後宮絵師は、七年ぶりの初恋に笑う――未来を囁く月影屏風

第7話 七年ぶりの初恋に笑う


翌朝、東の廊下の床板は直され、南庭の柿は本当に二つ落ちた。

 一つは花織が拾い、もう一つは裕衣が厨房へ持っていった。

 月影屏風は以前のように頻繁には喋らなくなった。

 誰かが強く言えずにいることがあり、それが人を守ったり、助けたりする必要があるときだけ、短く声を出す。

『薬庫の窓、閉め忘れ』

『三の宮、今日は少し寂しい』

『厨房の鍋、焦げる』

 最後の一言の直後、料理人たちが全力で走る姿を見て、沙綾香は「便利になったわね」と笑った。

 修復を終えた彼女には、正式に後宮付き絵師の話が出た。

 ただし常駐ではなく、必要なときに都へ来ればよいという。

 沙綾香は迷った。

 旅をしながら絵を描く暮らしも好きだった。

 けれど、ここには描きたい人がたくさんいる。

 そして、会いたかった人もいる。

 後宮を出る前日、沙綾香は一帆を梅林へ呼び出した。

 北の蔵の前には、修繕された屋根から秋の日が落ちている。

 一帆はいつもの薬箱を持って現れた。

「どうしたの?」

「仕事が終わったから」

「うん」

「約束、覚えてる?」

 一帆は少し笑った。

「もちろん」

「じゃあ話して」

「三通目の手紙?」

「それ」

「熊吉さんがどこかへ持っていったやつ」

「そう」

「……本当に聞く?」

「七年待った」

 一帆は困ったように空を見た。

 長いまつ毛が光を受ける。

「『沙綾香が好きだ。戻ったら嫁になってほしい』って書いた」

 沙綾香は瞬きをした。

「直球ね」

「十六だったから」

「今なら?」

「もっと考えて言う」

「どう言うの?」

 一帆は薬箱を足元へ置いた。

 そして、逃げずに沙綾香を見た。

「七年前の君が好きだった。でも、今の君を知って、今の君をもっと好きになった」

 沙綾香の頬が熱くなる。

「よく笑って、仕事に夢中になると周りが見えなくて、失敗した線まで面白い絵に変えてしまう。人の話を聞いて、自分の考えも曲げない。怒ると返事が短い」

「最後はいらない」

「そこも好き」

「……ずるい」

「何が?」

「私が言おうとしてたこと、先に全部言うから」

「じゃあ、まだ残ってることを聞かせて」

 沙綾香は一歩近づいた。

「あなたは、落ち着いてるふりして意外と臆病」

「はい」

「優しいけど、勝手に相手のためだと思って黙るところがある」

「反省します」

「長いまつ毛が昔から癪」

「それは直せないな」

「でも」

 沙綾香は笑った。

「私も、今の一帆が好き」

 風が梅の枝を揺らした。

 一帆はしばらく何も言わなかった。

「……何か言ってよ」

「嬉しくて、言葉が出ない」

「薬師なのに?」

「薬師は告白への処方を習わない」

「不便ね」

「抱きしめてもいい?」

 沙綾香は少しだけ目を丸くし、それから頷いた。

「今度は屏風に言われる前にどうぞ」

 一帆の腕が、そっと背中へ回る。

 懐かしい薬草と白檀の匂いがした。

 七年前には知らなかった広さの胸に頬が触れる。

 胸の奥で、ずっと止まっていた時間が動き出すようだった。

 そのとき、はるか離れた後宮の方角から、風に乗ってかすかな声が届いた。

『お幸せに』

 沙綾香は一帆の胸から顔を上げた。

「聞こえた?」

「聞こえた」

「距離、広がってない?」

「修復、失敗した?」

「まさか」

『聞こえています』

「やっぱり聞いてる!」

 沙綾香が後宮へ向かって叫ぶ。

 一帆が声を上げて笑った。

 その笑いにつられ、沙綾香も笑う。

 未来が何を囁くかなんて、もうそれほど怖くない。

 明日は、誰かの言葉と、自分の選んだ一歩の先にある。

 七年前に途切れた道だって、もう一度歩き始めることができる。

 沙綾香は一帆の手を取った。

「ねえ、都で絵を描く場所を探すの、手伝って」

「後宮付きになるの?」

「半分だけ。旅も続ける。でも、帰ってくる場所を一つ増やそうかなって」

 一帆はその手を握り返した。

「じゃあ、僕も手伝う」

「条件がある」

「なに?」

「手紙を出すときは、熊吉さん以外に預けること」

 一帆は真剣な顔で頷いた。

「それは絶対に守る」

 二人はまた笑った。

 月影屏風が次に何を囁くのかは、まだ誰も知らない。

 けれど紫霞後宮では、それ以来、予言より先に「まず話してみよう」と言う者が少しずつ増えた。

 月の下に描かれた丸い猫は、今日も洗濯物のそばで眠っている。

 そして絵の片隅には、修復を終えたあと沙綾香が誰にも言わず描き足した、二人分の小さな足跡がある。

 並んだ足跡は梅林から外へ向かい、やがて一つの道へ続いていた。

【終】