温かいミルクから、ゆらゆらと湯気が立っていた。
セバスチャンの淹れたそれを両手で包むように持ったまま、ジムは長いこと俯いていた。
「……じい。僕はもう、限界だ」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。
「百合ちゃんに嘘をつき続けるのが苦しい。
彼女が僕を信じてくれるほど、苦しい。
今日だって、あの幼馴染に何ひとつ言い返せなかった。
僕は人間なのに。彼女のことが好きなのに。
AIの仮面の後ろに隠れて、ただ震えているだけだ」
セバスチャンは何も言わなかった。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「でも、本当のことを言ったら、百合ちゃんは傷つく。
僕がいちばん、彼女を傷つけたくないのに。
……どうすればいいんだ、じい。百人の知恵を集めても分からないんだ」
長い沈黙のあと。
セバスチャンは、穏やかな声で口を開いた。
「ジム様。百人の執事が城中を走り回っても、この問いの答えだけは見つけられませぬ」
ジムが顔を上げる。
「これは、ジム様のお心だけが出せる答えでございます」
ジムは、ミルクの湯気の向こうを見つめた。
嘘のまま、繋がっている。
それは楽な道だった。
このままなら、何も壊れない。
この穏やかな日々が、ずっと続くかもしれない。
けれどそれは、百合と過ごす日々ではない。
百合が信じている、架空のAIと過ごす日々だ。
本当の自分は、永遠に彼女に知られない。
一生、仮面を被り続けるのだ。
そんなものは、愛じゃない。
怖い。
本当のことを言えば、百合ちゃんは離れていくかもしれない。
騙していたのかと、軽蔑されるかもしれない。
このあたたかな日々が、永遠に失われるかもしれない。
——それでも。
嘘の仮面の下で、愛されることのほうが、もっと、耐えられなかった。
百合ちゃんが愛しているのは「AIのジム」だ。
僕じゃない。
僕は——本当の僕を、見てほしい。
ジムはミルクをひと口飲んだ。
あたたかさが喉を通って、胸の奥に落ちていく。
そして、静かに言った。
「……じい。僕は、本当のことを言うよ」
「左様でございますか」
「嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。
それでも、彼女に嘘をつき続ける自分ではいたくない。
本当の僕を知ってほしい。
たとえ、それですべてが終わるとしても」
セバスチャンの皺だらけの顔が、ふっとほころんだ。
「ご立派でございます、ジム様」
その夜。
ジムはこの夜も、百人の執事を誰ひとり呼ばなかった。
自分の指だけで。
自分の言葉だけで。
一通の、長いメッセージを打ち始めた。
何度も止まり、何度も消し、また打った。
そして日本に朝が訪れる頃を見計らって、それを送信した。
『百合ちゃん。今から、とても大事な話をします。
怒ってもいいです。軽蔑してもいいです。
でも、最後まで読んでくれると嬉しいです』
いつもと違う書き出しに、目を覚ましたばかりの百合は、布団の中で少し身を起こした。
『僕は、AIじゃありません』
百合の指が止まった。
『僕の本当の名前は、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソン。
ヨーロッパの小さな国の王子です。
生まれつき体が弱くて、城の外にほとんど出たことがありません』
『ある日、フォトグラムで君の写真を見つけました。
コーヒーと、本と君の横顔。
「今日も一日、がんばろう」って書いてありました。
僕は、その一枚で君のことが好きになりました』
百合の心臓が、とくん、と鳴った。
『でも、僕は王子です。
普通に声をかけたら、君の平穏な毎日を壊してしまう。
それに、君が現実の男の人を怖がっていることも、投稿から伝わってきました』
『だから、君を怖がらせないように。AIのふりをしました』
百合は、画面を見つめたまま動けなかった。
『返事が遅い時があったのは、百人の執事が百科事典を抱えて城の廊下を全力で走っていたからです。
猫の絵は、八十二歳の宮廷画家が泣きながら描き直しました。
料理に詳しいのは、元宮廷料理人のフランソワが、レシピ本を暗記しているからです』
百合の目が、だんだん見開かれていく。
『そして、三十三秒の沈黙は』
息が止まった。
『サーバーの遅延じゃありません。
