理科室の住人

絵は嫌いじゃない。
気が付くと、ノートの端とかに何かを描いている。
でも、大きな絵を描けと言われると困る。

ハガキ位の小さなサイズに何かを描けって言われたら多分出来る。
だけど、大きな画用紙一面に何かを描けっていうのは苦手だ。
何を描いていいのか僕には分からなくなってしまう。

だから高校に入学しても美術部には入らないし、別の部活にも入らない予定だった。
特に得意なことってないので、それを生かして高校生活を送ろうって思っていなかった。

僕の入った高校は校舎が少し古くて、改築や新しい校舎を建てていったみたいで少し不思議な構造をしている。


* * *

「それは、ボルボックスだよ」

日向に並ぶペットボトルを指さしてせんぱいは言った。
ボルボックスが何かはよくわからないけれど、ペットボトルとよく似たリズムの言葉は、少し面白い。

ボルボックスって何ですか? と質問する前に理科室の窓際に置いてあるペットボトルの中を見る。
そこには、黄緑色がかったペットボトルがいくつか並んでいる。

「そっちはポリプ」

室内の暗い方にあるペットボトルを指さして先輩が言う。
ペットボトルを半分に切った変な形の方は水が循環しているように見える。
小さな水槽みたいなものの中にも聞いたことのない何かのためのものなのだろう。

僕はせんぱいの方に振り向いてたずねる。

「ボルボックスとポリプってなんですか?」

僕が聞くとせんぱいは少しだけ驚いた顔をした。

「小学校の時ミドリムシを顕微鏡で観察しなかったのかい?」

せんぱいに言われてその時の様子を思い出す。
ミドリムシ、ミカヅキモ、ミジンコ、なんかそんな妙に音が面白いものを見たような記憶はある。
ボルボックスも音が面白い。

ミカヅキモは覚えている。
理科の時間スケッチをした。
三日月の形をしていることより中のまるいツブツブとしたものを授業で延々と書いていた。
そんな記憶だけが残っていて、ミカヅキモなるものが何だったのかの記憶がない。


「ボルボックスは緑藻の一種だよ」

りょくそうという言葉の漢字が頭の中に一瞬浮かばず、二秒ほどたったところでようやく緑の藻かと思いいたる。

「マリモみたいな?」

緑の藻で思い浮かんだのがあのまん丸だった。

ペットボトルであれができるのかはよく分からないけれどなんとなく質問してしまった。
鼻で笑われるかと思ったけれど、眼鏡越しに見えるせんぱいの瞳は優しげだった。

おみやげでもらったことのあるボトルのまるくて少しふわふわが付いているあの藻も役に立つことがあるらしい。

* * *


なんで、こんな風にこの人と会話をしているかというと、状況は十五分程前にさかのぼる。
ノートを理科室に忘れてしまったことに気が付いた僕は仕方がなく放課後理科室に向かった。

理科室の引き戸には【理科部活動中】と雑に書かれた紙が貼られていて、あれ? と思った。
授業この教室に来るときにこんな張り紙は無かった気がする。

新入生歓迎会での部活紹介では科学部なんて名前の部活は紹介されていなかったからだ。
しかも科学じゃなくて、中学までで使われてた理科。
恐る恐る教室のドアを開け中を覗くけれど、そこには誰もいない。

そこには授業中にも思った古い理科室だけ。


「なんだよ……」

一瞬緊張してしまったじゃないか。拍子抜けしながら机に置きっぱなしになっていたノートを手に取る。
明日でもよかったけど、宿題はやっておきたいし、ノートに授業でやっていたDNAの二重らせんの図を意味もなく余白に描きまくっている。
高校になって突然張り切ったみたいなノートはあまり中身を見られたくない。

「もしかして、君、入部希望者かい?」

だから、突然後ろから話しかけられて「ひゃっ!?」という間抜けな声を出してしまったのだ。
そこにいたのは黒ぶちの眼鏡をかけて、髪の毛が少しぼさぼさの、いかにも人気の無いインドア系の部活に入ってますって感じの人だった。
ぼさぼさの髪の毛に同じように年季の入った感じのカーディガン。
その組み合わせは明らかに新入生という感じではない。
多分せんぱいなのだろう。

「い、いえ……」

別に違うって答えるだけの話なのに、こういう時上手く言葉が出ない。
その人はちらりと理科室を見回すと「ああ、これかい?」と言ってノートを手に持った。
それが、正直いってあまり見た目とあっていない、人と話なれている様子に見えて不思議な気分になる。

「ついでに、少し見ていかないかい?」

だから、という訳でもないけれど、その人の言葉に思わず頷いてしまった。
理科部って何をする部活なのだろう。
実験だろうか。
理科といえば実験。その位の興味しかない。

アルコールランプというやつを学校で実は使ったことが無いので少しだけ見てみたいと思った。
それで最初に見せてもらったものが、なんか放置されてるなって感じのペットボトルと水槽でちょっと拍子抜けした。

教室の後ろ側にある戸棚から、せんぱいは顕微鏡を取り出して机の上に置いた。
せんぱいはぼさぼさの髪の毛のまま、しゃがみ込むと、ガラス板に緑色の水を一滴取った。
そのガラス板がプレパラートってやつなことは知っている。
顕微鏡に慣れた手つきでセットすると「どーぞ」と言った。

僕に見ろって事なのだろう。

ボルボックス? はけっこう水玉みたいな感じだ。
丸い中に丸いのがふわふわしている。
植物か動物かも分からないそれは緑色の水玉だった。

「これは、なに……?」
「だから、ボルボックスだよ」

せんぱいは声をあげて面白そうに笑う。

「だから、ボルボックスって――」
「緑藻の一種だね」

でも、かわいいだろう。
せんぱいが楽しそうに言うので思わず頷いてしまう。
なにかそういう力がせんぱいの言葉にはあった。
小さな小さな緑色の粒は、面白いものかそうでないものなのかもよく分からない。
だけど、このせんぱいが言うとそれがとても素敵な物じゃないかと思えた。
ボルボックスってなんか不思議な感じだ。


「一人でこうやってすごしているんですか?」

楽しそうなのにもったいないと少しだけそう思った。
それにせんぱいはこのよれよれの見た目を差し引いても、人好きのするタイプに思える。
こうやって人気(ひとけ)のない理科室にいるのは不釣り合いな気がした。


「残念ながら、理科部の今現在の部員は俺一人だからね」

月水金は大体いるから、遊びに来ないかい?
先輩は入部を勧めてはこなかった。
ただ、暇だったらたまに理科室に遊びに来てというニュアンスでせんぱいは言った。
一人が好きな人なのかと思った。その位せんぱいはこの部屋になじんでいて道具の扱いにも手慣れていた。
でも、そういうことではないらしい。

だからだろうか。
それが気軽だったから、なのか、せんぱいの笑顔にはそういう魅力があったのかはよくわからないけれど、思わず「わかりました」と答えてしまっていた。
結局、ボルボックスが緑藻だということ以上のことはその日何もわからなかったけれど、少しだけワクワクとした気持ちで家に帰ることになった。

帰ってから記憶を頼りにボルボックスのスケッチをした。
まるい中にまるいのがある。

小さいものを小さく描くのは楽しかった。