ブルースのその先で

俺と肇は、同じミックスバーで働く同い年のバーテンだった。
 俺はゲイ、肇はバイセクシャルだった。
お互い音楽や映画が好きで、漫画も読む。趣味が合うこともあって、打ち解けるのに時間はかからなかった。
 バイトが同じ日は、どちらかの家で泊まるのが定番になってきた頃、恋愛映画を見ながら肇がボソッと言葉にした。
「俺、渚のこと好きだな」
 俺は食べかけていたきゅうりの漬物を口から落とす。
「え?」
「はは。困るよな、ごめん。今のなしで」
 平然と話す肇の横で、肇の言葉が脳内で反芻する俺は頬が熱くなっていく。
 初対面の時点で、肇の顔はタイプだと思っていた。
趣味や好みも合うし、なにより一緒にいると、変に気を遣わなくてよかった。
 でもバイトも同じな上、仲のいい友達とそういう関係になるのは、いろんなリスクを感じて、俺は早めに線引きをしていた。
 だから、肇のその言葉は、俺の鍵をかけていた気持ちを簡単にこじ開けてしまった。

「……俺も」
「え?」
「俺も、肇のこと好き……だよ」
「え!まじ?!」
 そこからは、今までの関係に、唇や身体を重ねることがプラスされて、俺たちはすごく幸せだったと思う。
 月に一回、バーを閉めた後に肇のバイクで海沿いの街まで行き、夜が明けてくる静かな街で手を繋いで散歩していた。
 これといった思い出せる話とかはないが、肇と過ごす時間は全部が楽しくて、愛おしくて、温かかった。
「なぁ」
「ん?」
「ここに来ると、この世界で俺たちだけな気がするな」
「うん」
 俺たちは目を合わせて、そっと唇を重ねる。
「あー、幸せ」
「俺も」
 隣に立つ肇が、何か考え込むように海を見つめていた。
けれど、その時の俺は気にしなかった。

 その日もいつも通り、肇のバイクに乗って、海沿いの街に向かう。
 バイクに乗る時、肇がいつもより目尻を下げながら俺にお願いしてくる。
「渚、ぎゅっとして。着くまで、ずっと」
「え、そんなんいつもしてるじゃん」
「うん。だよな」
 三月でも夜はまだ肌寒くて、肇の温もりを全身で感じられるように身体を近づけた。
 いつも歩く海沿いの道で、肇は珍しく座ろうと言ってきた。
「なんか、ここで座るの初めてだね。あぁ、寒っ」
「だな」
 肇が俺の右手を包み込んで、自分のポケットに入れる。
 そんな肇の行動一つ一つに、俺は胸がときめいてしまう。
 ゆっくり明るくなっていく空と、静かな海を見つめながら肇が口を開く。
「渚」
「ん?」
「別れよう」
「……え?」
 
 ——なに、え。何言ってるの?
 
「いや、え。なに?急に」
「昨日、配属先が大阪に決まった」
「え……。こっちって、言ってた……じゃん」
「……遠距離でもいいって言ってくれたらって、何回も考えたんだ。でも、俺自身が耐えられるか分からなかった」
 肇の言葉に視界が歪んでいき、一気に胸の奥が締め付けられる。
「ごめん。俺も希望は出してたんだけど。少し前に会社から通達があって。今年から、新人は全員大阪に集めることになったって」
「……やだ、無理。……肇と会えないとか無理」
 肇が目を赤くしながら困ったように笑って、俺の涙を拭う。
「ごめんな。渚の近くに居れなくて」
「肇は、……俺が居なくても……いいのかよ」
 俺の言葉を聞いて、何も言わずに肇は俺を抱きしめる。
 いろんな感情をグッと飲み込んだように、震える声で肇が口を開く。
「渚に寂しい思いをさせてまで、縛りたくない」
「……なんだよ、それ」
 俺たちは、辺りが明るくなるまで肩を寄せ合いながら、静かに揺れる水面を見つめた。

 乗り慣れたバイクの後部座席。
 
 大好きな人の大きくて温かい背中。

 ——あぁ、もう最後なのか。

 俺たちは、家の玄関を開けてから引き寄せ合う磁石のように、唇を何度も重ねて、お互いの存在を刻み合うように身体を重ねた。

 丸二日。
 
 家から一歩も出ずに、二人きりで過ごした。
 朝。目が覚めて、隣で気持ちよさそうに眠る肇を見つめる。
 ——あぁ、好きだな……。
 俺は寝ている肇に頭をくっつけるようにして、内カメで写真を撮った。
 少しして肇が目を覚ました時、俺は肇に提案する。
「ねぇ、パン買いに行こう?」
 肇の家に泊まる時、よく食べていたパン屋さんへ、俺たちは手を繋いで向かった。
 周りの視線を感じないことはなかったが、今の俺らには何一つ気にならなかった。
「あ、肇が好きなやつあるよ」
「え。あ、ほんとだ」
「俺も食べたいから、半分こしよ?」
「えー、二つ買えば良くね?」
「いいじゃん」
 パンを買って、近くの公園で桜を見ながら食べる。
「ちゃっかり、花見できちゃったね」
「だな」
 肇がスマホで桜を撮っている時に、俺は精一杯いつも通りに口を開く。
「はじめー」
「ん?」
「帰ったら、バイバイしよう」
 俺の一言で、肇は頭上に掲げていたスマホを下ろす。
「……うん」

 ——……あーあ。

 優しい肇はきっと言い出せないから。
 
 最後くらい、俺から言葉にしないとな。

 お互い好きなパンなのに、いつもよりも食べ終わるのに時間がかかった。

「じゃあ、元気でね」
 
「うん。渚も」

 肇の家のドアが閉まりきる前に、背を向けて歩き出す。

 少しでも早くその場から離れたくて、視界が滲む中、無我夢中で走った。

 たくさん泣いて、時間が経てば、いつかは……。

そんな言葉を信じて、張り裂けそうな胸の痛みに耐えることしかできなかった。