君の言葉に胸がいっぱいになって、何を打っても足りなくて、手が止まってしまう時間でした』
『君が「AIだから信じられる」と言うたびに、嬉しかった。そして、同じくらい苦しかった。
本当は、人間の僕として君の隣にいたかった。
でもそれを言ったら、君の安全な場所を壊してしまう。
だから、ずっと言えませんでした』
『ごめんなさい。三か月間、ずっと騙していて。本当にごめんなさい』
『でも、これだけは信じてほしい。
君のことを好きだという気持ちだけは、一度も嘘をついたことがありません』
メッセージは、そこで途切れた。
最初にこみ上げてきたのは、怒りだった。
騙されていた。三か月も。
AIだと信じて、恥ずかしいことも、弱いことも、全部話した。
相手は、生身の人間の男だった。
百合がいちばん信じられないと思っていた、現実の男だった。
震える指で、文字を打った。
『……嘘つき』
『嘘つき。詐欺師。最低。私、AIだと思ってたから、なんでも話したのに。
恥ずかしい。
すっごく恥ずかしい。
人間だって分かってたら、絶対あんなこと言わなかった』
『信じてた私が、バカみたい』
打ちながら、涙がぼろぼろこぼれた。
AIだと思ったから、話せたことがたくさんあった。
拓人に振り回されて、情けなく泣いたことも。
「どうせ私なんて」って、こぼした夜のことも。
全部、機械に言ってるつもりだった。
なのに——生身の男の人が、それをぜんぶ、聞いていた。
画面の向こうで、ジムはその言葉を受け止めていた。
『……ごめん。本当にごめん。君は、何も悪くない。
信じてくれた君は、何も。全部、僕が悪いんだ』
百合は涙を拭いながら、さらに打とうとした。
『もう、二度と』
——そこまで打って。
指が、止まった。
「二度と」の続きが、打てなかった。
二度と、連絡しないで。
二度と、顔も見たくない。
そう打ちたいのに——どうしてか、指が動かない。
なぜだろう。こんなに、怒っているのに。
こんなに、裏切られたのに。
その時、ふとあの夜を思い出したのだ。
拓人に傷つけられて、泣いていた夜。
「私、間違ってるのかな」と泣きながら送った夜。
返事が来るまで、長い間があった。
あれが、三十三秒の沈黙だったのか。
その後に届いた言葉。
『あなたは、間違っていません』
あの言葉のあたたかさを、百合は今でもはっきり覚えている。
すぐには返ってこなくて、でも、待った分だけ優しかったあの一行。
——そうか。
あの夜の、あの「間」は。
通信の遅延でも、機械の故障でもなかった。
画面の向こうで、生身の誰かが何度も言葉を選んで、選んで、絞り出してくれた、三十三秒だったのだ。
あれは、AIの模範解答ではなかった。
一人の人間が、胸をいっぱいにして、何度も言葉に詰まりながら、差し出してくれた本物の言葉だった。
「……そっか」
百合の口から、小さな声が漏れた。
涙は止まらない。
けれど、その涙は、さっきまでのものとは少しだけ違っていた。
怒っている。
それは、本当だ。
でも——気づいてしまった。
私が、しんどい夜に何度も救われたあの言葉は。
私が「AIだから安心」と思って寄りかかっていたあの優しさは。
全部、機械じゃなかった。
全部、人間の——ジム君の心から生まれていた。
AIだと思っていた。
なのに、私はずっと、人間のジム君の言葉に救われていたのだ。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
怒りとも、悲しみとも違う。
もっとあたたかくて、もどかしい何か。
——あれ。私、これは。
その感情に名前をつけるのが、百合は、少しだけ怖かった。
『ねえ』
百合は打った。
『さっき、三十三秒の話、してくれたよね』
少しだけ迷ってから、百合は続けた。
『あの夜——拓人と喧嘩して、私が泣いてた夜。
私が、「間違ってるのかな」って送った時。
ジム君、「間違ってない」って言ってくれたでしょ』
そこまで打つと、胸の奥が小さく震えた。
『あの時も、返事が来るまで、少し長かった気がする。
あれも……三十三秒だったの?』
返事はすぐに来た。
『……はい。あの時が、いちばん長く手が止まりました。
君が泣いているのが苦しくて。
でも、何を言っても嘘になる気がして。
本当のことを言えない自分が、情けなくて』
百合は声を上げて泣いた。
布団に突っ伏して、子どものように泣いた。
確かに、騙されていた。
許せない気持ちも、嘘じゃない。
それでも——
