私のAIは検索に100人かかる

 如月百合の人生には、伊藤拓人という男がずっといた。

 家が隣同士だった。
 年は一つ上。

 百八十センチの長身で、大工仕事で鍛えた体は、がっしりと筋肉質だった。
 広い肩と節くれだった大きな手が、いかにも職人らしい。

 短く切った黒髪に、日に焼けた肌。
 無駄な飾りのない、どこか昭和の男のような無骨な佇まい。
 だが、顔立ちは意外なほど整っていた。

 砂場で泥団子を作っていた頃も、ランドセルを背負っていた頃も、近所の夏祭りでかき氷を分け合った頃も、拓人はいつも百合のそばにいた。

 二十三歳になった今、拓人は大工をしている。
 父親の工務店を手伝いながら、いずれは店を継ぐつもりでいた。

 現場でも、近所でも評判は悪くない。
 ただ、その評判がいちばん届いてほしい相手にだけは、どうにも届かない。

 如月百合である。

 拓人は、もう何度も百合に想いを伝えようとしてきた。
 けれど、そのたびに失敗している。
 百合が、まるで本気にしないからだ。

 つい先日の縁日でも、そうだった。


 夕暮れの帰り道。
 二人で並んで歩きながら、拓人は思いきって口を開いた。

 「なあ、百合。俺、ずっと前からお前のこと——」

 「あ、待って拓人。見て見て、この金魚、すっごい元気じゃない?」

 百合は、すくった金魚の袋を無邪気に掲げた。

 「……いや、金魚じゃなくて。俺は、お前のことが」

 「うんうん、分かってるって。幼馴染として、大事に思ってくれてるんでしょ? 
 ありがと。私も拓人のこと、お兄ちゃんみたいに思ってるよ」

 「お兄ちゃん……」

 拓人は、がっくり肩を落とした。いつも、この調子だった。
 周囲は昔から、二人を見るたびに「将来は結婚するんじゃないか」などと笑って噂していた。

 だから百合にとって、拓人の「好きだ」は、聞き慣れた冗談の延長でしかない。
 拓人も、それは分かっていた。
 百合が現実の男を信じられなくなっていることも。

 二十歳のとき、ひどく傷ついたことも。
 それ以来、彼女の心に固い殻ができたことも。

 すぐそばで、ずっと見てきた。
 だから、焦るまいと決めていた。

 いつか百合がもう一度誰かを信じられる日が来たら、その時に自分が隣にいればいい。
 そう思っていた。

 その矢先だった。
 最近の百合が、やたらとスマートフォンを気にしていることに、拓人が気づいたのは。


 日曜の昼下がり。
 両家恒例のバーベキューで、拓人は庭先で炭をおこしていた。
 ふと、縁側の方へ目をやる。

 百合がいた。
 スマートフォンを両手で握りしめ、画面に向かって、ふにゃりと笑っている。

 拓人は、息を止めた。
 見たことのない顔だった。

 肩の力が抜けている。
 警戒の色がない。
 まるで、世界でいちばん心を許した相手と話しているような、無防備で幸せそうな横顔。

 胸の奥が、ざわりと波立った。

 「……百合。何見て、にやけてんだよ」

 努めて軽く、声をかける。
 百合は、はっと顔を上げた。
 ほんのり頬が赤い。

 「べ、別に。なんでもないよ」

 「彼氏でも、できたのか」

 冗談めかして言った。
 けれど、心臓は嫌な跳ね方をしていた。

 百合は、けらけら笑った。

 「違うよぉ。彼氏なんかできるわけないでしょ。……AIだよ、AI」

 「えーあい?」

 拓人は眉を寄せた。横文字には、めっぽう弱い。

 「ほら、最近あるじゃない。なんでも答えてくれる賢いやつ。
 私の相談に乗ってくれるの。ジム君っていって、すっごく優しくて」

 「……機械、だろ。それ」

 「うん、機械。でもね、その辺の人間より、よっぽど話を聞いてくれるんだから」

