後宮絵師は、七年ぶりの初恋に笑う――未来を囁く月影屏風

第6話 未来を決めるもの


「何の?」と一帆。

「この屏風に溜まった言葉の」

 沙綾香は匿名で集めた紙の束を持ち上げた。

「聞いただけで終わらせない。叶うものも叶わないものも、明日どうするかを一つずつ決めてもらう」

 裕衣がすぐに意図を汲んだ。

「願いの先に、行動を置くのですね」

「はい。『故郷の漬物が食べたい』なら、作り方を聞く。『文字を習いたい』なら、先生を決める。『踊りたい』なら、誰も笑わない場所でまず一曲踊る」

「『朝の鐘が早い』は?」

「花織さんに相談」

「私へ押しつけないでください」

「でも調整できるの花織さんだけです」

「……検討します」

 その夜、眠っていた者まで起こすようなことはしなかった。

 まだ起きていた者だけが広間へ集まり、自分の紙を持っていたい者は持ち、手放したい者は中央の箱へ入れた。

 名前は名乗らなくていい。

 ただ、「明日できる一歩」があるなら、それだけ口にする。

「妹へ手紙を書く」

「舞の稽古場を借りたいと頼む」

「同室の子へ、夜中の歯ぎしりがすごいって言う」

「それは早く言ってください」

 花織の一言で笑いが起きた。

「姫さまに、毎晩髪を百回梳くのは腕がつらいと申し上げる」

「七十回にしましょう」と、奥から后妃本人の声がした。

「聞いていらしたのですか!」

「今、聞いたわ」

 また笑いが広がる。

 次第に、屏風から滲んでいた墨色の霞が薄くなった。

 言葉が消えたのではない。

 それぞれの持ち主へ戻っていくように見えた。

 最後まで中央に残った紙が一枚あった。

 誰のものかわからない。

『自分には何の価値もない気がする』

 誰もすぐには口を開かなかった。

 すると裕衣が、紙を箱から取り上げずに言った。

「これは、明日一日で答えを出さなくてよい願いですね」

 花織が頷く。

「一人で答えを出す必要もありません」

 一帆も言った。

「眠れない日や食べられない日が続くなら、薬師へ来てください。気持ちのことでも構いません」

 沙綾香は紙の横に、小さな丸を一つ描いた。

「これは何です?」

 誰かが尋ねる。

「月」

「丸だけですが」

「今から描き足すの。途中の月」

 沙綾香は笑った。

「価値があるかどうか、今日決めなくていいでしょう。絵だって途中なら、何になるかわからないもの」

 屏風が、ふっと静かになった。

 黒雲の下から銀の月が現れる。

 その場にいた誰かが、声を殺して泣いた。

 誰も探さなかった。

 ただ少しだけ、人と人との間隔が近くなった。

 翌朝、中央の箱に残っていた紙はなくなっていた。

 代わりに、沙綾香が描いた途中の月の横へ、小さな文字が書き足されていた。

『もう少し考えてみる』

 沙綾香はその文字を見て、何も言わずに笑った。

 最後に、沙綾香は月へ銀の欠片を戻した。

 一帆が隣で灯りを持つ。

「手、震えてる」

「緊張してるの」

「支えようか」

「今触ったら線が曲がる」

「じゃあ終わってから」

「何を支えるの」

「君」

 沙綾香は危うく本当に線を曲げるところだった。

「そういうこと、作業中に言わないで!」

「すみません」

『言うようになりました』

「屏風も黙って!」

 ついに観月の夜が来た。

 空には雲一つなく、満月が後宮の屋根を白く照らしている。

 修復された月影屏風は、広間の正面に置かれた。

 古い絵の風格を残しながら、新しく加えられた細部が不思議な温かさを生んでいる。

 帝は姿を見せず、御簾の向こうから眺めるだけだった。

 后妃、女官、侍女たちは息を潜めて待つ。

 やがて、月の光が屏風の銀へ届いた。

 絵の中の月が淡く光る。

 沙綾香は胸の前で手を握った。

 一帆が少し後ろに立っている。

 そして、屏風が囁いた。

『今夜、未来を告げます』

 ざわめきが走る。

『明日の朝、東の廊下で、誰かが転びます』

 しん、と静まった。

 花織の眉間に皺が寄る。

『なぜなら、床板が一枚浮いているからです』

 裕衣がすぐに女官へ目配せする。

「今夜のうちに直しましょう」

『それから、南庭の柿が二つ落ちます』

「それは未来と言うほどのこと?」と誰かが呟く。

『熟れています』

 あちこちから笑いがこぼれた。

『西殿の姫は、来月、故郷から手紙を受け取ります』

 西殿の若い后妃が息を呑む。

『侍女が昨日、使者へ返書を託しました。返事が来るでしょう』

 后妃の目が潤み、隣の侍女がそっと笑った。

 屏風の声は続く。

『未来は、どこか遠くから落ちてくるものではありません』

『誰かが気づいたこと。誰かが言葉にしたこと。誰かが選んだこと。その先に、明日があります』

 沙綾香は息を忘れた。

 絵の月が、まるで笑っているように見えた。

『だから、わたしは未来を決めません』

『聞こえにくい声を、少しだけ大きくします』

 広間には長い沈黙が落ちた。

 最初に拍手したのは裕衣だった。

 次に誰かが手を叩き、また一人、また一人と続く。

 やがて後宮中が、柔らかな拍手に包まれた。

 沙綾香は胸が熱くなった。

 うまく直せたからだけではない。

 この屏風の中に、三日間で見た笑顔や、聞いた願いや、誰かが誰かを気遣った時間が重なっている。

 自分一人では描けなかった絵だ。

 拍手が収まりかけたとき、屏風が最後に言った。

『そして、次に后となる者は――』

 空気が凍った。

 沙綾香は目を見開く。

「ちょっと待って、それは!」

『月の絵を持つ者ではありません』

 后妃たちが一斉に身を乗り出す。

『あれは三月前、「月餅を持つ者」と言おうとして、声が混ざりました』

 沈黙。

「月餅?」

『はい。厨房の者が、「次に来る者へ月餅を持たせる」と話していました』

 誰かが吹き出した。

 次の瞬間、広間は大笑いになった。

 月の簪を特注した后妃は机へ突っ伏し、月の刺繍を三十枚縫った侍女は腹を抱え、花織ですら口元を押さえている。

 裕衣は涙を拭きながら言った。

「では、月の装飾を大量に注文した請求書は、誰へ回しましょう」

『申し訳ありません』

「屏風に払える?」

『無理です』

「でしょうね」

 その夜、紫霞後宮では遅くまで笑い声が絶えなかった。

【終】