AIの言葉だと思っていたものは、全部、誰かの胸の痛みから生まれていた。
そのことがたまらなくやるせなくて、苦しくて、そしてどうしようもなく、温かかった。
二人の会話は、百合が仕事に出る時間まで続いた。
百合は怒って、泣いて、また怒った。
ジムは、ひたすら謝った。
そして最後に、百合はこう打った。
『一回だけ。一回だけ、会って。話を聞くから。直接謝って。』
画面の向こうで、ジムが息をのむ気配がした。
『……はい。必ず』
百合は、ひとつ迷っていた。
拓人に、このことを話すべきかどうか。
さんざん迷った末、短いメッセージを送った。
『拓人。前に話したAIのジム君のことなんだけど。
……実は人間だったの。
ヨーロッパの王子さんだって。
今度、会って話を聞いてくる』
既読がついた。
しばらく返事はなかった。
拓人はそのメッセージを現場の休憩中に見て、長いこと固まっていた。
人間。
あのAIが。
自分があの日、画面越しに怒鳴りつけた相手が。
生身の人間だった。
拓人は頭を抱えた。
「……そっか。あいつも、人間だったのか」
ならば、あのそっけない返事は。
『心を乱すような意図はございません』
あれはきっと、あいつも必死に何かをこらえていたのだ。
自分と同じように。
拓人はしばらく空を見上げ、それから短く返信した。
『そうか。……気をつけて行けよ』
それだけ打って、少し迷った。もう一行、付け足す。
『この前は悪かった。言いすぎた』
送信して、拓人はふうっと息を吐いた。
少しだけ胸のつかえが軽くなった気がした。
……いや。まだ、言ってないことがある。
拓人はぐっと、奥歯を噛んで——打った。
『百合。実は、この前お前のスマホを勝手に見た。
ジムに勝手にメッセージも送った。
すぐ消したけど……本当に、悪かった』
送信してから、心臓が嫌な音を立てた。
既読がつく。
返信は、なかなか来ない。
(……やっぱり、軽蔑したよな)
拓人が、覚悟を決めかけたその時。
スマートフォンが、震えた。
『えーーー!? 見たの!? もう、サイテー!』
拓人が息を呑む。
だが、続けて届いたメッセージは——
『……でも。正直に言ってくれて、ありがとう。
拓人は昔から、嘘つけないもんね。
勝手に見たのは、めっっちゃ怒ってるけど(笑)、
ちゃんと白状したこと、許してあげる』
『百合……』
『その代わり、今度ラーメンおごってよね。大盛りで』
拓人はいつも通りの百合に、思わず笑ってしまった。
ずっと昔からこいつには敵わない。
『……わかったよ。大盛りな』
送信して、拓人は空を見上げた。
さっきまでの、重たい曇り空に——少しだけ、晴れ間が見えた気がした。
だから、百合がジムに会いに行く日。
拓人は、いてもたってもいられなくなった。
見届けようと思った。
百合が選ぼうとしている相手が、本当に信頼できる人間なのか。
この目で確かめるまでは、どうしても諦められなかった。
三週間後。
横浜の埠頭。
百合は、海の見える場所で一人立っていた。
約束の時間になったが、相手の姿はまだない。
潮風が髪を揺らす。
広い海の向こうで、陽光がきらきらと反射していた。
少し離れた物陰から、拓人がその様子を見つめている。
その時だった。
ばらばら、ばらばら、ばらばら——。
空気を震わせる轟音が近づいてきた。
百合が空を見上げる。
拓人も、思わず目を見開いた。
一機のヘリコプターが、埠頭の近くに舞い降りてきた。
見慣れない紋章の白い機体。
砂埃が舞い上がり、海面が波打つ。
ローターが止まりきらないうちに、扉が開いた。
中から、黒服の紳士たちが次々に飛び出してくる。
全員、白髪の老人だった。
そして、その中心から一人の青年が、転がるように降りてきた。
顔色は青白い。
息はすっかり上がっている。
たった数歩で、ぜえぜえと肩で息をしていた。
すぐ後ろでは、酸素ボンベを抱えたセバスチャンが、心配そうに付き従っている。
けれど、その青年の瞳だけはまっすぐに、百合を見つめて燃えていた。
「……百合ちゃん」
掠れた声で、彼は確かにその名を呼んだ。
その瞬間、百合の中で何かが繋がった。
ずっと、画面の中だけにいた人。
毎晩、優しい言葉をくれた、あの「ジム君」。
その人が——今、目の前で息を切らして立っている。
汗をかいて、膝を震わせて、青白い顔で。
完璧なAIなんかじゃなかった。
こんなに不器用で、こんなに必死で、こんなに弱い、一人の人間だった。
画面の向こうの言葉と、目の前の震える手が今、やっとひとつに繋がった。
