理科室の住人

一学期の中間テスト前の部活禁止期間に入った。
せんぱいだけは理科の先生の許可を取って買っている生き物の世話だけはさせてもらっているらしい。
だけど、表立っての活動はすべて禁止されている。
せんぱいは、「俺のうちで勉強しようか」と言ってくれた。

本当は同級生と勉強会をした方がいいのかもしれないと思ったけれど、彼のうちにあるというクラゲの水槽が気になってしまった。
だから、せんぱいの言葉に甘えてしまうことにした。

* * *

せんぱいの家は海の近くにある一軒家だった。
すごい豪邸という感じでもないけど普通のいいおうちだ。


「お邪魔します」

僕が玄関で声をかけると、せんぱいは「今日は家族誰もいないからかしこまらないで」と言って笑った。
シンプルな内装の玄関を通って案内されたのはリビングで、入ってすぐに大きな水槽が目に入った。
それ以外はソファーとテーブルがある普通のリビングの中でクラゲの水槽だけがとても目立っている。

「わあ!!これがクラゲの水槽ですか!」

僕が言うと、先輩は少しだけ笑った。
それから、「ここにいまエフィラがいるよ」と言って指をさした。
小さな小さなクラゲが泳いでいる。

まんまるじゃなくて、何本も帯をのばしたような形の透明な生き物がクラゲみたいに泳いでいる。
僕があまりに夢中になっていると、せんぱいは「飲み物ここに置いとくから、満足したら勉強始めよう」と声をかけた。
気が付くと結構な時間が経っていた。

「す、すみません……」

僕が謝るとせんぱいは、大丈夫だよと緩く笑った。

「スケッチしていくならしてもいいよ」

そう言われて恐縮する。
もう目に焼き付いてるので自分用のメモは家に帰ってからでもできる。

先輩の目の前にはノートと問題集がもう開かれていて随分と進んでいる様だった。
僕、むしろ邪魔しに来てるんじゃないか? なんて思ってしまう。

「俺、理系の方が成績いいからそっちなら多分教えてあげられると思う」

去年やったところだしね。とせんぱいが笑う。
カバンからノートと教科書を取り出す。
まずは折角なので数学から始める。
数学はものすごく苦手意識があるという訳ではないけれど、それほど得意でも無い教科だ。
せんぱいなら、ぐちゃぐちゃに絡まって見える数式を優しくほぐしていけるのだろう。
いつもの理科部の活動の時の説明を思い起こしながらそう感じだ。
優しくっていうのは数学に適した言い方なのかはよく分からないけれど、たぶんせんぱいならそういう感じだろうと思った。

ドリルを進めていると一問、上手く解けずシャーペンが止まる。
僕は何も言わなかったけれど、先輩はすぐに気が付いてくれて「ああ、それはね――」と言って、さらさらと解説をノートに書いていく。
せんぱいの綺麗な字をじっと眺める。
読みやすい、せんぱいらしい字だと思った。
せんぱいの説明はやっぱりわかりやすかった。

「なんで、せんぱいはそんなにやさしいんですか?」

自分のノートに要点を書き写しながら僕は思わずそれを言葉にしてしまう。

「え? 俺優しい?」

眼鏡の向こう側の先輩は少し驚いているように言う。

「せんぱいは優しいですよ」

僕は言う。
思えばこの人は最初から優しかった。
ノートを忘れただけの後輩に優しく声をかけてくれて、理科部に誘ってくれた。
別にわざわざ声をかけなくたってよかったのに。

今日だってこうやって後輩の面倒を見てくれている。
クラスでだって人に囲まれていた。
彼が優しいからなのだろうと思った。

「俺は優柔不断なだけだよ」

そう言ってせんぱいは苦笑した。
先輩が何かを決めかねているのを見たことが無かった。

「頼まれると断れないって意味ですか?」
「いや。まあ、理科部の顧問の先生のお願いはなるべく応えようとは思ってるけど」

あれこれやりたいことが多い人なのはもう知っているけれど、どちらか選べないタイプとは今までの短い期間でも思えない。
不思議に思っていると、せんぱいがぼくの思考をかき消すように言葉を続けた。

「数学で苦戦してるなんて少しだけ意外だった」

せんぱいはそう言葉をつづけた。

「まさか」

得意科目というものが僕にはない。
可もなく不可もなくという感じの勉強しかできない。

「証明問題とか得意そうなのに」

どこが?と思った。
せんぱいは僕のどこを見てそう思ったのだろう。

「君は言葉を使うのが綺麗だから」

次にせんぱいはそう言って僕はとても驚いてしまった。

「そんな事無いですよ」

よっぽど先輩の方が言葉を扱うのが上手いと思う。

「俺はだめだよ。証明問題だって最後の締めの言葉すら面倒で墓石で済ますし」

墓石という聞きなれない言葉に思わず「墓石?」と繰り返していってしまう。
せんぱいは、ああと言って笑った。

ノートに書かれる□。

「ハルモス記号。Q.E.Dと同じ意味だよ。
まるで墓石みたいでしょ」

そう言ってせんぱいが笑った。
その笑顔は相変わらず優しくて、自分のノートに書かれた四角が、何故か宝物の様に思えた。
それから数日毎日先輩のうちにお邪魔して勉強を教えてもらった。
せんぱいはふつうに数学以外も教えてくれて、とても勉強ができる様に思えた。

僕の行っている高校は、偏差値的にも標準的って位の学校だ。
せんぱいは、中学の時クラスにいたとても勉強のできる人達と同じ位勉強ってやつを分かっている気がした。
だけど、そんな事をふみいって聞くような関係じゃない。

ただ、僕といるときのせんぱいはいつもみたいにヨレヨレの恰好で、それが僕の中で少しだけ優越感になってることには、もう気が付いていた。
よれよれの人だってことに対しての優越感じゃない。
僕だけがそれを知っているかもしれないという優越感。

そんなことを考えながらテストを受けた。

ちなみに、テストはかつてない位にできた。
丸が沢山並んだ返却されたテストを見ながら、これをせんぱいに見せたらせんぱいも喜んでくれるかな? なんてことを考えていた。
最近なんでもせんぱいと結び付けて考えてしまう気がする。
でも、結局先輩にテストは見せなかった。何となく部活の先輩に一々テストの答案迄見せるものか少し悩んだからだ。