第1話 七年ぶりの再会と、余計なお世話な屏風
七年ぶりに一帆を見つけたとき、沙綾香は筆を落とした。
ぽとり、と。朱を含ませた細筆が、磨き上げられた黒石の床に転がる。
「……そこ、踏まないで!」
反射的に叫ぶと、白い薬箱を抱えた青年は片足を宙に浮かせたまま止まった。
廊下の向こうから流れてきた秋風が、薄青の直衣の裾を揺らす。昔より背が伸びていた。肩も広くなった。腰には、内廷医官にだけ許される白木の通行札が下がっている。紫霞後宮では、男が奥へ入れるのは医官や修繕役など、許可を受けた者に限られていた。つまり一帆がここにいること自体は規則どおりだ。沙綾香の心臓に悪いことだけが問題だった。
そして何より、目を伏せたときに頬へ影を落とす、腹立たしいほど長いまつ毛。
「沙綾香?」
「……一帆」
二人は見つめ合った。
七年前、川辺の柳の下で喧嘩別れした相手と、宮城で最も気を遣う場所――帝の后妃たちが暮らす紫霞後宮で再会するなど、誰が想像しただろう。
「久しぶりだね」
一帆が言った。
「そうね」
「元気だった?」
「見ればわかるでしょう」
「相変わらずだ」
「何が」
「怒ると、返事が三文字くらい短くなる」
「踏んでいいわ、その筆」
「七年ぶりに会った幼なじみへ言う言葉かな」
「七年前に何も言わず消えた幼なじみへは、十分に上品よ」
一帆は片足を浮かせたまま、困ったように笑った。
その顔が昔と同じだったから、沙綾香は余計に腹が立った。
「お二人、再会の情緒はあとになさってくださいませ」
背後から凛とした声が飛んできた。
振り向くと、女官長の花織が腕を組んで立っている。端正な顔立ちに、寸分の乱れもない濃紺の衣。初対面の朝、沙綾香が廊下の柱に絵具箱をぶつけたとき、「絵師の腕より先に歩き方を査定したくなりました」と言った人である。
「一帆殿。その筆を拾ってください。ただし朱を袖につけないように。沙綾香殿は、その間に屏風の傷を確認。日暮れまでに、修復可能かどうか判断を」
「はい」
「わかりました」
二人の声が同時に重なった。
花織はほんの少し眉を上げた。
「息は合うのですね」
「合っていません」
「合ってないよ」
また重なった。
花織はため息をつき、くるりと背を向けた。
「裕衣さまに報告してまいります。今夜までに喧嘩で屏風を壊した場合、修理代はお二人で折半です」
「まだ壊してません!」
沙綾香の抗議を背中で受け流し、花織は去っていった。
一帆が床の筆を拾い、懐紙で柄を丁寧に拭く。
「はい」
差し出された筆を、沙綾香は少し迷って受け取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
指先が触れそうになり、二人ともわずかに手を引いた。
たったそれだけで、胸の奥が騒がしくなる。
恋の予感、などという甘ったるい言葉を沙綾香は信じていない。少なくとも、七年前に一度置き去りにされた相手との間に、そんなものが転がっているはずがない。
そう思った直後、背後の屏風から女の声がした。
『また、恋をする』
沙綾香と一帆は同時に振り向いた。
六曲一双の月影屏風。
銀泥の月は黒雲に半ば隠れ、薄野には白い露が描かれている。絹地は古び、ところどころに細い裂け目が走っていた。それなのに、いま確かに、誰もいない屏風の内側から声がした。
一帆が静かに言った。
「これが、未来の囁き」
「……聞いていた話より、ずいぶん余計なお世話ね」
『七年ぶりに』
「黙って!」
沙綾香は屏風へ向かって叫んだ。
一帆が口元を押さえた。
「笑った?」
「いや」
「笑ったでしょう」
「七年ぶりに会った君が、宮中の霊宝と口喧嘩しているから、少しだけ」
「帰る」
「帰らないで。君が帰ると、後宮が困る」
「あなたは困らないの?」
一帆は答えるまで、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「困るよ」
その声があまりに穏やかだったので、沙綾香は次の文句を失った。
紫霞後宮には、代々伝わる三つの霊宝がある。
一つは、夏でも枯れぬ蓮池。
一つは、悪夢を吸う香炉。
そして最後が、月影屏風だった。
月が満ちる夜、その屏風は近くにいる者へ「少し先の未来」を囁くという。
三十年前には「北門を閉ざせ」と囁き、翌朝の山崩れから多くの人を救った。十六年前には「赤子の寝床を移せ」と告げ、その夜に梁が落ちた。それ以来、後宮では月影屏風の声を神意に近いものとして扱ってきた。
ところが三か月ほど前から、様子がおかしくなった。
『あの人より、わたしの髪のほうが艶やか』
『栗餡が食べたい』
『三の宮の香は濃すぎる』
『帝より猫と昼寝したい』