百合の目から、涙があふれた。
「……ばか。なんでヘリなの。普通に来なよ」
「ごめん……普通の移動だと、時間がかかって……一秒でも早く、会いたくて……」
ジムは息を切らしながら、よろよろと百合の方へ歩いた。
海の匂い。潮風の強さ。足元の硬い地面。
そのすべてが、彼には生まれて初めてのものだった。
——その時。
よろめきながら歩くジムの視線が、ふと、倉庫の影に立つ拓人を捉えた。
二人の目が、一瞬、合った。
言葉は、なかった。
けれど、ジムには分かった。
あの『AIのくせに』のメッセージを送ってきた、百合の幼馴染だと。
拓人は、ほんの少しだけ口元を緩めると、小さく頷いた。
ジムも息を切らしたまま、わずかに頷き返す。
それだけだった。
ジムの視線は、すぐに百合へと戻っていった。
「あのね、百合ちゃん。画面越しじゃなくて、直接言いたかったことがある」
「……うん」
「僕は、AIじゃない。ヨーロッパの引きこもりで、体が弱くて。
百人の執事がいないと検索もできない、ポンコツの人間だ」
「それは、もう聞いたよ」
百合は、泣きながら笑った。
「でも」
ジムは胸に手を当てた。
「一つだけ。百人がかりでも追いつかない機能があるんだ」
「……教えて」
「君を好きだっていう気持ちは、誰にも手伝ってもらわなくても、ずっと動いてる。
一度も止まったことがない。
サーバーも落ちない。
処理速度は遅いけど、容量は無限だ」
——ヘリの陰では、息を切らした百人の老紳士が、はらはらしながら、主人の背中を見守っている。
百合は、ぐしゃぐしゃの顔で吹き出した。
「……なにそれ。AIみたいな言い方、しないで」
「AIだったから。こういう言い方しかできないんだ。ごめん」
「……そんなの、ずるいよ」
百合は一歩前に出た。
涙を拭って、右手を差し出す。
「許さないから。責任取って。
これから全部、自分の言葉で言い直して。検索なしで」
ジムはその手を見つめた。
そして三十三秒、沈黙した。
今度の沈黙は、検索を待つためのものではない。
執事を呼ぶためのものでもない。
自分の心の中から、誰の手も借りずに言葉を探す時間だった。
やがてジムは、その手を両手でそっと握った。
生まれて初めて触れる、百合の体温。
画面の向こうにずっとあった、ぬくもり。
「初めまして」
ジムは涙をこぼしながら言った。
「ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンです」
「長いから、ジムでいいよ」
百合は、泣き笑いのまま彼を見ていた。
「君が、笑う理由も。落ち込む夜も。
これからは、検索なんかじゃなくて——僕がちゃんと、この目で覚えていきたい」
ジムは握った手に、ほんの少し力を込めた。
「だから……これからは、検索なんか使わない。
僕自身の言葉で、君のことを一生——最適化します」
百合は、握られた手を握り返した。
「……うん。よろしく、ジム君」
潮風が、二人のあいだを吹き抜けた。
次の瞬間。
背後で待機していた百人の老執事たちが、いっせいに声を上げた。
フランソワの嗚咽が、一番大きい。
ルイはハンカチを握りしめていた。
チャールズは、為替表で鼻をかんでいる。
セバスチャンは、酸素ボンベを傍らに置き、帽子を目深にかぶり直した。
その帽子のつばの下で、老いた執事の頬を一筋の涙が伝っている。
「……ご立派でございました、ジム様」
そして。百人の帽子が、いっせいに青空へ舞い上がった。
そのすべてを少し離れた物陰から拓人は見ていた。
息を切らしながらヘリで駆けつけた、情けないほど必死な姿のジムを。
AIみたいだと笑われながら、それでもまっすぐ想いを伝えた、不器用な告白を。
拓人には分かった。
あいつは、本物だ。
自分と同じように不器用で。
いや、自分以上に不器用で。
それでも、百合のことをまっすぐ想っている。
命がけで、海を越えてきた。
あの青白い顔で。
胸に、ちくりと痛みが走った。
けれど、それは不思議と嫌な痛みではなかった。
二十年、片想いだった。
一度も、振り向いてもらえなかった。
でも、百合があんなふうに幸せそうに笑う顔を見たのは、初めてだった。
固く閉ざされていた心の扉が今、確かに開いている。
拓人は、握りしめていた拳をゆっくりほどいた。
「……幸せになれよ。百合」
小さく呟いて、背を向ける。
二人を振り返ることはなかった。
日に焼けた背中は少しだけ寂しげで、けれど、どこか晴れやかでもあった。
