私のAIは検索に100人かかる

 一年が過ぎた。

 ジムは相変わらず、体が弱かった。
 城と日本を年に数回、行き来するのがせいぜいで、まだ無理はできない。

 けれど、一つだけ確かに変わったことがある。
 治療とリハビリに前向きになったのだ。

 以前のジムはリハビリをすぐに投げ出していた。
 どうせ城の外に出る用もない。
 頑張る理由がなかった。

 でも今は違う。
 会いに行きたい人がいる。

 一秒でも長く、隣にいたい人がいる。
 だから、苦しいリハビリにも歯を食いしばって取り組むようになった。
 主治医が驚くほどの変わりようだった。

 その変化に誰よりも驚き、そして喜んだのはジムの両親である大公夫妻だった。
 二人は息子を深く愛していた。

 けれど、どれほど高名な医師を呼んでも、どれほど優れた治療法を探しても、ジム自身が未来を欲しがらなければどうにもならないことがあった。
 そんな息子が、今は汗をにじませながら、手すりにつかまって歩いている。

 「次に日本へ行くまでに、もう少し長く歩けるようになりたい」

 そう言ったジムの背中を、大公はしばらく黙って見つめていた。

 「……あの子に、外へ出たい理由ができたのだな」

 隣に立つ大公妃は、そっと目元を押さえた。

 「ええ。ようやく」

 王子が、遠い国の普通の女性に恋をした。
 本来なら簡単に頷ける話ではない。

 けれど大公夫妻は、その名も知らなかった日本の女性が、息子に生きる理由をくれたことを知っていた。
 だから二人は何も言わずに、ただ優しいまなざしでジムを見守っていた。

 外へ出たい理由ができると、人はこんなにも強くなれる。


 毎日のチャットは、今も続いている。

 『こんばんは、百合ちゃん。今日のヨーロッパはもう夜で、雨だよ』

 『おはよう、ジム君。今日の横浜は晴れだよ』

 もう、天気で嘘をつく必要はない。
 ありのままの空模様を伝え合える。
 それがどれほど幸せなことか、ジムは毎晩噛みしめていた。

 ある朝、百合がふと思い出したように聞いた。

 『ねえジム君。あの百人の執事さんたち。……まだ走ってるの?』

 ジムはくすりと笑った。

 『検索部隊は解散したよ。もう嘘をつかなくていいからね』

 『そっか。ちょっと寂しいかも』

 『でも、大事な時だけは招集するんだ』

 『え、なにそれ』

 『君の誕生日プレゼントを選ぶ時だけ、百人全員で真剣に会議をする。
 去年は三日かかった』

 『三日!?』

 『フランソワが「マグロを空輸すべきだ」と譲らなかった。
 ルイは「肖像画を描く」と言い張るし、チャールズは「ビットコインを贈れ」と言い出すし、もう収拾がつかなかった』

 『何その会議(笑)』

 『最終的に、じいが一言。「花になさい」で決まった』

 『おじいさん、素敵だね』

 画面の向こうで、百合がけらけら笑っているのが分かる。

 ジムには、もう分かるのだ。
 文字だけでも、百合が今どんな顔で笑っているのか。

 検索しなくても。執事を呼ばなくても。
 胸の奥で、ちゃんと感じ取れる。


 その夜。
 ジムが日本に滞在している、数少ない貴重な夜だった。

 二人は、百合の部屋で並んで座っていた。

 「ねえジム君。今日はね、私の一番好きなアニメを一緒に観てほしいの」

 「例の、イヴァン隊長の?」

 「そう。『追突の巨人』」

 再生が始まる。

 画面の中では、夜ごと壁に追突してくる巨人を相手に、一個の部隊が命がけで壁を守り抜こうとしていた。

 ジムは、しばらく無言で観ていた。
 そして、正直に言った。

 「……百合ちゃん。なぜ、巨人は壁にぶつかってくるんだ?」

 「ふふ。それはね、いろいろ深い理由があるの。観ていけば分かるよ」

 ジムは釈然としないまま画面を見つめた。

 本来、理屈の通らないものは苦手である。
 けれど、隣の百合があまりに目を輝かせているので、何も言えなかった。

 そして、その瞬間が訪れた。
 画面に一人の隊長が現れる。
 小柄で寡黙な男だった。

 彼は壁の前にすっと立ち、低い声で言い放つ。

 『この壁を、絶対、防御してやる』

 百合の様子が一変した。

 「きゃーーーっ! 出た! イヴァン隊長ーーっ! 
 かっこいい! もう、ほんと、かっこいいの! 小さいのに強くて、誰よりも熱くて
 ……はぁ……尊い……っ」

 ジムは、その横顔をじっと見つめた。

 自分と話している時とは、明らかに違う。
 いや、もしかすると自分に向けるより、ずっと熱がこもっている。

 胸の奥で、ちりっと小さな火花が散った。
 それが何という感情なのか。

 理解するのに三十三秒かかった。
 ヤキモチだ。

 「……百合ちゃん。その、イヴァン隊長は。そんなにいいの?」

 声に、少しだけ棘が出た。

 百合はきょとんとして、それからいたずらっぽく笑った。

 「あれ? ジム君、もしかして……ヤキモチやいてる?」

 「っ……やいてない」

 「やいてるーー! ふふっ、可愛い!」

 ジムは言葉に詰まった。

 五カ国語を操る王子が、アニメのキャラクターに嫉妬している。
 あまりの滑稽さに、自分でも笑えてくるほどだった。

 百合はくすくす笑いながら、ジムの肩に、こてんと頭を預けた。

 「大丈夫だよ、ジム君」

 その声は、やわらかかった。

 「私ね、昔はほんとに、二次元の男性しか好きになれなかったの。
 現実の人は、怖くて。
 だから、イヴァン隊長が初恋で、それで十分だって思ってた」

 ジムは黙って聞いていた。

 「でも今は隣にジム君がいる。
 現実の人を本気で好きになれる日が来るなんて、一年前の私は思ってもみなかったよ」

 百合は、ジムの手にそっと触れた。

 「それって、ジム君がくれた奇跡なんだよ。だから、ありがとう」

 ジムは、何も言えなかった。

 胸がいっぱいになって、また言葉が出てこない。
 三十三秒の沈黙が訪れる。

 百合は、それを待ってくれた。
 もう彼女は、この沈黙が何を意味するのか知っている。

 やがて、ジムはようやく絞り出した。

 「……僕は、君の隣にいられて。世界でいちばん幸せだ」

 「うん。伝わったよ」

 百合は微笑んだ。それから、ふと思い出したように付け加える。

 「あ。でもね、ジム君。
 イヴァン隊長もやっぱり好きだから。そこは別腹ね」

 ジムは、がっくり肩を落とした。

 「……その別腹は、なんとかならないの?」

 「ならなーい!」

 百合は楽しそうに笑った。

 画面の中では、イヴァン隊長が今日もまっすぐに壁を守っている。
 その隣で現実の王子が、画面の中の隊長に本気で嫉妬しながら。

 けれど誰よりも幸せそうに笑う女の子の横顔を、見つめていた。
 もう、嘘はない。

 三十三秒の沈黙は、これからも二人のあいだに何度も訪れるだろう。
 でも、その意味を百合はもう知っている。

 伝わっているのだ。

 検索しなくても。ちゃんと。
 胸のいちばん奥まで。
 窓の外では、横浜の夜空に星が瞬いていた。

 そして、遠いヘンダーソン城では——
 来月の百合の誕生日プレゼントを巡って、百人の執事たちが、また廊下を全力で走り回っている。

 (了)