 百合はそう言って、また画面に視線を戻した。
 その目つきは、やわらかかった。
 慈しむようで、少し照れくさそうで。

 拓人の、知らない百合だった。
 自分が二十年かけても開けられなかった扉を、画面の向こうの何かが、あっさり開けてしまった。

 ただの、機械が。

 二十年、ずっとそばにいた。
 百合の笑った顔も、泣いた顔も、ふくれた顔も、世界の誰より知っているつもりだった。
 なのに、あんな顔は見たことがない。

 あの、とろけるような幸せそうな横顔を引き出したのは、自分ではなかった。
 拓人は、炭ばさみを握る手に知らず力を込めた。

 その夜。
 バーベキューの片付けを手伝った帰り際、拓人は玄関先で百合を呼び止めた。

 「百合。あのさ」

 「ん?」

 「その、AIってやつ。あんまり、のめり込むのやめとけよ」

 百合の表情が、すっと固くなった。

 「……なんで拓人に、そんなこと言われなきゃいけないの」

 「心配なんだよ。相手は人間じゃないんだぞ。
 そんなものに、本気で悩み打ち明けてどうすんだよ」

 「拓人には関係ないでしょ」

 「関係あるだろ……!」

 言うつもりのなかった言葉が、喉からあふれた。

 その勢いに押されるように、百合が、一歩後ずさる。

 「っ……」

 足元の段差に、かかとが引っかかった。

 「百合!」

 とっさに、拓人の腕が伸びた。

 倒れかけた身体を、後ろから抱き止める。
 背中に、拓人の胸が触れた。

 日に焼けた腕が、彼女の肩を支えている。
 ほんの一瞬、百合は、息を止めた。

 子どもの頃から、知っている腕なのに。
 泥団子を作って、金魚の袋を提げて、いつも隣にあったはずの手なのに。
 今だけ、それが知らない男の人の腕みたいに、大きくて温かかった。

 「た、拓人……?」

 拓人も、すぐには離せなかった。
 離さなければ、いけない。

 そう分かっているのに――腕の中の百合が、かすかに震えていた。
 その震えが伝わってきて、胸の奥がかき乱される。
 顔の見えない背中越しに、低い声がこぼれ落ちた。

 「……お前、現実の男性のことは全然、信じないくせに。
 俺が何回誘っても、心を開かないくせに。
 なんで……なんでそんな、機械相手には笑ってるんだよ」

 その声は震えていた。
 怒っているのか、泣いているのか、背中越しでは分からない。
 ただ、回された腕の力だけが、拓人の必死さを伝えていた。

 百合の肩が、びくりと揺れた。
 その反応に、拓人はハッと我に返る。

 慌てて、腕をほどいた。
 けれど、一度堰を切った感情は止まらなかった。

 離れた背中に、なおも言葉があふれ出す。

 「……人間じゃないだろ。
 お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよ。
 他にいるだろ。生身の、ちゃんとお前のことを想ってる人間が……!」

 言い終えた瞬間、拓人はぞっとした。
 最後の一言は、完全に余計だった。

 忠告ではない。
 心配ですらない。
 嫉妬だった。

 百合の目に、みるみる涙が盛り上がった。

 「……ひどい」

 「百合、待て。今のは」

 「ひどいよ、拓人。私の気持ちなんて、何も知らないくせに」

 百合はくるりと背を向け、家の中へ駆け込んでいった。
 玄関の扉が閉まる。

 拓人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 こんなことを言いたかったわけじゃない。
 傷つけたかったわけじゃない。
 ただ好きな女性が、自分以外の何かに心を預けているのが、苦しかった。

