「まず、わり算を逆数のかけ算に直してみて。16a/3の逆数は分かる?」
「えっと……、3a/(16)?」
「aも逆数にしないといけないから、3/(a16)だよね」
「あ、そっか」
「じゃあ、かけ算だけになったから、符号に気をつけて計算して……」
高嶺くんの教え方は丁寧で、分からないことをさらに砕けて説明してくれるから頭に入りやすい。
一度理解出来ると手がすらすら動いて、少しばかり出来る子になった気分を味合わせてくれる。
「少し休憩しようか」
キャラメルミルクを飲みながら、ふと薄い紫色の花が目に入った。
絹のような茶色い髪から顔を覗かせる花びらは、触れてみたくなるほど綺麗な色をしている。
どんな瞬間に、高嶺くんは恋に堕ちたのか。聞いてみたい気持ちを飲み込んで、別の浮遊する何かを探す。
「高嶺くんに教えてもらえて、私は幸せ者だよ。ほんとにありがとね」
「大路さんの飲み込みが早いからだよ。分かりやすく出来てたか、少し不安だけど」
「すごく分かりやすいよ。もう、姫先輩なんかよりうーんと説明上手」
褒めたつもりだったのに、一瞬高嶺くんの表情が曇った気がした。悪口を言う奴なんだと軽蔑されたかな。
「ああ……っ、もちろん姫先輩も上手いんだけど、高嶺くんはそれ以上って意味で」
「……姫川先輩に、勉強教えてもらってるんだね」
「えっと……、少しだけ」
大切なものを取られた子どものような顔をして、そうなんだと息をこぼす。
さっきの間といい、高嶺くんの様子がおかしい。やっぱり、なにか気に触ることを言ってしまったかな。
午後五時の音楽が鳴って、そろそろ帰ろうと高嶺くんがドアの前に立つ。
怒っているわけではなさそうだけど、いつもより声のトーンが低かった気がして。
触れないようにしていたけど、もしかして……。
「開かない」
引き戸に手をかけたまま、高嶺くんが動きを止めた。
「開かないって、ドアが?」
「そう。閉じ込められたみたい」
ええー、と困惑の声を発しながら取手を引いてみるけど、微妙にガタつくだけ。まるで壁を相手にしているようだ。
とりあえず誰かに連絡しようと言われて、ポケットを探り出したところで気付く。
「ごめん……。スマホ、教室に忘れちゃって。かばん、机の横に引っ掛けたまま」
とりあえず移動しようと、必要なものだけ持って出てきたことを忘れていた。
「じゃあ、僕の……」
ポケットに手を入れながら、ああ……と高嶺くんが唇を閉じる。
「ごめん、僕の充電切れてたんだ」
「ええーー⁉︎ ど、どうしよう。うちの学校に、警備員さんなんていた?」
「警備員……? は、いないと思うよ」
机にかばんを置いて、とりあえず落ち着いて座ろうと促される。
ちょっと、待って。どうしてそんなに冷静でいられるの?
鍵を掛けられたということは、二人きりで夜を明かさなくちゃならないということだよね⁉︎
よく知ってる。少女漫画では、お決まりのハプニング展開だから。実際に自分が経験者になるとは思わなかった。
無言でひとつ挟んだ席へ腰を下ろす。高嶺くんも話さないから、沈黙の空気が流れる。
十四年生きてきて、人生最大のピンチと言っていいかもしれない。
まず食べ物がない。かばんには食べかけのクッキーがあるけど、今は教室に置き去りだし。ここにあるのは、半分しか残っていないパックのミルクのみ。
トイレやシャワー、おまけに布団もなくて、無人島へ取り残されたようなもの。
どうしよう。妄想しただけで死ねそうだ。
陽の光がなくなって、周りが見えにくくなって来た。読んでいた小説の文字が暗闇と同化していく。
ひとつ空けた隣から、パタンと本を閉じる音が聞こえた。読み終えたわけじゃなくて、もう読めないからだろう。
それでも私は、まだ背筋を伸ばしたままページを開いている。
ほとんど内容は入っていないのだけど、他に気を逸らしていないと息が詰まるから。
お母さん、心配してるだろうな。警察に電話してないといいけど。
「……結構、暗くなったね」
静かな空間に、しとやかな声が落とされた。
「ほんと、夜の学校ってこんな暗いなんてびっくりだよねー! 先生たち、みんな帰っちゃったのかな。ちゃんと確認して欲しいよね!」
わざとらしく張り上げた声に、高嶺くんが、そうだねと微笑み返す。
校舎を出る時に主電源が切られたのか、電気のスイッチを押しても付かなくなっていた。グランドの灯りがかろうじて入り込んで、高嶺くんの顔をやんわり認識出来るほどの明るさ。
カーテンを閉めたら、全てが遮断されておばけ屋敷の中と同類になる。なんとしても避けたい。
机の上で手を握っているとガタンと音がして、高嶺くんが隣へ移動して来た。
「大丈夫? 寒い?」
「寒くないよ?」
図書室は木の影になっていて、白昼の熱をあまり溜め込まない場所。
五月の終わりにもなると、多少の涼しさは感じてもわりと過ごしやすい。
小刻みに動く手をぐっと押さえながら、小さく息を吐く。あれ……、体が震えてる?
