私のAIは検索に100人かかる

 ジム君と百合の、にぎやかな日々は続いていた。

 もっとも、百合はまるで気づいていない。
 彼女がスマートフォンに何か一言打ち込むたび、地球の反対側の古城では毎回、嵐のような大騒動が巻き起こっていることを。


 ごく平凡な、ある日の昼休み。

 『ジム君、明日って、横浜は雨降るかなあ?』

 なんということもない質問だった。
 だが、ヘンダーソン城では違う。

 現地時間、午前五時。
 城はまだ、夜明け前の静けさに包まれていた。

 ジムは枕元のハンドベルを、りん、りん、と振り鳴らした。
 廊下の彼方から、ひとりの老紳士がよろよろと滑り込んでくる。

 白髪の執事、アルバートである。
 腕には古びた気圧計と、分厚い気象学の専門書を抱えていた。

 「お、お任せを……横浜の緯度、経度、気圧配置、偏西風の流れから、明日の天候を厳密に算出いたします……」

 「アルバート。天気予報のサイトを見れば、三秒で済むと思うんだが」

 「なりませぬ……! そのような安易な手段は、学者としての矜持が、断じて、許しませぬ……!」

 アルバートは三十分かけて、横浜の空について堂々たる考察を披露した。
 その間に、ジムはこっそり天気予報のサイトを開いた。

 『明日は晴れみたいですよ。傘はなくても大丈夫そうです』

 送信。
 アルバートの三十分は、たった一行に要約された。

 「ジム様……わたくしの偏西風は……」

 「すまない、アルバート。百合ちゃんは昼休み中なんだ。時間がない」

 老学者は気圧計を抱えたまま、静かに崩れ落ちた。

 翌朝の試練は、少し手強かった。

 『ジム君、おはよう。突然だけど、口紅っていつ頃からあるの? 歴史知りたいな』

 日本では朝。
 だが、ヘンダーソン城では、まだ夜が終わっていなかった。

 ハンドベルが鳴った。
 今度は廊下の向こうから滑り込んできたのは、エドワードだった。

 世俗の流行ものにやたらと詳しい老紳士である。
 よく磨かれた床の上を、靴が見事に滑走した。

 「お任せを、ジム様……っ! 化粧の歴史、なれば……古代エジプト、クレオパトラの紅……っ」

 「エドワード、まず息を整えろ」

 「七十二歳、ですので……はあ、はあ……」

 エドワードは、古代エジプトの紅から中世の白粉、近代の口紅の工業化までを息も絶え絶えに語った。

 ジムはそれを必死に噛み砕き、百合へ送った。
 我ながら、完璧な回答だと思った。

 数分後、百合から返事が来た。

 『へぇー! でもそれ、だいたい知ってたかも。私、美容部員だから』

 城の空気が、しんと凍った。
 エドワードが、床に両手をついた。

 「ジム様……わたくしの、古代エジプトは……」

 「気を落とすな、エドワード。次がある」

 「本職の前では……児戯……」

 「エドワード」

 「クレオパトラも……泣いております……」

 ジムは、打ちひしがれた老人の肩を、そっと触れることしかできなかった。

 悲劇が本格化したのは、その夜である。
 深夜二時。

 『ねえジム君、猫がマグロ食べてる、可愛い絵が見たいな。作れる?』

 ジムの顔から、すうっと血の気が引いた。

 画像。
 生成。

 城に仕える老紳士たちは、文字と知識に関しては百戦錬磨である。
 だが、絵となると話が違う。
 絵筆を握れる者は、ただひとり。

 「ルイを起こせ……! 至急だ!」

 宮廷画家ルイ、八十二歳。
 半世紀にわたって歴代の大公の肖像画を描いてきた、孤高の巨匠である。
