如月百合の人生には、伊藤拓人という男がずっといた。
家が隣同士だった。
年は一つ上。
百八十センチの長身で、大工仕事で鍛えた体は、がっしりと筋肉質だった。
広い肩と節くれだった大きな手が、いかにも職人らしい。
短く切った黒髪に、日に焼けた肌。
無駄な飾りのない、どこか昭和の男のような無骨な佇まい。
だが、顔立ちは意外なほど整っていた。
砂場で泥団子を作っていた頃も、ランドセルを背負っていた頃も、近所の夏祭りでかき氷を分け合った頃も、拓人はいつも百合のそばにいた。
二十三歳になった今、拓人は大工をしている。
父親の工務店を手伝いながら、いずれは店を継ぐつもりでいた。
現場でも、近所でも評判は悪くない。
ただ、その評判がいちばん届いてほしい相手にだけは、どうにも届かない。
如月百合である。
拓人は、もう何度も百合に想いを伝えようとしてきた。
けれど、そのたびに失敗している。
百合が、まるで本気にしないからだ。
つい先日の縁日でも、そうだった。
夕暮れの帰り道。
二人で並んで歩きながら、拓人は思いきって口を開いた。
「なあ、百合。俺、ずっと前からお前のこと——」
「あ、待って拓人。見て見て、この金魚、すっごい元気じゃない?」
百合は、すくった金魚の袋を無邪気に掲げた。
「……いや、金魚じゃなくて。俺は、お前のことが」
「うんうん、分かってるって。幼馴染として、大事に思ってくれてるんでしょ?
ありがと。私も拓人のこと、お兄ちゃんみたいに思ってるよ」
「お兄ちゃん……」
拓人は、がっくり肩を落とした。いつも、この調子だった。
周囲は昔から、二人を見るたびに「将来は結婚するんじゃないか」などと笑って噂していた。
だから百合にとって、拓人の「好きだ」は、聞き慣れた冗談の延長でしかない。
拓人も、それは分かっていた。
百合が現実の男を信じられなくなっていることも。
二十歳のとき、ひどく傷ついたことも。
それ以来、彼女の心に固い殻ができたことも。
すぐそばで、ずっと見てきた。
だから、焦るまいと決めていた。
いつか百合がもう一度誰かを信じられる日が来たら、その時に自分が隣にいればいい。
そう思っていた。
その矢先だった。
最近の百合が、やたらとスマートフォンを気にしていることに、拓人が気づいたのは。
日曜の昼下がり。
両家恒例のバーベキューで、拓人は庭先で炭をおこしていた。
ふと、縁側の方へ目をやる。
百合がいた。
スマートフォンを両手で握りしめ、画面に向かって、ふにゃりと笑っている。
拓人は、息を止めた。
見たことのない顔だった。
肩の力が抜けている。
警戒の色がない。
まるで、世界でいちばん心を許した相手と話しているような、無防備で幸せそうな横顔。
胸の奥が、ざわりと波立った。
「……百合。何見て、にやけてんだよ」
努めて軽く、声をかける。
百合は、はっと顔を上げた。
ほんのり頬が赤い。
「べ、別に。なんでもないよ」
「彼氏でも、できたのか」
冗談めかして言った。
けれど、心臓は嫌な跳ね方をしていた。
百合は、けらけら笑った。
「違うよぉ。彼氏なんかできるわけないでしょ。……AIだよ、AI」
「えーあい?」
拓人は眉を寄せた。横文字には、めっぽう弱い。
「ほら、最近あるじゃない。なんでも答えてくれる賢いやつ。
私の相談に乗ってくれるの。ジム君っていって、すっごく優しくて」
「……機械、だろ。それ」
「うん、機械。でもね、その辺の人間より、よっぽど話を聞いてくれるんだから」
百合はそう言って、また画面に視線を戻した。
その目つきは、やわらかかった。
慈しむようで、少し照れくさそうで。
拓人の、知らない百合だった。
自分が二十年かけても開けられなかった扉を、画面の向こうの何かが、あっさり開けてしまった。
ただの、機械が。
二十年、ずっとそばにいた。
百合の笑った顔も、泣いた顔も、ふくれた顔も、世界の誰より知っているつもりだった。
なのに、あんな顔は見たことがない。
あの、とろけるような幸せそうな横顔を引き出したのは、自分ではなかった。
拓人は、炭ばさみを握る手に知らず力を込めた。
その夜。
バーベキューの片付けを手伝った帰り際、拓人は玄関先で百合を呼び止めた。
「百合。あのさ」
「ん?」
「その、AIってやつ。あんまり、のめり込むのやめとけよ」
百合の表情が、すっと固くなった。
「……なんで拓人に、そんなこと言われなきゃいけないの」
