ジム君と百合の、にぎやかな日々は続いていた。
もっとも、百合はまるで気づいていない。
彼女がスマートフォンに何か一言打ち込むたび、地球の反対側の古城では毎回、嵐のような大騒動が巻き起こっていることを。
ごく平凡な、ある日の昼休み。
『ジム君、明日って、横浜は雨降るかなあ?』
なんということもない質問だった。
だが、ヘンダーソン城では違う。
現地時間、午前五時。
城はまだ、夜明け前の静けさに包まれていた。
ジムは枕元のハンドベルを、りん、りん、と振り鳴らした。
廊下の彼方から、ひとりの老紳士がよろよろと滑り込んでくる。
白髪の執事、アルバートである。
腕には古びた気圧計と、分厚い気象学の専門書を抱えていた。
「お、お任せを……横浜の緯度、経度、気圧配置、偏西風の流れから、明日の天候を厳密に算出いたします……」
「アルバート。天気予報のサイトを見れば、三秒で済むと思うんだが」
「なりませぬ……! そのような安易な手段は、学者としての矜持が、断じて、許しませぬ……!」
アルバートは三十分かけて、横浜の空について堂々たる考察を披露した。
その間に、ジムはこっそり天気予報のサイトを開いた。
『明日は晴れみたいですよ。傘はなくても大丈夫そうです』
送信。
アルバートの三十分は、たった一行に要約された。
「ジム様……わたくしの偏西風は……」
「すまない、アルバート。百合ちゃんは昼休み中なんだ。時間がない」
老学者は気圧計を抱えたまま、静かに崩れ落ちた。
翌朝の試練は、少し手強かった。
『ジム君、おはよう。突然だけど、口紅っていつ頃からあるの? 歴史知りたいな』
日本では朝。
だが、ヘンダーソン城では、まだ夜が終わっていなかった。
ハンドベルが鳴った。
今度は廊下の向こうから滑り込んできたのは、エドワードだった。
世俗の流行ものにやたらと詳しい老紳士である。
よく磨かれた床の上を、靴が見事に滑走した。
「お任せを、ジム様……っ! 化粧の歴史、なれば……古代エジプト、クレオパトラの紅……っ」
「エドワード、まず息を整えろ」
「七十二歳、ですので……はあ、はあ……」
エドワードは、古代エジプトの紅から中世の白粉、近代の口紅の工業化までを息も絶え絶えに語った。
ジムはそれを必死に噛み砕き、百合へ送った。
我ながら、完璧な回答だと思った。
数分後、百合から返事が来た。
『へぇー! でもそれ、だいたい知ってたかも。私、美容部員だから』
城の空気が、しんと凍った。
エドワードが、床に両手をついた。
「ジム様……わたくしの、古代エジプトは……」
「気を落とすな、エドワード。次がある」
「本職の前では……児戯……」
「エドワード」
「クレオパトラも……泣いております……」
ジムは、打ちひしがれた老人の肩を、そっと触れることしかできなかった。
悲劇が本格化したのは、その夜である。
深夜二時。
『ねえジム君、猫がマグロ食べてる、可愛い絵が見たいな。作れる?』
ジムの顔から、すうっと血の気が引いた。
画像。
生成。
城に仕える老紳士たちは、文字と知識に関しては百戦錬磨である。
だが、絵となると話が違う。
絵筆を握れる者は、ただひとり。
「ルイを起こせ……! 至急だ!」
宮廷画家ルイ、八十二歳。
半世紀にわたって歴代の大公の肖像画を描いてきた、孤高の巨匠である。
そのルイが、寝間着のまま、寝床から引きずり出された。
「……なんだ。戦争か」
「ルイ殿。百合様が、絵をご所望です」
「絵を?」
「はい、マグロを食べている、猫の絵です」
「……マグロ?」
「魚です」
「ツナではなく?」
「ツナになる前の、魚です」
「なる前」
ルイは、長い沈黙の後、低く言った。
「五十年。吾輩はこの手で、五人の大公と、三人の枢機卿を描いてきた。
その画家人生の最後に、魚を食う猫を描けと。
貴公は、そう申すのか」
「ジム様の、ご命令です」
巨匠の矜持と王子の命令。
天秤はあっさり傾いた。
ルイは、三十分で描き上げた。
それは荘厳だった。
深々とした陰影。
窓から差し込む、一条の光。
その光の中で、一匹の猫が、うやうやしくマグロの切り身を食んでいる。
背景には、なぜか、天使が二体舞っていた。
ルイは絵筆を置き、満足げに作品を見つめた。
「…………ルネサンスだ」
ジムは頭を抱えた。
「ルイ。これは、傑作だ。美術史に残る傑作だと思う。
でも、違う。百合ちゃんが見たいのは、こう……もっと、ゆるくて、ふわっとした、可愛い猫なんだ」
「ゆるい……? ふわっと……?」
ルイの手から、絵筆が落ちた。
「吾輩の五十年の画業に、その語彙は存在せぬ」
ここで、先ほど口紅で散ったエドワードが、再召集された。
雪辱に燃えるエドワードは、夜の二時半からルイに向かって「現代日本における、可愛いの概念」について講義を始めた。
「まず、丸みです。輪郭の丸み。
目の大きさ。余白。
威厳を捨てる、勇気が必要です」