未来どころか、どう考えても誰かの胸の内らしき言葉を次々に囁き始めたのである。
そして一週間前、ついに決定的な一言を発した。
『次に后となる者は、月の絵を持つ』
後宮中が騒然となった。
むろん、后の冊立は帝と朝廷が定めることで、屏風の一声で決まるものではない。裕衣も何度となくそう言い聞かせた。それでも、宮中で長く吉凶を告げてきた霊宝の言葉となれば、噂は理屈より速い。
月の簪、月の扇、月を刺繍した衣、月形の菓子までが飛ぶように流行し、女官たちは仕事どころではなくなった。后妃たちの住まいからは「うちの姫君こそ月に最も近い」という主張が相次ぎ、しまいには廊下の置物まで月形に替えようとする者が現れた。
そこで内廷を統べる裕衣が、地方で評判になっていた絵師・沙綾香を呼び寄せたのだ。
沙綾香には、絵具に触れると、その場所に残った感情の「色」が見えることがある。
悲しみは薄藍。怒りは濁った朱。喜びは金茶。未練は紫。恋慕は、本人の気質によって色が違う。
それは絵師だった母から受け継いだ、ささやかな異能だった。
その力を最初に面白がったのは、一帆だった。
十二のころ、沙綾香は川原で薬草を写生していた。薬師の息子だった一帆が、籠いっぱいの草を抱えて隣へ座り、一枚ずつ名前を教えてくれたのだ。
「これは黄連。苦い」
「どのくらい?」
「泣くくらい」
「一帆、飲んだの?」
「父に舐めさせられた」
「泣いた?」
「泣いてない」
「色が出てる」
「何色?」
「悔しい橙色」
「そんな色ある?」
「今できた」
沙綾香が笑うと、一帆も笑った。
写生した葉を見て、一帆は「本物より元気そうだ」と言った。褒め言葉なのか尋ねると、「君の絵は、見た人がその続きを想像したくなる」と答えた。
それは、沙綾香が初めてもらった、絵への大切な言葉だった。
「大きくなったら、何を描く?」
「いっぱい。山も、人も、食べ物も。見た人がちょっと笑う絵」
「じゃあ僕は、その人が笑えるように病気を治す」
「ずいぶん大きく出たわね」
「沙綾香もね」
二人で笑い、帰り道に雨へ降られた。
そのとき一帆が薬草籠を頭へ載せて走った姿を、沙綾香はいまでも覚えている。
七年ぶりに会った彼は、あのとき本気で言ったとおり薬師になっていた。
では自分はどうだろう。
見た人がちょっと笑う絵を、描けているだろうか。
【終】
七年ぶりに一帆を見つけたとき、沙綾香は筆を落とした。
ぽとり、と。朱を含ませた細筆が、磨き上げられた黒石の床に転がる。
「……そこ、踏まないで!」
反射的に叫ぶと、白い薬箱を抱えた青年は片足を宙に浮かせたまま止まった。
廊下の向こうから流れてきた秋風が、薄青の直衣の裾を揺らす。昔より背が伸びていた。肩も広くなった。腰には、内廷医官にだけ許される白木の通行札が下がっている。紫霞後宮では、男が奥へ入れるのは医官や修繕役など、許可を受けた者に限られていた。つまり一帆がここにいること自体は規則どおりだ。沙綾香の心臓に悪いことだけが問題だった。
そして何より、目を伏せたときに頬へ影を落とす、腹立たしいほど長いまつ毛。
「沙綾香?」
「……一帆」
二人は見つめ合った。
七年前、川辺の柳の下で喧嘩別れした相手と、宮城で最も気を遣う場所――帝の后妃たちが暮らす紫霞後宮で再会するなど、誰が想像しただろう。
「久しぶりだね」
一帆が言った。
「そうね」
「元気だった?」
「見ればわかるでしょう」
「相変わらずだ」
「何が」
「怒ると、返事が三文字くらい短くなる」
「踏んでいいわ、その筆」
「七年ぶりに会った幼なじみへ言う言葉かな」
「七年前に何も言わず消えた幼なじみへは、十分に上品よ」
一帆は片足を浮かせたまま、困ったように笑った。
その顔が昔と同じだったから、沙綾香は余計に腹が立った。
「お二人、再会の情緒はあとになさってくださいませ」
背後から凛とした声が飛んできた。
振り向くと、女官長の花織が腕を組んで立っている。端正な顔立ちに、寸分の乱れもない濃紺の衣。初対面の朝、沙綾香が廊下の柱に絵具箱をぶつけたとき、「絵師の腕より先に歩き方を査定したくなりました」と言った人である。
「一帆殿。その筆を拾ってください。ただし朱を袖につけないように。沙綾香殿は、その間に屏風の傷を確認。日暮れまでに、修復可能かどうか判断を」
「はい」
「わかりました」
二人の声が同時に重なった。
花織はほんの少し眉を上げた。
「息は合うのですね」
「合っていません」
「合ってないよ」
また重なった。
花織はため息をつき、くるりと背を向けた。
「裕衣さまに報告してまいります。今夜までに喧嘩で屏風を壊した場合、修理代はお二人で折半です」
