理科室の住人

翌週。
やっぱりせんぱいは一人で理科室にいた。

「やあ。ちょうどよかった」

せんぱいは僕をみて笑顔を浮かべたように見えた。
やっぱりよれよれのカーディガンを着ていて、メガネをかけている顔からは表情が読み取りにくい。

「ちょうど今から、薄膜の干渉の実験をしようと思っていたんだ」

君まだ一年だよね。ならこれから物理を取ったらやるかもしれない。
せんぱいの目の前においてあるのは金属製のバットだった。
料理の時に使う位しか思い浮かばないその薄いトレーで何をするというのだろう。

「シャボン玉だよ」

せんぱいがバットを覗き込む僕に言う。

「丸いもの好きなんだろう?ちょうど良かった」

丸いものが好き? 何を言っているのだろうと不思議に思う。

「マリモがすぐに思い浮かんでいたし、ボルボックスも水玉だって呟いてた。丸いものが気に入っているんじゃないのかい?」

先輩に言われて、ようやく思い至る。
別にそういう訳じゃない。
形についてあれこれ描くのは嫌いじゃじゃいけど、丸が特別好きという訳じゃない。
だけど、一度一緒に顕微鏡を覗いただけの後輩のことを覚えていてくれたことは、嬉しかった。

「もしかして、これも僕のために?」
「残念ながら……。今度来るときは君のための実験をなにか準備しておくよ」

せんぱいはそう言いながら、バットの中身をくるくると混ぜた。

「前に読んだ本に松脂を入れると強くなるって書かれてるのを見て、昔の人は変なことを試すなあって思ってた」

その話は僕も本で見たことがあった。

「実際どのくらい固くなるんですかね、あれ」
「俺、前に試してみたよ」

ああいうのって試してみたくなるよね。とせんぱいが言った。

「まあ、今日のは流石に準備できてないので、お砂糖をひとさじ入れています」
「へえ」

シャボン液は砂糖が入っているかはよくわからない。

「その松脂とか砂糖が薄膜のなんちゃらってやつなんですか?」

普通のシャボン玉が割れにくくなる現象の実験をするんじゃないのだろうか?

「綺麗だからまあ見てて」

僕の質問には答えずに先輩は針金で作った枠をバットに浸した。

「シャボン玉って色合いが不思議だろ?」

せんぱいが針金の枠を持ち上げて言う。
虹色の膜が美しい。
緑色と少し濃いピンク色がゆらゆらとしていて、それだけで綺麗だと思う。

「これが薄膜干渉。
薄膜の上下で反射した光波がお互いに干渉しあってこうなるんだよ」

虹色に見えるシャボン玉。そういえば、アスファルトに落ちた自動車のオイルもこんな感じだ。
あれは車のオイルだったのがガソリンだったのか。
せんぱいに伝えると、「そう。そういうやつ。ちなみに車のオイルとは限らないけどね」と答えた。

「空気の屈折率よりシャボンの膜の屈折率が大きいからこういう模様が見える」

先輩が針金を少しばかり揺すってせんぱいがゆるく斜めに息を吹きかけると、模様ができるみたいに枠の中でシャボンの色が動く。
子供の頃からシャボン玉は何度も作ってみたことがある。
いかに大きいものを作るか、割れないものを作るかについては考えたことが無かった。

「膜の厚みで屈折率が変わるから見え方が少し変わるんだ」

シャボン玉なんていうありきたりな物がこの人の手にかかるとなにか特別なものの様に思える。

「少し膜を薄くしてみようか」

屈折率が変わって見え方が少し変わるよ。
先輩は面白そうに言った。

そんなことができるのだろうか。
せんぱいが取り出したのは針のない注射器だ。

「その中身は?」
「ん?単なる水だよ」
「これそのまま持ってて」

と先輩は僕に針金の枠からのびた棒状の部分を持たせる。
そろそろいいと思うんだけど、加減を間違えると割れちゃうんだけど、どうだろうね。と言いながら先輩は針金の枠の中にできたシャボン玉の膜にゆっくりと水をかける。
注射器の水は先輩のもう片方の手に持っているビーカーに流れていく。
割れてしまうかと思ったシャボン玉はまだ膜の形を枠の中で保っている。
水を入れたところだけ色合いが少し違う。
机に敷いてあった黒い布はこのためだろうか。
夜に光るライトを鈍い色に変えたみたいな色に膜の一部分だけが変わる。
紺色と薄い黄土色がゆらゆらと揺れている様に見える。

「シャボン液が薄くなったところだけ屈折率が変わって違う色に見えるんだ」

せんぱいが言う。

「明るくなる条件が2ndcosθ = (m+12) λで、暗くなる条件が2ndcosθ = m λ、空気と膜じゃ屈折率が違うし、反射したときの位相もずれるから――」

せんぱいが話す言葉の意味はよくわからないけれど、彼の声は穏やかで、綺麗で、ずっと聞いていても嫌味が無い。

「物理の授業でやるんだけど、ちょっとわかりにくいか」
「ラムダ、だけはなんとか聞いたことがあるような……」

せんぱいがおれの顔を覗き込む様に見る。
思わず首を左右に振る。
言っていることは半分もわかっていない。多分何から質問していいのかもわからない位何もわかっていない。
でも、この人の話をもっと色々聞いてみたい気がした。

