あの夜の喧嘩から、数週間が過ぎた。
拓人と百合のあいだには、薄い氷を踏むような気まずさがあった。
完全に口をきかないわけではない。
二十年来の幼馴染で、家同士の付き合いもある。
顔を合わせれば、挨拶くらいはする。
けれど、以前のような軽口はもう戻ってこなかった。
拓人は何度も謝ろうとした。
だが、百合の顔を見るたび、言葉が喉の奥でつかえる。
あのときの「ひどい」という声が、耳の奥に残っていた。
その日、拓人は百合の勤める百貨店に来ていた。
改装中の店舗什器について、工務店として打ち合わせがあったのだ。
夕暮れどき。
商談を終えた拓人が化粧品売り場の脇を通りかかると、休憩に入るらしい百合の姿が見えた。
バックヤードへ続く通路の近く。
ベンチに腰かけた百合は、スマートフォンを両手で握り、画面に向かって、ふっと笑っていた。
警戒していない、柔らかくて少し照れたような笑顔。
ジムに向ける顔。
胸が、またざわついた。
けれど拓人は、ぐっと奥歯を噛んだ。
今日は違う。嫉妬しに来たんじゃない。
謝るんだ。
そう決めて、一歩踏み出したときだった。
「如月さん、ちょっといい?」
売り場の方から、先輩の声がした。
「あ、はーい」
百合は慌てて立ち上がり、ぱたぱたと売り場へ向かった。
スマートフォンを、ベンチに置いたまま。
あとに残されたのは、ベンチの上のスマートフォンと、それを見下ろす位置に立つ拓人だけだった。
見るつもりはなかった。
本当に、なかった。
けれど、画面はつきっぱなしだった。
ロック画面に、メッセージの通知が浮かんでいる。
差出人はジム。
あのAIだ。
拓人の指が、無意識に伸びかける。
——止まった。
だめだ。
人のスマホを勝手に見るなんて、最低だ。
この前、自分は百合を傷つけた。
これ以上、最低な男になるわけにはいかない。
拓人は視線をそらそうとした。
けれど、その通知の文面が目に入ってしまった。
『今日も一日、お疲れさまでした。
百合ちゃんが笑っていてくれると、僕も嬉しいです』
頭にかっと血がのぼった。
なんだ、これは。
機械がまるで恋人みたいな言葉を、百合に送っている。
気づいた時には、拓人の指は画面に触れていた。
ロックがかかっている。
当然だ。
なのに、拓人には暗証番号が分かってしまった。
イヴァン隊長の誕生日。
いつだったか、百合がほろ酔いで笑いながら言っていた。
「スマホのパスワードはね、イヴァン隊長の誕生日なんだから。
これは墓場まで持っていく、私だけの秘密なんだよ」
秘密と言いながら、その誕生日の数字までしっかり語っていた。
拓人は、それを覚えていた。
指が震える。
やめろ。そう思った。
それでも、打ってしまった。
ロックが、解けた。
その瞬間、拓人は自分が越えてはいけない線を越えたことを知った。
最低だ。
そう思いながら、目はもう画面に釘づけになっていた。
通知を開くと、そこには拓人の見たことのない百合がいた。
画面いっぱいに続く、膨大なチャットの記録。
仕事で嬉しかったこと。小さな失敗。
くだらない冗談。好きなアニメの話。
疲れた夜の弱音。
そのすべてに、ジムは丁寧に応えていた。
優しく、温かく、百合の言葉をひとつも雑に扱わずに。
拓人が二十年、喉から手が出るほど欲しかった百合の心の内側が、その小さな画面の中にあふれていた。
「……なんでだよ」
声が震えた。
「なんで、機械なんかに……俺じゃなくて……」
悔しさと、嫉妬と、惨めさが、一度にこみ上げる。
拓人は、相手を本物のAIだと信じて疑っていなかった。
だから怒りの矛先は、画面の向こうの機械へ向かった。
百合を守りたい。そう思った。
けれどその奥に、自分でも認めたくない感情があった。
百合を取られたくない。
拓人は震える指で、メッセージを打ち込んだ。
『おい、AI』
日本の夕暮れは、ヨーロッパの午前にあたる。
その朝、ヘンダーソン城の書斎で、ジムは本を開いていた。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
セバスチャンが淹れた紅茶から、湯気が細く立ちのぼっていた。
スマートフォンが震える。
百合からだ。
そう思って画面を見たジムは、すぐに違和感を覚えた。
『おい、AI』