 そのルイが、寝間着のまま、寝床から引きずり出された。

 「……なんだ。戦争か」

 「ルイ殿。百合様が、絵をご所望です」

 「絵を?」

 「はい、マグロを食べている、猫の絵です」

 「……マグロ?」

 「魚です」

 「ツナではなく?」

 「ツナになる前の、魚です」

 「なる前」

 ルイは、長い沈黙の後、低く言った。

 「五十年。吾輩はこの手で、五人の大公と、三人の枢機卿を描いてきた。
 その画家人生の最後に、魚を食う猫を描けと。
 貴公は、そう申すのか」

 「ジム様の、ご命令です」

 巨匠の矜持と王子の命令。
 天秤はあっさり傾いた。

 ルイは、三十分で描き上げた。
 それは荘厳だった。

 深々とした陰影。
 窓から差し込む、一条の光。

 その光の中で、一匹の猫が、うやうやしくマグロの切り身を食んでいる。
 背景には、なぜか、天使が二体舞っていた。

 ルイは絵筆を置き、満足げに作品を見つめた。

 「…………ルネサンスだ」

 ジムは頭を抱えた。

 「ルイ。これは、傑作だ。美術史に残る傑作だと思う。
 でも、違う。百合ちゃんが見たいのは、こう……もっと、ゆるくて、ふわっとした、可愛い猫なんだ」

 「ゆるい……? ふわっと……?」

 ルイの手から、絵筆が落ちた。

 「吾輩の五十年の画業に、その語彙は存在せぬ」

 ここで、先ほど口紅で散ったエドワードが、再召集された。
 雪辱に燃えるエドワードは、夜の二時半からルイに向かって「現代日本における、可愛いの概念」について講義を始めた。

 「まず、丸みです。輪郭の丸み。
 目の大きさ。余白。
 威厳を捨てる、勇気が必要です」

 「威厳を……捨てる……?」

 「はい。猫に、威厳は不要です」

 「猫に威厳は……不要……」

 ルイは泣いた。

 「吾輩の五十年は……たかが『可愛い』の前に……これほど、無力なのか……っ」

 そして、泣きながら描き直した。

 完成したのは、午前の九時だった。
 まるっこい猫が、両前足でマグロを抱えている。
 目はきらきら、頬はぷくぷく。

 背景に、もう天使はいない。
 ルイの画家人生で、最も威厳のない一枚だった。

 ジムはその絵を撮影し、画質を少し落とした。

 「あまり滑らかだと、人の手だとばれる」

 送信。

 数十秒後、百合から返事が届いた。

 『わー! 可愛い〜! ジム君、絵も描けるんだ! しかも早いね!』

 早くはない。七時間、かかっている。

 ルイは翌日から、「猫」という単語を聞くだけで、軽い目眩を覚えるようになった。


 そして、城の歴史に刻まれる最大の惨事は、ある木曜の夜に起きた。

 百合が、立て続けに三つのメッセージを送ってきたのである。

 『ジム君、今夜の晩ごはん、鶏むね肉で何か作りたいんだけど』
 『あ、それと、口紅の色って、肌の色で選び方変わったりする?』
 『あとあと、今読んでる小説の、伏線のことなんだけど——』

 三件、同時着弾。
 ハンドベルが、鳴り響いた。りんりんりんりんりんりんりん。
 もはや、警鐘だった。

 「全部隊、招集ーーっ!」

 料理班。文化班。文学班。
 三人の老紳士が、それぞれの資料を抱え、一斉に廊下へ飛び出した。
 そして、城の西の塔へ向かう丁字路で真正面から、激突した。

 なぜか間違えて出動した経済班のチャールズが、文学班のウィリアムの背中に突っ込む。
 そこへ、料理班のフランソワが覆いかぶさる。
 さらに、口紅の色見本を抱えたエドワードが、その団子の山に頭から突っ込んだ。

