理科室の住人

せんぱいは別によれよれの人では無かった。
多分友達が多いタイプで、ファッションにも詳しい。

美容院に行っても挙動不審にならないし、無理をして流行ってる動画を見なくても話題に困らない。
そういうタイプの人に見えた。

要は、僕と正反対の人。

別によれよれのせんぱいに優越感があったわけじゃない。
せんぱいは僕よりも話が上手いことはすぐにわかったし、色々なことを知っている。

僕の変な返事にも楽しそうに返してくれる人に、優越感なんか抱かない。
せんぱいがどんな恰好をしていても、それはせんぱいの自由だ。
自分が何をショックだと思っているのかもよくわからない。

理科部は月水金しかやっていない。
翌日はそのまま帰宅した。
そもそもせんぱいとメッセージアプリのIDすら交換していない。
普通部活のメンバーはグループを作ったりするものなのかもしれないけれど、そもそも二人きりの部活だったからそんな事思いつきもしなかった。

金曜日。
放課後の理科室の前で少し緊張してしまう。
今日も【理科部活動中】と雑に書かれた紙が貼ってある。
これまでと変わらない様子に少しだけ安心した。
引き戸を開けると、いつもの様に先輩はよれよれで一人でペットボトルを机にのせて何かをしている。
いつ買ったんだよっていう、古臭いカーディガンも、眼鏡も、ボサボサの髪の毛もいつもの通りだった。
なんで、こんなことが安心するのか自分でもよくわからない。
だけど、いつものせんぱいがいた、というだけで心が少しだけはずむ。

「今日は何をしているんですか?」

僕が聞く。せんぱいは「クラゲの水槽を改造しようと思ってる」と答えた。
くらげがいるというのは知らなかった。

「ん?ああ。初めてあった日ポリプって言っただろ?あれクラゲのことだよ」

イソギンチャクみたいにくっついてて可愛いんだよ。
当たり前の様に言われていたので、それがクラゲのことだと知らなかった。
水玉の緑藻のなにか仲間なんだと勝手に思っていたけれどこの部屋にはクラゲがいたのか。

「クラゲって簡単に育てられるんですか?」
「いや、結構難しい」

せんぱいは困った顔をして言う。

「残念だけど何回か失敗してるよ」

本格的な水槽でも結構難しいしね。
そう言いながらせんぱいはペットボトルを切っていく。
「それをクラゲを飼うのに使うんですか?」
「そうだよ」

ペットボトルって便利だよね。
この話に関係あるのか無いのかよくわからないことをせんぱいが言う。

「この中をふわふわクラゲを泳ぐのを見るのは楽しそうですね」

いつもの先輩だからいつもの様に話しかけられる。

「ポリプがエフィラになると泳ぐ様になるから、俺も楽しみだよ」

と先輩が言った。

「エフィ?」

せんぱいと離していると聞いたことのない言葉ばかり出てくる。
だけど、僕を馬鹿にした感じはしないから過ごしやすい。

「エフィラ。クラゲは幼生の頃、何度も姿を変えるんだよ」

今度近所の水族館に一緒に行ってみようか。
せんぱいに言われて、思わずまじまじとせんぱいの顔を見てしまう。

なんで、クラスであんな感じなんですか?
って聞くのは流石に失礼だろうか。
失礼かどうかというよりせんぱいが嫌な気持ちになるだろうかって方が気になる。
この人の事をまだそれほど知らない。
だから、この人が好きなことも嫌なこともほとんどわからない。
ただ、こういう小さな生きものとか実験とか、そういうものが本当に大好きそうにしているってこと以外何も知らない。

「一昨日はすみませんでした」

僕がそう切り出すと、せんぱいは「わざわざ伝えに来てくれて、ありがとうね」と言った。

それから僕のことをじいっと見て「教室での俺は変だった?」と言って笑った。
ちょっと面白そうに、それから少しだけ不安そうに笑うせんぱいをみて、彼も心配だったのかと思った。

「僕はこっちのせんぱいの方が好きです」

何気なく言ってしまってから、良くないと気がつく。
まるでクラスメイトといたせんぱいを否定しているみたいに聞こえる気がする。

「あ、違う……、違うんです」

取り繕おうとした僕はそこで固まる。
心底嬉しそうな顔をしている先輩と目があった。
なんで、そんなに嬉しそうなのか僕にはよくわからない。
けれど、先輩はとても嬉しそうに笑っている。