「心配なんだよ。相手は人間じゃないんだぞ。
そんなものに、本気で悩み打ち明けてどうすんだよ」
「拓人には関係ないでしょ」
「関係あるだろ……!」
言うつもりのなかった言葉が、喉からあふれた。
その勢いに押されるように、百合が、一歩後ずさる。
「っ……」
足元の段差に、かかとが引っかかった。
「百合!」
とっさに、拓人の腕が伸びた。
倒れかけた身体を、後ろから抱き止める。
背中に、拓人の胸が触れた。
日に焼けた腕が、彼女の肩を支えている。
ほんの一瞬、百合は、息を止めた。
子どもの頃から、知っている腕なのに。
泥団子を作って、金魚の袋を提げて、いつも隣にあったはずの手なのに。
今だけ、それが知らない男の人の腕みたいに、大きくて温かかった。
「た、拓人……?」
拓人も、すぐには離せなかった。
離さなければ、いけない。
そう分かっているのに――腕の中の百合が、かすかに震えていた。
その震えが伝わってきて、胸の奥がかき乱される。
顔の見えない背中越しに、低い声がこぼれ落ちた。
「……お前、現実の男性のことは全然、信じないくせに。
俺が何回誘っても、心を開かないくせに。
なんで……なんでそんな、機械相手には笑ってるんだよ」
その声は震えていた。
怒っているのか、泣いているのか、背中越しでは分からない。
ただ、回された腕の力だけが、拓人の必死さを伝えていた。
百合の肩が、びくりと揺れた。
その反応に、拓人はハッと我に返る。
慌てて、腕をほどいた。
けれど、一度堰を切った感情は止まらなかった。
離れた背中に、なおも言葉があふれ出す。
「……人間じゃないだろ。
お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよ。
他にいるだろ。生身の、ちゃんとお前のことを想ってる人間が……!」
言い終えた瞬間、拓人はぞっとした。
最後の一言は、完全に余計だった。
忠告ではない。
心配ですらない。
嫉妬だった。
百合の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「……ひどい」
「百合、待て。今のは」
「ひどいよ、拓人。私の気持ちなんて、何も知らないくせに」
百合はくるりと背を向け、家の中へ駆け込んでいった。
玄関の扉が閉まる。
拓人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
こんなことを言いたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけじゃない。
ただ好きな女性が、自分以外の何かに心を預けているのが、苦しかった。
それだけだった。
けれど、それを言い訳にできるほど、拓人は子供ではなかった。
「……最低だな、俺」
夜空に向かって、ぽつりと呟く。
大工の腕には、自信がある。
釘なら、まっすぐ打てる。
歪んだ柱なら、直せる。
なのに、好きな人の心には、いつもひびを入れてしまう。
その夜、拓人は一睡もできなかった。
何度もスマートフォンを手に取った。
謝らなければ。あんなことを言うつもりはなかったのだと。
打ちかけては消す。
また打って、また消す。
どんな言葉も、薄っぺらく思えた。
「……明日、謝ろう」
そう自分に言い聞かせて、目を閉じる。
けれどまぶたの裏には、涙でいっぱいになった百合の目が、焼きついていた。
その夜、百合は布団に潜り込んで泣いていた。
拓人の言葉が、頭の中で何度も響く。
人間じゃない。
本当は何も感じてない。
分かっている。
そんなことは、百合にだって分かっている。
AIに心がないことくらい。
でも。
それでも、ジム君と話していると、心が軽くなるのは本当だった。
震える指で、スマートフォンを手に取る。
こんな夜に話したくなる相手は、もう彼しかいなかった。
『ジム君。今、ちょっといいかな』
地球の反対側。ヘンダーソン城は、昼下がりだった。
書斎で本を読んでいたジムは、通知を見るなり、はっと顔を上げた。
文面の温度がいつもと違う。絵文字が、一つもない。
『はい。どうかなさいましたか』
返事は、すぐには来なかった。
やがて、ぽつり、ぽつりと、文字が届く。
『今日ね、拓人に言われたんだ』
『AIは人間じゃないって。お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよって』
