理科室の住人

夏休みである。

せんぱいに、家に誘われた。
それ以外にも、水族館とかにも誘われているけれど、今日はとりあえずせんぱいのうちに行く。
テスト勉強でも行ったことがある。

恋人になった後に理科部ではいつも通りだった。
だから、という訳でもないけれど、前にテスト勉強をしたときと同じだと思っていた。

いつもと同じだった。
だけど、今日は目的がない。
前は勉強をするというせんぱいのうちに来る理由があった。
今日はそういうのはない。
しいて言えば、せんぱいと過ごすのが目的なのかもしれない。
玄関では謎の緊張があったけれど、リビングでせんぱいからクラゲの説明を受けているうちにいつもの感じに戻った気がした。
少なくとも気まずさはない。
最初に現在のクラゲの様子を見せてもらった。
クラゲはクラゲの形をしていて驚いた。

最初からクラゲはクラゲなんだけど。今まではちょっと思い浮かべたクラゲと違っていたのだ。
今は思っているクラゲの形をしている。

「すごいです!」
「水流が難しくて激突させないようにしないといけないんだよ」

いつも通り微妙に会話はキャッチボールに失敗している気がするけど、もうあまり気にならない。

「水流が大切なんですか?」
「うん。ミズクラゲはそこが大事」
「他のクラゲは?」
「今飼いたいサカサクラゲは、共生藻類のための照明器具が大切なんだ」
「サカ?」
「逆さだよ。こう、逆向きで水槽の底に沈んでるんだよ」
「へえ」
「やっぱり夏休み中に水族館に行こうか」

せんぱいは人目や色々なもののことを考えていて、水族館は二学期に入ってからにしようかと一回は言っていた。
僕はあまり気にしていない。

「やっぱ今度行きましょうか」

その謎のサカサクラゲとやらも気になるし。

それから、しばらくクラゲになったクラゲを見る。
メデューサと呼ぶらしい。僕の知っているクラゲは。

せんぱいは横で説明してくれる。
前に来た時よりせんぱいの距離が近い気がする。

だけど、前に来た時のせんぱいの位置をちゃんと覚えていない。

クラゲを見た後は初めて先輩のお部屋に案内された。
せんぱいの部屋って感じの部屋だった。

ただし、理科部の方のせんぱいの部屋。
クラスでのせんぱいじゃなくて理科部のせんぱい。

多分高校では誰も招いていない部屋なのかもしれない。
本棚には本がびっしりと埋まっていてそれ以外にも棚があって。そういう部屋だ。
机の上には少し古いノートパソコンが置いてある。

理科部の棚と似ているけどちょっと違う。
本はボロボロになるまで読み込まれているのがちらほらあるし。
なんか先輩っぽさはある。
賞状が飾られていて、小学校の頃夏休みの自由研究で賞をとったみたいだ。
思わずせんぱいの部屋を見回してしまう。
ずっとテスト勉強とかでお邪魔したときにはリビングを使わせて


棚の上に、石の標本みたいなのが置いてある
僕はスケッチとかメモが好きだ。
その所為か自分でも分からないけれど、同じ分類のものが整理整頓されていると少し気持ちいい。

