、あいつしかいないと確信する。たくさん集めてきた推しグッズをうまく捌いてくれることだろう。

 病院から放心した状態で、アパートの自室に戻った小宅。部屋は四方八方に小玉花梨のタペストリー、フィギュア、缶バッジで埋め尽くされていた。この部屋ともおさらばだ。名残惜しい気持ちを部屋に向けつつ、スマホを探す。

 スマホを握りしめ、慣れた手つきでスマホを操作をしSNSを開いた。フォロワー3,000人のオタク垢。「花梨ちゃんしか勝たん」と毎日愛を呟いてきた。

 自分が死んでしまえば、このアカウントは「突然失踪した不義理なオタク」として放置されてしまう。そんな不義理を残すぐらいならば、消してしまおうと設定画面を開くが、指が震えた。

 これを消したら、自分が築き上げてきた7年間の情熱が、自分がこの世にいた証拠が完全に消滅してしまう気がした。寂しさと恐怖が勝り、結局ログアウトすることしかできなかった。

 そして、一飯を家に呼んだ。数時間もすれば、インターホンが鳴る。呼び出しに応じてやってきた一飯。彼はドアを開け、部屋の凄まじいグッズの量を見ても眉一つ動かさなかった。

「急に呼び出すから借金の保証人にでもされるかと思ったが。相変わらずとち狂った部屋だな」

 いつも通りの毒舌に、これからも変わらない日常が続いていきそうな気がした。だけど、この平和な日常に終止符を打たなければならない。

「……劉。笑わずに聞いてくれ。僕、あと10日で死ぬんだ」

「は? 新手のタチの悪い冗談か?」

 信じようとしない一飯に小宅は病院からもたった診断書を見せる。一飯はそれを無言でじっと見つめ、一瞬だけ目元を険しくするが、すぐにいつもの冷徹な表情に戻った。

「ふん、そうか。で、俺に何をさせたい」 

 さすがは、信頼できる友人。呼ばれた理由もわかっていた。

「お前を呼んだのは他でもない。小玉花梨ちゃんを、価値がわかる人に売るか、処分してほしい」

 余命宣告を受けてから、何回も頭の中で繰り返してきた言葉。いざ、言葉にすると涙があふれてくる。

「わかった」

 劉は着ていたジャケットを脱ぎ、腕まくりをする。最近買い換えたのだろう、最新機種のスマホを取り出した。

***

 一飯(いっぱん)劉(りゅう)という男は、一言で表すなら「世界のすべてを倍速で生きている男」だった。

 高校二年の春、クラス替えで隣の席になったその男は、いつも冷めた目でスマホの画面を眺めていた。

 流行りのアニメや話題のドラマも、彼は動画配信サービスを二倍速で、しかも「10秒スキップ」を連打しながら消費していた。

「終わったらスッと忘れられるのが娯楽の正しい在り方だろ。タイムパフォーマンス(タイパ)が悪い」

 それが、一飯劉の口癖だった。

 一方で、小宅将也は真逆の生き物だった。

 一つの作品を何十回、何百回と見返し、キャラクター宿る瞳のハイライトの揺れに涙し、小遣いのすべてを限定缶バッジやアクリルスタンドに注ぎ込む。タイパなどという言葉は、小宅の辞書には存在しなかった。

 交わるはずのない二人の歯車が噛み合ったのは、放課後の教室だった。

 小宅は、その日発売されたばかりのラノベを机に広げ、頭を抱えて唸っていた。その様子を、帰る支度を終えた劉が、心底不可解そうな目で見下ろしている。

「おい、小宅。お前さっきから同じページで30分近く止まってるぞ。フリーズか?」

「フ、フリーズじゃないよ! ……今、すっごく大事なシーンなんだ。この主人公のセリフの裏にある、ヒロインの『間』を脳内で再生してるんだよ。この一行にはね、彼女の過去のトラウマと、主人公への仄かな信頼が、こう、凝縮されていて――」