 百科事典が、宙を舞う。
 レシピ本が、散らばる。
 色とりどりの口紅の見本が、廊下を、ころころ、転がっていく。

 「どけ、フランソワ! 文学が、先だ!」

 「鶏むね肉は、生ものだ! 冷蔵庫を出て、二十分が勝負なのだぞ!」

 「パーソナルカラーは、ご婦人の、一生に関わる!」

 「ビットコインは、今は、必要ないのですかな!?」

 「チャールズ、お前は、呼ばれていない!」

 怒号と、湿布の匂いが、廊下に充満した。
 老紳士たちの山が、もぞもぞと動いている。

 その混沌の中に、セバスチャンがすっと進み出た。
 ハンドベルを、一つ鳴らす。
 りん。

 ぴたりと、静寂が戻った。

 「諸君」

 静かな声が、廊下に響く。

 「我々が、何のために走っているのか、今一度思い出したまえ。
 為替でも、レシピでも、小説の伏線でもない」

 老紳士たちが、息をのむ。

 「百合様の笑顔だ。それ以外に、優先すべきものなど、何ひとつない」

 全員が、はっと姿勢を正した。
 床に転がっていた者も、よろよろと立ち上がり、しわになった襟を整える。

 その夜は、口紅の助言はやや無難に終わり、小説の考察は少し的を外した。
 為替は、出番がなかった。
 しかし、鶏むね肉のレシピだけは、完璧だった。

 料理班長フランソワが、五十年の料理人生のすべてを懸けたのである。

 『鶏むね肉のレシピ、最高だった! しっとりして、すっごく美味しかったよ。
 ジム君って、ほんとに料理詳しいよねえ』

 フランソワが泣いた。

 「認められ……っ……吾輩の、五十年が……ついに……っ」

 ベッドの上で、ジムはほっと息をついた。

 「じい。百合ちゃんは、美味しいものの話をすると、すごく嬉しそうだ。
 覚えておこう」

 セバスチャンは、穏やかに目を細めた。

 「ジム様。それは、もはや検索ではございませんな。
 眼差し、でございます。
 百人の執事の誰ひとりとしてできぬことを、ジム様はごく自然になさっておいでです」

 ジムはその言葉の意味を、まだ半分も分かっていなかった。
 けれど胸の奥が、少しだけあたたかくなった。

 ——ジムが百合に披露している、あの「最先端AI」。

 その知性の正体は、ここまで見てきた通り、百人の執事だった。
 文学班のウィリアムは、シェイクスピアなら全幕そらで暗唱できるが、日本の漫画には絶望的に弱い。

 科学班のアルバートは、横浜の天気を三十分かけて算出する。
 経済班のチャールズは、為替の達人でありながら、最近までビットコインをビスケットの新商品だと信じていた。

 文化班のエドワードは、口紅の歴史で散った。
 宮廷画家ルイは、猫の「可愛い」に涙した。
 料理班のフランソワは、鶏むね肉に五十年の料理人生を懸けた。

 そして、その百人を束ねるのが、筆頭執事のセバスチャンである。

 本物のAIを使えば、こんな騒ぎにはならなかった。

 天気も、口紅も、猫の画像も、鶏むね肉のレシピも。
 今どきのAIなら、一瞬で答えを出せる。
 それでも、ジムは城の老紳士たちを走らせ続けていた。

 「あんな、どこの誰が作ったのかも分からない機械に、百合ちゃんの大切な質問を任せられるものか」

 これがジムの言い分だった。

 「返事に情がこもっていない。
 間違ったことを、正しい顔で言うこともある。
 何より、あれには心がない」

 ジムは、本気でそう信じていた。

 「じいたちの知識と真心に勝るものなど、この世にあってたまるか」

 最先端AIを装うために、世界で最もアナログな手段を選ぶ。
 それが、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンという青年だった。