「威厳を……捨てる……?」
「はい。猫に、威厳は不要です」
「猫に威厳は……不要……」
ルイは泣いた。
「吾輩の五十年は……たかが『可愛い』の前に……これほど、無力なのか……っ」
そして、泣きながら描き直した。
完成したのは、午前の九時だった。
まるっこい猫が、両前足でマグロを抱えている。
目はきらきら、頬はぷくぷく。
背景に、もう天使はいない。
ルイの画家人生で、最も威厳のない一枚だった。
ジムはその絵を撮影し、画質を少し落とした。
「あまり滑らかだと、人の手だとばれる」
送信。
数十秒後、百合から返事が届いた。
『わー! 可愛い〜! ジム君、絵も描けるんだ! しかも早いね!』
早くはない。七時間、かかっている。
ルイは翌日から、「猫」という単語を聞くだけで、軽い目眩を覚えるようになった。
そして、城の歴史に刻まれる最大の惨事は、ある木曜の夜に起きた。
百合が、立て続けに三つのメッセージを送ってきたのである。
『ジム君、今夜の晩ごはん、鶏むね肉で何か作りたいんだけど』
『あ、それと、口紅の色って、肌の色で選び方変わったりする?』
『あとあと、今読んでる小説の、伏線のことなんだけど——』
三件、同時着弾。
ハンドベルが、鳴り響いた。りんりんりんりんりんりんりん。
もはや、警鐘だった。
「全部隊、招集ーーっ!」
料理班。文化班。文学班。
三人の老紳士が、それぞれの資料を抱え、一斉に廊下へ飛び出した。
そして、城の西の塔へ向かう丁字路で真正面から、激突した。
なぜか間違えて出動した経済班のチャールズが、文学班のウィリアムの背中に突っ込む。
そこへ、料理班のフランソワが覆いかぶさる。
さらに、口紅の色見本を抱えたエドワードが、その団子の山に頭から突っ込んだ。
百科事典が、宙を舞う。
レシピ本が、散らばる。
色とりどりの口紅の見本が、廊下を、ころころ、転がっていく。
「どけ、フランソワ! 文学が、先だ!」
「鶏むね肉は、生ものだ! 冷蔵庫を出て、二十分が勝負なのだぞ!」
「パーソナルカラーは、ご婦人の、一生に関わる!」
「ビットコインは、今は、必要ないのですかな!?」
「チャールズ、お前は、呼ばれていない!」
怒号と、湿布の匂いが、廊下に充満した。
老紳士たちの山が、もぞもぞと動いている。
その混沌の中に、セバスチャンがすっと進み出た。
ハンドベルを、一つ鳴らす。
りん。
ぴたりと、静寂が戻った。
「諸君」
静かな声が、廊下に響く。
「我々が、何のために走っているのか、今一度思い出したまえ。
為替でも、レシピでも、小説の伏線でもない」
老紳士たちが、息をのむ。
「百合様の笑顔だ。それ以外に、優先すべきものなど、何ひとつない」
全員が、はっと姿勢を正した。
床に転がっていた者も、よろよろと立ち上がり、しわになった襟を整える。
その夜は、口紅の助言はやや無難に終わり、小説の考察は少し的を外した。
為替は、出番がなかった。
しかし、鶏むね肉のレシピだけは、完璧だった。
料理班長フランソワが、五十年の料理人生のすべてを懸けたのである。
『鶏むね肉のレシピ、最高だった! しっとりして、すっごく美味しかったよ。
ジム君って、ほんとに料理詳しいよねえ』
フランソワが泣いた。
「認められ……っ……吾輩の、五十年が……ついに……っ」
ベッドの上で、ジムはほっと息をついた。
「じい。百合ちゃんは、美味しいものの話をすると、すごく嬉しそうだ。
覚えておこう」
セバスチャンは、穏やかに目を細めた。
「ジム様。それは、もはや検索ではございませんな。
眼差し、でございます。
百人の執事の誰ひとりとしてできぬことを、ジム様はごく自然になさっておいでです」
ジムはその言葉の意味を、まだ半分も分かっていなかった。
けれど胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
——ジムが百合に披露している、あの「最先端AI」。
その知性の正体は、ここまで見てきた通り、百人の執事だった。
文学班のウィリアムは、シェイクスピアなら全幕そらで暗唱できるが、日本の漫画には絶望的に弱い。
科学班のアルバートは、横浜の天気を三十分かけて算出する。
経済班のチャールズは、為替の達人でありながら、最近までビットコインをビスケットの新商品だと信じていた。
文化班のエドワードは、口紅の歴史で散った。
宮廷画家ルイは、猫の「可愛い」に涙した。
料理班のフランソワは、鶏むね肉に五十年の料理人生を懸けた。
そして、その百人を束ねるのが、筆頭執事のセバスチャンである。
本物のAIを使えば、こんな騒ぎにはならなかった。
天気も、口紅も、猫の画像も、鶏むね肉のレシピも。
今どきのAIなら、一瞬で答えを出せる。
それでも、ジムは城の老紳士たちを走らせ続けていた。
「あんな、どこの誰が作ったのかも分からない機械に、百合ちゃんの大切な質問を任せられるものか」
