話は、ほんの少しだけ巻き戻る。
ジムがあの運命の一通を送る、少し前。
地球の反対側、横浜での出来事である。
如月百合、二十二歳。
横浜の大きな百貨店の一階、きらびやかな化粧品売り場に立つ美容部員だった。
背は百五十五センチと小柄で、肩までの栗色のゆるふわな髪が、よく似合っていた。
派手な美人というより、ふと目を引く可愛らしさのある女性だった。
それでいて自分の化粧はいつも控えめ。
華やかな売り場の中で、どこか素朴な雰囲気が、かえって印象に残った。
「いらっしゃいませ。本日は何か、お探しでいらっしゃいますか?」
微笑むと、頬にぽつんとえくぼが浮かぶ。
売り場での評判は良い。
声は柔らかく、説明は丁寧で、決して押し付けない。
新作のリップを選ぶお客にも、肌荒れに悩むお客にも、百合はいつも同じように優しく寄り添った。
ただし、それは仕事中の話である。
休憩室に戻ると、百合はたいてい隅の席にいた。
同僚の会話に、にこにこ相槌は打つが、自分から輪の中心に入ることはほとんどない。
売り場の笑顔は、彼女にとって制服のようなものだった。
それを脱いだ後の百合は、人付き合いの少し苦手な内気な一人の女性である。
恋人はいない。
二十歳のとき一度だけ、いたことはある。
その人には、百合の他にも付き合っている女性が何人もいた。
知ってしまった日のことを、百合はもう思い出さないようにしている。
心の奥の一番開けにくい引き出しにしまって、上からそっと鍵をかけた。
それ以来、現実の男性が、どうにもうまく信じられなくなった。
優しい言葉をかけられても、少しだけ身構えてしまう。
この笑顔の裏には、何があるんだろう、と。
だから百合は、現実の恋から静かに目を背けるようになった。
その代わりに二次元の中に、ありったけの愛を注ぐ相手がいる。
『追突の巨人』
それが、百合がこの世で一番愛してやまないアニメだった。
夜ごと壁に追突してくる巨人を相手に、一個の部隊が命を懸けて壁を守り抜く。
あらすじだけ聞くと、なかなか意味の分からない物語である。
けれど百合に言わせれば、これほど熱くて、気高くて、胸を打つ作品はほかにない。
なかでも彼女の心の全てを捧げているのが、その部隊を率いるイヴァン隊長だ。
小柄で、無口で、いつもは少し不愛想。
けれど、壁の前に立てば誰よりも熱く燃え上がる。
彼が低い声で、決め台詞を口にする瞬間。
『この壁を、絶対、防御してやる』
「……はぁ。イヴァン隊長……今日も、かっこいい……」
録画したその場面を、もう何十回見返したか分からない。
夜、ベッドの上でクッションを抱きしめながら、画面の中の隊長をうっとり見つめる。
それが、一日でいちばん幸せな時間だった。
スマートフォンのロック番号も、イヴァン隊長の誕生日である。
誰にも、教えるつもりはない。
現実の男は嘘をつくし、裏切る。
けれど、イヴァン隊長は裏切らない。
いつだって画面の中で、まっすぐ壁を守り続けてくれる。
百合は本気で、それで十分だと思っていた。
そのぽやぽやした二次元中心の生活に、ある日、余計なお世話が舞い込んできた。
「ねえ如月さぁ、フォトグラムとか、やらないの?」
昼休みの休憩室で、先輩が唐突に言った。
手にしたスマートフォンのフォトグラムの画面には、きれいに撮られたランチと、新作コスメの写真が並んでいた。
「えっ……わ、私は、ちょっと……」
「えー、もったいない! 日記代わりでいいんだよ。
今日のメイクとか、ぱぱっと上げるだけ」
「でも……人に見られるの、なんだか怖くて……」
「大丈夫だって。非公開にすればいいの。
鍵をかけとけば、許可した人以外には見えないから」
「鍵を、かければ……」
「そうそう。ほら、アプリ入れてあげる」
こうして百合は、半ば押し切られるように、フォトグラムを始めることになった。
問題はここからだった。
百合は、デジタルが苦手である。
先輩には、たしかに「非公開にしときな」と言われた。
言われたのだが――その非公開のボタンがどこにあるのか、最後まで分からなかった。
「たぶん……これ、かな?」
それらしい場所を、ぽちぽち、押してみる。
画面に、何かの確認らしい文字が出た。
百合は、ほっと息を吐いた。