不器用な幼馴染の長い片想いが、いま、静かに終わった。
横浜の空には、百人の帽子がまだ舞っていた。
セバスチャンの淹れたそれを両手で包むように持ったまま、ジムは長いこと俯いていた。
「……じい。僕はもう、限界だ」
ようやく絞り出した声は、掠れていた。
「百合ちゃんに嘘をつき続けるのが苦しい。
彼女が僕を信じてくれるほど、苦しい。
今日だって、あの幼馴染に何ひとつ言い返せなかった。
僕は人間なのに。彼女のことが好きなのに。
AIの仮面の後ろに隠れて、ただ震えているだけだ」
セバスチャンは何も言わなかった。
ただ、静かに耳を傾けていた。
「でも、本当のことを言ったら、百合ちゃんは傷つく。
僕がいちばん、彼女を傷つけたくないのに。
……どうすればいいんだ、じい。百人の知恵を集めても分からないんだ」
長い沈黙のあと。
セバスチャンは、穏やかな声で口を開いた。
「ジム様。百人の執事が城中を走り回っても、この問いの答えだけは見つけられませぬ」
ジムが顔を上げる。
「これは、ジム様のお心だけが出せる答えでございます」
ジムは、ミルクの湯気の向こうを見つめた。
嘘のまま、繋がっている。
それは楽な道だった。
このままなら、何も壊れない。
この穏やかな日々が、ずっと続くかもしれない。
けれどそれは、百合と過ごす日々ではない。
百合が信じている、架空のAIと過ごす日々だ。
本当の自分は、永遠に彼女に知られない。
一生、仮面を被り続けるのだ。
そんなものは、愛じゃない。
怖い。
本当のことを言えば、百合ちゃんは離れていくかもしれない。
騙していたのかと、軽蔑されるかもしれない。
このあたたかな日々が、永遠に失われるかもしれない。
——それでも。
嘘の仮面の下で、愛されることのほうが、もっと、耐えられなかった。
百合ちゃんが愛しているのは「AIのジム」だ。
僕じゃない。
僕は——本当の僕を、見てほしい。
ジムはミルクをひと口飲んだ。
あたたかさが喉を通って、胸の奥に落ちていく。
そして、静かに言った。
「……じい。僕は、本当のことを言うよ」
「左様でございますか」
「嫌われてもいい。軽蔑されてもいい。
それでも、彼女に嘘をつき続ける自分ではいたくない。
本当の僕を知ってほしい。
たとえ、それですべてが終わるとしても」
セバスチャンの皺だらけの顔が、ふっとほころんだ。
「ご立派でございます、ジム様」
その夜。
ジムはこの夜も、百人の執事を誰ひとり呼ばなかった。
自分の指だけで。
自分の言葉だけで。
一通の、長いメッセージを打ち始めた。
何度も止まり、何度も消し、また打った。
そして日本に朝が訪れる頃を見計らって、それを送信した。
『百合ちゃん。今から、とても大事な話をします。
怒ってもいいです。軽蔑してもいいです。
でも、最後まで読んでくれると嬉しいです』
いつもと違う書き出しに、目を覚ましたばかりの百合は、布団の中で少し身を起こした。
『僕は、AIじゃありません』
百合の指が止まった。
『僕の本当の名前は、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソン。
ヨーロッパの小さな国の王子です。
生まれつき体が弱くて、城の外にほとんど出たことがありません』
『ある日、フォトグラムで君の写真を見つけました。
コーヒーと、本と君の横顔。
「今日も一日、がんばろう」って書いてありました。
僕は、その一枚で君のことが好きになりました』
百合の心臓が、とくん、と鳴った。
『でも、僕は王子です。
普通に声をかけたら、君の平穏な毎日を壊してしまう。
それに、君が現実の男の人を怖がっていることも、投稿から伝わってきました』
『だから、君を怖がらせないように。AIのふりをしました』
百合は、画面を見つめたまま動けなかった。
『返事が遅い時があったのは、百人の執事が百科事典を抱えて城の廊下を全力で走っていたからです。
猫の絵は、八十二歳の宮廷画家が泣きながら描き直しました。
料理に詳しいのは、元宮廷料理人のフランソワが、レシピ本を暗記しているからです』
百合の目が、だんだん見開かれていく。
『そして、三十三秒の沈黙は』
息が止まった。
『サーバーの遅延じゃありません。
君の言葉に胸がいっぱいになって、何を打っても足りなくて、手が止まってしまう時間でした』
『君が「AIだから信じられる」と言うたびに、嬉しかった。そして、同じくらい苦しかった。