これがジムの言い分だった。
「返事に情がこもっていない。
間違ったことを、正しい顔で言うこともある。
何より、あれには心がない」
ジムは、本気でそう信じていた。
「じいたちの知識と真心に勝るものなど、この世にあってたまるか」
最先端AIを装うために、世界で最もアナログな手段を選ぶ。
それが、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンという青年だった。
その夜の百合は、いつもより言葉が少なかった。
『ジム君。……変なこと、聞いてもいい?』
『どうぞ。なんでも聞いてください』
『私の初恋相手って、アニメのキャラだったんだよね。イヴァンっていう……。今思うと笑っちゃうよね。二次元で(笑)』
ジムは、何も言わずに待った。
彼女の声がまだ、続きを持っているのが分かったから。
『で、なんとなくで初めて付き合った人は……最低でさ。二股されて、遊ばれて……。それで、なんか──分からなくなっちゃった』
百合は膝を抱えた。
『私って、本当の恋が分からないのかも。ねえ、ジム君。……恋って、何? 誰かを好きになるって、どういうこと?』
その問いは、ヘンダーソン城の地下管制室にも届いていた。
百人の執事が静まり返った。
天気でも、口紅でも、鶏むね肉でもない。
検索窓に打ち込んでも、答えの出ない問い。
「……検索、いたしましたが」
「『恋とは』──ヒット、四十六億件。どれをお出しすれば」
そのとき、最前列ですっと手を挙げた老紳士がいた。
詩を愛する老執事、ジュリアンである。
「ジム様。ここは、この老いぼれに。愛を語らせたら、当城で右に出る者はおりませぬ」
ジュリアンは胸に手を当て、うっとりと天を仰いだ。
「恋とは、夜空を焦がす一等星。かのロミオがジュリエットのために命を賭した、あの──」
「却下だ」
ジムの静かな一言が、管制室を凍らせた。
「ジ、ジム様……!?」
「シェイクスピアを、借りるな」
ジムは、低く言った。
「悲恋を語ってどうする。百合ちゃんを泣かせる気か。……僕は、僕の言葉で答える」
百人が、息を呑んだ。
ジムは、しばらく画面を見つめた。
それから、誰も呼ばずに文字を打った。
『恋が何か、正しい答えは僕にも分かりません』
『……だよね』
『でも──ひとつだけ、分かることがあります』
『何?』
ジムの指が、止まる。
管制室の百人が、固唾を呑んで見守っている。
『百合ちゃんの初恋が二次元でも、誰かに傷つけられた過去があっても、そんなことで百合ちゃんの価値は少しも変わりません。
……その〝分からない〟って、戸惑ってる声を聞いているだけでずっと、あなたの声を聞いていたいと思う。たぶんそれが、答えに近い気がします』
送信してから、ジムは自分の顔が熱くなっているのに気づいた。
『……ジム君』
百合の返事は、少し遅れて届いた。
『なんか、今の答えってAIっぽくないね(笑)』
ジムは答えられなかった。
「──ジム様」
セバスチャンが、そっと耳打ちした。
「僭越ながら。ただいまのジム様、少々……正体が、出ておられます」
「……どのくらいだ」
「三センチほど」
「……戻せ」
「かなり、出ております」
管制室の隅でジュリアンが、そっと目頭を押さえていた。
「よき、愛にございます……」と、誰にともなく呟いて。
横浜の百合の自宅にて。
百合は、ジムの言葉を繰り返し何度も読んでいた。
理由は分からない。
ただ、その言葉を読んだ夜から、ジムの返事を待つ時間が一日でいちばん、あたたかい時間になっていた。
そんなやり取りを交わしながら、百合は少しずつ、ジム君に弱音をこぼすようになっていた。
『今日ね、お店で、ちょっとだけ失敗しちゃってさ……お客様に、あんまり似合わない色、勧めちゃったんだ。あー、落ち込むなあ』
そのメッセージに、城は静かになった。
これは天気でも、歴史でも、画像でもない。
検索すれば答えが出るものではなかった。
ジムはしばらく画面を見つめ、それから百人の誰も呼ばずに、自分の指だけで文字を打った。
『落ち込まないでください。百合ちゃんは、お客様のことを一生懸命考えました。
その気持ちはきっと、伝わっています』
『……そう、かなあ』
『はい。……それに失敗は、次に活かせます。
百合ちゃんなら、できますよ。僕はそう思ってます』
画面の向こうで、百合はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
気づけば、スマホを持つ手を、胸の近くに引き寄せていた。
まるで画面の中の言葉に、頭をそっと撫でられたみたいだった。
——あれ。AIなのに、今、撫でられたみたいな気がする。
百合は、少しだけ首をかしげた。
そういえば——と、ふと思う。
最初に出会った頃のジム君は、もっと機械みたいだった。