 早口で捲し立てる小宅。普通なら、ここで「うわ、オタクきも」と距離を置かれるか、苦笑いで流される。

 小宅も言い切った後に「やってしまった」と後悔し、身を縮めた。

 しかし、劉は違った。

 彼は鞄を机にドサリと置くと、小宅の前に椅子を引っ張ってきて座った。

「へえ。一行にそこまで詰まってるって、お前の脳内どうなってんの? 面白いな」

「え……?」

「俺ならその一行、0.5秒で読み飛ばす。お前、その一冊読むのに何時間かける気だ?」

「えっと……じっくり読むから、3時間は……。そのあと、伏線を確認するためにもう一周するし……」

「コスパ最悪だな」

 劉はふっと鼻で笑った。けれど、その目には明確な「好奇心」が宿っていた。

「効率を極限まで無視した人間の熱量ってやつに、少し興味がある。なぁ小宅、お前がそのキャラのどこにそんな金を注ぎ込む価値を見出してるのか、俺に一般人でも分かるように説明してみろよ」

 あいつはオタクを理解しようとしたわけじゃない。ただ、自分には理解できない「異常な熱量」を持つ生き物を、観察したかっただけなのだ。

 それでも、周囲から「気持ち悪いオタク」として透明人間のように扱われていた小宅にとって、真っ正面から自分の「熱量」を測ろうとしてくれた劉は、初めての『友人』だった。

「……じゃあ、まずこのヒロイン、小玉花梨ちゃんの何が凄いか、初期設定から話すね。長くなるよ?」

「ああ。倍速なしで聞いてやるから、簡潔に話せ」

 窓の外から差し込む夕日の中、劉は呆れたように校内の自販機で買ってきたカフェラテを飲みながら、小宅は壊れたおもちゃのように推しの魅力を語り続けた。

 それが、最期まで手を握り合うことになる、二人の始まりの景色だった。

***

「限定アクリルスタンドは相場5万円」
「初期缶バッジは傷あり、1000円」

 劉はスマホでフリマアプリの相場を高速で叩き出し、仕分けしていく。オタクではないからこそ、グッズに対して「ただの物体としての価値」を冷徹に見極めていく。そんな作業を頼んだにも関わらず、小宅はそれを見て悲しくなっていた。

「これはお盆に開催される最大規模の創作イベントで徹夜して並んで手に入れたやつで……」

 いざ、値段をつけられると手放すのが惜しくなる。想い出も一緒に売ってしまう気がして、手放せなくなってきた。劉が仕分けしたアクリルスタンドに手を伸ばす。すると、劉はその手を止めた。

「知らん。感情を挟むな、作業が遅れる」

 一飯は一蹴した。

「わ、わかってるよ……」

 小宅は止められた手を自分の胸元へ引き寄せる。

「わかって、わかっているんだ……」

 どうしようもない思いがこみ上げてくる。自分はもうすぐ死ぬ。理解がない母にこの部屋のものはゴミとして捨てられてしまう。だから、劉を呼んだ。

「ゴホッ、ゴホッ……ガハッ……!」

 精神的ダメージもあったのか、小宅は作業中に激しく咳き込み、床に崩れ落ちてしまった。余命10日の病魔は確実に進行していた。

「おい、大丈夫か。しっかりしろ」

 劉は慌てることなく、小宅をベッドへ運ぶ。その手つきは乱暴だが、布団をかける動作は静かだった。

「どうせ、仕分けるのは俺だから大人しく病人は寝ておけ」

 小宅はベッドの中から、段ボールに詰められていく推しを見つめながら、「僕の人生、何だったんだろうな」とぽつりと言い漏らす。身体が弱まると、余計なことまで考えてしまう。こみ上げてくる涙は、つらいからじゃない。病気で身体が根を上げているだけだ。

「母親には言ったのか?」

 劉にも生活がある。具合の悪い小宅を置いて帰るのは気が引けるのだろう。

「……言えないよ、劉もわかっているだろ。今、呼ぶのは合理的じゃない。呼ぶのは死んでからだ」

 小宅は現実から背けるように布団を頭からかぶった。

 二日目。部屋の片隅で、ノートパソコンとスマホを高速で操作する劉。小宅はベッドに横たわりながら、愛着のあるグッズが冷徹に捌かれていく様子を複雑な目で見ていた。

 オタク特有の「愛」ではなく、「売るための合理性」で動く劉。部屋の白い壁を背景にし、100円ショップで買ってきたLEDライトでグッズを照らして傷がないかミリ単位で明示する写真を撮っていく。

