第2話 後宮に響く、言えない声
「で、どう?」
一帆が尋ねた。
沙綾香は屏風の前に膝をつき、裂け目へ指を近づけた。
「変ね」
「どこが?」
「普通、古い絵には描いた人の色が残るの。大事にされていれば、見た人の色も薄く重なる。でもこれは……重なりすぎてる」
絹地の向こうに、無数の色が渦巻いている。
羨望の緑。寂しさの藍。苛立ちの赤。諦めの灰。小さな期待の桃色。言えなかった言葉、飲み込んだ願い、笑顔の裏で押し込めた不満。
それらが長い年月をかけて、黒雲のように月を覆っていた。
「不満が心を曇らせる、って言うけれど」
沙綾香は呟いた。
「この屏風、本当に曇ってる」
一帆も横にしゃがむ。
「直せそう?」
「表面の裂け目だけなら。でも声の乱れは、絵具を塗れば終わりって話じゃないわね」
「原因は?」
「まだわからない」
『言えばいいのに』
屏風が囁いた。
沙綾香は固まった。
一帆も黙った。
「……これは誰の心?」
「さあ」
「あなたじゃないでしょうね」
「僕だったら?」
思わず顔を上げる。
一帆は昔から、こういうときだけずるい。
穏やかで、相手を急かさず、けれど逃げ道を一つだけ残して問い返す。
「だったら、七年前に言いなさいよ」
「そうだね」
笑いもせず、一帆は答えた。
沙綾香は拍子抜けした。
「……否定しないの?」
「今は仕事中だから」
「何よ、それ」
「仕事が終わったら話す」
「七年前もそう言って、いなくなったじゃない」
一帆の表情から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
だが彼が何か言う前に、廊下の向こうから猛烈な足音が近づいてきた。
「大変です!」
若い女官が飛び込んでくる。
「月の髪飾りを巡って、東殿と西殿で言い争いが!」
「髪飾りで?」
「正確には、同じ職人へ同じ意匠を注文した件でございます!」
一帆が立ち上がった。
「怪我人は?」
「今のところはおりません。ただ、扇が一枚、池へ」
「扇で済んでよかった」
「よくないわよ」
沙綾香は額を押さえた。
この後宮、思っていたよりずっと忙しい。
東殿と西殿の騒ぎは、裕衣の判断であっさり収まった。
「同じ月なら、並べれば満月になります」
裕衣は二人の后妃へそう言い、左右対称になるよう髪飾りをつけさせてしまったのである。
「お二人ともお似合いです。今夜は並んでお歩きになれば、どちらが上かという不毛な争いも、『二つで一つの意匠です』で終わります」
にこやかに言われ、后妃たちは互いに顔を見合わせた末、なぜか吹き出した。
その場にいた沙綾香は感心した。
裕衣は四十前後の女で、華美ではないが清潔な浅葱色の衣をまとい、いつもよく笑う目をしている。内廷の人員配置から食事、衣、警備、医薬の連携まで見渡す立場にあり、判断が速い。
「争いというものは、勝敗をつけるより、勝負そのものを別の形にしてしまうほうが早い場合があります」
戻る廊下で裕衣は言った。
「覚えておくと便利ですよ」
「絵にも使えますか?」
「もちろん。描けない部分を消すのではなく、構図に組み込めばよろしいのです」
沙綾香は目を輝かせた。
「それ、好きです」
「でしょう?」
そこへ花織が口を挟む。
「ただし、失敗した線を全部『味です』で済ませるのは禁止です」
「……見てました?」
「朝から三回」
「三回も?」
「三回です」
裕衣が声を立てて笑った。
紫霞後宮へ来てまだ二日だが、沙綾香は少しだけこの場所を好きになり始めていた。
外から見れば、后妃たちが美しい衣を競い、帝の寵愛を待つ閉ざされた場所に見える。だが中には、笑う人も、働く人も、腹を立てる人も、故郷を恋しがる人もいる。
誰もが「后宮の女」という一枚の絵ではない。
それぞれに違う色を持っている。
問題は、月影屏風がその色を勝手に読み上げてしまうことだった。
その夜、沙綾香は屏風の前に布団を敷いた。
「本当にここで寝るの?」
薬箱を持って様子を見に来た一帆が呆れた顔をする。
「夜中の声を聞きたいもの」
「寝不足になるよ」
「絵師は納めの日が迫れば三晩くらい起きられる」
「自慢することじゃない」