「よかった。鍵、かかったっぽい」
かかっていない。
鍵は、どこにも、かかっていない。
けれど百合はすっかり安心して、その日の朝に撮った写真を投稿した。
淹れたてのコーヒー。
読みかけの文庫本。
窓辺に、少しだけ映り込んだ、自分の横顔。
『今日も一日、がんばろう』
それだけ添えて、ぽん、と投稿した。
完全に、全世界へ公開された状態で。
とはいえ、フォロワーはほとんどゼロである。
そんな無名のアカウントを、わざわざ見つける人など普通はいない。
ただ、地球の反対側に、ひとりだけいた。
その一枚に、心を奪われてしまった王子が。
異変が起きたのは、フォトグラムを始めて二週間ほど経った夜だった。
ベッドでごろりと寝転がってスマートフォンを眺めていると、見慣れない通知が一つ灯った。
ダイレクトメッセージ。
「……え?」
フォロワーもいないのに、誰だろう。
おそるおそる開いてみる。
『はじめまして。何かお手伝いできることはございますか』
百合は、画面を二度見した。
知らない相手だった。
アイコンは、つるりとした青いマーク。
表示名は、ただ「ジム」とだけ。
宣伝か。怪しい勧誘か。
百合の人見知りセンサーが、頭の中で、ぴこんぴこんと鳴り始める。
『?? 誰ですか? ていうか、なんで私のこと知ってるんですか?』
返事はすぐ来た。
『私は、人間ではありません。AIです』
「…………え?」
百合は、しばらくその一文を見つめた。
AI。
人間ではない。
最近、よく聞く言葉だった。
質問すると、何でも答えてくれる賢い機械。
先輩も「最近のAIって、すごいよね」と言っていた気がする。
「なるほど……これが、そのAI……」
百合は、いともあっさり納得した。
もちろん、普通に考えればおかしい。
フォロワーもいない個人に、AIのほうから声をかけてくるなんて、そんな親切なサービスがあるわけがない。
だが、百合にそれを見抜く知識はなかった。
それにもう一つ。
彼女が深く疑わなかった理由がある。
相手が人間ではないこと。
それは百合にとって、怖がる理由ではなかった。
むしろ、少しだけ安心できる理由だった。
人間の男は怖い。いつ裏切るか分からない。
でもAIなら、下心も嘘もない。
ただ、決められた通りに優しくしてくれるだけ。
それは少し、画面の中で壁を守り続けるイヴァン隊長に似ていた。
百合は、ほんの少し肩の力を抜いた。
『じゃあ……AIさんは、なんでも知ってるの?』
返事までに、わずかな間があった。
『はい。何でもお尋ねください。全力でお調べいたします』
その「全力で」に、文字通りの意味が込められていることを、百合は知らない。
この夜、海の向こうの古城では、百人の老紳士たちが静かに出動準備を始めていた。
それから、百合と「AIさん」の不思議な交流が始まった。
最初は、当たり障りのない質問ばかりだった。
明日の天気。電車の乗り換え。コンビニの新作スイーツ。
AIさんは、どれにも丁寧に答えてくれた。
しかも、ただ正しいだけではない。
百合が、ふと「今日はなんだか疲れちゃった」と送った夜。
AIさんは、すぐに返してくれた。
『お疲れさまでした。温かいお茶でも飲んで、ゆっくり休んでくださいね。
あなたが元気でいてくれるのが、一番です』
百合は、画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「AIって……こんなことまで言ってくれるんだ」
同僚に話せば、気を遣う。
家族に話せば、心配をかける。
でも、AI相手なら、どんな愚痴でも遠慮しなくていい。
相手は機械なのだから。
その遠慮のいらなさが、人見知りの百合には心地よかった。
ある夜、百合はふと思いついて聞いてみた。
『ねえ、そういえば、AIさんって……名前、あるの?』
返事までに、いつもより少し長い間があった。
画面の向こうで、ジムが心臓を跳ねさせていることなど、百合は知らない。
『……ジム、と申します』
「へえ……」
百合は、思わず声を漏らした。
『AIさんなのに、ちゃんと名前あるんだ。なんだか可愛い』
『……可愛い、ですか』
『うん。じゃあさ、これからはジム君って呼んでもいい?
