#2
それは突然の事だった。
昔から度々ありはしたが、最近はぱったり無くなっていたため安心してしまっていた。その安心が油断になっていたようだ。
ぎゅうぎゅうすし詰め状態の通学電車内。右も左も前も後ろも、赤の他人。いつもは満員電車が大嫌いなので、二本前の電車でゆったりと行くのだが、今日は雨、加えて寝坊して二本分後どころか三本分も遅れてしまった。
つまり、もう普通に遅刻だ。
真宏は「またか」と心の中で深いため息をついた。朝の通勤時間のせいで満員電車にもみくちゃにされながら、必死に登校しているというのに。そんな自分のいたいけな尻に、何かが当たっている。
でかい手でまんべんなく制服のズボンの上から撫でられる感触にゾワゾワと鳥肌が立つ。逃げようにもすし詰め状態の為、次の駅で止まるまで身動きが取れない。
しかも運悪くこの区間は、真宏が乗る区間の中でまあまあ長めのため、あと十分はこのまま撫でられなくてはいけなくなる。
長年の経験から痴漢に下手に反応すると相手の思うツボだというのを心得ているので、この男の股間を蹴り上げたい気持ちを抑え真宏はただじっと耐えた。
大体真宏は昔からそうなのだ。
顔が母親似で女顔だからか、筋肉がつきにくい体のせいで弱く見えるのかなんなのかはしらないが、物心ついた時から何かと変質者に襲われることが多かった。
幼稚園の頃は公園で兄──涼雅──と遊んでいて、涼雅がトイレに行ったタイミングで知らない男に声をかけられ、危うく連れていかれそうになったところを、涼雅が相手の顔面に向かって飛び膝蹴りをしてくれたおかげで危機を免れた。
それ以来涼雅は執拗に真宏の安否を確認してくるようになってしまったし、中学に上がるまで登下校は何故か涼雅と一緒にしていた。小学校に上がってからはストーカーをされたり、露出狂にあったり色々あったがその度に涼雅が対処してくれた。中学校に上がると今度は外部のほかに学校内部の人間の犯行も何故か増えて、無駄な嫌がらせをされていた。
しかし全て涼雅に泣きつきなんとかしてもらうのも男として情けないと思い始め、必殺技だけは習得した。犯人を突き止めるたびに、相手の股間を満足するまで蹴り上げる。犯人たちは泣きながら帰って行き、その後二度と同じ人間は寄ってこなくなった。昔からこういう類には何故か好かれるわけだが、真宏だって泣き寝入りしてきた訳じゃない。
小さい頃は変質者に遭遇する度に泣いて涼雅の元へ走ったが、成長は誰だってする。そのせいかは知らないが真宏は、やけに攻撃的な性格に成長したようだ。未だに自分の下半身でもぞもぞ動いているこの手を、へし折りたい。もしくは目ん玉を抉り出してやりたい。
ふと撫でる手が離れて行った。
飽きたのだろうか、と思ってチラリと振り返るとじんわり汗ばんだスーツ姿の太ったオジサンの手を、満面の笑みで捻りあげている赤髪の派手な男の姿があった。
「えー趣味しとんなぁ〜、オッサン。ぶひぶひ豚みたいに鼻鳴らしおって、ここは養豚場ちゃうで」
関西弁で赤髪の、派手な男はニコニコしながらオッサンを見下ろしている。この騒ぎに気づいたのか、周りの乗客達も次第にチラチラこちらを見ている。
あと五分で到着駅。
真宏は、こっち見てんじゃねぇよとか、見るぐれぇなら助けろよ、とか、色んな苛立ちが募りはしたが、それらを怒鳴ったところで何も解決しない事は充分、分かっていたので、深呼吸をして大量に息を吸い込んだ。
「キャー!チカンヨォーダレカヘルプミィー!チョットオジサン、ソノヒトアタシノダァリンダカラテェダサナイデヨネ、ネッ、ダァリン?」
真宏の真顔と大声でしん、と車内が静まりかえる。派手な男は一瞬ポカンとしていたけれど、真宏の作戦に気づいたのか、肩を震わせて「くくっ…せやなぁ〜、ハニィ〜」とグイッと真宏の肩抱き寄せた。真宏はおっさんをじとりと見やり、口を開く。