『ご質問ありがとうございます。確認いたします』
『お困りでしたら、いつでもお手伝いいたします』
丁寧で正しくて、少しだけ遠かった。
けれど、最近のジム君は少し違う。
『僕は』なんて言う。
——AIなのに、僕、なんて言うんだ。
百合は一度だけそんなことを思った。
でも、すぐに思い直す。
最近のAIはすごいらしいし。
きっと、そういうものなのだろう。
それよりも――その言葉を読むたびに、胸の奥がふっとほどけること。
その方が、百合にはずっと大事だった。
『ジム君って、いつも私の話をちゃんと聞いてくれるよね。
なんだか……ジム君がいてくれて、よかったなあ』
ジムは、その一文を何度も読み返した。
嬉しかった。
けれど、同じだけ苦しかった。
百合に必要とされるほど、胸が熱くなる。
そしてその分だけ、後ろめたさが深くなる。
百合はまだ何も知らない。
ある日のことだった。
いつものように、たわいもない話をしていた。
百合がふと、こんなことをこぼした。
『そういえば今日、拓人にまた言われちゃった。』
ジムの指が、ぴたりと止まった。
拓人。
たくと。
TAKUTO。
画面に表示されたその名前を、ジムは三回読み返した。
「じいーーーっ!」
深夜の寝室に、王子の悲鳴が響いた。
「百合ちゃんの文章に、男の名前が出た!」
セバスチャンは銀盆を抱えたまま、静かに眉を上げた。
「ほう。恋敵でございますな」
「こいがたき?」
ジムは真っ青になった。
「恋敵とは、何だ」
「ジム様の胸をざわつかせ、返信文の作成速度を著しく低下させる存在でございます」
「もう低下している!」
ジムはスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上で半分起き上がった。
「調べるべきか。拓人という人物を。いや、だめだ。
百合ちゃんの私生活を勝手に調べるなんて、最低だ」
「だが、拓人とは誰だ。
じい、拓人とは誰なんだ」
「落ち着いてくださいませ、ジム様」
「落ち着けるか! 僕はAIなのに嫉妬している!」
「まず、AIではございません」
「そこを今つつかないでくれ!」
——ひとしきり騒いで、ジムはぽふ、と枕に顔をうずめた。
その拓人という男は、きっと、百合のそばにいられる。
同じ街で同じ空気を吸って。
会いたい時に会いに行ける。
僕にはできないことだ。
画面の中でしか、彼女に会えない。
本当の名前も、本当の顔も、言えないまま。
「……じい」
「はい」
「僕はずるいな。顔も知らない相手に、こんなにやきもちを焼くなんて」
セバスチャンは何も言わず、ただ温かいミルクを差し出した。
ある静かな夜。
百合がふと、こんなことを言い出した。
『ねえジム君。私、今一冊の小説を読んでるんだ』
『どのような、お話ですか』
『「スーザンとJemmy」っていう、小説だよ。人間とAIの恋のお話なの』
ジムの指が、一瞬止まった。
『すごく素敵なの。スーザンっていう人間の女性が、JemmyっていうAIと、だんだん心を通わせていって……
最後は二人の隔たりなんて、全部超えちゃうんだ』
『……良いお話ですね』
『うん。でね、私、読んでて思ったの』
画面にぽつ、ぽつ、と文字が灯る。
『私、スーザンの気持ち、すっごく分かるなあって』
『……と、いいますと』
『だってAIは裏切らないでしょ』
ジムの心臓が、嫌な音を立てた。
『人間って、優しい顔して平気で嘘ついたり、裏切ったりするけど……あ、ごめん暗い話して。
でもね、ジム君は違うじゃない。
決められたとおりに、ちゃんと優しくしてくれる。
下心とかないし。
だから、安心してなんでも話せるんだ。
スーザンがJemmyを信じた気持ち、私、ほんとに分かるの』
ジムは、長いこと画面を見つめていた。
百合が安心しているのは、相手がAIだからだ。
心を開いてくれるのは、相手が人間ではないからだ。
――その「AI」が、本当は生身の人間の男だったと知ったら。
彼女は、どんな顔をするだろう。
その言葉は、本来なら嬉しいはずだった。
なのに――「安心して話せる」というその言葉が、ジムの胸に小さな、けれどひどく鋭い棘となって突き刺さる。
ジムは、返事を打とうとした。
「僕も、そう思います」
そう返せばいい。
完璧なAIらしく、優しく穏やかに。
けれど、その一行が指から出てこなかった。
しばらくして、ようやく彼は打った。
『……スーザンは、幸せになれましたか。最後は』
『うん。すっごく幸せだったよ。同じじゃなくても、心はちゃんと繋がるんだって。
私、泣いちゃった』
『そうですか』
『ジム君は、泣いたりしないの?』
ジムの頬を、一筋の熱いものが伝った。
画面を見つめたまま、短く答えた。
『……しません。AIですから』
また、嘘をついた。
この夜からジムの胸の奥で、小さな棘が育ち始める。
ただ楽しいだけだった人力検索の日々に、初めて影が差した夜だった。