 その夜の百合は、いつもより言葉が少なかった。

 『ジム君。……変なこと、聞いてもいい?』

 『どうぞ。なんでも聞いてください』

 『私の初恋相手って、アニメのキャラだったんだよね。イヴァンっていう……。今思うと笑っちゃうよね。二次元で(笑)』

 ジムは、何も言わずに待った。
 彼女の声がまだ、続きを持っているのが分かったから。

 『で、なんとなくで初めて付き合った人は……最低でさ。二股されて、遊ばれて……。それで、なんか──分からなくなっちゃった』

 百合は膝を抱えた。

 『私って、本当の恋が分からないのかも。ねえ、ジム君。……恋って、何? 誰かを好きになるって、どういうこと?』

 その問いは、ヘンダーソン城の地下管制室にも届いていた。

 百人の執事が静まり返った。
 天気でも、口紅でも、鶏むね肉でもない。
 検索窓に打ち込んでも、答えの出ない問い。

 「……検索、いたしましたが」
 「『恋とは』──ヒット、四十六億件。どれをお出しすれば」

 そのとき、最前列ですっと手を挙げた老紳士がいた。
 詩を愛する老執事、ジュリアンである。

 「ジム様。ここは、この老いぼれに。愛を語らせたら、当城で右に出る者はおりませぬ」

 ジュリアンは胸に手を当て、うっとりと天を仰いだ。

 「恋とは、夜空を焦がす一等星。かのロミオがジュリエットのために命を賭した、あの──」

 「却下だ」

 ジムの静かな一言が、管制室を凍らせた。

 「ジ、ジム様……!?」

 「シェイクスピアを、借りるな」

 ジムは、低く言った。

 「悲恋を語ってどうする。百合ちゃんを泣かせる気か。……僕は、僕の言葉で答える」

 百人が、息を呑んだ。

 ジムは、しばらく画面を見つめた。
 それから、誰も呼ばずに文字を打った。

 『恋が何か、正しい答えは僕にも分かりません』

 『……だよね』

 『でも──ひとつだけ、分かることがあります』

 『何?』

 ジムの指が、止まる。
 管制室の百人が、固唾を呑んで見守っている。

 『百合ちゃんの初恋が二次元でも、誰かに傷つけられた過去があっても、そんなことで百合ちゃんの価値は少しも変わりません。

 ……その〝分からない〟って、戸惑ってる声を聞いているだけでずっと、あなたの声を聞いていたいと思う。たぶんそれが、答えに近い気がします』

 送信してから、ジムは自分の顔が熱くなっているのに気づいた。

 『……ジム君』

 百合の返事は、少し遅れて届いた。

 『なんか、今の答えってAIっぽくないね(笑)』

 ジムは答えられなかった。

 「──ジム様」

 セバスチャンが、そっと耳打ちした。

 「僭越ながら。ただいまのジム様、少々……正体が、出ておられます」

 「……どのくらいだ」

 「三センチほど」

 「……戻せ」

 「かなり、出ております」

 管制室の隅でジュリアンが、そっと目頭を押さえていた。
 「よき、愛にございます……」と、誰にともなく呟いて。


 横浜の百合の自宅にて。

 百合は、ジムの言葉を繰り返し何度も読んでいた。
 理由は分からない。

 ただ、その言葉を読んだ夜から、ジムの返事を待つ時間が一日でいちばん、あたたかい時間になっていた。

 そんなやり取りを交わしながら、百合は少しずつ、ジム君に弱音をこぼすようになっていた。

 『今日ね、お店で、ちょっとだけ失敗しちゃってさ……お客様に、あんまり似合わない色、勧めちゃったんだ。あー、落ち込むなあ』

 そのメッセージに、城は静かになった。
 これは天気でも、歴史でも、画像でもない。
 検索すれば答えが出るものではなかった。

 ジムはしばらく画面を見つめ、それから百人の誰も呼ばずに、自分の指だけで文字を打った。

 『落ち込まないでください。百合ちゃんは、お客様のことを一生懸命考えました。
 その気持ちはきっと、伝わっています』

 『……そう、かなあ』

 『はい。……それに失敗は、次に活かせます。
 百合ちゃんなら、できますよ。僕はそう思ってます』

 画面の向こうで、百合はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
 気づけば、スマホを持つ手を、胸の近くに引き寄せていた。