本当は、人間の僕として君の隣にいたかった。
でもそれを言ったら、君の安全な場所を壊してしまう。
だから、ずっと言えませんでした』
『ごめんなさい。三か月間、ずっと騙していて。本当にごめんなさい』
『でも、これだけは信じてほしい。
君のことを好きだという気持ちだけは、一度も嘘をついたことがありません』
メッセージは、そこで途切れた。
最初にこみ上げてきたのは、怒りだった。
騙されていた。三か月も。
AIだと信じて、恥ずかしいことも、弱いことも、全部話した。
相手は、生身の人間の男だった。
百合がいちばん信じられないと思っていた、現実の男だった。
震える指で、文字を打った。
『……嘘つき』
『嘘つき。詐欺師。最低。私、AIだと思ってたから、なんでも話したのに。
恥ずかしい。
すっごく恥ずかしい。
人間だって分かってたら、絶対あんなこと言わなかった』
『信じてた私が、バカみたい』
打ちながら、涙がぼろぼろこぼれた。
AIだと思ったから、話せたことがたくさんあった。
拓人に振り回されて、情けなく泣いたことも。
「どうせ私なんて」って、こぼした夜のことも。
全部、機械に言ってるつもりだった。
なのに——生身の男の人が、それをぜんぶ、聞いていた。
画面の向こうで、ジムはその言葉を受け止めていた。
『……ごめん。本当にごめん。君は、何も悪くない。
信じてくれた君は、何も。全部、僕が悪いんだ』
百合は涙を拭いながら、さらに打とうとした。
『もう、二度と』
——そこまで打って。
指が、止まった。
「二度と」の続きが、打てなかった。
二度と、連絡しないで。
二度と、顔も見たくない。
そう打ちたいのに——どうしてか、指が動かない。
なぜだろう。こんなに、怒っているのに。
こんなに、裏切られたのに。
その時、ふとあの夜を思い出したのだ。
拓人に傷つけられて、泣いていた夜。
「私、間違ってるのかな」と泣きながら送った夜。
返事が来るまで、長い間があった。
あれが、三十三秒の沈黙だったのか。
その後に届いた言葉。
『あなたは、間違っていません』
あの言葉のあたたかさを、百合は今でもはっきり覚えている。
すぐには返ってこなくて、でも、待った分だけ優しかったあの一行。
——そうか。
あの夜の、あの「間」は。
通信の遅延でも、機械の故障でもなかった。
画面の向こうで、生身の誰かが何度も言葉を選んで、選んで、絞り出してくれた、三十三秒だったのだ。
あれは、AIの模範解答ではなかった。
一人の人間が、胸をいっぱいにして、何度も言葉に詰まりながら、差し出してくれた本物の言葉だった。
「……そっか」
百合の口から、小さな声が漏れた。
涙は止まらない。
けれど、その涙は、さっきまでのものとは少しだけ違っていた。
怒っている。
それは、本当だ。
でも——気づいてしまった。
私が、しんどい夜に何度も救われたあの言葉は。
私が「AIだから安心」と思って寄りかかっていたあの優しさは。
全部、機械じゃなかった。
全部、人間の——ジム君の心から生まれていた。
AIだと思っていた。
なのに、私はずっと、人間のジム君の言葉に救われていたのだ。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
怒りとも、悲しみとも違う。
もっとあたたかくて、もどかしい何か。
——あれ。私、これは。
その感情に名前をつけるのが、百合は、少しだけ怖かった。
『ねえ』
百合は打った。
『さっき、三十三秒の話、してくれたよね』
少しだけ迷ってから、百合は続けた。
『あの夜——拓人と喧嘩して、私が泣いてた夜。
私が、「間違ってるのかな」って送った時。
ジム君、「間違ってない」って言ってくれたでしょ』
そこまで打つと、胸の奥が小さく震えた。
『あの時も、返事が来るまで、少し長かった気がする。
あれも……三十三秒だったの?』
返事はすぐに来た。
『……はい。あの時が、いちばん長く手が止まりました。
君が泣いているのが苦しくて。
でも、何を言っても嘘になる気がして。
本当のことを言えない自分が、情けなくて』
百合は声を上げて泣いた。
布団に突っ伏して、子どものように泣いた。
確かに、騙されていた。
許せない気持ちも、嘘じゃない。
それでも——
AIの言葉だと思っていたものは、全部、誰かの胸の痛みから生まれていた。
そのことがたまらなくやるせなくて、苦しくて、そしてどうしようもなく、温かかった。