「これは鉱石ですか?鉱物?」

いまだにこの辺の違いはよく分からない。
金属は鉱物? とか理科の分類が全部頭に入っていない。

でも、木の枠の中におさめられた石はどれも大切にされている気がする。
それに多分この木の入れ物は手作りだ。
外から打っている釘が少し曲がっている。

「これは鉱物、鉱石は産業用に使われる言葉かな。どちらかというと
……こういうのだらけで引かない?」

せんぱいが言った。

「逆にいつものせんぱいっぽい部屋だと思ってます」
「ふーん」

せんぱいはそう言ったきりだけど、何故か少し嬉しそうにしている。

やっぱりせんぱいの距離が近い気がする。
別に嫌な訳じゃないけど、少し緊張に近い感覚がする。
緊張というか、せんぱいがいる方の感覚が鋭くなる感じがする。

箱には鉱物か綺麗に並べられていて、そこにはラベルの紙が添えられている。
一つ一つ見ていく。

ブドウ石、花崗岩、マラカイト……。
色々と小さな字で書いてある。

右下に行くほど、見たことのある字になるのでせんぱいがかいたのだろう。

その中で、目を引いたものがある。
石英。

前に話をしたことがあるから、というのもなくはない。
水晶っぽいそれに添えられたラベルの産地が、“南極”になっていたからだ。

「南極でも鉱物とれるんですね」

南極はなかなかインパクトが強くて聞いた。

「うん。陸地はあるからね南極は」

へえ。と思いながらその石英とラベルをもう一度見る。
極の字が少し潰れている感じが愛おしい気持ちになって目を細める。

それを多分せんぱいは違う意味にとったのだろう。

「君もラベル書いてみるかい?」

と言った。

「え?」

僕は少し驚く。
だけど、僕が先輩の字を馬鹿にしたわけじゃないということは伝わっていそうだった。
別にせんぱいからは怒ってるとか悲しんでいるとかそういう雰囲気はない。

それに、小さなものをかくのは好きだ。
僕はせんぱいの部屋に置かれたローテーブルの前に座る。
せんぱいはその横に座った。これは観察したい時の決まった位置。

せんぱいにに渡されたラベルにペンで小さな字を指定された通りに書く。
手帳にメモを書くのに少し似ている。

「すごい、上手!!
これも書いてみない?」

せんぱいは言った。

「せんぱいは書かないんですか?」

僕は聞いた。

「えー。君の方が上手いし。
さっきちょっと笑われたのは、馬鹿にするニュアンスないってわかってるけどちょっと、目の前で書くのは緊張する」
「さっき笑ったのはそういう意味じゃなくて……」

なんて言ったらいい?
せんぱいが少し不安げな視線に気が付く。
この人はまだ少し色々なものが怖いのだと思った。
だから濁さないことに決める。

「せんぱいの字が愛おしかったから、笑ったんですよ」

いってから恥ずかしさがこみ上げる。
せんぱいの息をのむ音が聞こえた。

それから、頬をそっと撫でられる。
多分これが恋人の距離感というやつ。

「瞼閉じられる?」
「何故?」
「さすがにちょっと恥ずかしいから」

返事はこれからキスをするからじゃないのか。そこは理科で世界が出来ているいつものせんぱいと少し違っていた。
だけど僕はせんぱいに言われた通りに瞳を閉じた。


思ったより劇的な衝撃ではなかった。
でも瞼を開いて先輩の顔を見ると変な感じがする。
もう一度瞼を閉じるべきなのか?

こういう時のお作法はどうなのだろうか。
考えたことも無かった。

瞬きが増えている気がする。
先輩がその僕の変な様子を見て、それでも嬉しそうに目を細めた。
この嬉しそうはもしかして僕がさっき感じた愛おしいに近いのかもしれない。

ただ、まだそれについて聞いてみられるだけの度胸は無い。
ふわふわと甘ったるい雰囲気に飲み込まれながら僕は「せんぱいの怖いものがみんなどこかに行ってしまえばいいのに」とずっと言いたかった言葉を言った。

「そういうこと言うんだね、君は」

そうすると、先輩は僕の頭を何度か撫でた。
僕の髪の毛は先輩のそれと違って多分、あんまりさらさらしていない。
普段誰かに撫でられることもない。
でも、悪くないと思ってしまった。

その後は何事も無かったようにという訳にはいかなかったけれど、他の石にについて教えてもらったり、ラベル書きをしたりして二人で平静を装った。
せんぱいも僕も態と普段通りにしているのをお互いに気が付いていて、それでもそれにお互いに触れないで、初めて少し僕と先輩が少しだけ似ている部分があるかもしれないと思った。