「薬師に説教される筋合いはないわ」
「薬師だから言ってる」
一帆は小さな包みを差し出した。
「眠気覚まし?」
「逆。眠るための香」
「話を聞いてた?」
「聞いてたから渡す。無理して起きていて、明日ふらついて屏風へ頭から突っ込まれたら困る」
「そこまで間抜けじゃありません」
「昔、橋の欄干から川に落ちた」
「あなたが蛙を投げたからでしょう!」
「投げてない。見せただけ」
「顔の前に!」
「今も蛙は苦手?」
「その質問に答える必要ある?」
言いながら、沙綾香は香包みを受け取った。
白檀に柚子皮を混ぜたような、やわらかな匂いがする。
昔、一帆の家の縁側で嗅いだ香りに似ていた。
「……これ、あなたのお母さまが使ってた配合?」
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょう。私が夜中まで絵を描いてると、いつも焚いてくれたもの」
一帆は目を細めた。
「母も喜ぶ」
「元気?」
「うん。父も」
「そう」
本当はもっと聞きたいことがあった。
なぜ七年前、突然都へ行ったのか。
なぜ手紙を一通もくれなかったのか。
なぜ今、何事もなかったような顔で薬師をしているのか。
けれど聞けば、七年分の自分の寂しさまで口からこぼれそうで、沙綾香は黙った。
一帆も何も言わない。
沈黙を破ったのは、屏風だった。
『本当は、故郷へ帰りたい』
二人は顔を上げる。
声は若い女のものだった。
続いて、かすかなすすり泣きがした。
沙綾香は屏風に近づいた。
「一帆、今の、未来じゃない」
「うん」
「誰かの気持ちだわ。しかも……近くにいる人じゃない」
色をたどる。
絹地の奥から細い藍色の糸が伸び、壁の向こうへ続いているように見えた。
「この屏風、後宮中の感情を拾ってる」
一帆の顔が引き締まる。
「どうして急に?」
「わからない。でも、三か月前に何か変わったはず」
「三か月前……」
一帆は考え込んだ。
「屏風を移した」
「どこから?」
「北の蔵。雨漏りが見つかって、ここへ」
「元の場所を見たい」
「明日、裕衣さまに頼もう」
【終】
「で、どう?」
一帆が尋ねた。
沙綾香は屏風の前に膝をつき、裂け目へ指を近づけた。
「変ね」
「どこが?」
「普通、古い絵には描いた人の色が残るの。大事にされていれば、見た人の色も薄く重なる。でもこれは……重なりすぎてる」
絹地の向こうに、無数の色が渦巻いている。
羨望の緑。寂しさの藍。苛立ちの赤。諦めの灰。小さな期待の桃色。言えなかった言葉、飲み込んだ願い、笑顔の裏で押し込めた不満。
それらが長い年月をかけて、黒雲のように月を覆っていた。
「不満が心を曇らせる、って言うけれど」
沙綾香は呟いた。
「この屏風、本当に曇ってる」
一帆も横にしゃがむ。
「直せそう?」
「表面の裂け目だけなら。でも声の乱れは、絵具を塗れば終わりって話じゃないわね」
「原因は?」
「まだわからない」
『言えばいいのに』
屏風が囁いた。
沙綾香は固まった。
一帆も黙った。
「……これは誰の心?」
「さあ」
「あなたじゃないでしょうね」
「僕だったら?」
思わず顔を上げる。
一帆は昔から、こういうときだけずるい。
穏やかで、相手を急かさず、けれど逃げ道を一つだけ残して問い返す。
「だったら、七年前に言いなさいよ」
「そうだね」
笑いもせず、一帆は答えた。
沙綾香は拍子抜けした。
「……否定しないの?」
「今は仕事中だから」
「何よ、それ」
「仕事が終わったら話す」
「七年前もそう言って、いなくなったじゃない」
一帆の表情から、ほんの少しだけ笑みが消えた。
だが彼が何か言う前に、廊下の向こうから猛烈な足音が近づいてきた。
「大変です!」
若い女官が飛び込んでくる。
「月の髪飾りを巡って、東殿と西殿で言い争いが!」
「髪飾りで?」
「正確には、同じ職人へ同じ意匠を注文した件でございます!」
一帆が立ち上がった。
「怪我人は?」
「今のところはおりません。ただ、扇が一枚、池へ」
「扇で済んでよかった」
「よくないわよ」
沙綾香は額を押さえた。
この後宮、思っていたよりずっと忙しい。