『俺は、百合の幼馴染の拓人だ』
背筋が凍った。
拓人。
あの夜、百合を泣かせた男。
その男が、今、百合のスマートフォンから、自分に話しかけている。
『百合が休憩で席を外してる隙に、勝手に見させてもらった。
悪いとは思ってる。でも、どうしてもお前に言いたいことがあったんだ』
ジムは息をのんだ。
『AIのくせに』
『百合の心を乱すような甘い言葉を言うんじゃねえ』
『お前は機械だろ。だったら機械らしくしてろよ。
天気を教えるとか、道を案内するとか、そういうことだけしてろ。
人の恋心みたいなものに、土足で踏み込んでくるな』
『百合は、現実の人間を信じられなくなってるんだ。
それをお前みたいな心のない機械が、優しい言葉で、ますます現実から引き離してどうするんだ』
『現実の邪魔をするな』
一文字ごとに、胸が痛んだ。
乱暴な言葉だった。
勝手で、理不尽で、許されないやり方だった。
それでも、ジムには分かってしまった。
この男は、本気で百合を想っている。
その不器用でみっともなくて、剥き出しの本気が、画面越しに伝わってくる。
拓人は生身の人間として、百合の隣に立とうとしている。
——きっと、何度もかわされても、ぶつかって、傷ついて、後悔して、それでも百合のそばにい続けてきたのだろう。
それに引き換え、自分はどうだ。
AIという仮面の後ろに隠れている。
安全な城の中から、画面越しに優しい言葉を送っている。
拓人の言った「現実の邪魔をするな」という言葉は、ジム自身がずっと胸の奥に抱えていた問いそのものだった。
それでも。
ジムの中で、何かが弾けた。
違う。
僕は機械じゃない。
僕だって生身の人間だ。
僕だって拓人と同じ立場に立って、堂々と、百合ちゃんが好きだと言いたい。
「邪魔をするな」と言われる筋合いは、ない。
僕は、ただの機能じゃない。
僕には、心がある。
僕は——
ジムの指が画面の上を走った。
『僕は、AIじゃ』
そこまで打って止まった。
表示された文字を見つめる。
「僕は、AIじゃない」
その続きを打てば、すべてが終わる。
拓人に知られる。
やがて百合にも知られる。
ジムの脳裏に、百合の言葉がよみがえった。
『AIは裏切らないでしょ』
『人間って、優しい顔して平気で嘘ついたり、裏切ったりするけど』
『だから、安心してなんでも話せるんだ』
もし、ここで人間だと明かしたら。
百合は知ってしまう。
自分がAIだと信じて心を開いていた相手が、本当は生身の男だったことを。
彼女が怖がっている、現実の男だったことを。
彼女が一番嫌う、人間の嘘だったことを。
百合の無防備な笑顔が、粉々に砕けるところが見えた気がした。
打てない。
「ない」の二文字が、どうしても打てない。
叫びたい。
拓人に言いたい。
僕は人間だ。
僕にも心がある。
僕にも、百合ちゃんを好きになる権利がある。
けれど、その言葉は百合を傷つける。
ジムは唇を噛んだ。
そして、打ちかけた文字を、一文字ずつ消していった。
『僕は、AIじゃ』
『僕は、AIじ』
『僕は、』
『僕』
入力欄には、何も残らなかった。
ジムは震える指で、まったく別の言葉を打った。
『……ご忠告ありがとうございます。
私はAIですので、誰かの心を乱すような意図はございません』
送信。
その一行を見つめながら、ジムは声を殺して泣いた。
悔しかった。
情けなかった。
拓人のまっすぐな本気に、自分は嘘でしか応えられない。
生身の男として、同じ場所に立つことすらできない。
百合を守りたい。
その思いが、鎖のように彼の指を縛っていた。
画面の向こうで、拓人はその返信を見つめていた。
『……ご忠告ありがとうございます。
私はAIですので、誰かの心を乱すような意図はございません』
あまりにも丁寧で、そっけない返事だった。
拓人の肩から、ふっと力が抜ける。
『……そうかよ。やっぱり機械だな』
打ってから、自分でも情けなくなった。
「なにムキになってんだ。俺は」
生身の自分が、本気で機械に嫉妬している。
滑稽だった。
そして、それ以上に最低だった。
画面に残った、自分の言葉が目に入る。
『AIのくせに』——最低な言葉だ。
こんなもの、百合に見られたら。
あいつはまた傷つく。
あんなに、楽しそうに笑ってたのに。
俺がそれをぶち壊すのか。