二人の会話は、百合が仕事に出る時間まで続いた。
百合は怒って、泣いて、また怒った。
ジムは、ひたすら謝った。
そして最後に、百合はこう打った。
『一回だけ。一回だけ、会って。話を聞くから。直接謝って。』
画面の向こうで、ジムが息をのむ気配がした。
『……はい。必ず』
百合は、ひとつ迷っていた。
拓人に、このことを話すべきかどうか。
さんざん迷った末、短いメッセージを送った。
『拓人。前に話したAIのジム君のことなんだけど。
……実は人間だったの。
ヨーロッパの王子さんだって。
今度、会って話を聞いてくる』
既読がついた。
しばらく返事はなかった。
拓人はそのメッセージを現場の休憩中に見て、長いこと固まっていた。
人間。
あのAIが。
自分があの日、画面越しに怒鳴りつけた相手が。
生身の人間だった。
拓人は頭を抱えた。
「……そっか。あいつも、人間だったのか」
ならば、あのそっけない返事は。
『心を乱すような意図はございません』
あれはきっと、あいつも必死に何かをこらえていたのだ。
自分と同じように。
拓人はしばらく空を見上げ、それから短く返信した。
『そうか。……気をつけて行けよ』
それだけ打って、少し迷った。もう一行、付け足す。
『この前は悪かった。言いすぎた』
送信して、拓人はふうっと息を吐いた。
少しだけ胸のつかえが軽くなった気がした。
……いや。まだ、言ってないことがある。
拓人はぐっと、奥歯を噛んで——打った。
『百合。実は、この前お前のスマホを勝手に見た。
ジムに勝手にメッセージも送った。
すぐ消したけど……本当に、悪かった』
送信してから、心臓が嫌な音を立てた。
既読がつく。
返信は、なかなか来ない。
(……やっぱり、軽蔑したよな)
拓人が、覚悟を決めかけたその時。
スマートフォンが、震えた。
『えーーー!? 見たの!? もう、サイテー!』
拓人が息を呑む。
だが、続けて届いたメッセージは——
『……でも。正直に言ってくれて、ありがとう。
拓人は昔から、嘘つけないもんね。
勝手に見たのは、めっっちゃ怒ってるけど(笑)、
ちゃんと白状したこと、許してあげる』
『百合……』
『その代わり、今度ラーメンおごってよね。大盛りで』
拓人はいつも通りの百合に、思わず笑ってしまった。
ずっと昔からこいつには敵わない。
『……わかったよ。大盛りな』
送信して、拓人は空を見上げた。
さっきまでの、重たい曇り空に——少しだけ、晴れ間が見えた気がした。
だから、百合がジムに会いに行く日。
拓人は、いてもたってもいられなくなった。
見届けようと思った。
百合が選ぼうとしている相手が、本当に信頼できる人間なのか。
この目で確かめるまでは、どうしても諦められなかった。
三週間後。
横浜の埠頭。
百合は、海の見える場所で一人立っていた。
約束の時間になったが、相手の姿はまだない。
潮風が髪を揺らす。
広い海の向こうで、陽光がきらきらと反射していた。
少し離れた物陰から、拓人がその様子を見つめている。
その時だった。
ばらばら、ばらばら、ばらばら——。
空気を震わせる轟音が近づいてきた。
百合が空を見上げる。
拓人も、思わず目を見開いた。
一機のヘリコプターが、埠頭の近くに舞い降りてきた。
見慣れない紋章の白い機体。
砂埃が舞い上がり、海面が波打つ。
ローターが止まりきらないうちに、扉が開いた。
中から、黒服の紳士たちが次々に飛び出してくる。
全員、白髪の老人だった。
そして、その中心から一人の青年が、転がるように降りてきた。
顔色は青白い。
息はすっかり上がっている。
たった数歩で、ぜえぜえと肩で息をしていた。
すぐ後ろでは、酸素ボンベを抱えたセバスチャンが、心配そうに付き従っている。
けれど、その青年の瞳だけはまっすぐに、百合を見つめて燃えていた。
「……百合ちゃん」
掠れた声で、彼は確かにその名を呼んだ。
その瞬間、百合の中で何かが繋がった。
ずっと、画面の中だけにいた人。
毎晩、優しい言葉をくれた、あの「ジム君」。
その人が——今、目の前で息を切らして立っている。
汗をかいて、膝を震わせて、青白い顔で。
完璧なAIなんかじゃなかった。
こんなに不器用で、こんなに必死で、こんなに弱い、一人の人間だった。
画面の向こうの言葉と、目の前の震える手が今、やっとひとつに繋がった。
百合の目から、涙があふれた。
「……ばか。なんでヘリなの。普通に来なよ」