「あの、理科部の入部って誰でもできるんですか?」
「え? あれ!? 俺、うぜえって話じゃなくて!」

大げさにせんぱいが言う。
別にせんぱいはうざくは無かった。少し不思議な人だとは思うけど。

「部員は俺だけなんだけどそれでもよければ」

せんぱいはニコリと笑った。
それから、僕の手からシャボン玉の枠を取ると、バットのシャボン玉液にひたしてふうと吹いた。

小さいシャボン玉がふわふわと理科室の中を飛ぶ。
それからもう一度シャボン液につけて大きくせんぱいは手をふる。
すると今度は大きなシャボン玉がふわふわと浮かぶ。
少しばかり薄暗い理科室の中じゃなければもっと綺麗だろうか。
せんぱいが、自作っぽい先端のあるストローを僕に渡す。

「どうぞ」

ニコニコとしている。

「これ汚さないですか?」
「ん、後で俺が掃除するから大丈夫」

そう言いながら先輩は理科室の窓を開ける。
春の気持ちのいい風が教室に入る。
その風の動きでふわふわとシャボン玉が舞う。
いくつかは窓から外に出ていく。

「掃除、僕も手伝いますね」

そう言ってからストローにシャボン玉液をつけて、ふう、と吹いた。
いくつもいくつもシャボン玉ができる。
窓から入る淡い光に照らされて光るシャボン玉は綺麗だ。
せんぱいがいうにはこれも科学だそうだ。
僕には科学と理科の違いすらわからないのに、せんぱいはこちらをみてゆるく笑う。
メガネ越しに見える目元が優しい。

先輩の顔を見ていると「ああ、これも薄膜の干渉だよ」と眼鏡をちょいちょいとした。
僕から先輩の目がちゃんと見えるのは反射止めの加工がしてあるかららしい。
そういえば昔のメガネはガラスが光って他人からよく目が見えないらしい。
と言っても僕が知ってるのはギャグ漫画で見たことがあるってだけだけど。
でも、せんぱいのことを見ていたと気が付かれなかったのは良かった。
なんで見てたの?って聞かれても多分うまく答えられない。

こんな風にシャボン玉をするのは子供の時以来だ。

「今度松ヤニ入れたバージョンもやってみましょうね」

僕がせんぱいに言うと、せんぱいはきょとりとこちらをみたあと、フフッと笑った。

「僕も人一人シャボン玉に入れる実験してみたかったし、いいね」

一人だとできないからなあ。とせんぱいは言う。

それが歓迎のシルシだと僕にも分かる。

「また、ボルボックス見せてくださいね」

僕が言うと、「勿論」とせんぱいは言った。
何度も、何度もシャボン玉が教室に浮かんでは弾けて消える。
二人で三十分ほど楽しんだあと、二人で理科室の雑巾がけをした。

「案外ベタベタですね」
「だろうね。砂糖だしね」

せんぱいは多分今日シャボン玉を吹いて遊ぶつもりは無かったのだろう。
それなのに楽しそうに後片付けをしている。

「そういえば部活って月水金でやってるんですか?」
「まあ、大体。出たくない日は無理しなくても大丈夫だから」

義務とか仕事とかじゃないから。
せんぱいはシャボン液のついてしまった椅子を拭きながらそういった。

* * *

せんぱいは使った用具の一部を片付けると言って理科室を出てしまった。
後、手伝えることは無さそうで、手持無沙汰すぎる。
僕は通学鞄から小さなノートを取り出した。
そのノートは罫線のついていない、だけど画用紙とかそういう本格的なものでもない普通の文房具のノートだ。

そこにこまごまとしたものを描いている。
上手いと言われたことはほとんどない。
特に中学生以降は無いと思う。

趣味みたいなものなのだと思う。

さっきみた、シャボン玉を描いてみたいと思ったのだ。

取り出したノートを理科室の四人掛けの大きな机に出して、さっきの情景を思い出して描く。
そう言えば小学校の頃の理科で、葉脈をスケッチしようとかそういうのは好きだった。
まずプリントの中に書くので絵の部分が小さいのがよかった。

そこにシャーペンでシャボン玉の様子や、バットの中のを流れる液。
それからストロー
僕にはメモをしておきたいものが沢山あった。

でもまずはシャボン玉。
枠からどう抜け出していったかをスケッチしていく。
それからシャボン玉を一つ一つ思い出して描いた。

多分、あまりにも夢中になってしまっていた。
その位シャボン玉が楽しかったので描きたかったものがいっぱいあった。

だから、せんぱいが理科室に戻ってきたことも、その時の物音にも気が付かなかった。

「それ、さっきのシャボン玉?」

声をかけられてびっくりする。
人に見せたりしたことが無い。
特技とかではないのだ。
慌ててしまう。

「いや、僕下手なんで恥ずかしいですよ」
「そんなこと無いよ。
こういう描き方、理科のスケッチに向いてるよ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」

ふふ、と面白そうにせんぱいは笑った。

それから「俺その絵好きだよ」と付け加えるように言った。
その言葉がその日ずっと頭から離れなかった。