「ていうかぁ〜、いい歳こいて公衆の場で鼻息荒くして未成年のケツを揉みしだいた挙句、同じ高校生に腕捻りあげられて手も足も出ず汗だくになっているのって、めちゃくちゃ無様で醜いなって思うんですけど、その辺どうお考えで?」
「……あ、……ぃ、や……」
男は周囲から好奇の目に晒され、逃げ出したくて堪らないとでもいうように俯いていく。
「オッサンさぁ、スーツなんて着て鞄も持ってるけど働いてないの?通勤のフリ?それともマジの会社員なわけ?会社名教えてよ。人に自分を知ってもらうために、サラリーマンは何持ち歩いているんでしたっけ?ほら、ここで使わなきゃ」
ジリジリとドア側に追い詰めると、オッサンはヒイィッと涙目になってぷるぷる震え始める。
……くっそキモイ。
更に追い詰めようと口を開いたところで、ポンッと肩に手を置かれた。
「まぁまぁキミ、そんくらいでええんちゃう?腹立つやろうけど、オッサンもう顔撮られとるみたいやし、SNSで広まんのも時間の問題やろ〜。どの道、お先真っ暗、やな」
真宏の暴走を止めたのかと思いきや、トドメを食らわせた男に真宏は、こいつも大分攻撃性ある性格してんな、と感心した。真宏の大声で一車両全体に知れ渡った痴漢ジジイは顔を青くしたり赤くしたり忙しそうだった。
本来ならこのまま捕まえて駅員に渡したいところだが、生憎真宏の遅刻はもう確定している。
これ以上遅れたくはない。
コイツの人生を終わらせたいところだが、自分の成績の方に響かせるわけにはいかない。今回は目を瞑ってやろう。そのかわり、社会的に死んだ気分にさせてやるしかないな、と思った時、ちょうど電車は駅に到着し、オッサンは降りる乗客を押し退けて一目散に飛び出して行ってしまった。真宏と男は顔を見合わせてくすくす笑う。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、男は「かまへんよ別にぃ。おっさんの鼻息がうざかっただけやしぃ」とにこにこ笑う。にっこり笑う男の口から八重歯がちらりと見える。よく見ると目鼻立ちが整っている。瞳の色もカラコンなのかわからないけど、碧とグレーが混ざった色をしている。生きてきた中で見たことのない綺麗な色。
鮮やかな赤い髪に碧い瞳。 そして爽やかな笑顔……。
男は「明日から防犯ブザー持ち歩いた方がえーんちゃう?じゃあな」と手を振ってこちらに背を向けて行ってしまった。
……防犯ブザー、持ち歩こうかな?
真宏はやたら真剣に防犯ブザーについて考えつつ、男の顔がちらつく己の思考に首を傾げながら学校までの道を急いで歩いた……
というのが事の顛末。
あの時初めて知った「宇佐美」という存在に、確かに一時期心奪われた気はしたが、気の所為。
あれ以来学校で先輩を見かけるたびに、胸がドキリとなって思わず目で追ってしまうようになったがこれも気の所為。
真宏は宇佐美を好きな訳では無い。
一種の憧れのようなものなのだろう。
「でも真宏、あれ以来めちゃめちゃうさ先輩のこと見てんじゃん」
ドキリ、と胸が鳴り真宏は少し視線を落とした。
「……別に、派手だから見てるだけだよ」
……もしも、先輩が女だったら、もしくは自分が女だったら『恋』だと錯覚していたかもしれない。
「まあ確かに派手だわな」
久我はピコピコと携帯ゲームをやりながら賛同してくれる。
そう、自分は先輩が派手だから見てしまうだけで決して好きな訳では無い。綺麗な人が居たらついつ見てしまうのではないか。
綺麗な景色や綺麗な芸術があると否応なしに心奪われるのと同じように、そうこれは言わば自然現象である。
「真宏って恋した事ないの?付き合った事とか」
ハゼに問われた真宏はギクリとする。
「……」
「えっ無いの!?」
ハゼや久我に目を丸くされた真宏は不機嫌にムス、と不機嫌に返す。
「……悪いかよ」
「いや悪くは無いけどさぁ……」
ハゼらは顔を見合わせ、哀れみがこもった気まずそうな顔で真宏を見た。
なんだよその目線は……めちゃめちゃ腹立つな!!