「オタクはコレクター気質だ。傷を隠して後から揉める方がタイムロスになる」と冷徹に語っていた。

 劉は絶妙な価格設定がうまかった。過去の相場だけでなく、アニメの「直近のイベント情報」や「SNSでのトレンド」を瞬時にリサーチをし、「来週、公式の大型発表があるから、この限定アクスタは今売るより3日待ってから出品した方が3割高く売れる」と、オタク以上の市場分析力を見せていた。

 小宅以外の人物と会話しているところを見たことがない劉が、具体的な購入者とのやり取りを見るのも面白かった。特に、値下げ交渉への冷徹な対応はすごかった。

 購入希望者からメッセージが届いた。

「はじめまして! こちら花梨ちゃん大好きなのですが、予算が足りず……3万円に値下げしていただけないでしょうか?泣」

 対する劉の返信はこうだ。

「不可です。現在の相場と希少性を考慮した適正価格です。24時間以内に購入がない場合はブロックします」

 それを見た小宅は叫ばずにはいられなかった。

「劉、もうちょっと優しくしてよ! 花梨ちゃんが好きな人なんだから!」と焦る小宅に対し、劉は「感情で商売をするな。お前の治療費にするんだから1円でも高く売る」と一蹴する。そして、劉の強気な値段設定のまま本当に売れた。

「まとめ買い」の交渉術もすごかった。

 熱狂的なコレクターから「出品されている花梨ちゃんの缶バッジ50個、すべて買い取ります」と連絡が来る。

 劉は「セット割引として送料分(700円)だけ引く。専用ページを作成した、5分以内に手続きしろ」と高速で捌いていた。

 梱包作業で見せる不器用な配慮のところが意外だった。劉は「配送中に壊れたら返金手続きが面倒だ」と言い訳しながら、プチプチや緩衝材をこれでもかと厳重に巻き、水濡れ防止のOPP袋に綺麗にグッズを包みこんでいく。

 小宅は劉の綺麗すぎる梱包を見て「本当に丁寧だね……」と呟いた。劉は「お前の執念が詰まった大切なものだからな、他人にケチをつけられたくないだけだ」と、ぶっきらぼうに返事をする。その背中が頼もしかった。

 余命宣告三日目となると、劉も7年間集めてきたグッズを捌ききれないと判断したのか、小宅にも手伝うように声をかけてきた。だが、劉は小宅の値段設定にもケチをつけてくる。

「おい将也、この『初期限定アクリルスタンド』だが、お前は3万円で出そうとしてただろ。アホか、情弱め。来週の火曜に公式から『劇場版の新PV』が解禁される。その瞬間、市場の熱量はピークになる。出品はそれまで待て。価格は強気の4万5000円、これで3時間以内に即落ちする」

「えっ、でもそれ……僕が真冬の物販で5時間並んで、やっと引き当てたやつなんだよ? 劉、そんな株の取引みたいに言わないでよ……。もうちょっと、こう、作品への愛とかさ……」

 オタクとしての未練が残っている小宅は引き下がらなかった。

「愛で腹は膨らまないし、お前の遺品整理費にもならない。ほら見ろ、値下げ交渉が来たぞ。『はじめまして! 花梨ちゃんが人生の支えです! 予算が厳しく、どうか2万円になりませんか? 泣き』……だとよ」

 劉はスマホに表示されているフリマアプリの画面をタップし、小宅にスマホ画面を見せてきた。

「ああっ、その気持ち分かるよ! 花梨ちゃんが支えなんだよ、その人! 安くしてあげてよ!」

 小宅は同情で、劉にお願いをする。

「却下だ。こういう『お気持ち表明』で値切ってくる奴ほど、後から髪の毛一本程度の傷で『非常に悪い』の評価をつけてくる。定型文で拒否してブロックした。感情で商売をするな。お前が命を削って集めた資産だ、1円でも高く、正しい価値が分かる『金払いの良い太客』に引き継がせるのが俺の仕事だ。……ほら、別の奴が4万5000円で買ったぞ」