「君は面白いね」

せんぱいは僕にそう言った。

「プラヌラもポリプもクラゲはクラゲだもんね」

面白そうに笑うせんぱいを見ているけれど言っている言葉はいまいちわからない。

「全然違う色々な生きものが好きなんですね。ボルボックスとかクラゲとか……」

同じなのは丸いところ位だ。

「両方共、プランクトンだよ」

せんぱいが言う。
丸いところ以外クラゲとボルボックスの共通点が分からなかったので少し驚く。

「クラゲもプランクトンだよ。

大きいものだとエチゼンクラゲとかは数メートルになる」

「プランクトンって小さい生きもののことだと思ってました」

先輩が切り刻んでいたペットボトルを見てそれから「せんぱいはプランクトンが好きなんですか?」と聞いた。
せんぱいが少しだけ何かを懐かしむ様に目を細める。
それから「そうだね。だけどプランクトンだけが好きってわけじゃないよ」と答えた。

「だから理科部、なんですか?」

不思議に思っていたことを聞く。
部員になった今でも結局どんな活動をするのか全容を把握できていない。

「やりたいことが色々ありすぎるんだよね」

せんぱいがこちらを見て笑った。

「例えば?」
「染色もしてみたいよね。去年は藍染をしようとして失敗したから、今年は泥染をしてみたいし。特に色止剤は化学って感じがしてきっと気に入るよ」

それに、そうだな。
せんぱいはこちらをみて緩く笑う。

「シャボン玉気に入ったみたいだから虹色になる実験してみようか」
「虹色? プリズムとかですか?」
「いや、ビスマス」

また、知らない言葉が出てきた。

「それより、今日はこっち」

先輩は僕にカッターナイフと大きめのペットボトルを渡す。

「クラゲの水槽をペットボトルで代用できるっていうけど中々難しいんだよこれ」

インターネットのサイトをプリントアウトしたものだろうか。
紙を僕にも見えるようにしてくれた。
図解されている形の通りにカッターナイフでペットボトルを切っていく。

「もっとふつうの水槽で飼うものだと思ってました」

フィルターの説明の部分に目を通しながら僕が言う。
「自宅に水槽はあるんだ」
先輩はこちらを見ないで言う。

「いいなあ。うちでもクラゲが見れるってことですよね」

僕が言うと、先輩は「……今度見に来るかい?」と聞いた。

「行っていいんですか?」
声が心なしか弾んでしまった気がする。
自分専用のクラゲ水槽を見せてもらえるのは正直とても楽しみだった。

「勿論。再来週中間テスト前の部活禁止期間に入るからその時とかどうだい?」

ついでに一緒に勉強でもする?去年の傾向大体教えられるけど。
せんぱいはそう言って誘ってくれた。僕に断る理由は何も無かった。
けれど、せんぱいの負担にならないだろうか。
「せんぱいのテスト勉強は?」
「俺、いつも大体上位だから大丈夫だよ。
あんまり人に教えたことがないから、そこは大目に見て欲しいけど」

友達が多そうなせんぱいが人に教えたことがあまり無いというのが不思議だった。

「友達と勉強会とかしないんですか?」
「あ、あー。……そういうのはあんまりしない」

一緒に遊びに行ったりはするけど。
こっちの感じ知らない人間呼べる部屋じゃないしね。
とせんぱいは行った。

「僕、行ってみたいです」

もう一度言うと、せんぱいは嬉しそうに笑った。

* * *

クラゲはとても小さくて、せんぱいが前につくったペットボトルの水槽にへばりついていた。
僕の知っている形とは少し違うクラゲは、これからもう少しすると僕の知っている形になるらしい。
そのための追加の水槽が必要で作っている。

「いつ、ふわふわと浮くようになるんですか?」

僕が聞くと、「もう少しだよ」とせんぱいは言った。

「一緒に見たいですね」

と当たり前の感想を口にすると、せんぱいは吐息に乗せて笑った気配がした。

「夜になっちゃうと思うからなあ」

せんぱいが言う。
そうか。見られないかもしれないのかという事が少しだけ残念だった。
けれど、それを上手くせんぱいに伝える言葉がみつからなかった。
部活のせんぱいの距離感ってやつがよく分からなかった。

だけど、連絡先だけは交換した。
この前みたいに用事があって急に部活に出られない時に不便だし。
あと、クラゲを見に行こうって話をしたし。
出かけるときは連絡先は知っておいた方がいい。

アプリに出た名前を見てせんぱいの名前が雨宮 律(りつ)だとはじめて知った。
なんとなくせんぱいらしい名前だと思った。
ただ、せんぱいはせんぱいなので特に名前で呼ぶことは無いのかなと思っていた。

* * *

最初にせんぱいから来たメッセージはいえのクラゲの写真と説明だった。
学校でみたクラゲと違って浮いている写真だった。

僕は少し悩んでから、数日前に写真を撮っていた近所の猫の写真を返事と一緒に送った。
スケッチを写真に撮って送るみたいなことはしていない。
あれは誰かに見せるものじゃないから。