後宮絵師は、七年ぶりの初恋に笑う――未来を囁く月影屏風

第5話 みんなの月


翌朝、月影屏風はとうとう会話を始めた。

『長く聞きすぎました』

「何を?」と沙綾香。

『みなの声を』

「あなた、意思があるの?」

『少しだけ』

 声は性別も年齢もわからない、不思議に澄んだものだった。

 銀の欠片を屏風の月へ近づけて仮留めしたことで、ばらばらだった声の境目が戻り始め、本来のわずかな意思も表へ出られるようになったらしい。

『昔は、願いを一つずつ聞きました。けれど月の欠片が離れ、境がなくなりました。声が多すぎて、どれが大切かわからなくなりました』

「それで片っ端から喋ってたのね」

『はい』

「栗餡が食べたい、も?」

『とても強い願いでした』

 裕衣が真顔で頷く。

「食欲は侮れません」

 花織が小声で言う。

「昨日、厨房へ栗餡を増やすよう伝えました」

『ありがとうございます』

「礼を言うのね……」

 沙綾香は頭を抱えたくなった。

 だが、これで修復の道筋は見えた。

 銀の欠片を月の部分へ戻し、溜まりすぎた感情の色を薄める。そのうえで、本来の役割――「言葉にできない重要な気づきを拾い、持ち主へ返す」仕組みを描き直す。

 難しいが、不可能ではない。

 問題は、三日後に予定されている観月の宴までに間に合わせなければならないことだった。

「三日?」

 沙綾香は裕衣を見た。

「聞いてません」

「今、申し上げました」

「そういう意味じゃありません!」

「大丈夫です。眠くなったら一帆殿が止めます」

「僕の仕事が増えてませんか?」

「増えています」

「即答」

 花織が予定表を差し出す。

「沙綾香殿は昼に三刻、夜に二刻まで。食事休憩は必須。一帆殿は薬務の合間に体調確認。私が進行を見ます」

「厳しい」

「倒れられるよりましです」

「でも三日じゃ――」

 花織は紙の束をもう一つ差し出した。

 そこには後宮の女たちから寄せられた、小さな絵や文様が描かれていた。

 梅、猫、故郷の山、好きな菓子、家族の顔、井戸端の桶、庭の石、針箱。

「修復に使えるものがあれば、と皆が」

 沙綾香は言葉を失った。

「月の絵だけを戻すのではなく」裕衣が言う。「この後宮で暮らす者たちの今を、少し混ぜていただけませんか」

 沙綾香は屏風を見た。

 古い月影屏風は美しい。

 けれど美術品は、古ければ古いほど触れてはいけないもの、というわけではない。

 この屏風は昔から、人の願いを受け取ってきた。

 ならば今の願いを描き足すことは、壊すことではなく、役目を継ぐことなのかもしれない。

「やります」

 沙綾香は笑った。

「三日で、みんなの月にします」

 そこからの三日間は、後宮始まって以来の騒々しさだった。

 沙綾香が下絵を描き、絵具を練る。

 花織が人の出入りを整え、必要な道具を揃える。

 裕衣が各所の仕事を調整し、手の空いた者を手伝いへ回す。

 一帆は薬師なのに、なぜか膠を温め、絹を押さえ、沙綾香が食事を忘れるたびに箸を持たせた。

「口を開けて」

「子どもじゃない」

「手が絵具だらけ」

「置いといて」

「冷める」

「じゃあ一口だけ」

「はい」

 差し出された芋の煮物を食べた瞬間、屏風が囁く。

『夫婦のよう』

「あなた、修復中だけ黙れない?」

『努力します』

「努力でどうにかなるの?」

『たぶん』

 一帆が笑いをこらえている。

「一帆も笑わない!」

「ごめん」

『楽しそう』

「ほら!」

「これは僕のせいじゃない」

 夜が深くなると、后妃たちまで見に来た。

 最初は月の予言を気にしていた者たちも、今では自分の描いた小さな文様がどこへ入るのか楽しみにしている。

「その猫、私のよ」

「まあ、ずいぶん丸い猫ですこと」

「丸いのが可愛いのです」

「こちらの梅は?」

「北国出身の侍女が描いたそうです」

「では雪を少し足しては?」

 あれこれ意見が飛ぶ。

 沙綾香は、それを聞くのが楽しかった。

 芸術は一人で完成させるものだと思っていた時期もある。

 けれど、誰かの思いつきが別の誰かの線へつながり、思いもしなかった景色になることがある。

 月の下の薄野には、小さな道を加えた。

 道の先には梅林。

 梅林の向こうには故郷の山々。

 草むらには丸い猫が一匹。

 池には蓮。

 遠くの屋根には、洗濯物まで小さく描いた。

「宮中の霊宝に洗濯物を描いた絵師は、あなたが初めてでしょうね」

 花織が言う。

「生活感って大事ですよ」

「后宮の権威は?」

「干して乾くものには勝てません」

 裕衣が吹き出した。

 ところが、観月の前夜になって、屏風は突然ひどく騒ぎ始めた。

 月が満ちるにつれ、銀泥が淡く明滅し、声が重なって聞こえる。

『眠い』
『帰りたい』
『負けたくない』
『ありがとうと言いたい』
『あの菓子をもう一つ』
『怖い』
『踊りたい』
『名前で呼んでほしい』
『ひとりにしないで』

 声は一つずつなら小さいのに、何十、何百と重なると波のようだった。

 屏風の黒雲の部分から、墨色の霞が滲み出す。

 沙綾香が触れようとすると、一帆が腕をつかんだ。

「待って。熱い」

「絵が?」

「霊石が熱を持ってる」

 花織が駆け込んでくる。

「廊下でも声が聞こえます。女官たちが不安がっています」

 裕衣もすぐに現れた。

「宴を明日に控えて、皆の気持ちが大きく動いているのでしょう」

 沙綾香は屏風を見つめた。

「違う。これ、修復が足りないんじゃない」

「では?」

「私、溜まった色を薄めることばかり考えてた。でも、ここにあるのは汚れじゃない。何代もの人が言えなかった言葉なのよ。勝手に消していいものじゃない」

 絵師としてなら、濁りを落とし、古い色を整えるのが正しい。

 けれど月影屏風は、ただの絵ではなかった。

 人の声を受け止めてきた器だ。

 沙綾香は昔、一帆に言われた言葉を思い出した。

 ――君の絵は、見た人がその続きを想像したくなる。

「続きを描けばいい」

【終】