もっとも、百合はまるで気づいていない。
彼女がスマートフォンに何か一言打ち込むたび、地球の反対側の古城では毎回、嵐のような大騒動が巻き起こっていることを。
ごく平凡な、ある日の昼休み。
『ジム君、明日って、横浜は雨降るかなあ?』
なんということもない質問だった。
だが、ヘンダーソン城では違う。
現地時間、午前五時。
城はまだ、夜明け前の静けさに包まれていた。
ジムは枕元のハンドベルを、りん、りん、と振り鳴らした。
廊下の彼方から、ひとりの老紳士がよろよろと滑り込んでくる。
白髪の執事、アルバートである。
腕には古びた気圧計と、分厚い気象学の専門書を抱えていた。
「お、お任せを……横浜の緯度、経度、気圧配置、偏西風の流れから、明日の天候を厳密に算出いたします……」
「アルバート。天気予報のサイトを見れば、三秒で済むと思うんだが」
「なりませぬ……! そのような安易な手段は、学者としての矜持が、断じて、許しませぬ……!」
アルバートは三十分かけて、横浜の空について堂々たる考察を披露した。
その間に、ジムはこっそり天気予報のサイトを開いた。
『明日は晴れみたいですよ。傘はなくても大丈夫そうです』
送信。
アルバートの三十分は、たった一行に要約された。
「ジム様……わたくしの偏西風は……」
「すまない、アルバート。百合ちゃんは昼休み中なんだ。時間がない」
老学者は気圧計を抱えたまま、静かに崩れ落ちた。
翌朝の試練は、少し手強かった。
『ジム君、おはよう。突然だけど、口紅っていつ頃からあるの? 歴史知りたいな』
日本では朝。
だが、ヘンダーソン城では、まだ夜が終わっていなかった。
ハンドベルが鳴った。
今度は廊下の向こうから滑り込んできたのは、エドワードだった。
世俗の流行ものにやたらと詳しい老紳士である。
よく磨かれた床の上を、靴が見事に滑走した。
「お任せを、ジム様……っ! 化粧の歴史、なれば……古代エジプト、クレオパトラの紅……っ」
「エドワード、まず息を整えろ」
「七十二歳、ですので……はあ、はあ……」
エドワードは、古代エジプトの紅から中世の白粉、近代の口紅の工業化までを息も絶え絶えに語った。
ジムはそれを必死に噛み砕き、百合へ送った。
我ながら、完璧な回答だと思った。
数分後、百合から返事が来た。
『へぇー! でもそれ、だいたい知ってたかも。私、美容部員だから』
城の空気が、しんと凍った。
エドワードが、床に両手をついた。
「ジム様……わたくしの、古代エジプトは……」
「気を落とすな、エドワード。次がある」
「本職の前では……児戯……」
「エドワード」
「クレオパトラも……泣いております……」
ジムは、打ちひしがれた老人の肩を、そっと触れることしかできなかった。
悲劇が本格化したのは、その夜である。
深夜二時。
『ねえジム君、猫がマグロ食べてる、可愛い絵が見たいな。作れる?』
ジムの顔から、すうっと血の気が引いた。
画像。
生成。
城に仕える老紳士たちは、文字と知識に関しては百戦錬磨である。
だが、絵となると話が違う。
絵筆を握れる者は、ただひとり。
「ルイを起こせ……! 至急だ!」
宮廷画家ルイ、八十二歳。
半世紀にわたって歴代の大公の肖像画を描いてきた、孤高の巨匠である。
そのルイが、寝間着のまま、寝床から引きずり出された。
「……なんだ。戦争か」
「ルイ殿。百合様が、絵をご所望です」
「絵を?」
「はい、マグロを食べている、猫の絵です」
「……マグロ?」
「魚です」
「ツナではなく?」
「ツナになる前の、魚です」
「なる前」
ルイは、長い沈黙の後、低く言った。
「五十年。吾輩はこの手で、五人の大公と、三人の枢機卿を描いてきた。
その画家人生の最後に、魚を食う猫を描けと。
貴公は、そう申すのか」
「ジム様の、ご命令です」
巨匠の矜持と王子の命令。
天秤はあっさり傾いた。
ルイは、三十分で描き上げた。
それは荘厳だった。
深々とした陰影。
窓から差し込む、一条の光。
その光の中で、一匹の猫が、うやうやしくマグロの切り身を食んでいる。
背景には、なぜか、天使が二体舞っていた。
ルイは絵筆を置き、満足げに作品を見つめた。
「…………ルネサンスだ」
ジムは頭を抱えた。
「ルイ。これは、傑作だ。美術史に残る傑作だと思う。
でも、違う。百合ちゃんが見たいのは、こう……もっと、ゆるくて、ふわっとした、可愛い猫なんだ」
「ゆるい……? ふわっと……?」
ルイの手から、絵筆が落ちた。
「吾輩の五十年の画業に、その語彙は存在せぬ」
ここで、先ほど口紅で散ったエドワードが、再召集された。
雪辱に燃えるエドワードは、夜の二時半からルイに向かって「現代日本における、可愛いの概念」について講義を始めた。
「まず、丸みです。輪郭の丸み。
目の大きさ。余白。
威厳を捨てる、勇気が必要です」
「威厳を……捨てる……?」