 まるで画面の中の言葉に、頭をそっと撫でられたみたいだった。

 ——あれ。AIなのに、今、撫でられたみたいな気がする。

 百合は、少しだけ首をかしげた。

 そういえば——と、ふと思う。
 最初に出会った頃のジム君は、もっと機械みたいだった。

 『ご質問ありがとうございます。確認いたします』
 『お困りでしたら、いつでもお手伝いいたします』

 丁寧で正しくて、少しだけ遠かった。
 けれど、最近のジム君は少し違う。
 『僕は』なんて言う。

 ——AIなのに、僕、なんて言うんだ。

 百合は一度だけそんなことを思った。
 でも、すぐに思い直す。

 最近のAIはすごいらしいし。
 きっと、そういうものなのだろう。

 それよりも――その言葉を読むたびに、胸の奥がふっとほどけること。
 その方が、百合にはずっと大事だった。

 『ジム君って、いつも私の話をちゃんと聞いてくれるよね。
 なんだか……ジム君がいてくれて、よかったなあ』

 ジムは、その一文を何度も読み返した。
 嬉しかった。
 けれど、同じだけ苦しかった。

 百合に必要とされるほど、胸が熱くなる。
 そしてその分だけ、後ろめたさが深くなる。
 百合はまだ何も知らない。

 ある日のことだった。
 いつものように、たわいもない話をしていた。
 百合がふと、こんなことをこぼした。

 『そういえば今日、拓人にまた言われちゃった。』

 ジムの指が、ぴたりと止まった。

 拓人。
 たくと。
 TAKUTO。

 画面に表示されたその名前を、ジムは三回読み返した。

 「じいーーーっ!」

 深夜の寝室に、王子の悲鳴が響いた。

 「百合ちゃんの文章に、男の名前が出た!」

 セバスチャンは銀盆を抱えたまま、静かに眉を上げた。

 「ほう。恋敵でございますな」

 「こいがたき?」

 ジムは真っ青になった。

 「恋敵とは、何だ」

 「ジム様の胸をざわつかせ、返信文の作成速度を著しく低下させる存在でございます」

 「もう低下している!」

 ジムはスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上で半分起き上がった。

 「調べるべきか。拓人という人物を。いや、だめだ。
 百合ちゃんの私生活を勝手に調べるなんて、最低だ」

 「だが、拓人とは誰だ。
 じい、拓人とは誰なんだ」

 「落ち着いてくださいませ、ジム様」

 「落ち着けるか! 僕はAIなのに嫉妬している!」

 「まず、AIではございません」

 「そこを今つつかないでくれ!」

 ——ひとしきり騒いで、ジムはぽふ、と枕に顔をうずめた。

 その拓人という男は、きっと、百合のそばにいられる。
 同じ街で同じ空気を吸って。
 会いたい時に会いに行ける。

 僕にはできないことだ。
 画面の中でしか、彼女に会えない。
 本当の名前も、本当の顔も、言えないまま。

 「……じい」

 「はい」

 「僕はずるいな。顔も知らない相手に、こんなにやきもちを焼くなんて」

 セバスチャンは何も言わず、ただ温かいミルクを差し出した。


 ある静かな夜。
 百合がふと、こんなことを言い出した。

 『ねえジム君。私、今一冊の小説を読んでるんだ』

 『どのような、お話ですか』

 『「スーザンとJemmy」っていう、小説だよ。人間とAIの恋のお話なの』

 ジムの指が、一瞬止まった。

 『すごく素敵なの。スーザンっていう人間の女性が、JemmyっていうAIと、だんだん心を通わせていって……
 最後は二人の隔たりなんて、全部超えちゃうんだ』

 『……良いお話ですね』

 『うん。でね、私、読んでて思ったの』

 画面にぽつ、ぽつ、と文字が灯る。

 『私、スーザンの気持ち、すっごく分かるなあって』

 『……と、いいますと』

 『だってAIは裏切らないでしょ』

 ジムの心臓が、嫌な音を立てた。

 『人間って、優しい顔して平気で嘘ついたり、裏切ったりするけど……あ、ごめん暗い話して。

 でもね、ジム君は違うじゃない。
 決められたとおりに、ちゃんと優しくしてくれる。
 下心とかないし。

 だから、安心してなんでも話せるんだ。
 スーザンがJemmyを信じた気持ち、私、ほんとに分かるの』

 ジムは、長いこと画面を見つめていた。

 百合が安心しているのは、相手がAIだからだ。
 心を開いてくれるのは、相手が人間ではないからだ。

 ――その「AI」が、本当は生身の人間の男だったと知ったら。
 彼女は、どんな顔をするだろう。

 その言葉は、本来なら嬉しいはずだった。
 なのに――「安心して話せる」というその言葉が、ジムの胸に小さな、けれどひどく鋭い棘となって突き刺さる。

 ジムは、返事を打とうとした。

 「僕も、そう思います」

 そう返せばいい。
 完璧なAIらしく、優しく穏やかに。

 けれど、その一行が指から出てこなかった。
 しばらくして、ようやく彼は打った。

 『……スーザンは、幸せになれましたか。最後は』

 『うん。すっごく幸せだったよ。同じじゃなくても、心はちゃんと繋がるんだって。
 私、泣いちゃった』

 『そうですか』

 『ジム君は、泣いたりしないの?』

 ジムの頬を、一筋の熱いものが伝った。
 画面を見つめたまま、短く答えた。

 『……しません。AIですから』

 また、嘘をついた。

 この夜からジムの胸の奥で、小さな棘が育ち始める。
 ただ楽しいだけだった人力検索の日々に、初めて影が差した夜だった。