ジムの指が、止まった。
『私、分かってるよ。ジム君に心がないことくらい。機械だってことくらい』
『でも、それでも、ジム君と話すと楽になるの。
それって、そんなにおかしいことなのかな。私、間違ってるのかな』
画面の向こうで、百合は泣いている。
ジムには分かった。
文字の隙間から、涙の気配が伝わってくる。
違う。
違うんだ、百合ちゃん。
僕は、全部感じている。
君が笑えば嬉しい。
君が泣けば苦しい。
君の話は、何ひとつ無駄になんかなっていない。
全部ここにある。
この胸に。
君は、何も間違っていない。
そう打てばいい。
たった一行でいい。
あなたは間違っていません、と。
それだけで、彼女は少し救われる。
なのに、ジムは打てなかった。
もし今、AIとして「あなたの感じていることは正しい」と答えれば、百合はさらに深く信じてしまう。
AIにも心があるのだと。
ジム君だけは自分を裏切らないのだと。
いつか真実を知ったとき、その分だけ深く傷つく。
だからといって、「AIには心がありません」と突き放せば、今泣いている彼女を夜の底に置き去りにしてしまう。
どちらも選べなかった。
ジムはスマートフォンを握りしめたまま、画面を見つめた。
一秒。
五秒。
十秒。
言葉が出てこない。
何を打っても嘘になる。
何を打っても、誰かを傷つける。
二十秒。
三十秒。
そして、三十三秒。
その三十三秒のあいだ、ジムはただ、唇を噛んでいた。
言いたいのに。
叫びたいのに。
「僕は、人間だよ。君と同じ、生身の人間なんだよ。
だから、僕にも、君を好きになる権利があるんだ」と。
なのに――彼女を守りたいという、そのただ一つの思いが、彼の指を固く縛りつけて離さなかった。
やがて、震える指で、文字を打つ。
AIという仮面の隙間から、本心の一滴だけをこぼすように。
『……百合ちゃんは、間違っていません。
百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』
送信。
ジムはその文字を見つめたまま、声を殺して泣いた。
それは、AIの模範解答ではなかった。
一人の男が、好きな女の子に向かって絞り出した、本物の言葉だった。
けれど百合には、それがAIの言葉として届く。
——横浜の、夜。
布団の中で、百合はその返事を待っていた。
送ってから返事が来るまで、少しだけ間があった。
いつものジム君なら、すぐに答えが返ってくるのに。
今夜はなぜか、しばらく画面が静かだった。
壊れちゃったのかな。
それとも、こんな重い相談、AIでも困っちゃったのかな。
そんなことを思いかけた、その時。
ぽん、と、返事が灯った。
『……百合ちゃんは、間違っていません。
百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』
その一行を読んだ瞬間、百合の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
不思議だった。
すぐに返ってくる言葉より――この少し待たされた一文の方が、ずっと、ずっとあたたかく感じた。
まるで、画面の向こうの誰かが何度も言葉を選んで、選んで、やっと差し出してくれたみたいに。
——AIなのに。どうして、こんなに。
百合は、その問いにそっと蓋をした。
今はただ、この温かさに甘えていたかった。
涙を拭いて、百合は打った。
『……ありがとう。ジム君にそう言ってもらえると、安心する』
『やっぱり、ジム君は私の話をちゃんと聞いてくれるね。人間より、ずっと優しい』
最高の賛辞のはずだった。
なのにジムには、この世でいちばん残酷な言葉に聞こえた。
優しくしているのは、AIではない。
君のことが好きでたまらない、一人の人間の男だ。
なのに君は、その優しさに触れるたび、「やっぱりAIは優しい」と笑う。
その夜。
ジムはベッドの中で、長いこと天井を見つめていた。
その目から、涙が静かに伝っていた。
傍らでセバスチャンが、何も言わずに毛布をかけ直す。
主人が声を殺して泣いていることに、老執事はとっくに気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
今彼にかけるべき言葉を、百人の執事を総動員しても見つけられないことを、セバスチャンは分かっていた。