「真宏、困ったり悩んだりしたらお兄さん達に頼るんだよ?」
「初めては誰にでもあるって!大丈夫、俺結構経験あっから」
「は、はあ!?なぁにがお兄さんだ!!」
悠々と馬鹿にされ思わず怒鳴った真宏の声が穏やかな昼休みの教室に響いてしまい、クラスがシィンとしてしまった。慌てて口を抑え、二人を睨んだ。
「……まあ冗談抜きにして、あんまり我慢し過ぎない方がいいよ?そういうのは」
「我慢?別にしてないよ」
何に対しての我慢なのか分からず、首を傾げてハゼを見るが、複雑そうな顔をしたまま見つめ返されるだけだった。
「……どんな物事に対しても、我慢し過ぎると毒だからね」
……だからしてないって、……と思ったけれど、ハゼの顔がいやに真剣だったので、真宏は何も言い返せなかった。
それは突然の事だった。
昔から度々ありはしたが、最近はぱったり無くなっていたため安心してしまっていた。その安心が油断になっていたようだ。
ぎゅうぎゅうすし詰め状態の通学電車内。右も左も前も後ろも、赤の他人。いつもは満員電車が大嫌いなので、二本前の電車でゆったりと行くのだが、今日は雨、加えて寝坊して二本分後どころか三本分も遅れてしまった。
つまり、もう普通に遅刻だ。
真宏は「またか」と心の中で深いため息をついた。朝の通勤時間のせいで満員電車にもみくちゃにされながら、必死に登校しているというのに。そんな自分のいたいけな尻に、何かが当たっている。
でかい手でまんべんなく制服のズボンの上から撫でられる感触にゾワゾワと鳥肌が立つ。逃げようにもすし詰め状態の為、次の駅で止まるまで身動きが取れない。
しかも運悪くこの区間は、真宏が乗る区間の中でまあまあ長めのため、あと十分はこのまま撫でられなくてはいけなくなる。
長年の経験から痴漢に下手に反応すると相手の思うツボだというのを心得ているので、この男の股間を蹴り上げたい気持ちを抑え真宏はただじっと耐えた。
大体真宏は昔からそうなのだ。
顔が母親似で女顔だからか、筋肉がつきにくい体のせいで弱く見えるのかなんなのかはしらないが、物心ついた時から何かと変質者に襲われることが多かった。
幼稚園の頃は公園で兄──涼雅──と遊んでいて、涼雅がトイレに行ったタイミングで知らない男に声をかけられ、危うく連れていかれそうになったところを、涼雅が相手の顔面に向かって飛び膝蹴りをしてくれたおかげで危機を免れた。
それ以来涼雅は執拗に真宏の安否を確認してくるようになってしまったし、中学に上がるまで登下校は何故か涼雅と一緒にしていた。小学校に上がってからはストーカーをされたり、露出狂にあったり色々あったがその度に涼雅が対処してくれた。中学校に上がると今度は外部のほかに学校内部の人間の犯行も何故か増えて、無駄な嫌がらせをされていた。
しかし全て涼雅に泣きつきなんとかしてもらうのも男として情けないと思い始め、必殺技だけは習得した。犯人を突き止めるたびに、相手の股間を満足するまで蹴り上げる。犯人たちは泣きながら帰って行き、その後二度と同じ人間は寄ってこなくなった。昔からこういう類には何故か好かれるわけだが、真宏だって泣き寝入りしてきた訳じゃない。
小さい頃は変質者に遭遇する度に泣いて涼雅の元へ走ったが、成長は誰だってする。そのせいかは知らないが真宏は、やけに攻撃的な性格に成長したようだ。未だに自分の下半身でもぞもぞ動いているこの手を、へし折りたい。もしくは目ん玉を抉り出してやりたい。
ふと撫でる手が離れて行った。
飽きたのだろうか、と思ってチラリと振り返るとじんわり汗ばんだスーツ姿の太ったオジサンの手を、満面の笑みで捻りあげている赤髪の派手な男の姿があった。
「えー趣味しとんなぁ〜、オッサン。ぶひぶひ豚みたいに鼻鳴らしおって、ここは養豚場ちゃうで」
関西弁で赤髪の、派手な男はニコニコしながらオッサンを見下ろしている。この騒ぎに気づいたのか、周りの乗客達も次第にチラチラこちらを見ている。
あと五分で到着駅。
真宏は、こっち見てんじゃねぇよとか、見るぐれぇなら助けろよ、とか、色んな苛立ちが募りはしたが、それらを怒鳴ったところで何も解決しない事は充分、分かっていたので、深呼吸をして大量に息を吸い込んだ。
「キャー!チカンヨォーダレカヘルプミィー!チョットオジサン、ソノヒトアタシノダァリンダカラテェダサナイデヨネ、ネッ、ダァリン?」
真宏の真顔と大声でしん、と車内が静まりかえる。派手な男は一瞬ポカンとしていたけれど、真宏の作戦に気づいたのか、肩を震わせて「くくっ…せやなぁ〜、ハニィ〜」とグイッと真宏の肩抱き寄せた。真宏はおっさんをじとりと見やり、口を開く。