「まだ壊してません!」
沙綾香の抗議を背中で受け流し、花織は去っていった。
一帆が床の筆を拾い、懐紙で柄を丁寧に拭く。
「はい」
差し出された筆を、沙綾香は少し迷って受け取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
指先が触れそうになり、二人ともわずかに手を引いた。
たったそれだけで、胸の奥が騒がしくなる。
恋の予感、などという甘ったるい言葉を沙綾香は信じていない。少なくとも、七年前に一度置き去りにされた相手との間に、そんなものが転がっているはずがない。
そう思った直後、背後の屏風から女の声がした。
『また、恋をする』
沙綾香と一帆は同時に振り向いた。
六曲一双の月影屏風。
銀泥の月は黒雲に半ば隠れ、薄野には白い露が描かれている。絹地は古び、ところどころに細い裂け目が走っていた。それなのに、いま確かに、誰もいない屏風の内側から声がした。
一帆が静かに言った。
「これが、未来の囁き」
「……聞いていた話より、ずいぶん余計なお世話ね」
『七年ぶりに』
「黙って!」
沙綾香は屏風へ向かって叫んだ。
一帆が口元を押さえた。
「笑った?」
「いや」
「笑ったでしょう」
「七年ぶりに会った君が、宮中の霊宝と口喧嘩しているから、少しだけ」
「帰る」
「帰らないで。君が帰ると、後宮が困る」
「あなたは困らないの?」
一帆は答えるまで、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「困るよ」
その声があまりに穏やかだったので、沙綾香は次の文句を失った。
紫霞後宮には、代々伝わる三つの霊宝がある。
一つは、夏でも枯れぬ蓮池。
一つは、悪夢を吸う香炉。
そして最後が、月影屏風だった。
月が満ちる夜、その屏風は近くにいる者へ「少し先の未来」を囁くという。
三十年前には「北門を閉ざせ」と囁き、翌朝の山崩れから多くの人を救った。十六年前には「赤子の寝床を移せ」と告げ、その夜に梁が落ちた。それ以来、後宮では月影屏風の声を神意に近いものとして扱ってきた。
ところが三か月ほど前から、様子がおかしくなった。
『あの人より、わたしの髪のほうが艶やか』
『栗餡が食べたい』
『三の宮の香は濃すぎる』
『帝より猫と昼寝したい』
未来どころか、どう考えても誰かの胸の内らしき言葉を次々に囁き始めたのである。
そして一週間前、ついに決定的な一言を発した。
『次に后となる者は、月の絵を持つ』
後宮中が騒然となった。
むろん、后の冊立は帝と朝廷が定めることで、屏風の一声で決まるものではない。裕衣も何度となくそう言い聞かせた。それでも、宮中で長く吉凶を告げてきた霊宝の言葉となれば、噂は理屈より速い。
月の簪、月の扇、月を刺繍した衣、月形の菓子までが飛ぶように流行し、女官たちは仕事どころではなくなった。后妃たちの住まいからは「うちの姫君こそ月に最も近い」という主張が相次ぎ、しまいには廊下の置物まで月形に替えようとする者が現れた。
そこで内廷を統べる裕衣が、地方で評判になっていた絵師・沙綾香を呼び寄せたのだ。
沙綾香には、絵具に触れると、その場所に残った感情の「色」が見えることがある。
悲しみは薄藍。怒りは濁った朱。喜びは金茶。未練は紫。恋慕は、本人の気質によって色が違う。
それは絵師だった母から受け継いだ、ささやかな異能だった。
その力を最初に面白がったのは、一帆だった。
十二のころ、沙綾香は川原で薬草を写生していた。薬師の息子だった一帆が、籠いっぱいの草を抱えて隣へ座り、一枚ずつ名前を教えてくれたのだ。
「これは黄連。苦い」
「どのくらい?」
「泣くくらい」
「一帆、飲んだの?」
「父に舐めさせられた」
「泣いた?」
「泣いてない」
「色が出てる」
「何色?」
「悔しい橙色」
「そんな色ある?」
「今できた」
沙綾香が笑うと、一帆も笑った。
写生した葉を見て、一帆は「本物より元気そうだ」と言った。褒め言葉なのか尋ねると、「君の絵は、見た人がその続きを想像したくなる」と答えた。
それは、沙綾香が初めてもらった、絵への大切な言葉だった。
「大きくなったら、何を描く?」
「いっぱい。山も、人も、食べ物も。見た人がちょっと笑う絵」
「じゃあ僕は、その人が笑えるように病気を治す」
「ずいぶん大きく出たわね」
「沙綾香もね」
二人で笑い、帰り道に雨へ降られた。
そのとき一帆が薬草籠を頭へ載せて走った姿を、沙綾香はいまでも覚えている。
七年ぶりに会った彼は、あのとき本気で言ったとおり薬師になっていた。
では自分はどうだろう。
見た人がちょっと笑う絵を、描けているだろうか。
【終】