AIさんって、なんだかよそよそしくて、つまんないんだもん』
地球の反対側。
ヘンダーソン城の寝室。
ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンは、スマートフォンを握りしめたまま、ぼっ、と顔を赤くした。
ジム君。
たった、それだけの呼び名が、胸の奥をきゅうっと締めつける。
『……はい。どうぞ、お好きなようにお呼びください』
『やったー。じゃあジム君、これからよろしくね』
『こちらこそ、よろしくお願いいたします』
送信してから、ジムは少し迷った。
そして、震える指でもう一文を打った。
『では、私はあなたのことを、百合さんとお呼びすればよろしいでしょうか』
『え、百合さん?』
『はい。失礼があってはいけませんので』
『ふふ。ジム君、まじめだね』
画面の文字を見ただけで、ジムの心臓はまた跳ねた。
『百合ちゃんでいいよ。AIさんじゃなくて、ジム君なんだし。
私のことも、気軽に呼んでね』
百合ちゃん。
ジムは、その文字を見つめたまま、完全に固まった。
ヘンダーソン城の寝室で若き王子は、たった一人の日本の女性に、呼び名を許された。
それだけで、世界中の勲章を授けられたような気持ちになった。
『……では、百合ちゃん、とお呼びします』
『うん。よろしくね、ジム君』
スマートフォンを胸に抱えたまま、ジムはベッドの上で小さくうずくまった。
「じい」
扉の外に控えていたセバスチャンが、静かに返事をする。
「はい、ジム様」
「百合ちゃんと、呼んでいいらしい」
しばしの沈黙のあと、老執事は深く頭を下げた。
「……国家の慶事でございますな」
こうしてその夜から、百合にとって、画面の向こうの相手は「AIさん」ではなくなった。
ジム君に、なった。
もちろん、百合は何も知らない。
そのジム君が本当はAIではなく、海の向こうの古城に住む生身の王子だということを。
ましてや――その王子が今、ベッドの上を転がり回り、枕に顔をうずめて悶えていることなど、夢にも思っていなかった。
ジムがあの運命の一通を送る、少し前。
地球の反対側、横浜での出来事である。
如月百合、二十二歳。
横浜の大きな百貨店の一階、きらびやかな化粧品売り場に立つ美容部員だった。
背は百五十五センチと小柄で、肩までの栗色のゆるふわな髪が、よく似合っていた。
派手な美人というより、ふと目を引く可愛らしさのある女性だった。
それでいて自分の化粧はいつも控えめ。
華やかな売り場の中で、どこか素朴な雰囲気が、かえって印象に残った。
「いらっしゃいませ。本日は何か、お探しでいらっしゃいますか?」
微笑むと、頬にぽつんとえくぼが浮かぶ。
売り場での評判は良い。
声は柔らかく、説明は丁寧で、決して押し付けない。
新作のリップを選ぶお客にも、肌荒れに悩むお客にも、百合はいつも同じように優しく寄り添った。
ただし、それは仕事中の話である。
休憩室に戻ると、百合はたいてい隅の席にいた。
同僚の会話に、にこにこ相槌は打つが、自分から輪の中心に入ることはほとんどない。
売り場の笑顔は、彼女にとって制服のようなものだった。
それを脱いだ後の百合は、人付き合いの少し苦手な内気な一人の女性である。
恋人はいない。
二十歳のとき一度だけ、いたことはある。
その人には、百合の他にも付き合っている女性が何人もいた。
知ってしまった日のことを、百合はもう思い出さないようにしている。
心の奥の一番開けにくい引き出しにしまって、上からそっと鍵をかけた。
それ以来、現実の男性が、どうにもうまく信じられなくなった。
優しい言葉をかけられても、少しだけ身構えてしまう。
この笑顔の裏には、何があるんだろう、と。
だから百合は、現実の恋から静かに目を背けるようになった。
その代わりに二次元の中に、ありったけの愛を注ぐ相手がいる。
『追突の巨人』
それが、百合がこの世で一番愛してやまないアニメだった。
夜ごと壁に追突してくる巨人を相手に、一個の部隊が命を懸けて壁を守り抜く。
あらすじだけ聞くと、なかなか意味の分からない物語である。
けれど百合に言わせれば、これほど熱くて、気高くて、胸を打つ作品はほかにない。