東殿と西殿の騒ぎは、裕衣の判断であっさり収まった。
「同じ月なら、並べれば満月になります」
裕衣は二人の后妃へそう言い、左右対称になるよう髪飾りをつけさせてしまったのである。
「お二人ともお似合いです。今夜は並んでお歩きになれば、どちらが上かという不毛な争いも、『二つで一つの意匠です』で終わります」
にこやかに言われ、后妃たちは互いに顔を見合わせた末、なぜか吹き出した。
その場にいた沙綾香は感心した。
裕衣は四十前後の女で、華美ではないが清潔な浅葱色の衣をまとい、いつもよく笑う目をしている。内廷の人員配置から食事、衣、警備、医薬の連携まで見渡す立場にあり、判断が速い。
「争いというものは、勝敗をつけるより、勝負そのものを別の形にしてしまうほうが早い場合があります」
戻る廊下で裕衣は言った。
「覚えておくと便利ですよ」
「絵にも使えますか?」
「もちろん。描けない部分を消すのではなく、構図に組み込めばよろしいのです」
沙綾香は目を輝かせた。
「それ、好きです」
「でしょう?」
そこへ花織が口を挟む。
「ただし、失敗した線を全部『味です』で済ませるのは禁止です」
「……見てました?」
「朝から三回」
「三回も?」
「三回です」
裕衣が声を立てて笑った。
紫霞後宮へ来てまだ二日だが、沙綾香は少しだけこの場所を好きになり始めていた。
外から見れば、后妃たちが美しい衣を競い、帝の寵愛を待つ閉ざされた場所に見える。だが中には、笑う人も、働く人も、腹を立てる人も、故郷を恋しがる人もいる。
誰もが「后宮の女」という一枚の絵ではない。
それぞれに違う色を持っている。
問題は、月影屏風がその色を勝手に読み上げてしまうことだった。
その夜、沙綾香は屏風の前に布団を敷いた。
「本当にここで寝るの?」
薬箱を持って様子を見に来た一帆が呆れた顔をする。
「夜中の声を聞きたいもの」
「寝不足になるよ」
「絵師は納めの日が迫れば三晩くらい起きられる」
「自慢することじゃない」
「薬師に説教される筋合いはないわ」
「薬師だから言ってる」
一帆は小さな包みを差し出した。
「眠気覚まし?」
「逆。眠るための香」
「話を聞いてた?」
「聞いてたから渡す。無理して起きていて、明日ふらついて屏風へ頭から突っ込まれたら困る」
「そこまで間抜けじゃありません」
「昔、橋の欄干から川に落ちた」
「あなたが蛙を投げたからでしょう!」
「投げてない。見せただけ」
「顔の前に!」
「今も蛙は苦手?」
「その質問に答える必要ある?」
言いながら、沙綾香は香包みを受け取った。
白檀に柚子皮を混ぜたような、やわらかな匂いがする。
昔、一帆の家の縁側で嗅いだ香りに似ていた。
「……これ、あなたのお母さまが使ってた配合?」
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょう。私が夜中まで絵を描いてると、いつも焚いてくれたもの」
一帆は目を細めた。
「母も喜ぶ」
「元気?」
「うん。父も」
「そう」
本当はもっと聞きたいことがあった。
なぜ七年前、突然都へ行ったのか。
なぜ手紙を一通もくれなかったのか。
なぜ今、何事もなかったような顔で薬師をしているのか。
けれど聞けば、七年分の自分の寂しさまで口からこぼれそうで、沙綾香は黙った。
一帆も何も言わない。
沈黙を破ったのは、屏風だった。
『本当は、故郷へ帰りたい』
二人は顔を上げる。
声は若い女のものだった。
続いて、かすかなすすり泣きがした。
沙綾香は屏風に近づいた。
「一帆、今の、未来じゃない」
「うん」
「誰かの気持ちだわ。しかも……近くにいる人じゃない」
色をたどる。
絹地の奥から細い藍色の糸が伸び、壁の向こうへ続いているように見えた。
「この屏風、後宮中の感情を拾ってる」
一帆の顔が引き締まる。
「どうして急に?」
「わからない。でも、三か月前に何か変わったはず」
「三か月前……」
一帆は考え込んだ。
「屏風を移した」
「どこから?」
「北の蔵。雨漏りが見つかって、ここへ」
「元の場所を見たい」
「明日、裕衣さまに頼もう」
【終】