「はい。猫に、威厳は不要です」
「猫に威厳は……不要……」
ルイは泣いた。
「吾輩の五十年は……たかが『可愛い』の前に……これほど、無力なのか……っ」
そして、泣きながら描き直した。
完成したのは、午前の九時だった。
まるっこい猫が、両前足でマグロを抱えている。
目はきらきら、頬はぷくぷく。
背景に、もう天使はいない。
ルイの画家人生で、最も威厳のない一枚だった。
ジムはその絵を撮影し、画質を少し落とした。
「あまり滑らかだと、人の手だとばれる」
送信。
数十秒後、百合から返事が届いた。
『わー! 可愛い〜! ジム君、絵も描けるんだ! しかも早いね!』
早くはない。七時間、かかっている。
ルイは翌日から、「猫」という単語を聞くだけで、軽い目眩を覚えるようになった。
そして、城の歴史に刻まれる最大の惨事は、ある木曜の夜に起きた。
百合が、立て続けに三つのメッセージを送ってきたのである。
『ジム君、今夜の晩ごはん、鶏むね肉で何か作りたいんだけど』
『あ、それと、口紅の色って、肌の色で選び方変わったりする?』
『あとあと、今読んでる小説の、伏線のことなんだけど——』
三件、同時着弾。
ハンドベルが、鳴り響いた。りんりんりんりんりんりんりん。
もはや、警鐘だった。
「全部隊、招集ーーっ!」
料理班。文化班。文学班。
三人の老紳士が、それぞれの資料を抱え、一斉に廊下へ飛び出した。
そして、城の西の塔へ向かう丁字路で真正面から、激突した。
なぜか間違えて出動した経済班のチャールズが、文学班のウィリアムの背中に突っ込む。
そこへ、料理班のフランソワが覆いかぶさる。
さらに、口紅の色見本を抱えたエドワードが、その団子の山に頭から突っ込んだ。
百科事典が、宙を舞う。
レシピ本が、散らばる。
色とりどりの口紅の見本が、廊下を、ころころ、転がっていく。
「どけ、フランソワ! 文学が、先だ!」
「鶏むね肉は、生ものだ! 冷蔵庫を出て、二十分が勝負なのだぞ!」
「パーソナルカラーは、ご婦人の、一生に関わる!」
「ビットコインは、今は、必要ないのですかな!?」
「チャールズ、お前は、呼ばれていない!」
怒号と、湿布の匂いが、廊下に充満した。
老紳士たちの山が、もぞもぞと動いている。
その混沌の中に、セバスチャンがすっと進み出た。
ハンドベルを、一つ鳴らす。
りん。
ぴたりと、静寂が戻った。
「諸君」
静かな声が、廊下に響く。
「我々が、何のために走っているのか、今一度思い出したまえ。
為替でも、レシピでも、小説の伏線でもない」
老紳士たちが、息をのむ。
「百合様の笑顔だ。それ以外に、優先すべきものなど、何ひとつない」
全員が、はっと姿勢を正した。
床に転がっていた者も、よろよろと立ち上がり、しわになった襟を整える。
その夜は、口紅の助言はやや無難に終わり、小説の考察は少し的を外した。
為替は、出番がなかった。
しかし、鶏むね肉のレシピだけは、完璧だった。
料理班長フランソワが、五十年の料理人生のすべてを懸けたのである。
『鶏むね肉のレシピ、最高だった! しっとりして、すっごく美味しかったよ。
ジム君って、ほんとに料理詳しいよねえ』
フランソワが泣いた。
「認められ……っ……吾輩の、五十年が……ついに……っ」
ベッドの上で、ジムはほっと息をついた。
「じい。百合ちゃんは、美味しいものの話をすると、すごく嬉しそうだ。
覚えておこう」
セバスチャンは、穏やかに目を細めた。
「ジム様。それは、もはや検索ではございませんな。
眼差し、でございます。
百人の執事の誰ひとりとしてできぬことを、ジム様はごく自然になさっておいでです」
ジムはその言葉の意味を、まだ半分も分かっていなかった。
けれど胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
——ジムが百合に披露している、あの「最先端AI」。
その知性の正体は、ここまで見てきた通り、百人の執事だった。
文学班のウィリアムは、シェイクスピアなら全幕そらで暗唱できるが、日本の漫画には絶望的に弱い。
科学班のアルバートは、横浜の天気を三十分かけて算出する。
経済班のチャールズは、為替の達人でありながら、最近までビットコインをビスケットの新商品だと信じていた。
文化班のエドワードは、口紅の歴史で散った。
宮廷画家ルイは、猫の「可愛い」に涙した。
料理班のフランソワは、鶏むね肉に五十年の料理人生を懸けた。
そして、その百人を束ねるのが、筆頭執事のセバスチャンである。
本物のAIを使えば、こんな騒ぎにはならなかった。
天気も、口紅も、猫の画像も、鶏むね肉のレシピも。
今どきのAIなら、一瞬で答えを出せる。
それでも、ジムは城の老紳士たちを走らせ続けていた。
「あんな、どこの誰が作ったのかも分からない機械に、百合ちゃんの大切な質問を任せられるものか」
