第6話 未来を決めるもの
「何の?」と一帆。
「この屏風に溜まった言葉の」
沙綾香は匿名で集めた紙の束を持ち上げた。
「聞いただけで終わらせない。叶うものも叶わないものも、明日どうするかを一つずつ決めてもらう」
裕衣がすぐに意図を汲んだ。
「願いの先に、行動を置くのですね」
「はい。『故郷の漬物が食べたい』なら、作り方を聞く。『文字を習いたい』なら、先生を決める。『踊りたい』なら、誰も笑わない場所でまず一曲踊る」
「『朝の鐘が早い』は?」
「花織さんに相談」
「私へ押しつけないでください」
「でも調整できるの花織さんだけです」
「……検討します」
その夜、眠っていた者まで起こすようなことはしなかった。
まだ起きていた者だけが広間へ集まり、自分の紙を持っていたい者は持ち、手放したい者は中央の箱へ入れた。
名前は名乗らなくていい。
ただ、「明日できる一歩」があるなら、それだけ口にする。
「妹へ手紙を書く」
「舞の稽古場を借りたいと頼む」
「同室の子へ、夜中の歯ぎしりがすごいって言う」
「それは早く言ってください」
花織の一言で笑いが起きた。
「姫さまに、毎晩髪を百回梳くのは腕がつらいと申し上げる」
「七十回にしましょう」と、奥から后妃本人の声がした。
「聞いていらしたのですか!」
「今、聞いたわ」
また笑いが広がる。
次第に、屏風から滲んでいた墨色の霞が薄くなった。
言葉が消えたのではない。
それぞれの持ち主へ戻っていくように見えた。
最後まで中央に残った紙が一枚あった。
誰のものかわからない。
『自分には何の価値もない気がする』
誰もすぐには口を開かなかった。
すると裕衣が、紙を箱から取り上げずに言った。
「これは、明日一日で答えを出さなくてよい願いですね」
花織が頷く。
「一人で答えを出す必要もありません」
一帆も言った。
「眠れない日や食べられない日が続くなら、薬師へ来てください。気持ちのことでも構いません」
沙綾香は紙の横に、小さな丸を一つ描いた。
「これは何です?」
誰かが尋ねる。
「月」
「丸だけですが」
「今から描き足すの。途中の月」
沙綾香は笑った。
「価値があるかどうか、今日決めなくていいでしょう。絵だって途中なら、何になるかわからないもの」
屏風が、ふっと静かになった。
黒雲の下から銀の月が現れる。
その場にいた誰かが、声を殺して泣いた。
誰も探さなかった。
ただ少しだけ、人と人との間隔が近くなった。
翌朝、中央の箱に残っていた紙はなくなっていた。
代わりに、沙綾香が描いた途中の月の横へ、小さな文字が書き足されていた。
『もう少し考えてみる』
沙綾香はその文字を見て、何も言わずに笑った。
最後に、沙綾香は月へ銀の欠片を戻した。
一帆が隣で灯りを持つ。
「手、震えてる」
「緊張してるの」
「支えようか」
「今触ったら線が曲がる」
「じゃあ終わってから」
「何を支えるの」
「君」
沙綾香は危うく本当に線を曲げるところだった。
「そういうこと、作業中に言わないで!」
「すみません」
『言うようになりました』
「屏風も黙って!」
ついに観月の夜が来た。
空には雲一つなく、満月が後宮の屋根を白く照らしている。
修復された月影屏風は、広間の正面に置かれた。
古い絵の風格を残しながら、新しく加えられた細部が不思議な温かさを生んでいる。
帝は姿を見せず、御簾の向こうから眺めるだけだった。
后妃、女官、侍女たちは息を潜めて待つ。
やがて、月の光が屏風の銀へ届いた。
絵の中の月が淡く光る。
沙綾香は胸の前で手を握った。
一帆が少し後ろに立っている。
そして、屏風が囁いた。
『今夜、未来を告げます』
ざわめきが走る。
『明日の朝、東の廊下で、誰かが転びます』
しん、と静まった。
花織の眉間に皺が寄る。
『なぜなら、床板が一枚浮いているからです』
裕衣がすぐに女官へ目配せする。
「今夜のうちに直しましょう」
『それから、南庭の柿が二つ落ちます』