「ていうかぁ〜、いい歳こいて公衆の場で鼻息荒くして未成年のケツを揉みしだいた挙句、同じ高校生に腕捻りあげられて手も足も出ず汗だくになっているのって、めちゃくちゃ無様で醜いなって思うんですけど、その辺どうお考えで?」
「……あ、……ぃ、や……」
男は周囲から好奇の目に晒され、逃げ出したくて堪らないとでもいうように俯いていく。
「オッサンさぁ、スーツなんて着て鞄も持ってるけど働いてないの?通勤のフリ?それともマジの会社員なわけ?会社名教えてよ。人に自分を知ってもらうために、サラリーマンは何持ち歩いているんでしたっけ?ほら、ここで使わなきゃ」
ジリジリとドア側に追い詰めると、オッサンはヒイィッと涙目になってぷるぷる震え始める。
……くっそキモイ。
更に追い詰めようと口を開いたところで、ポンッと肩に手を置かれた。
「まぁまぁキミ、そんくらいでええんちゃう?腹立つやろうけど、オッサンもう顔撮られとるみたいやし、SNSで広まんのも時間の問題やろ〜。どの道、お先真っ暗、やな」
真宏の暴走を止めたのかと思いきや、トドメを食らわせた男に真宏は、こいつも大分攻撃性ある性格してんな、と感心した。真宏の大声で一車両全体に知れ渡った痴漢ジジイは顔を青くしたり赤くしたり忙しそうだった。
本来ならこのまま捕まえて駅員に渡したいところだが、生憎真宏の遅刻はもう確定している。
これ以上遅れたくはない。
コイツの人生を終わらせたいところだが、自分の成績の方に響かせるわけにはいかない。今回は目を瞑ってやろう。そのかわり、社会的に死んだ気分にさせてやるしかないな、と思った時、ちょうど電車は駅に到着し、オッサンは降りる乗客を押し退けて一目散に飛び出して行ってしまった。真宏と男は顔を見合わせてくすくす笑う。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、男は「かまへんよ別にぃ。おっさんの鼻息がうざかっただけやしぃ」とにこにこ笑う。にっこり笑う男の口から八重歯がちらりと見える。よく見ると目鼻立ちが整っている。瞳の色もカラコンなのかわからないけど、碧とグレーが混ざった色をしている。生きてきた中で見たことのない綺麗な色。
鮮やかな赤い髪に碧い瞳。 そして爽やかな笑顔……。
男は「明日から防犯ブザー持ち歩いた方がえーんちゃう?じゃあな」と手を振ってこちらに背を向けて行ってしまった。
……防犯ブザー、持ち歩こうかな?
真宏はやたら真剣に防犯ブザーについて考えつつ、男の顔がちらつく己の思考に首を傾げながら学校までの道を急いで歩いた……
というのが事の顛末。
あの時初めて知った「宇佐美」という存在に、確かに一時期心奪われた気はしたが、気の所為。
あれ以来学校で先輩を見かけるたびに、胸がドキリとなって思わず目で追ってしまうようになったがこれも気の所為。
真宏は宇佐美を好きな訳では無い。
一種の憧れのようなものなのだろう。
「でも真宏、あれ以来めちゃめちゃうさ先輩のこと見てんじゃん」
ドキリ、と胸が鳴り真宏は少し視線を落とした。
「……別に、派手だから見てるだけだよ」
……もしも、先輩が女だったら、もしくは自分が女だったら『恋』だと錯覚していたかもしれない。
「まあ確かに派手だわな」
久我はピコピコと携帯ゲームをやりながら賛同してくれる。
そう、自分は先輩が派手だから見てしまうだけで決して好きな訳では無い。綺麗な人が居たらついつ見てしまうのではないか。
綺麗な景色や綺麗な芸術があると否応なしに心奪われるのと同じように、そうこれは言わば自然現象である。
「真宏って恋した事ないの?付き合った事とか」
ハゼに問われた真宏はギクリとする。
「……」
「えっ無いの!?」
ハゼや久我に目を丸くされた真宏は不機嫌にムス、と不機嫌に返す。
「……悪いかよ」
「いや悪くは無いけどさぁ……」
ハゼらは顔を見合わせ、哀れみがこもった気まずそうな顔で真宏を見た。
なんだよその目線は……めちゃめちゃ腹立つな!!
「真宏、困ったり悩んだりしたらお兄さん達に頼るんだよ?」
「初めては誰にでもあるって!大丈夫、俺結構経験あっから」
「は、はあ!?なぁにがお兄さんだ!!」
悠々と馬鹿にされ思わず怒鳴った真宏の声が穏やかな昼休みの教室に響いてしまい、クラスがシィンとしてしまった。慌てて口を抑え、二人を睨んだ。
「……まあ冗談抜きにして、あんまり我慢し過ぎない方がいいよ?そういうのは」
「我慢?別にしてないよ」
何に対しての我慢なのか分からず、首を傾げてハゼを見るが、複雑そうな顔をしたまま見つめ返されるだけだった。
「……どんな物事に対しても、我慢し過ぎると毒だからね」
……だからしてないって、……と思ったけれど、ハゼの顔がいやに真剣だったので、真宏は何も言い返せなかった。