 劉は冷酷に即レスとブロックをした。

「……プロじゃん。君、本当にオタクじゃないの?」

 小宅は呆れつつも感心した。

「言ったろ。俺はただの一般人だ。だが、お前がいくら注ぎ込んできたかは嫌というほど見てきたからな。他人に安く買い叩かれるのは、俺のプライドが許さん」

 劉は綺麗に梱包を始める。不器用と思っていた手先は回数を重ねるごとに、うまくなっていた。

 余命宣告から五日目。部屋の半分が無機質な部屋へと変わりつつあった。グッズで埋め尽くされた壁があらわになっている。ポスターを貼ってあったであろう場所には、白い空間ができている。ポスターが貼っていない場所は日差しで日焼けしていた。花梨ちゃんがいなくなったという遠い現実から逃れようと、劉へ目線を移す。劉はコーヒーを入れていた。

「どうした? またなんか不満でもあったか?」

 劉は小宅からの視線に気づいたのか、淹れたコーヒーを飲みながら口を開いた。

「だいぶ作業したけど、劉は昔と考え方は変わらない?」

 小宅が集めた部屋に残っているグッズを見て、劉は口を開いた。

「お前がアニメ、漫画界隈に何を求めているのか知らんが、終わったらスッと忘れられるのが娯楽の正しい在り方だと思うぞ」

 劉はフッと鼻で笑った。小宅はここ数年、自分が正しいと思ってやってきた推し活をバカにされたように感じて許せなかった。沸々と腹の底から怒りが湧いてくる。

「そんなことはない!」

 劉と今までとは比べ物にならないぐらいに一緒にいた。だけど、小宅の気持ちが一ミリも劉に伝わっていなかったのがショックだった。

「大半の人間にとって娯楽は仕事や勉強の合間に少し見て、またすぐに日常に戻るのが普通だ。終わって何十年も経った作品をグチグチ言うのは小宅、お前だけだよ」

「うっ……」

(反論できないオタクとしてのコンプレックス!!!)

「だが、小宅が好きな作品がもたらした経済効果は計り知れない。地域のおもちゃ屋や、服屋さんは助かっているだろう。この数年は救世主と言っていい」

 絶望する小宅を見下ろし、劉はコーヒーを一口すすって、ふっと視線を窓の外に向ける。

 小宅は目を見開く。劉はオタクの「感情」は否定したが、小宅が費やしてきた「人生と行動」そのものは、社会を支えた厳然たる事実として肯定してくれたのだ。

「安心しろ、お前が死んでもお前が好きだったコンテンツの情報を墓場で語ってやる」

「劉……」

「急に下の名前で呼ぶな。気持ち悪い……」

 劉のそんな冷たい言葉もかわいく思えてくる。

「僕が死んでも忘れないでくれよ」

「当たり前だ」

 最後に握手をした。劉の手は冷たいかと思っていたが、じんわりと温かみと汗が伝わってくる。ああ、言葉にするのが下手なだけで身体は素直だな、と死ぬ前の走馬灯のように過去が蘇った。

 余命宣告八日目。劉が裏で連絡を入れたたのか、小宅のアパートにやってきた母親がピンポンを鳴らしまくっている。

「将也ちゃん! 開けてちょうだい!! 余命宣告ってどういうことなの?! わたし、何も聞いていないんだけど!!」

 ドンドン、と玄関のドアを壊しそうな勢いで殴っていた。開けようか迷っている時間はなかった。明らかに近所迷惑だからだ。

「今、開けるから静かにして!」

 小宅が渋々ドアロックチェーンを外し、母親を家の中に入れた。母は段ボールだらけの玄関と、病気の進行とともに瘦せてしまい、以前のようなふくよかな姿ではなくなった変わり果てた息子の姿を見て、取り乱したのか、昔と同じ説教をしてしまう。