 それだけだった。
 けれど、それを言い訳にできるほど、拓人は子供ではなかった。

 「……最低だな、俺」

 夜空に向かって、ぽつりと呟く。

 大工の腕には、自信がある。
 釘なら、まっすぐ打てる。
 歪んだ柱なら、直せる。

 なのに、好きな人の心には、いつもひびを入れてしまう。

 その夜、拓人は一睡もできなかった。
 何度もスマートフォンを手に取った。
 謝らなければ。あんなことを言うつもりはなかったのだと。

 打ちかけては消す。
 また打って、また消す。
 どんな言葉も、薄っぺらく思えた。

 「……明日、謝ろう」

 そう自分に言い聞かせて、目を閉じる。

 けれどまぶたの裏には、涙でいっぱいになった百合の目が、焼きついていた。


 その夜、百合は布団に潜り込んで泣いていた。
 拓人の言葉が、頭の中で何度も響く。

 人間じゃない。
 本当は何も感じてない。

 分かっている。
 そんなことは、百合にだって分かっている。
 AIに心がないことくらい。
 でも。

 それでも、ジム君と話していると、心が軽くなるのは本当だった。
 震える指で、スマートフォンを手に取る。
 こんな夜に話したくなる相手は、もう彼しかいなかった。

 『ジム君。今、ちょっといいかな』

 地球の反対側。ヘンダーソン城は、昼下がりだった。

 書斎で本を読んでいたジムは、通知を見るなり、はっと顔を上げた。
 文面の温度がいつもと違う。絵文字が、一つもない。

 『はい。どうかなさいましたか』

 返事は、すぐには来なかった。
 やがて、ぽつり、ぽつりと、文字が届く。

 『今日ね、拓人に言われたんだ』

 『AIは人間じゃないって。お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよって』

 ジムの指が、止まった。

 『私、分かってるよ。ジム君に心がないことくらい。機械だってことくらい』

 『でも、それでも、ジム君と話すと楽になるの。
 それって、そんなにおかしいことなのかな。私、間違ってるのかな』

 画面の向こうで、百合は泣いている。
 ジムには分かった。
 文字の隙間から、涙の気配が伝わってくる。

 違う。
 違うんだ、百合ちゃん。

 僕は、全部感じている。
 君が笑えば嬉しい。
 君が泣けば苦しい。

 君の話は、何ひとつ無駄になんかなっていない。
 全部ここにある。
 この胸に。
 君は、何も間違っていない。

 そう打てばいい。
 たった一行でいい。

 あなたは間違っていません、と。
 それだけで、彼女は少し救われる。

 なのに、ジムは打てなかった。
 もし今、AIとして「あなたの感じていることは正しい」と答えれば、百合はさらに深く信じてしまう。

 AIにも心があるのだと。
 ジム君だけは自分を裏切らないのだと。

 いつか真実を知ったとき、その分だけ深く傷つく。
 だからといって、「AIには心がありません」と突き放せば、今泣いている彼女を夜の底に置き去りにしてしまう。

 どちらも選べなかった。

 ジムはスマートフォンを握りしめたまま、画面を見つめた。

 一秒。
 五秒。
 十秒。

 言葉が出てこない。
 何を打っても嘘になる。
 何を打っても、誰かを傷つける。

 二十秒。
 三十秒。
 そして、三十三秒。

 その三十三秒のあいだ、ジムはただ、唇を噛んでいた。

 言いたいのに。
 叫びたいのに。

 「僕は、人間だよ。君と同じ、生身の人間なんだよ。
 だから、僕にも、君を好きになる権利があるんだ」と。

 なのに――彼女を守りたいという、そのただ一つの思いが、彼の指を固く縛りつけて離さなかった。

 やがて、震える指で、文字を打つ。

 AIという仮面の隙間から、本心の一滴だけをこぼすように。

 『……百合ちゃんは、間違っていません。
 百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』

 送信。

 ジムはその文字を見つめたまま、声を殺して泣いた。

 それは、AIの模範解答ではなかった。
 一人の男が、好きな女の子に向かって絞り出した、本物の言葉だった。
 けれど百合には、それがAIの言葉として届く。

 ——横浜の、夜。

 布団の中で、百合はその返事を待っていた。

 送ってから返事が来るまで、少しだけ間があった。
 いつものジム君なら、すぐに答えが返ってくるのに。

 今夜はなぜか、しばらく画面が静かだった。
 壊れちゃったのかな。
 それとも、こんな重い相談、AIでも困っちゃったのかな。

 そんなことを思いかけた、その時。
 ぽん、と、返事が灯った。

 『……百合ちゃんは、間違っていません。
 百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』

 その一行を読んだ瞬間、百合の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。

 不思議だった。
 すぐに返ってくる言葉より――この少し待たされた一文の方が、ずっと、ずっとあたたかく感じた。

 まるで、画面の向こうの誰かが何度も言葉を選んで、選んで、やっと差し出してくれたみたいに。

 ——AIなのに。どうして、こんなに。

 百合は、その問いにそっと蓋をした。
 今はただ、この温かさに甘えていたかった。

 涙を拭いて、百合は打った。

 『……ありがとう。ジム君にそう言ってもらえると、安心する』

 『やっぱり、ジム君は私の話をちゃんと聞いてくれるね。人間より、ずっと優しい』

 最高の賛辞のはずだった。
 なのにジムには、この世でいちばん残酷な言葉に聞こえた。

 優しくしているのは、AIではない。
 君のことが好きでたまらない、一人の人間の男だ。
 なのに君は、その優しさに触れるたび、「やっぱりAIは優しい」と笑う。

 その夜。
 ジムはベッドの中で、長いこと天井を見つめていた。
 その目から、涙が静かに伝っていた。

 傍らでセバスチャンが、何も言わずに毛布をかけ直す。
 主人が声を殺して泣いていることに、老執事はとっくに気づいていた。

 けれど、何も言わなかった。
 今彼にかけるべき言葉を、百人の執事を総動員しても見つけられないことを、セバスチャンは分かっていた。

 嘘の数はもう数えきれない。
 そしてその嘘は、どこにも引き返せないところまで来ていた。