理科室の住人

「何か、星野君がやってみたいことはある?」

理科部に行くとせんぱいに聞かれた。

「実験とか観察とかなんでもいいけど。
なんでもいいよ、トーストって本当にバター塗った面を下にして落ちるのかとか、バナナの皮は本当に滑るのかとかでも」
「なんですかそれ」
「イグ・ノーベル賞を取ってるよ」

せんぱいのたとえは少し分かりにくい。

「トーストはもったいないし、バナナは危なくないですか?」

僕が言うと、せんぱいは面白そうに笑う。

「それはそうだ」

そう言いながらも先輩は楽しそうだ。
僕はやりたいことを考えた。
そうして、最初に理科部と聞いた時、アルコールランプのことを考えたことを思い出した。

僕の中学校は危ないという理由でアルコールランプを使った実験をしたことが無い。
ただ、漫画とか、実験映像とかに出てくるあれをやってみたい気持ちはある。
だけど、アルコールランプが使いたいってだけでそれでどんな実験をしてみたいという話ではない。
それでも、バナナよりは危なくないかもしれない。

「あの……。アルコールランプというやつを一回使ってみたいんですが……。
この前もビスマスでバーナー使ったばっかりだし、駄目なら勿論いいんですが」

僕はせんぱいがなにか言う前に自分で言い訳をした。

「アルコールランプ面白いよね。
別に同じかはあまり気にしなくていいというか、実際結構違うし。
それに折角だから学校でないとできない事したいっていうものあるしね」

せんぱいはそう言ってから三秒ほど静かになってそれから「アルコールランプ自体を使うなら炎色反応を見る実験が面白いと思う」と言った。

僕の案でいいんだ。

「先生の許可もらうからそうしたらやろう」

せんぱいはそう言った。
それから、「俺も家でできることは家でやっちゃうから学校でやるのは割と偏ってるよ」と言った。

「学校でやった方がいいやつ?」
「専用の器具が必要とか、汚れるとか
後は音が出るのは学校のが気が楽」
「学校にある道具を使えるのは便利ですよね。
ちなみに今家でやってることってあるんですか?」
「蛍石を劈開(へきかい)させて八面体にするとか」
「へきかい?」
「蛍石は叩くと決まった方向に割れやすいんだ。
それを利用して綺麗な八面体を作ってる」
「へえ。面白そうです」

それも何というか学校の方が便利な気がする。
けれど、先輩が嬉しそうに笑うのでそれは言わない。

「音の出る実験ってやったこと無いです」
「テルミンとか面白いよ。今度やろうか」
「テルミン?」
「電子楽器の一種だよ」

そうして、アルコールランプをやることに決まった。

* * *

当日。口には出さなかったけれど、僕はかなりわくわくしていた。
いつもせんぱいもこんな気持ちなのだろうか。

「先生がだしといてくれたから」

二つアルコールランプが並んでいる。
おお、まさしくこれぞ、本物のという気分になった。

せんぱいはそれ以外に針金みたいなやつと、いくつかの小さなガラスお皿。
せんぱいが瓶からお皿に何かを移している。

そして、僕の前に一つアルコールランプを差し出した。
少し古いところも思い描いた感じですごくいい。

「今日は炎色反応をやります。
アルコールランプで金属元素によって炎の色がどう変わるか見るよ」
「針金みたいなのが金属ですか?」
「これはニクロム線。これ自体が反応するんじゃなくて、こっち」

せんぱいは何枚かのガラスのお皿を指さした。

「ここに、入ってる物質ごとにどういう色になるか見よう」

ガラスの皿に入っているのは、どれもただの水にしか見えない。
でも、今日の理科はこの中に入っているということみたいだ。
せんぱいの世界は理科でできているらしい。

それから、アルコールランプの使い方を丁寧に教えてくれた。
蓋を開けて、ランプにひたしてある縄みたいなやつの長さを確認する。
五ミリ位が目安らしい。
それから火をつける。

縄が直接燃えるのだと思ったけど、火はそれより少しだけ上で燃えている様に見える。
ゆらゆらとしていながら安定している。

せんぱいが、ニクロム線をもって端を最初のお皿に入れた。

火は綺麗な青緑色になった。
思わず「おお!」と言ってしまった。

「これは塩化銅」

二人でアルコールランプの火を見つめる。
それからせんぱいは針金を変えて、次の皿の中身につけた。
黄色、紫なんていうのもあった。

「これが金属元素ごとの違いだよ」

せんぱいも火をみながらそう言った。
僕はランプの炎に見入っていた。

用意した水溶液を一通り試すと、「じゃあ、星野君。火を消してみようか」とせんぱいが言った。
僕は先輩を見た。

火の消し方は簡単。ガラスの蓋をするだけ。
ちょっと恐る恐るという感じでやる。
本当に消えるのか心配だったけれど、綺麗に消えた。


「これ、このまま閉めないんですか?」
「冷えてからもう一回ふたするんだよ」

そうだった。一旦蓋を開けて冷めるのを待つ。

「火が消えてないことがあるから確認と、熱いうちに閉めると蓋が取れにくくなることがあるんだよ。お椀の蓋とかも、たまに取れなくなるだろ?」

せんぱいはそう言った。
世界は理科であふれている気がした。


* * *

最近は先輩と一緒に帰ることが増えた。
途中まで方向が一緒だからというのはあるし、僕的にはもう少し話をしたい時も多い。

ただ、せんぱいは帰る時、教室にいるときの様な恰好に戻す。
帰るだけなのに、カーディガンを脱ぎ忘れたことは一回もないし、髪の毛もなんていうかかっこいい感じに戻す。
理科室が戻すなら作り直すなのかもしれない。
それで眼鏡をはずして完成だ。
基準がよく分からない。

帰るだけなのに。
だけど何となく、それが普通の事ですという感じでしているので僕はそういうものとして流してしまっている。

帰り道は多分、僕の方が良く話す。
せんぱいは、話さないということはないけれど、いつもみたいに呪文みたいなことを沢山言ったりはしない。
何となく、普通っぽい会話が多くなる。
普通ってなんだかよくわからないけど。

お腹が空いたとか、体育の先生の話とか。なんかそういうことを話すことが多い。
理科の世界はあの理科室に置いてきてしまったみたいな日が多い。
たまにそうじゃない日もあるけれど、やっぱり基準がよくわからない。

だけど、せんぱいの声は心地よくてつい色々話してしまう。
クラスメイトとも話さないような内容でも、せんぱいなら聞いてくれそうという感じがしてしまう。

それにせんぱいのはなしもぽつぽつと聞く。
やっぱり、家族の話とか、二年生の授業の話とかそういうものが多いけれど、そういうちょっとまるで友達みたいなのもいいのかもしれないと少しだけ思う。