「将也、あなた……こんな身体になってまで、まだこんな電子の絵だかプラスチックにしがみついてるの!? いい加減にしなさい! 三年前、あんなにオタクを辞めて現実を見ろって言ったのに……! まだこんなものにお金も時間も使い果たして、お嫁さんもいないこんな寂しい部屋で死ぬなんて、お母さん、あんたをそんな風に育てた覚えはないわよ!」

 うまく育てることが出来なかった不甲斐なさなのか、母は泣き崩れながら怒りをぶつけてくる。

「母さん……ごめん。でも、僕はこれが……これが僕の人生だったんだ……」

 ヒステリックになった母をなだめようとした。発言した瞬間、罪悪感と諦めが頭の中を支配した。なんで、劉は母を呼んだのだろう。死んでから呼んでほしかったのに……。ちゃんと言わなかった僕が悪いか、と枯れたように笑う。

「おい、おばさん。ちょっと黙ってこれを見てくれ」

 空気を読めない劉は二人の間に割って入り、ノートパソコンを母親の前に見せつけてくる。突然、ノートパソコンに視界を遮られた母は困惑していた。

「な、何よあんたは……将也の友達の一飯くんだよね? 連絡をもらって有り難いけど、今は引っ込んでいて頂戴、これは家族の問題で――」

「これが、こいつがこの数年で動かした金額の履歴。そしてこっちが、今さっき俺がフリマで捌いたグッズの総売上だ。累計で数百万円。おばさんから見れば『気持ち悪いアニメのゴミ』かもしれないが、市場(しじょう)から見ればこれは厳然たる『資産』だ。いいか、おばさん。こいつはただ部屋に引きこもって現実逃避してたわけじゃない。こいつみたいな熱狂的なオタクが金を回したから、倒産寸前だった地方のおもちゃ屋や、下請けの印刷工場や、服屋がどれだけ救われたか分かるか? この数年間の冷え込んだ経済において、小宅将也は、立派な『業界の救世主』だったんだよ」

 劉は母にひるむことなく、ノートパソコンの画面に表示されている数字を指さした。

「救世主って……でも、ただのアニメでしょう……?」

 専業主婦である母は困惑していた。劉はさらに声を絞り出す。

「ただのアニメに、こいつは命を懸けたんだ。生きがいを見つけて、誰にも迷惑をかけず、自分の稼いだ金で、死ぬ気で経済を回して、この世に爪痕を残したんだ。親のお前が否定してんじゃねえよ。こいつの人生は、あんたに『育て方を間違えた』なんて泣かれるほど、安っぽいもんじゃない!」

「劉……お前、そこまで……」

 将也は涙があふれていた。劉に伝わっていない、と思っていた将也の人生が劉にちゃんと伝わっていた。

 母は息子のやつれた顔と、劉の言葉、そして部屋に残る圧倒的な『熱量の痕跡』を見て、初めて息子の人生を理解したように見えた。

「……将也。ごめんね……。お母さん、あんたがそんなに……そんなに必死に生きてたなんて、何も知ろうとしなかった……」

 ぼろぼろ、と涙を流した。連絡を聞いて慌ててきたのだろう、いつもの圧化粧ではなくスッピンだった。今になって、母の顔がちゃんと見えてくる。下を向いて、昔の怒った顔を想像して喋っていた。

「いいんだよ、母さん。親不孝の息子でごめん」

 それ以上、小宅は何も言えなかった。ただ、優しく小さくなった母の身体を抱きしめる。母の手も借りることになり、作業ペースも進んだ。これで、余命宣告日までに小玉花梨のグッズは一切手元には残らないだろう。

 余命宣告から九日目。

 アパートの部屋は、驚くほどガランドウになっていた。

 壁を埋め尽くしていた『星屑のメロディ』のタペストリーやポスターは剥がされ、棚にひしめいていたフィギュアたちも、劉の手によってすべて「次の持ち主」へと発送されていった。残っているのは、部屋の隅に積まれた数箱の段ボールと、ベッドに横たわる小宅の、浅く細い呼吸の音だけだ。