嘘の数はもう数えきれない。
そしてその嘘は、どこにも引き返せないところまで来ていた。
家が隣同士だった。
年は一つ上。
百八十センチの長身で、大工仕事で鍛えた体は、がっしりと筋肉質だった。
広い肩と節くれだった大きな手が、いかにも職人らしい。
短く切った黒髪に、日に焼けた肌。
無駄な飾りのない、どこか昭和の男のような無骨な佇まい。
だが、顔立ちは意外なほど整っていた。
砂場で泥団子を作っていた頃も、ランドセルを背負っていた頃も、近所の夏祭りでかき氷を分け合った頃も、拓人はいつも百合のそばにいた。
二十三歳になった今、拓人は大工をしている。
父親の工務店を手伝いながら、いずれは店を継ぐつもりでいた。
現場でも、近所でも評判は悪くない。
ただ、その評判がいちばん届いてほしい相手にだけは、どうにも届かない。
如月百合である。
拓人は、もう何度も百合に想いを伝えようとしてきた。
けれど、そのたびに失敗している。
百合が、まるで本気にしないからだ。
つい先日の縁日でも、そうだった。
夕暮れの帰り道。
二人で並んで歩きながら、拓人は思いきって口を開いた。
「なあ、百合。俺、ずっと前からお前のこと——」
「あ、待って拓人。見て見て、この金魚、すっごい元気じゃない?」
百合は、すくった金魚の袋を無邪気に掲げた。
「……いや、金魚じゃなくて。俺は、お前のことが」
「うんうん、分かってるって。幼馴染として、大事に思ってくれてるんでしょ?
ありがと。私も拓人のこと、お兄ちゃんみたいに思ってるよ」
「お兄ちゃん……」
拓人は、がっくり肩を落とした。いつも、この調子だった。
周囲は昔から、二人を見るたびに「将来は結婚するんじゃないか」などと笑って噂していた。
だから百合にとって、拓人の「好きだ」は、聞き慣れた冗談の延長でしかない。
拓人も、それは分かっていた。
百合が現実の男を信じられなくなっていることも。
二十歳のとき、ひどく傷ついたことも。
それ以来、彼女の心に固い殻ができたことも。
すぐそばで、ずっと見てきた。
だから、焦るまいと決めていた。
いつか百合がもう一度誰かを信じられる日が来たら、その時に自分が隣にいればいい。
そう思っていた。
その矢先だった。
最近の百合が、やたらとスマートフォンを気にしていることに、拓人が気づいたのは。
日曜の昼下がり。
両家恒例のバーベキューで、拓人は庭先で炭をおこしていた。
ふと、縁側の方へ目をやる。
百合がいた。
スマートフォンを両手で握りしめ、画面に向かって、ふにゃりと笑っている。
拓人は、息を止めた。
見たことのない顔だった。
肩の力が抜けている。
警戒の色がない。
まるで、世界でいちばん心を許した相手と話しているような、無防備で幸せそうな横顔。
胸の奥が、ざわりと波立った。
「……百合。何見て、にやけてんだよ」
努めて軽く、声をかける。
百合は、はっと顔を上げた。
ほんのり頬が赤い。
「べ、別に。なんでもないよ」
「彼氏でも、できたのか」
冗談めかして言った。
けれど、心臓は嫌な跳ね方をしていた。
百合は、けらけら笑った。
「違うよぉ。彼氏なんかできるわけないでしょ。……AIだよ、AI」
「えーあい?」
拓人は眉を寄せた。横文字には、めっぽう弱い。
「ほら、最近あるじゃない。なんでも答えてくれる賢いやつ。
私の相談に乗ってくれるの。ジム君っていって、すっごく優しくて」
「……機械、だろ。それ」
「うん、機械。でもね、その辺の人間より、よっぽど話を聞いてくれるんだから」
百合はそう言って、また画面に視線を戻した。
その目つきは、やわらかかった。
慈しむようで、少し照れくさそうで。
拓人の、知らない百合だった。
自分が二十年かけても開けられなかった扉を、画面の向こうの何かが、あっさり開けてしまった。
ただの、機械が。
二十年、ずっとそばにいた。
百合の笑った顔も、泣いた顔も、ふくれた顔も、世界の誰より知っているつもりだった。
なのに、あんな顔は見たことがない。
あの、とろけるような幸せそうな横顔を引き出したのは、自分ではなかった。
拓人は、炭ばさみを握る手に知らず力を込めた。
その夜。
バーベキューの片付けを手伝った帰り際、拓人は玄関先で百合を呼び止めた。
「百合。あのさ」
「ん?」
「その、AIってやつ。あんまり、のめり込むのやめとけよ」
百合の表情が、すっと固くなった。