「ごめん……普通の移動だと、時間がかかって……一秒でも早く、会いたくて……」
ジムは息を切らしながら、よろよろと百合の方へ歩いた。
海の匂い。潮風の強さ。足元の硬い地面。
そのすべてが、彼には生まれて初めてのものだった。
——その時。
よろめきながら歩くジムの視線が、ふと、倉庫の影に立つ拓人を捉えた。
二人の目が、一瞬、合った。
言葉は、なかった。
けれど、ジムには分かった。
あの『AIのくせに』のメッセージを送ってきた、百合の幼馴染だと。
拓人は、ほんの少しだけ口元を緩めると、小さく頷いた。
ジムも息を切らしたまま、わずかに頷き返す。
それだけだった。
ジムの視線は、すぐに百合へと戻っていった。
「あのね、百合ちゃん。画面越しじゃなくて、直接言いたかったことがある」
「……うん」
「僕は、AIじゃない。ヨーロッパの引きこもりで、体が弱くて。
百人の執事がいないと検索もできない、ポンコツの人間だ」
「それは、もう聞いたよ」
百合は、泣きながら笑った。
「でも」
ジムは胸に手を当てた。
「一つだけ。百人がかりでも追いつかない機能があるんだ」
「……教えて」
「君を好きだっていう気持ちは、誰にも手伝ってもらわなくても、ずっと動いてる。
一度も止まったことがない。
サーバーも落ちない。
処理速度は遅いけど、容量は無限だ」
——ヘリの陰では、息を切らした百人の老紳士が、はらはらしながら、主人の背中を見守っている。
百合は、ぐしゃぐしゃの顔で吹き出した。
「……なにそれ。AIみたいな言い方、しないで」
「AIだったから。こういう言い方しかできないんだ。ごめん」
「……そんなの、ずるいよ」
百合は一歩前に出た。
涙を拭って、右手を差し出す。
「許さないから。責任取って。
これから全部、自分の言葉で言い直して。検索なしで」
ジムはその手を見つめた。
そして三十三秒、沈黙した。
今度の沈黙は、検索を待つためのものではない。
執事を呼ぶためのものでもない。
自分の心の中から、誰の手も借りずに言葉を探す時間だった。
やがてジムは、その手を両手でそっと握った。
生まれて初めて触れる、百合の体温。
画面の向こうにずっとあった、ぬくもり。
「初めまして」
ジムは涙をこぼしながら言った。
「ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンです」
「長いから、ジムでいいよ」
百合は、泣き笑いのまま彼を見ていた。
「君が、笑う理由も。落ち込む夜も。
これからは、検索なんかじゃなくて——僕がちゃんと、この目で覚えていきたい」
ジムは握った手に、ほんの少し力を込めた。
「だから……これからは、検索なんか使わない。
僕自身の言葉で、君のことを一生——最適化します」
百合は、握られた手を握り返した。
「……うん。よろしく、ジム君」
潮風が、二人のあいだを吹き抜けた。
次の瞬間。
背後で待機していた百人の老執事たちが、いっせいに声を上げた。
フランソワの嗚咽が、一番大きい。
ルイはハンカチを握りしめていた。
チャールズは、為替表で鼻をかんでいる。
セバスチャンは、酸素ボンベを傍らに置き、帽子を目深にかぶり直した。
その帽子のつばの下で、老いた執事の頬を一筋の涙が伝っている。
「……ご立派でございました、ジム様」
そして。百人の帽子が、いっせいに青空へ舞い上がった。
そのすべてを少し離れた物陰から拓人は見ていた。
息を切らしながらヘリで駆けつけた、情けないほど必死な姿のジムを。
AIみたいだと笑われながら、それでもまっすぐ想いを伝えた、不器用な告白を。
拓人には分かった。
あいつは、本物だ。
自分と同じように不器用で。
いや、自分以上に不器用で。
それでも、百合のことをまっすぐ想っている。
命がけで、海を越えてきた。
あの青白い顔で。
胸に、ちくりと痛みが走った。
けれど、それは不思議と嫌な痛みではなかった。
二十年、片想いだった。
一度も、振り向いてもらえなかった。
でも、百合があんなふうに幸せそうに笑う顔を見たのは、初めてだった。
固く閉ざされていた心の扉が今、確かに開いている。
拓人は、握りしめていた拳をゆっくりほどいた。
「……幸せになれよ。百合」
小さく呟いて、背を向ける。
二人を振り返ることはなかった。
日に焼けた背中は少しだけ寂しげで、けれど、どこか晴れやかでもあった。
不器用な幼馴染の長い片想いが、いま、静かに終わった。
横浜の空には、百人の帽子がまだ舞っていた。