 その日の午後、静まり返った部屋に、小宅の母親が静かに戻ってきた。

 数日前に劉から「正論」を突きつけられ、泣き崩れたあの日の面影はなかった。母親は、実家から持ってきたエプロンをきゅっと結ぶと、床に座り込んでいる劉の隣に、膝を折って座った。

「一飯くん。私にも、それ、手伝わせて」

 劉はスマホから目を離さず、フリマアプリの画面をタップしたまま「邪魔です」と短く返した。

「素人が手を出すと、梱包に傷がつく。おばさんは小宅の横にいてやればいい」

「傷はつけないわ。これでも、パートで商品の包装は長くやってるの。それに……」

 母親は、段ボールの中に残された、小玉花梨の古いラノベの単行本にそっと触れた。

「この子がどんな風に生きてきたか、私も、ちゃんとこの手で触って、整理したいの。お願い」

 劉は小さく舌打ちをすると、「……足引っ張ったら即クビですからね」と言って、梱包用のプチプチとテープを母親の前に無造作に放り投げた。

 それからの数時間、部屋の中には、テープを引く鋭い音と、段ボールが擦れる音だけが響いた。

 小宅はベッドの中から、かすむ視界でその光景を眺めていた。かつて自分を最も否定した母親と、最も冷酷に自分を観察していた友人が、並んで自分の「推しグッズ」を丁寧に包んでいる。夢のような、けれど現実の、奇妙に優しい光景だった。

「一飯くん」

 静寂を破ったのは、母親だった。ラノベの初期限定版を、驚くほど綺麗な手つきでOPP袋に収めながら、ぽつりと言った。

「あなた、どうしてここまで、将也に付き合ってくれるの? この子は……親の私から見ても、本当に手のかかる、不器用なオタクだったでしょう」

 劉は、段ボールの隙間に緩衝材を詰め込みながら、ふっと鼻で笑った。

「さあね。俺は効率主義の一般人なんで、こいつの『愛』だの『萌え』だのは、今でも一ミリも理解してませんよ」

「じゃあ、どうして」

「コスパが悪いからです」

 劉はテープをハサミで切り、箱の蓋を強く叩いた。その大きな音に僕は身体を起こした。

「こいつ、高校の時からそうなんです。ただの数十円のアクリル板に八千円も出して、一行のセリフの裏を読むために三時間もかける。俺なら0.5秒で読み飛ばす娯楽に、人生の全部を注ぎ込んでる。……それが、たまらなくムカつくくらい、面白かったんですよ」

 劉の視線が、ベッドの小宅へと向けられる。その目は、高校の夕暮れの教室で、小宅の熱量を見つめていたあの時のまま。

「倍速で消費して、観終わったら三日で忘れる。それが俺たちの正しい娯楽だ。でも、こいつは違った。終わって何年経っても、その作品の中にずっと生きて、金を払って、社会を回して、執念だけで世界を肯定し続けてた。……タイパ最悪の、大バカ野郎ですよ。だからこそ、そのバカが最後に『何も残せなかった』なんて顔して死ぬのだけは、俺のプライドが許さないんです」

 母親の手が、ピタリと止まった。

 彼女の目から、大粒の涙がポロポロとラノベのパッケージにこぼれ落ちそうになり、慌てて袖でそれを拭った。

「そう……。将也は、良いお友達を持ったのね。私、あの子に『気持ち悪い』なんて言って、本当に酷い母親だったわ……」
「今更ですよ。でも」

 劉は、次の段ボールを引き寄せながら、ぶっきらぼうに付け足した。

「おばさんが今日、このゴミの仕分けを手伝ったことだけは、こいつ、絶対墓場まで持って喜んでますよ」

 ベッドの上で、小宅は声を殺して泣いていた。もう、二人に声をかけるだけの体力は残っていなかったけれど、胸の奥が痛いくらいに温かかった。

 これが、九日目の午後。

 ガランドウの部屋で、三人の歪な歯車が、確かに優しく噛み合った瞬間の出来事だった。

 ついに、余命宣告十日目。部屋のグッズはすべて梱包され、あるいは劉の手によって発送・処理され、部屋は引っ越し前のようにガランドウになっていた。壁に残ったのは、擦れたポスターの跡だけ。