「それは未来と言うほどのこと?」と誰かが呟く。
『熟れています』
あちこちから笑いがこぼれた。
『西殿の姫は、来月、故郷から手紙を受け取ります』
西殿の若い后妃が息を呑む。
『侍女が昨日、使者へ返書を託しました。返事が来るでしょう』
后妃の目が潤み、隣の侍女がそっと笑った。
屏風の声は続く。
『未来は、どこか遠くから落ちてくるものではありません』
『誰かが気づいたこと。誰かが言葉にしたこと。誰かが選んだこと。その先に、明日があります』
沙綾香は息を忘れた。
絵の月が、まるで笑っているように見えた。
『だから、わたしは未来を決めません』
『聞こえにくい声を、少しだけ大きくします』
広間には長い沈黙が落ちた。
最初に拍手したのは裕衣だった。
次に誰かが手を叩き、また一人、また一人と続く。
やがて後宮中が、柔らかな拍手に包まれた。
沙綾香は胸が熱くなった。
うまく直せたからだけではない。
この屏風の中に、三日間で見た笑顔や、聞いた願いや、誰かが誰かを気遣った時間が重なっている。
自分一人では描けなかった絵だ。
拍手が収まりかけたとき、屏風が最後に言った。
『そして、次に后となる者は――』
空気が凍った。
沙綾香は目を見開く。
「ちょっと待って、それは!」
『月の絵を持つ者ではありません』
后妃たちが一斉に身を乗り出す。
『あれは三月前、「月餅を持つ者」と言おうとして、声が混ざりました』
沈黙。
「月餅?」
『はい。厨房の者が、「次に来る者へ月餅を持たせる」と話していました』
誰かが吹き出した。
次の瞬間、広間は大笑いになった。
月の簪を特注した后妃は机へ突っ伏し、月の刺繍を三十枚縫った侍女は腹を抱え、花織ですら口元を押さえている。
裕衣は涙を拭きながら言った。
「では、月の装飾を大量に注文した請求書は、誰へ回しましょう」
『申し訳ありません』
「屏風に払える?」
『無理です』
「でしょうね」
その夜、紫霞後宮では遅くまで笑い声が絶えなかった。
【終】
「何の?」と一帆。
「この屏風に溜まった言葉の」
沙綾香は匿名で集めた紙の束を持ち上げた。
「聞いただけで終わらせない。叶うものも叶わないものも、明日どうするかを一つずつ決めてもらう」
裕衣がすぐに意図を汲んだ。
「願いの先に、行動を置くのですね」
「はい。『故郷の漬物が食べたい』なら、作り方を聞く。『文字を習いたい』なら、先生を決める。『踊りたい』なら、誰も笑わない場所でまず一曲踊る」
「『朝の鐘が早い』は?」
「花織さんに相談」
「私へ押しつけないでください」
「でも調整できるの花織さんだけです」
「……検討します」
その夜、眠っていた者まで起こすようなことはしなかった。
まだ起きていた者だけが広間へ集まり、自分の紙を持っていたい者は持ち、手放したい者は中央の箱へ入れた。
名前は名乗らなくていい。
ただ、「明日できる一歩」があるなら、それだけ口にする。
「妹へ手紙を書く」
「舞の稽古場を借りたいと頼む」
「同室の子へ、夜中の歯ぎしりがすごいって言う」
「それは早く言ってください」
花織の一言で笑いが起きた。
「姫さまに、毎晩髪を百回梳くのは腕がつらいと申し上げる」
「七十回にしましょう」と、奥から后妃本人の声がした。
「聞いていらしたのですか!」
「今、聞いたわ」
また笑いが広がる。
次第に、屏風から滲んでいた墨色の霞が薄くなった。
言葉が消えたのではない。
それぞれの持ち主へ戻っていくように見えた。
最後まで中央に残った紙が一枚あった。
誰のものかわからない。
『自分には何の価値もない気がする』
誰もすぐには口を開かなかった。
すると裕衣が、紙を箱から取り上げずに言った。
「これは、明日一日で答えを出さなくてよい願いですね」
花織が頷く。
「一人で答えを出す必要もありません」
一帆も言った。
「眠れない日や食べられない日が続くなら、薬師へ来てください。気持ちのことでも構いません」
沙綾香は紙の横に、小さな丸を一つ描いた。
