後宮絵師は、七年ぶりの初恋に笑う――未来を囁く月影屏風

第3話 月影屏風の本当の役目


『会いたい』

 また声がした。

 今度は男の声だった。

 沙綾香の心臓が跳ねる。

 一帆は屏風を見たまま、静かに息を吐いた。

「……やっぱり、余計なお世話だね」

「あなたの?」

「さあ」

「またそれ!」

「仕事が終わったら話すって言った」

「その仕事がいつ終わるのよ」

「屏風が黙ったら」

 そのとき、さっきの藍色の糸が再び沙綾香の目に見えた。

「待って」

「どうした?」

「『故郷へ帰りたい』って声。まだ色が残ってる。たどれるかもしれない」

 夜の後宮を歩くには決まりがある。一帆の通行札だけでは足りない。事情を聞いた花織が夜番の女官を一人つけ、三人で動くことになった。灯りは一帆が持ち、女官は少し後ろを歩く。

 藍の糸は渡り廊下を曲がり、洗い場の脇を抜け、女官たちの宿舎へ続いていた。三人が足を止めたのは、一番端の小部屋だった。

 中から、紙をこする音がする。

「誰か起きてる」

 一帆が戸を叩いた。

 出てきたのは、まだ十六、七ほどの若い侍女だった。沙綾香たちを見るなり青ざめる。

「申し訳ございません、灯りはすぐ消します!」

「違うの。叱りに来たんじゃない」

 沙綾香はできるだけ声を柔らかくした。

「今、誰かに会いたいと思ってた?」

 侍女の顔がこわばった。

 机には書きかけの手紙があり、脇に古い御守りが置いてある。

「……祖母が、病だと」

 ぽつりと答えた。

「故郷から知らせが届きました。でも、入ったばかりで休みを願い出るなんて、わがままだと思って」

「誰にそう言われたの?」

「誰にも。ただ、みんな忙しいので」

 沙綾香は一帆を見る。

 一帆はすぐに問いかけた。

「祖母君の病状はわかる?」

「熱が続いている、とだけ」

「明日、文を見せて。必要なら薬師として返事を書く。休みのことは裕衣さまへ相談しよう」

「でも……」

「困っていることを伝えるのは、わがままじゃないよ」

 一帆の言葉に、侍女は唇を震わせた。

「私、帰りたいって言ったら、ここにいられなくなる気がして……」

「帰りたいと、辞めたいは別でしょう」

 沙綾香が言うと、侍女は目を丸くした。

「故郷へ帰って、お祖母さまの顔を見て、それから戻ってきたいんじゃない?」

 しばらくして、小さく頷いた。

「なら、そう言えばいいの。少なくとも、屏風に先に言われるよりは格好いいわ」

 侍女が泣きながら笑った。

 翌朝、裕衣へ話すと、休みはあっけないほど認められた。

「人が一人、数日抜ける程度で立ち行かなくなるなら、割り振りのほうを直すべきです」

 裕衣はそう言い、帰郷のための馬車まで手配した。

 侍女は何度も頭を下げたあと、三日で戻ると自分から約束した。

 その背を見送って、沙綾香は思った。

 屏風が拾っているのは、秘密そのものではない。

 言えずに行き場をなくした言葉だ。

 その言葉があまりに増えたから、未来の囁きは、現在の囁きに埋もれてしまった。

 夜、再び屏風の前へ戻ると、一帆がぽつりと言った。

「僕も、言えずに行き場をなくした言葉がある」

 沙綾香は横目で見る。

「七年もの?」

「うん」

「熟成しすぎ」

「自覚してる」

『抱きしめたい』

「今すぐ黙らせる!」

 沙綾香は布をつかんで屏風へかぶせようとした。

 一帆が慌てて止める。

「待って、御物!」

「この口の軽い霊宝をどうにかして!」

「僕に言われても!」

 二人が布の端を引っ張り合っているところへ花織が現れた。

「何をしているのです」

「屏風を寝かしつけています」

「沙綾香が霊宝を窒息させようとしてる」

「一帆!」

 花織は二人を交互に見た。