(……だめだ。消さなきゃ)
拓人は、自分が送ったメッセージを消そうとした。
だが、普段機械に疎い指は消すのにもたついていた。
(くそ、どうやって消すんだ、これ)
しばらく、画面と格闘して——ようやく、送ったメッセージの消し方を見つけた。
一つずつ、震える指で消していく。
……これで、いい。
拓人は、百合のスマートフォンをそっとベンチに戻した。
指先が冷たくなっている。
「……俺、何してんだよ」
人のスマホを勝手に見た。
パスワードを勝手に入れた。
あのAIに、百合に黙ってメッセージまで送った。
「最低だ。二回目だぞ、最低なの」
謝らなければいけない。
百合に。
そう分かっているのに、足は動いた。
逃げるように、その場を離れていた。
スマホを見たことも。
AIに怒鳴ったことも。
何も言えないまま。
残されたのは、ベンチの上のスマートフォンと——
その画面の向こうで、一人泣いているジムだった。
誰にも届かなかった「僕は人間だ」という叫びだけが、空白の入力欄に残っていた。
その日の夜更け。ヨーロッパにも夜が訪れていた。
ジムは眠れなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打つ。
胸の奥が重くて、苦しくて、どうにもならない。
やがて彼は起き上がり、ガウンを羽織って部屋を出た。
月明かりが、石の床を青白く照らしている。
長い廊下を、ふらふらと歩いた。
たどり着いたのは、セバスチャンの部屋の前だった。
小さくノックする。
少しして、扉が開いた。
寝間着姿のセバスチャンが、ろうそくを手に立っている。
主人の顔を見た瞬間、老執事はすべてを察したようだった。
「……お眠りになれませぬか、ジム様」
ジムは答えられなかった。
ただ、子どものように立ち尽くしていた。
セバスチャンは、静かに扉を大きく開けた。
「お入りください。温かいミルクでもお淹れしましょう」
ジムは、夜更けの小さなろうそくの灯りの下で、こくりとうなずいた。
二十二年寄り添ってきた老執事と、城だけを世界としてきた王子の、長い相談が始まろうとしていた。
拓人と百合のあいだには、薄い氷を踏むような気まずさがあった。
完全に口をきかないわけではない。
二十年来の幼馴染で、家同士の付き合いもある。
顔を合わせれば、挨拶くらいはする。
けれど、以前のような軽口はもう戻ってこなかった。
拓人は何度も謝ろうとした。
だが、百合の顔を見るたび、言葉が喉の奥でつかえる。
あのときの「ひどい」という声が、耳の奥に残っていた。
その日、拓人は百合の勤める百貨店に来ていた。
改装中の店舗什器について、工務店として打ち合わせがあったのだ。
夕暮れどき。
商談を終えた拓人が化粧品売り場の脇を通りかかると、休憩に入るらしい百合の姿が見えた。
バックヤードへ続く通路の近く。
ベンチに腰かけた百合は、スマートフォンを両手で握り、画面に向かって、ふっと笑っていた。
警戒していない、柔らかくて少し照れたような笑顔。
ジムに向ける顔。
胸が、またざわついた。
けれど拓人は、ぐっと奥歯を噛んだ。
今日は違う。嫉妬しに来たんじゃない。
謝るんだ。
そう決めて、一歩踏み出したときだった。
「如月さん、ちょっといい?」
売り場の方から、先輩の声がした。
「あ、はーい」
百合は慌てて立ち上がり、ぱたぱたと売り場へ向かった。
スマートフォンを、ベンチに置いたまま。
あとに残されたのは、ベンチの上のスマートフォンと、それを見下ろす位置に立つ拓人だけだった。
見るつもりはなかった。
本当に、なかった。
けれど、画面はつきっぱなしだった。
ロック画面に、メッセージの通知が浮かんでいる。
差出人はジム。
あのAIだ。
拓人の指が、無意識に伸びかける。
——止まった。
だめだ。
人のスマホを勝手に見るなんて、最低だ。
この前、自分は百合を傷つけた。
これ以上、最低な男になるわけにはいかない。
拓人は視線をそらそうとした。
けれど、その通知の文面が目に入ってしまった。
『今日も一日、お疲れさまでした。
百合ちゃんが笑っていてくれると、僕も嬉しいです』
頭にかっと血がのぼった。
なんだ、これは。
機械がまるで恋人みたいな言葉を、百合に送っている。