なかでも彼女の心の全てを捧げているのが、その部隊を率いるイヴァン隊長だ。
小柄で、無口で、いつもは少し不愛想。
けれど、壁の前に立てば誰よりも熱く燃え上がる。
彼が低い声で、決め台詞を口にする瞬間。
『この壁を、絶対、防御してやる』
「……はぁ。イヴァン隊長……今日も、かっこいい……」
録画したその場面を、もう何十回見返したか分からない。
夜、ベッドの上でクッションを抱きしめながら、画面の中の隊長をうっとり見つめる。
それが、一日でいちばん幸せな時間だった。
スマートフォンのロック番号も、イヴァン隊長の誕生日である。
誰にも、教えるつもりはない。
現実の男は嘘をつくし、裏切る。
けれど、イヴァン隊長は裏切らない。
いつだって画面の中で、まっすぐ壁を守り続けてくれる。
百合は本気で、それで十分だと思っていた。
そのぽやぽやした二次元中心の生活に、ある日、余計なお世話が舞い込んできた。
「ねえ如月さぁ、フォトグラムとか、やらないの?」
昼休みの休憩室で、先輩が唐突に言った。
手にしたスマートフォンのフォトグラムの画面には、きれいに撮られたランチと、新作コスメの写真が並んでいた。
「えっ……わ、私は、ちょっと……」
「えー、もったいない! 日記代わりでいいんだよ。
今日のメイクとか、ぱぱっと上げるだけ」
「でも……人に見られるの、なんだか怖くて……」
「大丈夫だって。非公開にすればいいの。
鍵をかけとけば、許可した人以外には見えないから」
「鍵を、かければ……」
「そうそう。ほら、アプリ入れてあげる」
こうして百合は、半ば押し切られるように、フォトグラムを始めることになった。
問題はここからだった。
百合は、デジタルが苦手である。
先輩には、たしかに「非公開にしときな」と言われた。
言われたのだが――その非公開のボタンがどこにあるのか、最後まで分からなかった。
「たぶん……これ、かな?」
それらしい場所を、ぽちぽち、押してみる。
画面に、何かの確認らしい文字が出た。
百合は、ほっと息を吐いた。
「よかった。鍵、かかったっぽい」
かかっていない。
鍵は、どこにも、かかっていない。
けれど百合はすっかり安心して、その日の朝に撮った写真を投稿した。
淹れたてのコーヒー。
読みかけの文庫本。
窓辺に、少しだけ映り込んだ、自分の横顔。
『今日も一日、がんばろう』
それだけ添えて、ぽん、と投稿した。
完全に、全世界へ公開された状態で。
とはいえ、フォロワーはほとんどゼロである。
そんな無名のアカウントを、わざわざ見つける人など普通はいない。
ただ、地球の反対側に、ひとりだけいた。
その一枚に、心を奪われてしまった王子が。
異変が起きたのは、フォトグラムを始めて二週間ほど経った夜だった。
ベッドでごろりと寝転がってスマートフォンを眺めていると、見慣れない通知が一つ灯った。
ダイレクトメッセージ。
「……え?」
フォロワーもいないのに、誰だろう。
おそるおそる開いてみる。
『はじめまして。何かお手伝いできることはございますか』
百合は、画面を二度見した。
知らない相手だった。
アイコンは、つるりとした青いマーク。
表示名は、ただ「ジム」とだけ。
宣伝か。怪しい勧誘か。
百合の人見知りセンサーが、頭の中で、ぴこんぴこんと鳴り始める。
『?? 誰ですか? ていうか、なんで私のこと知ってるんですか?』
返事はすぐ来た。
『私は、人間ではありません。AIです』
「…………え?」
百合は、しばらくその一文を見つめた。
AI。
人間ではない。
最近、よく聞く言葉だった。
質問すると、何でも答えてくれる賢い機械。
先輩も「最近のAIって、すごいよね」と言っていた気がする。
「なるほど……これが、そのAI……」
百合は、いともあっさり納得した。
もちろん、普通に考えればおかしい。
フォロワーもいない個人に、AIのほうから声をかけてくるなんて、そんな親切なサービスがあるわけがない。
だが、百合にそれを見抜く知識はなかった。
それにもう一つ。
彼女が深く疑わなかった理由がある。
相手が人間ではないこと。
それは百合にとって、怖がる理由ではなかった。