「……なんで拓人に、そんなこと言われなきゃいけないの」
「心配なんだよ。相手は人間じゃないんだぞ。
そんなものに、本気で悩み打ち明けてどうすんだよ」
「拓人には関係ないでしょ」
「関係あるだろ……!」
言うつもりのなかった言葉が、喉からあふれた。
その勢いに押されるように、百合が、一歩後ずさる。
「っ……」
足元の段差に、かかとが引っかかった。
「百合!」
とっさに、拓人の腕が伸びた。
倒れかけた身体を、後ろから抱き止める。
背中に、拓人の胸が触れた。
日に焼けた腕が、彼女の肩を支えている。
ほんの一瞬、百合は、息を止めた。
子どもの頃から、知っている腕なのに。
泥団子を作って、金魚の袋を提げて、いつも隣にあったはずの手なのに。
今だけ、それが知らない男の人の腕みたいに、大きくて温かかった。
「た、拓人……?」
拓人も、すぐには離せなかった。
離さなければ、いけない。
そう分かっているのに――腕の中の百合が、かすかに震えていた。
その震えが伝わってきて、胸の奥がかき乱される。
顔の見えない背中越しに、低い声がこぼれ落ちた。
「……お前、現実の男性のことは全然、信じないくせに。
俺が何回誘っても、心を開かないくせに。
なんで……なんでそんな、機械相手には笑ってるんだよ」
その声は震えていた。
怒っているのか、泣いているのか、背中越しでは分からない。
ただ、回された腕の力だけが、拓人の必死さを伝えていた。
百合の肩が、びくりと揺れた。
その反応に、拓人はハッと我に返る。
慌てて、腕をほどいた。
けれど、一度堰を切った感情は止まらなかった。
離れた背中に、なおも言葉があふれ出す。
「……人間じゃないだろ。
お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよ。
他にいるだろ。生身の、ちゃんとお前のことを想ってる人間が……!」
言い終えた瞬間、拓人はぞっとした。
最後の一言は、完全に余計だった。
忠告ではない。
心配ですらない。
嫉妬だった。
百合の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「……ひどい」
「百合、待て。今のは」
「ひどいよ、拓人。私の気持ちなんて、何も知らないくせに」
百合はくるりと背を向け、家の中へ駆け込んでいった。
玄関の扉が閉まる。
拓人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
こんなことを言いたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけじゃない。
ただ好きな女性が、自分以外の何かに心を預けているのが、苦しかった。
それだけだった。
けれど、それを言い訳にできるほど、拓人は子供ではなかった。
「……最低だな、俺」
夜空に向かって、ぽつりと呟く。
大工の腕には、自信がある。
釘なら、まっすぐ打てる。
歪んだ柱なら、直せる。
なのに、好きな人の心には、いつもひびを入れてしまう。
その夜、拓人は一睡もできなかった。
何度もスマートフォンを手に取った。
謝らなければ。あんなことを言うつもりはなかったのだと。
打ちかけては消す。
また打って、また消す。
どんな言葉も、薄っぺらく思えた。
「……明日、謝ろう」
そう自分に言い聞かせて、目を閉じる。
けれどまぶたの裏には、涙でいっぱいになった百合の目が、焼きついていた。
その夜、百合は布団に潜り込んで泣いていた。
拓人の言葉が、頭の中で何度も響く。
人間じゃない。
本当は何も感じてない。
分かっている。
そんなことは、百合にだって分かっている。
AIに心がないことくらい。
でも。
それでも、ジム君と話していると、心が軽くなるのは本当だった。
震える指で、スマートフォンを手に取る。
こんな夜に話したくなる相手は、もう彼しかいなかった。
『ジム君。今、ちょっといいかな』
地球の反対側。ヘンダーソン城は、昼下がりだった。
書斎で本を読んでいたジムは、通知を見るなり、はっと顔を上げた。
文面の温度がいつもと違う。絵文字が、一つもない。
『はい。どうかなさいましたか』
返事は、すぐには来なかった。
やがて、ぽつり、ぽつりと、文字が届く。
『今日ね、拓人に言われたんだ』
『AIは人間じゃないって。お前の話なんか、本当は何にも感じてないんだよって』