気づいた時には、拓人の指は画面に触れていた。
ロックがかかっている。
当然だ。
なのに、拓人には暗証番号が分かってしまった。
イヴァン隊長の誕生日。
いつだったか、百合がほろ酔いで笑いながら言っていた。
「スマホのパスワードはね、イヴァン隊長の誕生日なんだから。
これは墓場まで持っていく、私だけの秘密なんだよ」
秘密と言いながら、その誕生日の数字までしっかり語っていた。
拓人は、それを覚えていた。
指が震える。
やめろ。そう思った。
それでも、打ってしまった。
ロックが、解けた。
その瞬間、拓人は自分が越えてはいけない線を越えたことを知った。
最低だ。
そう思いながら、目はもう画面に釘づけになっていた。
通知を開くと、そこには拓人の見たことのない百合がいた。
画面いっぱいに続く、膨大なチャットの記録。
仕事で嬉しかったこと。小さな失敗。
くだらない冗談。好きなアニメの話。
疲れた夜の弱音。
そのすべてに、ジムは丁寧に応えていた。
優しく、温かく、百合の言葉をひとつも雑に扱わずに。
拓人が二十年、喉から手が出るほど欲しかった百合の心の内側が、その小さな画面の中にあふれていた。
「……なんでだよ」
声が震えた。
「なんで、機械なんかに……俺じゃなくて……」
悔しさと、嫉妬と、惨めさが、一度にこみ上げる。
拓人は、相手を本物のAIだと信じて疑っていなかった。
だから怒りの矛先は、画面の向こうの機械へ向かった。
百合を守りたい。そう思った。
けれどその奥に、自分でも認めたくない感情があった。
百合を取られたくない。
拓人は震える指で、メッセージを打ち込んだ。
『おい、AI』
日本の夕暮れは、ヨーロッパの午前にあたる。
その朝、ヘンダーソン城の書斎で、ジムは本を開いていた。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
セバスチャンが淹れた紅茶から、湯気が細く立ちのぼっていた。
スマートフォンが震える。
百合からだ。
そう思って画面を見たジムは、すぐに違和感を覚えた。
『おい、AI』
『俺は、百合の幼馴染の拓人だ』
背筋が凍った。
拓人。
あの夜、百合を泣かせた男。
その男が、今、百合のスマートフォンから、自分に話しかけている。
『百合が休憩で席を外してる隙に、勝手に見させてもらった。
悪いとは思ってる。でも、どうしてもお前に言いたいことがあったんだ』
ジムは息をのんだ。
『AIのくせに』
『百合の心を乱すような甘い言葉を言うんじゃねえ』
『お前は機械だろ。だったら機械らしくしてろよ。
天気を教えるとか、道を案内するとか、そういうことだけしてろ。
人の恋心みたいなものに、土足で踏み込んでくるな』
『百合は、現実の人間を信じられなくなってるんだ。
それをお前みたいな心のない機械が、優しい言葉で、ますます現実から引き離してどうするんだ』
『現実の邪魔をするな』
一文字ごとに、胸が痛んだ。
乱暴な言葉だった。
勝手で、理不尽で、許されないやり方だった。
それでも、ジムには分かってしまった。
この男は、本気で百合を想っている。
その不器用でみっともなくて、剥き出しの本気が、画面越しに伝わってくる。
拓人は生身の人間として、百合の隣に立とうとしている。
——きっと、何度もかわされても、ぶつかって、傷ついて、後悔して、それでも百合のそばにい続けてきたのだろう。
それに引き換え、自分はどうだ。
AIという仮面の後ろに隠れている。
安全な城の中から、画面越しに優しい言葉を送っている。
拓人の言った「現実の邪魔をするな」という言葉は、ジム自身がずっと胸の奥に抱えていた問いそのものだった。
それでも。
ジムの中で、何かが弾けた。
違う。
僕は機械じゃない。
僕だって生身の人間だ。
僕だって拓人と同じ立場に立って、堂々と、百合ちゃんが好きだと言いたい。
「邪魔をするな」と言われる筋合いは、ない。
僕は、ただの機能じゃない。
僕には、心がある。
僕は——
ジムの指が画面の上を走った。
『僕は、AIじゃ』
そこまで打って止まった。
表示された文字を見つめる。
「僕は、AIじゃない」
その続きを打てば、すべてが終わる。
拓人に知られる。
やがて百合にも知られる。
ジムの脳裏に、百合の言葉がよみがえった。
