後宮絵師は、七年ぶりの初恋に笑う――未来を囁く月影屏風

第4話 七年越しの手紙


「では、どうする?」

「吐き出してもらいます」

 花織が嫌そうな顔をした。

「まさか、後宮中の本音を一度全部喋らせる、と?」

「それをやったら国が傾きます」

「自覚があって安心しました」

「別の方法です」

 沙綾香は立ち上がった。

「みんなに、自分で話してもらうんです」

 その日の午後、紫霞後宮に奇妙なお触れが出た。

『月影屏風修復のため、后妃・女官・侍女を問わず、一人につき一つだけ、「誰にも言わずに我慢していること」を紙へ書くこと。名は不要。小さなことほど歓迎』

 花織は最後まで反対した。

「匿名の不満を集めてどうするのです。収拾がつかなくなります」

「不満だけじゃありません。願いでも、困り事でもいいんです」

「『夕餉の豆が固い』が百枚来たら?」

「厨房に伝えます」

「『花織が怖い』が百枚来たら?」

「……慰めます」

「沙綾香殿」

「冗談です!」

 だが、始めてみると紙は驚くほど集まった。

『朝の鐘が早すぎる』
『姫さまが夜更かしするので私も眠い』
『故郷の漬物が食べたい』
『文字をもっと習いたい』
『舞が好きなのに、人前では下手だと笑われそうで踊れない』
『帝のお渡りがなくても、毎日機嫌よく暮らしたい』
『妹の結婚を祝いたい』
『花織さまは怖いが、困ったとき一番先に来てくださるので好き』

 最後の一枚を読んだ花織は、しばらく無言だった。

「よかったですね」

 沙綾香が言う。

「何がです」

「好きだって」

「怖いとも書いてあります」

「両立するんですよ、人の気持ちは」

「……覚えておきます」

 少しだけ耳が赤くなった花織を見て、裕衣が楽しそうに笑う。

 集めた紙は、ただ読むだけでは終わらせなかった。

 裕衣が内容を分け、すぐ直せるものはその場で直した。

 朝の鐘は半刻遅くできないか調整し、厨房には故郷の味を再現できる日を設け、文字を学びたい者には読み書きの得意な女官を紹介した。

 大きな願いはすぐ叶わなくても、「誰かが聞いた」とわかるだけで、人々の表情は少し変わった。

 屏風に見える色も、一日ごとに薄くなっていった。

「すごい」

 夜、沙綾香は銀泥を練りながら呟いた。

「昨日まで濁っていた紫が、透けてきてる」

 一帆が向かいで薬研を引いている。

「人の心って、話すだけで変わるんだね」

「全部じゃないけどね」

「うん」

「話しても変わらないこともあるし、話したら余計につらいこともある」

「それでも、言わなければ相手には伝わらない」

 一帆の手が止まった。

 沙綾香も筆を止めた。

 静かな部屋に、薬研の石が最後に一度だけ鳴る。

「……それ、私に言ってる?」

「自分に」

 一帆はそう答えた。

 それから、深く息を吸った。

「七年前のこと、話していい?」

 沙綾香は胸の前で手を組んだ。

「屏風が黙る前だけど」

「もう待つと、また七年かかりそうだから」

「それは困る」

「僕も」

 一帆は薬研から手を離した。

「父が倒れたんだ。都の薬師に診せるため、家族で急に発つことになった」

「……知らなかった」

「言えなかった。あの日、君に会いに行くつもりだった。でも父の容体が急変して、夜明け前に村を出た」

「手紙は?」

「書いた」

「一通も来てない」

「三通送った」

「三通?」

「最初は、村へ戻るという行商人に預けた。返事がなくて、二通目と三通目は都の薬種商の定期便に託した。だから、届いていると思ってた」

「最初の行商人、名前は?」

「熊吉さん」

 沙綾香は額を押さえた。

「……薬種商の便も、峠の下から先は熊吉さんに荷を預けるのよ」

「え?」

「熊吉さん、字がほとんど読めないうえに方向音痴!」

「待って」

「去年もうちの村へ来るつもりで、二つ隣の郡まで行ってた!」

 一帆は両手で顔を覆った。

「三通とも、最後は熊吉さんの手に……」

「たぶん」

「七年……」

「七年よ」

「熊吉さん……」

「悪気だけは絶対にないわ」

「それが一番つらい」

 沙綾香は、笑ってはいけないと思った。

 思ったのに、一帆が本気で打ちひしがれている顔がおかしくて、肩が震えた。

「笑ってる?」

「だって……三通全部……」

「僕は三通目なんて、かなり恥ずかしいことまで書いたんだよ」

「何を書いたの?」

「言わない」

「そこまで言ったら教えて」

「絶対に嫌だ」

「屏風に聞こうかな」

「やめて」

 沙綾香はとうとう声を上げて笑った。

 七年間、胸の中で固まっていたものが、笑うたびに少しずつほどけていく。

 一帆もやがて笑った。

「……沙綾香」

「なに?」

「会いたかった」

 笑いが止まった。

 一帆はまっすぐ彼女を見ていた。

「都へ来てからも、ずっと。父が落ち着いて、薬師の修業に入って、それでも村へ帰れる時期が合わなくて。ようやく戻ったときには、君が絵の仕事で旅に出た後だった」

「私も、何度かあなたの家へ行った」

「母から聞いた」

「じゃあ、どうして探しに来なかったの」

「怖かった」

 意外な言葉だった。

「一帆が?」

「僕だって怖いよ。七年も返事がなかった相手に会って、『待っていた』なんて言えるほど強くない」

 沙綾香は、七年前の一帆を思い出した。

 優しくて、落ち着いていて、何でも受け止めてくれるように見えた少年。

 けれど彼にも迷いや不安があったのだ。

 自分は一帆が何も言わなかったことばかり責めていた。

 自分だって、怒っている、寂しかった、会いたかった――そのどれも、本人には言っていなかった。

「……私も怖かった」

「うん」

「置いていかれたんだと思った」

「ごめん」

「すごく腹が立った」

「うん」

「今も少し腹が立ってる」

「それは受け入れる」

「でも」

 沙綾香は、ゆっくり笑った。

「会えて、嬉しい」

 一帆の顔が、子どものころのようにほどけた。

 その瞬間、背後の屏風が囁いた。

『抱きしめればいいのに』

 二人は同時に振り向いた。

「……誰よ今の!」

 屏風の向こうから、何かが倒れる音がした。

 沙綾香が回り込むと、そこには裕衣と花織がいた。

「裕衣さま?」

「通りかかっただけです」

「花織さん?」

「裕衣さまに連行されました」

「聞いてました?」

「途中から」

「どこから?」

 裕衣がにこやかに答える。

「三通とも熊吉さんの手に渡ったあたりから」

「ほぼ全部!」

 沙綾香が真っ赤になる横で、一帆は天井を仰いだ。

 花織が屏風を指す。

「ともあれ、今の囁きは私ではありません」

「私でもありませんよ」

「じゃあ誰ですか!」

『わたしです』

 屏風自身が答えた。

 四人が凍りついた。

【終】