「大路さんって、兄弟いる?」
「うん……、妹が一人」
「仲良いの?」
「まだ三歳だから、お母さんがいない時は私にベッタリ」
可愛いね、と笑う高嶺くんの声が温かくて、胸の波がトクトクと穏やかに流れていく。
高嶺くんにはお姉さんがいて、両親より過保護だった話をしてくれた。
自分で持てると言う高嶺くんからランドセルを奪って、前後ろに抱えて通学していたとか。
少しでも帰りが遅いと、公園や友達の家を片っ端から探しに来ていたという勇者なエピソードに笑いが止まらなかった。
「お姉さん、強すぎるよ」
「本人には言えないけど、僕の友達から映画版ジャ◯アンって呼ばれてたから」
「えー、なにそれ」
少し前から降り出した雨が強くなって来た。
椅子に座る体勢を変えながら腰を伸ばして、怠くなってきた足をさする。何時間も同じ格好でいると、さすがに疲れて来た。
「こっち座ろうか」
赤いじゅうたんの敷かれた床で、二人肩を並べて腰を下ろす。
やっぱり、高嶺くんが女子から人気なの分かるな。
些細なことに気付いてくれるし、なにより優しい。どこかの誰かさんとは大違いだもの。
ガタガタガターーッ!
「えっと……、3a/(16)?」
「aも逆数にしないといけないから、3/(a16)だよね」
「あ、そっか」
「じゃあ、かけ算だけになったから、符号に気をつけて計算して……」
高嶺くんの教え方は丁寧で、分からないことをさらに砕けて説明してくれるから頭に入りやすい。
一度理解出来ると手がすらすら動いて、少しばかり出来る子になった気分を味合わせてくれる。
「少し休憩しようか」
キャラメルミルクを飲みながら、ふと薄い紫色の花が目に入った。
絹のような茶色い髪から顔を覗かせる花びらは、触れてみたくなるほど綺麗な色をしている。
どんな瞬間に、高嶺くんは恋に堕ちたのか。聞いてみたい気持ちを飲み込んで、別の浮遊する何かを探す。
「高嶺くんに教えてもらえて、私は幸せ者だよ。ほんとにありがとね」
「大路さんの飲み込みが早いからだよ。分かりやすく出来てたか、少し不安だけど」
「すごく分かりやすいよ。もう、姫先輩なんかよりうーんと説明上手」
褒めたつもりだったのに、一瞬高嶺くんの表情が曇った気がした。悪口を言う奴なんだと軽蔑されたかな。
「ああ……っ、もちろん姫先輩も上手いんだけど、高嶺くんはそれ以上って意味で」
「……姫川先輩に、勉強教えてもらってるんだね」
「えっと……、少しだけ」
大切なものを取られた子どものような顔をして、そうなんだと息をこぼす。
さっきの間といい、高嶺くんの様子がおかしい。やっぱり、なにか気に触ることを言ってしまったかな。
午後五時の音楽が鳴って、そろそろ帰ろうと高嶺くんがドアの前に立つ。
怒っているわけではなさそうだけど、いつもより声のトーンが低かった気がして。
触れないようにしていたけど、もしかして……。
「開かない」
引き戸に手をかけたまま、高嶺くんが動きを止めた。
「開かないって、ドアが?」
「そう。閉じ込められたみたい」
ええー、と困惑の声を発しながら取手を引いてみるけど、微妙にガタつくだけ。まるで壁を相手にしているようだ。
とりあえず誰かに連絡しようと言われて、ポケットを探り出したところで気付く。
「ごめん……。スマホ、教室に忘れちゃって。かばん、机の横に引っ掛けたまま」
とりあえず移動しようと、必要なものだけ持って出てきたことを忘れていた。
「じゃあ、僕の……」
ポケットに手を入れながら、ああ……と高嶺くんが唇を閉じる。
「ごめん、僕の充電切れてたんだ」
「ええーー⁉︎ ど、どうしよう。うちの学校に、警備員さんなんていた?」
「警備員……? は、いないと思うよ」
机にかばんを置いて、とりあえず落ち着いて座ろうと促される。
ちょっと、待って。どうしてそんなに冷静でいられるの?