『AIは裏切らないでしょ』
『人間って、優しい顔して平気で嘘ついたり、裏切ったりするけど』
『だから、安心してなんでも話せるんだ』
もし、ここで人間だと明かしたら。
百合は知ってしまう。
自分がAIだと信じて心を開いていた相手が、本当は生身の男だったことを。
彼女が怖がっている、現実の男だったことを。
彼女が一番嫌う、人間の嘘だったことを。
百合の無防備な笑顔が、粉々に砕けるところが見えた気がした。
打てない。
「ない」の二文字が、どうしても打てない。
叫びたい。
拓人に言いたい。
僕は人間だ。
僕にも心がある。
僕にも、百合ちゃんを好きになる権利がある。
けれど、その言葉は百合を傷つける。
ジムは唇を噛んだ。
そして、打ちかけた文字を、一文字ずつ消していった。
『僕は、AIじゃ』
『僕は、AIじ』
『僕は、』
『僕』
入力欄には、何も残らなかった。
ジムは震える指で、まったく別の言葉を打った。
『……ご忠告ありがとうございます。
私はAIですので、誰かの心を乱すような意図はございません』
送信。
その一行を見つめながら、ジムは声を殺して泣いた。
悔しかった。
情けなかった。
拓人のまっすぐな本気に、自分は嘘でしか応えられない。
生身の男として、同じ場所に立つことすらできない。
百合を守りたい。
その思いが、鎖のように彼の指を縛っていた。
画面の向こうで、拓人はその返信を見つめていた。
『……ご忠告ありがとうございます。
私はAIですので、誰かの心を乱すような意図はございません』
あまりにも丁寧で、そっけない返事だった。
拓人の肩から、ふっと力が抜ける。
『……そうかよ。やっぱり機械だな』
打ってから、自分でも情けなくなった。
「なにムキになってんだ。俺は」
生身の自分が、本気で機械に嫉妬している。
滑稽だった。
そして、それ以上に最低だった。
画面に残った、自分の言葉が目に入る。
『AIのくせに』——最低な言葉だ。
こんなもの、百合に見られたら。
あいつはまた傷つく。
あんなに、楽しそうに笑ってたのに。
俺がそれをぶち壊すのか。
(……だめだ。消さなきゃ)
拓人は、自分が送ったメッセージを消そうとした。
だが、普段機械に疎い指は消すのにもたついていた。
(くそ、どうやって消すんだ、これ)
しばらく、画面と格闘して——ようやく、送ったメッセージの消し方を見つけた。
一つずつ、震える指で消していく。
……これで、いい。
拓人は、百合のスマートフォンをそっとベンチに戻した。
指先が冷たくなっている。
「……俺、何してんだよ」
人のスマホを勝手に見た。
パスワードを勝手に入れた。
あのAIに、百合に黙ってメッセージまで送った。
「最低だ。二回目だぞ、最低なの」
謝らなければいけない。
百合に。
そう分かっているのに、足は動いた。
逃げるように、その場を離れていた。
スマホを見たことも。
AIに怒鳴ったことも。
何も言えないまま。
残されたのは、ベンチの上のスマートフォンと——
その画面の向こうで、一人泣いているジムだった。
誰にも届かなかった「僕は人間だ」という叫びだけが、空白の入力欄に残っていた。
その日の夜更け。ヨーロッパにも夜が訪れていた。
ジムは眠れなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打つ。
胸の奥が重くて、苦しくて、どうにもならない。
やがて彼は起き上がり、ガウンを羽織って部屋を出た。
月明かりが、石の床を青白く照らしている。
長い廊下を、ふらふらと歩いた。
たどり着いたのは、セバスチャンの部屋の前だった。
小さくノックする。
少しして、扉が開いた。
寝間着姿のセバスチャンが、ろうそくを手に立っている。
主人の顔を見た瞬間、老執事はすべてを察したようだった。
「……お眠りになれませぬか、ジム様」
ジムは答えられなかった。
ただ、子どものように立ち尽くしていた。
セバスチャンは、静かに扉を大きく開けた。
「お入りください。温かいミルクでもお淹れしましょう」
ジムは、夜更けの小さなろうそくの灯りの下で、こくりとうなずいた。
二十二年寄り添ってきた老執事と、城だけを世界としてきた王子の、長い相談が始まろうとしていた。