むしろ、少しだけ安心できる理由だった。
人間の男は怖い。いつ裏切るか分からない。
でもAIなら、下心も嘘もない。
ただ、決められた通りに優しくしてくれるだけ。
それは少し、画面の中で壁を守り続けるイヴァン隊長に似ていた。
百合は、ほんの少し肩の力を抜いた。
『じゃあ……AIさんは、なんでも知ってるの?』
返事までに、わずかな間があった。
『はい。何でもお尋ねください。全力でお調べいたします』
その「全力で」に、文字通りの意味が込められていることを、百合は知らない。
この夜、海の向こうの古城では、百人の老紳士たちが静かに出動準備を始めていた。
それから、百合と「AIさん」の不思議な交流が始まった。
最初は、当たり障りのない質問ばかりだった。
明日の天気。電車の乗り換え。コンビニの新作スイーツ。
AIさんは、どれにも丁寧に答えてくれた。
しかも、ただ正しいだけではない。
百合が、ふと「今日はなんだか疲れちゃった」と送った夜。
AIさんは、すぐに返してくれた。
『お疲れさまでした。温かいお茶でも飲んで、ゆっくり休んでくださいね。
あなたが元気でいてくれるのが、一番です』
百合は、画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「AIって……こんなことまで言ってくれるんだ」
同僚に話せば、気を遣う。
家族に話せば、心配をかける。
でも、AI相手なら、どんな愚痴でも遠慮しなくていい。
相手は機械なのだから。
その遠慮のいらなさが、人見知りの百合には心地よかった。
ある夜、百合はふと思いついて聞いてみた。
『ねえ、そういえば、AIさんって……名前、あるの?』
返事までに、いつもより少し長い間があった。
画面の向こうで、ジムが心臓を跳ねさせていることなど、百合は知らない。
『……ジム、と申します』
「へえ……」
百合は、思わず声を漏らした。
『AIさんなのに、ちゃんと名前あるんだ。なんだか可愛い』
『……可愛い、ですか』
『うん。じゃあさ、これからはジム君って呼んでもいい?
AIさんって、なんだかよそよそしくて、つまんないんだもん』
地球の反対側。
ヘンダーソン城の寝室。
ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンは、スマートフォンを握りしめたまま、ぼっ、と顔を赤くした。
ジム君。
たった、それだけの呼び名が、胸の奥をきゅうっと締めつける。
『……はい。どうぞ、お好きなようにお呼びください』
『やったー。じゃあジム君、これからよろしくね』
『こちらこそ、よろしくお願いいたします』
送信してから、ジムは少し迷った。
そして、震える指でもう一文を打った。
『では、私はあなたのことを、百合さんとお呼びすればよろしいでしょうか』
『え、百合さん?』
『はい。失礼があってはいけませんので』
『ふふ。ジム君、まじめだね』
画面の文字を見ただけで、ジムの心臓はまた跳ねた。
『百合ちゃんでいいよ。AIさんじゃなくて、ジム君なんだし。
私のことも、気軽に呼んでね』
百合ちゃん。
ジムは、その文字を見つめたまま、完全に固まった。
ヘンダーソン城の寝室で若き王子は、たった一人の日本の女性に、呼び名を許された。
それだけで、世界中の勲章を授けられたような気持ちになった。
『……では、百合ちゃん、とお呼びします』
『うん。よろしくね、ジム君』
スマートフォンを胸に抱えたまま、ジムはベッドの上で小さくうずくまった。
「じい」
扉の外に控えていたセバスチャンが、静かに返事をする。
「はい、ジム様」
「百合ちゃんと、呼んでいいらしい」
しばしの沈黙のあと、老執事は深く頭を下げた。
「……国家の慶事でございますな」
こうしてその夜から、百合にとって、画面の向こうの相手は「AIさん」ではなくなった。
ジム君に、なった。
もちろん、百合は何も知らない。
そのジム君が本当はAIではなく、海の向こうの古城に住む生身の王子だということを。
ましてや――その王子が今、ベッドの上を転がり回り、枕に顔をうずめて悶えていることなど、夢にも思っていなかった。