  ベッドの上で、将也の呼吸は浅くなっている。視界も霞み、いよいよ最期の時が近づいていることを自覚していた。もう、身体に力が入らない。劉は段ボールに座り、腕を組んでじっと将也を見つめていた。

 将也は、かすむ手を伸ばす。

「僕が死んでも忘れないでくれよ」

「当たり前だ」

 二人は最後に握手をした。劉の手はいつも冷酷な言葉を吐くから冷たいかと思っていた。しかし、握った手のひらからは、じんわりとした温かみと、彼が必死に感情を堪えている証拠である汗が伝わってくる。

 ああ、こいつは言葉にするのが下手なだけで、身体は素直だな。将也の脳裏に、これまでの人生の走馬灯――アニメの映像、イベントの熱気、そしていつも隣で呆れながら歩いてくれていた劉の姿が蘇る。

 視界が完全に暗転していく。SNSのフォロワーでもない、家族でもない。最期まで自分の手を、その不器用な温もりで握りしめていてくれたのは――。

 劉の「またな」という掠れた声を最後に、将也は静かに目を閉じた。

 
 小宅将也が逝ってから、ひと月が経った。

 秋晴れの霊園は、驚くほど静かだった。一飯劉は黒いスーツのポケットに両手を突っ込み、墓石の前に突っ立っていた。

「よお、将也。約束通り、来てやったぞ」

 劉は墓前で屈むと、手向けの水や花ではなく、ジャケットの内ポケットから『あるもの』を取り出した。それは、丁寧にプチプチで包装された、傷一つないアクリルスタンド。映画館の物販コーナーで、一般人の劉が一人で列に並び、手に入れてきたものだ。

 透明なプラスチックの板の中で、あの不人気ライバルキャラ――『小玉花梨』が、相変わらず切なげに微笑んでいる。

「昨日、お前が死ぬほど楽しみにしていた『星屑のメロディ』の劇場版が公開された」

 劉はアクスタを墓石の縁にそっと立てかけ、缶コーヒーを一口すする。

「安心しろ。お前の母親も一緒だ。あのおばさん、初日の劇場に、隣の席で大号泣してたぞ。お前が遺したあのフリマの売上金、おばさんは一円も使わずに『将也の愛した業界に全額寄付する』って、アニメの制作会社に送りつけよった。俺の優しさもろともな。つくづく、極端な親子だよ」

 劉はふっと鼻で笑い、墓石の向こうの青空を見上げた。

「……映画はな、最悪だったよ。タイパがゴミすぎる」

 劉の声が、少しだけ低くなる。

「上映時間は二時間。もちろん倍速なんてできない。10秒スキップのボタンもない。俺にとっては、苦行みたいな百二十分だった。……だけどな」

 劉は、あの十日目に交わした、じんわりと温かかった握手の感触を思い出していた。言葉にするのが下手くそな、けれど誰よりも熱く生きた男の体温。

「お前の推し、小玉花梨の出番は、中盤のたった三分間だけだった。主人公を庇って、ボロボロになって退場していく、相変わらず報われない役回りだ。……でもな、劇場のオタクどもは全員、そこで鼻をすすってた。お前が高校の夕暮れの教室で、何時間もかけて俺に熱弁した通りの、最高の三分間だったよ」

 劉はスマホを取り出し、録音アプリを起動する。

「お前が死んでも、お前が好きだったコンテンツの情報を墓場で語ってやる。……そう約束したからな」

 劉は墓石に向き直り、腕を組んだ。世界のすべてを倍速で消費してきた一般人が、この日だけは、一文字一文字を噛み締めるように、ゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぎ始める。

「いいか、将也。今から倍速なしで全部語ってやる。花梨ちゃんがどんな風に笑って、どんな風に世界を救ったか。耳の穴かっぽじって、一秒残らず聴きやがれ――」