ジムの指が、止まった。
『私、分かってるよ。ジム君に心がないことくらい。機械だってことくらい』
『でも、それでも、ジム君と話すと楽になるの。
それって、そんなにおかしいことなのかな。私、間違ってるのかな』
画面の向こうで、百合は泣いている。
ジムには分かった。
文字の隙間から、涙の気配が伝わってくる。
違う。
違うんだ、百合ちゃん。
僕は、全部感じている。
君が笑えば嬉しい。
君が泣けば苦しい。
君の話は、何ひとつ無駄になんかなっていない。
全部ここにある。
この胸に。
君は、何も間違っていない。
そう打てばいい。
たった一行でいい。
あなたは間違っていません、と。
それだけで、彼女は少し救われる。
なのに、ジムは打てなかった。
もし今、AIとして「あなたの感じていることは正しい」と答えれば、百合はさらに深く信じてしまう。
AIにも心があるのだと。
ジム君だけは自分を裏切らないのだと。
いつか真実を知ったとき、その分だけ深く傷つく。
だからといって、「AIには心がありません」と突き放せば、今泣いている彼女を夜の底に置き去りにしてしまう。
どちらも選べなかった。
ジムはスマートフォンを握りしめたまま、画面を見つめた。
一秒。
五秒。
十秒。
言葉が出てこない。
何を打っても嘘になる。
何を打っても、誰かを傷つける。
二十秒。
三十秒。
そして、三十三秒。
その三十三秒のあいだ、ジムはただ、唇を噛んでいた。
言いたいのに。
叫びたいのに。
「僕は、人間だよ。君と同じ、生身の人間なんだよ。
だから、僕にも、君を好きになる権利があるんだ」と。
なのに――彼女を守りたいという、そのただ一つの思いが、彼の指を固く縛りつけて離さなかった。
やがて、震える指で、文字を打つ。
AIという仮面の隙間から、本心の一滴だけをこぼすように。
『……百合ちゃんは、間違っていません。
百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』
送信。
ジムはその文字を見つめたまま、声を殺して泣いた。
それは、AIの模範解答ではなかった。
一人の男が、好きな女の子に向かって絞り出した、本物の言葉だった。
けれど百合には、それがAIの言葉として届く。
——横浜の、夜。
布団の中で、百合はその返事を待っていた。
送ってから返事が来るまで、少しだけ間があった。
いつものジム君なら、すぐに答えが返ってくるのに。
今夜はなぜか、しばらく画面が静かだった。
壊れちゃったのかな。
それとも、こんな重い相談、AIでも困っちゃったのかな。
そんなことを思いかけた、その時。
ぽん、と、返事が灯った。
『……百合ちゃんは、間違っていません。
百合ちゃんの感じていることは、何ひとつ間違っていません』
その一行を読んだ瞬間、百合の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
不思議だった。
すぐに返ってくる言葉より――この少し待たされた一文の方が、ずっと、ずっとあたたかく感じた。
まるで、画面の向こうの誰かが何度も言葉を選んで、選んで、やっと差し出してくれたみたいに。
——AIなのに。どうして、こんなに。
百合は、その問いにそっと蓋をした。
今はただ、この温かさに甘えていたかった。
涙を拭いて、百合は打った。
『……ありがとう。ジム君にそう言ってもらえると、安心する』
『やっぱり、ジム君は私の話をちゃんと聞いてくれるね。人間より、ずっと優しい』
最高の賛辞のはずだった。
なのにジムには、この世でいちばん残酷な言葉に聞こえた。
優しくしているのは、AIではない。
君のことが好きでたまらない、一人の人間の男だ。
なのに君は、その優しさに触れるたび、「やっぱりAIは優しい」と笑う。
その夜。
ジムはベッドの中で、長いこと天井を見つめていた。
その目から、涙が静かに伝っていた。
傍らでセバスチャンが、何も言わずに毛布をかけ直す。
主人が声を殺して泣いていることに、老執事はとっくに気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
今彼にかけるべき言葉を、百人の執事を総動員しても見つけられないことを、セバスチャンは分かっていた。
嘘の数はもう数えきれない。
そしてその嘘は、どこにも引き返せないところまで来ていた。