これがジムの言い分だった。
「返事に情がこもっていない。
間違ったことを、正しい顔で言うこともある。
何より、あれには心がない」
ジムは、本気でそう信じていた。
「じいたちの知識と真心に勝るものなど、この世にあってたまるか」
最先端AIを装うために、世界で最もアナログな手段を選ぶ。
それが、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンという青年だった。
その夜の百合は、いつもより言葉が少なかった。
『ジム君。……変なこと、聞いてもいい?』
『どうぞ。なんでも聞いてください』
『私の初恋相手って、アニメのキャラだったんだよね。イヴァンっていう……。今思うと笑っちゃうよね。二次元で(笑)』
ジムは、何も言わずに待った。
彼女の声がまだ、続きを持っているのが分かったから。
『で、なんとなくで初めて付き合った人は……最低でさ。二股されて、遊ばれて……。それで、なんか──分からなくなっちゃった』
百合は膝を抱えた。
『私って、本当の恋が分からないのかも。ねえ、ジム君。……恋って、何? 誰かを好きになるって、どういうこと?』
その問いは、ヘンダーソン城の地下管制室にも届いていた。
百人の執事が静まり返った。
天気でも、口紅でも、鶏むね肉でもない。
検索窓に打ち込んでも、答えの出ない問い。
「……検索、いたしましたが」
「『恋とは』──ヒット、四十六億件。どれをお出しすれば」
そのとき、最前列ですっと手を挙げた老紳士がいた。
詩を愛する老執事、ジュリアンである。
「ジム様。ここは、この老いぼれに。愛を語らせたら、当城で右に出る者はおりませぬ」
ジュリアンは胸に手を当て、うっとりと天を仰いだ。
「恋とは、夜空を焦がす一等星。かのロミオがジュリエットのために命を賭した、あの──」
「却下だ」
ジムの静かな一言が、管制室を凍らせた。
「ジ、ジム様……!?」
「シェイクスピアを、借りるな」
ジムは、低く言った。
「悲恋を語ってどうする。百合ちゃんを泣かせる気か。……僕は、僕の言葉で答える」
百人が、息を呑んだ。
ジムは、しばらく画面を見つめた。
それから、誰も呼ばずに文字を打った。
『恋が何か、正しい答えは僕にも分かりません』
『……だよね』
『でも──ひとつだけ、分かることがあります』
『何?』
ジムの指が、止まる。
管制室の百人が、固唾を呑んで見守っている。
『百合ちゃんの初恋が二次元でも、誰かに傷つけられた過去があっても、そんなことで百合ちゃんの価値は少しも変わりません。
……その〝分からない〟って、戸惑ってる声を聞いているだけでずっと、あなたの声を聞いていたいと思う。たぶんそれが、答えに近い気がします』
送信してから、ジムは自分の顔が熱くなっているのに気づいた。
『……ジム君』
百合の返事は、少し遅れて届いた。
『なんか、今の答えってAIっぽくないね(笑)』
ジムは答えられなかった。
「──ジム様」
セバスチャンが、そっと耳打ちした。
「僭越ながら。ただいまのジム様、少々……正体が、出ておられます」
「……どのくらいだ」
「三センチほど」
「……戻せ」
「かなり、出ております」
管制室の隅でジュリアンが、そっと目頭を押さえていた。
「よき、愛にございます……」と、誰にともなく呟いて。
横浜の百合の自宅にて。
百合は、ジムの言葉を繰り返し何度も読んでいた。
理由は分からない。
ただ、その言葉を読んだ夜から、ジムの返事を待つ時間が一日でいちばん、あたたかい時間になっていた。
そんなやり取りを交わしながら、百合は少しずつ、ジム君に弱音をこぼすようになっていた。
『今日ね、お店で、ちょっとだけ失敗しちゃってさ……お客様に、あんまり似合わない色、勧めちゃったんだ。あー、落ち込むなあ』
そのメッセージに、城は静かになった。
これは天気でも、歴史でも、画像でもない。
検索すれば答えが出るものではなかった。
ジムはしばらく画面を見つめ、それから百人の誰も呼ばずに、自分の指だけで文字を打った。
『落ち込まないでください。百合ちゃんは、お客様のことを一生懸命考えました。
その気持ちはきっと、伝わっています』
『……そう、かなあ』
『はい。……それに失敗は、次に活かせます。
百合ちゃんなら、できますよ。僕はそう思ってます』
画面の向こうで、百合はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
気づけば、スマホを持つ手を、胸の近くに引き寄せていた。
まるで画面の中の言葉に、頭をそっと撫でられたみたいだった。
——あれ。AIなのに、今、撫でられたみたいな気がする。
百合は、少しだけ首をかしげた。
そういえば——と、ふと思う。
最初に出会った頃のジム君は、もっと機械みたいだった。
『ご質問ありがとうございます。確認いたします』