鍵を掛けられたということは、二人きりで夜を明かさなくちゃならないということだよね⁉︎
よく知ってる。少女漫画では、お決まりのハプニング展開だから。実際に自分が経験者になるとは思わなかった。
無言でひとつ挟んだ席へ腰を下ろす。高嶺くんも話さないから、沈黙の空気が流れる。
十四年生きてきて、人生最大のピンチと言っていいかもしれない。
まず食べ物がない。かばんには食べかけのクッキーがあるけど、今は教室に置き去りだし。ここにあるのは、半分しか残っていないパックのミルクのみ。
トイレやシャワー、おまけに布団もなくて、無人島へ取り残されたようなもの。
どうしよう。妄想しただけで死ねそうだ。
陽の光がなくなって、周りが見えにくくなって来た。読んでいた小説の文字が暗闇と同化していく。
ひとつ空けた隣から、パタンと本を閉じる音が聞こえた。読み終えたわけじゃなくて、もう読めないからだろう。
それでも私は、まだ背筋を伸ばしたままページを開いている。
ほとんど内容は入っていないのだけど、他に気を逸らしていないと息が詰まるから。
お母さん、心配してるだろうな。警察に電話してないといいけど。
「……結構、暗くなったね」
静かな空間に、しとやかな声が落とされた。
「ほんと、夜の学校ってこんな暗いなんてびっくりだよねー! 先生たち、みんな帰っちゃったのかな。ちゃんと確認して欲しいよね!」
わざとらしく張り上げた声に、高嶺くんが、そうだねと微笑み返す。
校舎を出る時に主電源が切られたのか、電気のスイッチを押しても付かなくなっていた。グランドの灯りがかろうじて入り込んで、高嶺くんの顔をやんわり認識出来るほどの明るさ。
カーテンを閉めたら、全てが遮断されておばけ屋敷の中と同類になる。なんとしても避けたい。
机の上で手を握っているとガタンと音がして、高嶺くんが隣へ移動して来た。
「大丈夫? 寒い?」
「寒くないよ?」
図書室は木の影になっていて、白昼の熱をあまり溜め込まない場所。
五月の終わりにもなると、多少の涼しさは感じてもわりと過ごしやすい。
小刻みに動く手をぐっと押さえながら、小さく息を吐く。あれ……、体が震えてる?
「大路さんって、兄弟いる?」
「うん……、妹が一人」
「仲良いの?」
「まだ三歳だから、お母さんがいない時は私にベッタリ」
可愛いね、と笑う高嶺くんの声が温かくて、胸の波がトクトクと穏やかに流れていく。
高嶺くんにはお姉さんがいて、両親より過保護だった話をしてくれた。
自分で持てると言う高嶺くんからランドセルを奪って、前後ろに抱えて通学していたとか。
少しでも帰りが遅いと、公園や友達の家を片っ端から探しに来ていたという勇者なエピソードに笑いが止まらなかった。
「お姉さん、強すぎるよ」
「本人には言えないけど、僕の友達から映画版ジャ◯アンって呼ばれてたから」
「えー、なにそれ」
少し前から降り出した雨が強くなって来た。
椅子に座る体勢を変えながら腰を伸ばして、怠くなってきた足をさする。何時間も同じ格好でいると、さすがに疲れて来た。
「こっち座ろうか」
赤いじゅうたんの敷かれた床で、二人肩を並べて腰を下ろす。
やっぱり、高嶺くんが女子から人気なの分かるな。
些細なことに気付いてくれるし、なにより優しい。どこかの誰かさんとは大違いだもの。
ガタガタガターーッ!