「これは何です?」
誰かが尋ねる。
「月」
「丸だけですが」
「今から描き足すの。途中の月」
沙綾香は笑った。
「価値があるかどうか、今日決めなくていいでしょう。絵だって途中なら、何になるかわからないもの」
屏風が、ふっと静かになった。
黒雲の下から銀の月が現れる。
その場にいた誰かが、声を殺して泣いた。
誰も探さなかった。
ただ少しだけ、人と人との間隔が近くなった。
翌朝、中央の箱に残っていた紙はなくなっていた。
代わりに、沙綾香が描いた途中の月の横へ、小さな文字が書き足されていた。
『もう少し考えてみる』
沙綾香はその文字を見て、何も言わずに笑った。
最後に、沙綾香は月へ銀の欠片を戻した。
一帆が隣で灯りを持つ。
「手、震えてる」
「緊張してるの」
「支えようか」
「今触ったら線が曲がる」
「じゃあ終わってから」
「何を支えるの」
「君」
沙綾香は危うく本当に線を曲げるところだった。
「そういうこと、作業中に言わないで!」
「すみません」
『言うようになりました』
「屏風も黙って!」
ついに観月の夜が来た。
空には雲一つなく、満月が後宮の屋根を白く照らしている。
修復された月影屏風は、広間の正面に置かれた。
古い絵の風格を残しながら、新しく加えられた細部が不思議な温かさを生んでいる。
帝は姿を見せず、御簾の向こうから眺めるだけだった。
后妃、女官、侍女たちは息を潜めて待つ。
やがて、月の光が屏風の銀へ届いた。
絵の中の月が淡く光る。
沙綾香は胸の前で手を握った。
一帆が少し後ろに立っている。
そして、屏風が囁いた。
『今夜、未来を告げます』
ざわめきが走る。
『明日の朝、東の廊下で、誰かが転びます』
しん、と静まった。
花織の眉間に皺が寄る。
『なぜなら、床板が一枚浮いているからです』
裕衣がすぐに女官へ目配せする。
「今夜のうちに直しましょう」
『それから、南庭の柿が二つ落ちます』
「それは未来と言うほどのこと?」と誰かが呟く。
『熟れています』
あちこちから笑いがこぼれた。
『西殿の姫は、来月、故郷から手紙を受け取ります』
西殿の若い后妃が息を呑む。
『侍女が昨日、使者へ返書を託しました。返事が来るでしょう』
后妃の目が潤み、隣の侍女がそっと笑った。
屏風の声は続く。
『未来は、どこか遠くから落ちてくるものではありません』
『誰かが気づいたこと。誰かが言葉にしたこと。誰かが選んだこと。その先に、明日があります』
沙綾香は息を忘れた。
絵の月が、まるで笑っているように見えた。
『だから、わたしは未来を決めません』
『聞こえにくい声を、少しだけ大きくします』
広間には長い沈黙が落ちた。
最初に拍手したのは裕衣だった。
次に誰かが手を叩き、また一人、また一人と続く。
やがて後宮中が、柔らかな拍手に包まれた。
沙綾香は胸が熱くなった。
うまく直せたからだけではない。
この屏風の中に、三日間で見た笑顔や、聞いた願いや、誰かが誰かを気遣った時間が重なっている。
自分一人では描けなかった絵だ。
拍手が収まりかけたとき、屏風が最後に言った。
『そして、次に后となる者は――』
空気が凍った。
沙綾香は目を見開く。
「ちょっと待って、それは!」
『月の絵を持つ者ではありません』
后妃たちが一斉に身を乗り出す。
『あれは三月前、「月餅を持つ者」と言おうとして、声が混ざりました』
沈黙。
「月餅?」
『はい。厨房の者が、「次に来る者へ月餅を持たせる」と話していました』
誰かが吹き出した。
次の瞬間、広間は大笑いになった。
月の簪を特注した后妃は机へ突っ伏し、月の刺繍を三十枚縫った侍女は腹を抱え、花織ですら口元を押さえている。
裕衣は涙を拭きながら言った。
「では、月の装飾を大量に注文した請求書は、誰へ回しましょう」
『申し訳ありません』
「屏風に払える?」
『無理です』
「でしょうね」
その夜、紫霞後宮では遅くまで笑い声が絶えなかった。
【終】