「仲がよろしいことで」

「よくありません!」

「よくないです」

「はいはい」

 翌朝、三人は北の蔵へ向かった。

 案内役は花織だったが、途中から裕衣も加わった。

「面白そうでしたので」

「裕衣さま、内廷のお仕事は」

「終わらせました」

「早すぎません?」

「人に任せられる仕事を抱え込むと、皆が育ちませんから」

 花織が小声で「私は三つ増えました」と呟いた。

「聞こえていますよ」

「聞こえるように申し上げました」

 北の蔵は後宮の隅、古い梅林の奥にあった。

 屋根は修繕されているが、壁には雨染みが残っている。

 月影屏風が置かれていた跡だけ、床板の色が四角く違っていた。

 沙綾香は膝をつき、床へ手を触れる。

 冷たい木の感触。

 そして、淡い銀色。

「ここ……何かある」

 一帆が周囲を調べ、床板の隙間へ細い匙を差し込んだ。

「動く」

 花織が眉をひそめる。

「勝手に剥がしてよい床でしょうか」

 裕衣が即答した。

「後で私が怒られます。剥がしましょう」

「判断が潔すぎます」

 四人で床板を持ち上げると、その下から平たい木箱が出てきた。箱の蓋は少しずれ、その脇の隙間に、小さな銀の欠片が落ち込んでいる。

 箱に収められていたのは古びた冊子だった。銀の欠片は半月の形をしており、縁には新しい擦れが残っている。屏風を北の蔵から運び出した際に外れ、床板の隙間へ落ちたのだろう。異変が始まった時期とも合う。

 沙綾香が触れた瞬間、視界が白く弾けた。

 誰かが笑っている。

 遠い昔の女たち。

 屏風の前で、髪を結い合い、菓子を分け、泣いている友の背を撫でている。

 別の場面では、病床の少女を囲み、皆で「元気になったら何をしたい」と話している。

 その願いが、月影屏風へ吸い込まれていく。

 未来を当てるためではない。

 言葉にした願いを、忘れないために。

「沙綾香!」

 一帆の声で意識が戻った。

 気づけば彼の腕に支えられていた。

「大丈夫?」

「……近い」

「倒れたから」

「それでも近い」

「離したら倒れる」

「じゃあ、少しだけそのまま」

 言ってから、沙綾香は自分で赤くなった。

 一帆は何もからかわず、ただ少しだけ腕に力を入れた。

「何が見えたのです?」

 裕衣に促され、沙綾香は見たものを説明した。

 花織が冊子を開く。

「古い日記のようです」

 紙は黄ばみ、文字も崩れている。だが裕衣はゆっくり読み上げた。

「『月守の絵は、未来を決めるものにあらず。心の行く先を照らすものなり。願いは口にして初めて道となる』……」

 一帆が銀の欠片を見る。

「これが月の一部?」

 沙綾香は頷いた。

「たぶん屏風の銀泥に混ぜるための霊石。でも、今の屏風からは欠けてる」

 花織が冊子の後半をめくった。

「三十年前の記録があります。『北門を閉ざせ』……当時の女官が、数日前から山鳴りを聞いていた、と」

「十六年前の『赤子の寝床を移せ』も」裕衣が続けた。「梁の軋みに気づいていた乳母が、身分の高い方へ言い出せずにいた、とあります」

 沙綾香は息を呑んだ。

「じゃあ、未来を見ていたんじゃない」

 一帆が頷く。

「誰かが気づいていた危険や願いを拾って、言葉にしていたんだ」

「でも、今は拾いすぎてる」

 沙綾香は銀の欠片を掌に乗せた。

「本来は、屏風の前で強く願ったことや、放っておけば誰かが困る気づきだけを受け取っていた。でも移動のときにこの欠片が外れて、後宮中の声を無差別に拾うようになったのかもしれない」

「直せますか?」

 裕衣の問いに、沙綾香は少し考えた。

「欠片を戻すだけなら。でも……今の屏風に溜まった色が多すぎます。このまま封じれば、またどこかで歪む」

【終】