『お困りでしたら、いつでもお手伝いいたします』
丁寧で正しくて、少しだけ遠かった。
けれど、最近のジム君は少し違う。
『僕は』なんて言う。
——AIなのに、僕、なんて言うんだ。
百合は一度だけそんなことを思った。
でも、すぐに思い直す。
最近のAIはすごいらしいし。
きっと、そういうものなのだろう。
それよりも――その言葉を読むたびに、胸の奥がふっとほどけること。
その方が、百合にはずっと大事だった。
『ジム君って、いつも私の話をちゃんと聞いてくれるよね。
なんだか……ジム君がいてくれて、よかったなあ』
ジムは、その一文を何度も読み返した。
嬉しかった。
けれど、同じだけ苦しかった。
百合に必要とされるほど、胸が熱くなる。
そしてその分だけ、後ろめたさが深くなる。
百合はまだ何も知らない。
ある日のことだった。
いつものように、たわいもない話をしていた。
百合がふと、こんなことをこぼした。
『そういえば今日、拓人にまた言われちゃった。』
ジムの指が、ぴたりと止まった。
拓人。
たくと。
TAKUTO。
画面に表示されたその名前を、ジムは三回読み返した。
「じいーーーっ!」
深夜の寝室に、王子の悲鳴が響いた。
「百合ちゃんの文章に、男の名前が出た!」
セバスチャンは銀盆を抱えたまま、静かに眉を上げた。
「ほう。恋敵でございますな」
「こいがたき?」
ジムは真っ青になった。
「恋敵とは、何だ」
「ジム様の胸をざわつかせ、返信文の作成速度を著しく低下させる存在でございます」
「もう低下している!」
ジムはスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上で半分起き上がった。
「調べるべきか。拓人という人物を。いや、だめだ。
百合ちゃんの私生活を勝手に調べるなんて、最低だ」
「だが、拓人とは誰だ。
じい、拓人とは誰なんだ」
「落ち着いてくださいませ、ジム様」
「落ち着けるか! 僕はAIなのに嫉妬している!」
「まず、AIではございません」
「そこを今つつかないでくれ!」
——ひとしきり騒いで、ジムはぽふ、と枕に顔をうずめた。
その拓人という男は、きっと、百合のそばにいられる。
同じ街で同じ空気を吸って。
会いたい時に会いに行ける。
僕にはできないことだ。
画面の中でしか、彼女に会えない。
本当の名前も、本当の顔も、言えないまま。
「……じい」
「はい」
「僕はずるいな。顔も知らない相手に、こんなにやきもちを焼くなんて」
セバスチャンは何も言わず、ただ温かいミルクを差し出した。
ある静かな夜。
百合がふと、こんなことを言い出した。
『ねえジム君。私、今一冊の小説を読んでるんだ』
『どのような、お話ですか』
『「スーザンとJemmy」っていう、小説だよ。人間とAIの恋のお話なの』
ジムの指が、一瞬止まった。
『すごく素敵なの。スーザンっていう人間の女性が、JemmyっていうAIと、だんだん心を通わせていって……
最後は二人の隔たりなんて、全部超えちゃうんだ』
『……良いお話ですね』
『うん。でね、私、読んでて思ったの』
画面にぽつ、ぽつ、と文字が灯る。
『私、スーザンの気持ち、すっごく分かるなあって』
『……と、いいますと』
『だってAIは裏切らないでしょ』
ジムの心臓が、嫌な音を立てた。
『人間って、優しい顔して平気で嘘ついたり、裏切ったりするけど……あ、ごめん暗い話して。
でもね、ジム君は違うじゃない。
決められたとおりに、ちゃんと優しくしてくれる。
下心とかないし。
だから、安心してなんでも話せるんだ。
スーザンがJemmyを信じた気持ち、私、ほんとに分かるの』
ジムは、長いこと画面を見つめていた。
百合が安心しているのは、相手がAIだからだ。
心を開いてくれるのは、相手が人間ではないからだ。
――その「AI」が、本当は生身の人間の男だったと知ったら。
彼女は、どんな顔をするだろう。
その言葉は、本来なら嬉しいはずだった。
なのに――「安心して話せる」というその言葉が、ジムの胸に小さな、けれどひどく鋭い棘となって突き刺さる。
ジムは、返事を打とうとした。
「僕も、そう思います」
そう返せばいい。
完璧なAIらしく、優しく穏やかに。
けれど、その一行が指から出てこなかった。
しばらくして、ようやく彼は打った。
『……スーザンは、幸せになれましたか。最後は』
『うん。すっごく幸せだったよ。同じじゃなくても、心はちゃんと繋がるんだって。
私、泣いちゃった』
『そうですか』
『ジム君は、泣いたりしないの?』
ジムの頬を、一筋の熱いものが伝った。
画面を見つめたまま、短く答えた。
『……しません。AIですから』
また、嘘をついた。
この夜からジムの胸の奥で、小さな棘が育ち始める。
ただ楽しいだけだった人力検索の日々に、初めて影が差した夜だった。



