「じいーーーっ!! 来た! 百合ちゃんから、おはようが来たぞ!
しかも今日は、お日様の絵文字つきだ! これはご機嫌の証拠だ!」
しんと静まり返った深夜のヘンダーソン城に、第一王子の絶叫が響き渡った。
時刻はまもなく午前零時。
石造りの廊下に人の気配はなく、古い柱時計だけが、こつ、こつ、と夜を刻んでいる。
城の者は皆、とうに寝静まっていた。
けれど、西棟の奥にあるジムの寝室だけは、まだ明るく灯っていた。
声の主は、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソン、二十二歳。
ヘンダーソン公国の第一王子——通称、ジム。
透き通るように白い肌に、淡い金の髪、澄んだ青い瞳。
整いすぎて少し近寄りがたいほどの美貌の持ち主だった。
身長は百七十センチほど。
けれど病弱なせいか、体つきは細く、どこか儚げだった。
だが、百合からの通知を見つめる瞳だけは、少年のようにまっすぐ熱を帯びていた。
そのジムが、天蓋付きのベッドの上でスマートフォンを両手で抱え、画面を見つめたまま震えていた。
膝のクッションがぽてん、と床に落ちる。
それでも、スマートフォンだけは決して離さない。
画面には、たった一行。
『おはよう、ジム君。今日も一日がんばろうね☀』
「見ろ、じい! 太陽だ! 太陽の絵文字つきだ!」
返事は、ない。なにしろ深夜である。
それでも、ほどなく寝室の扉が静かに開いた。
現れたのは、筆頭執事のセバスチャン。
ジムから「じい」と呼ばれる、七十六歳の老紳士だ。
白髪に品のいい口髭。
背筋はぴんと伸びているが、目尻には優しい皺が刻まれている。
寝間着の上にガウンを羽織り、銀の燭台を手にした彼は、少しも慌てずしずしずと部屋へ入ってきた。
「ジム様。また、このような夜更けまで起きておいでで」
「だってじい、日本は朝なんだ。百合ちゃんは今、起きて一日を始めようとしている。
僕だけ寝ているわけにはいかないだろう」
「こちらは深夜でございます」
「知ってる」
「お体に障ります」
「それも知ってる」
ジムは少しばつが悪そうに笑い、画面の太陽の絵文字をいとおしそうに指でなぞった。
「でもね、この一通で分かるんだ。
百合ちゃんが今日元気だって。
絵文字のない日はきっと、何か嫌なことがあった日だ。
だから、僕は見逃したくないんだよ」
セバスチャンは静かに目を細めた。
数か月前までこの若い主は、もっと静かな人だった。
本を読み、画面越しに講義を受け、誰にも迷惑をかけまいと、息を潜めるように日々を過ごしていた。
それが今ではたった一つの絵文字に、城中へ響くほどの声を上げる。
困った変化だ。
そして——老執事にとっては、何より嬉しい変化でもあった。
「では、せめて温かいものをお持ちいたしましょう」
「ありがとう、じい。あ、待って。返事を書かなきゃ」
ジムは画面に向き直り、それからぴたりと指を止めた。
「……じい。今、こっちは何時だ」
「午前零時、少し前にございます」
「百合ちゃんは『今日も一日がんばろう』って言ってる。
つまり、彼女にとっては朝だ。でも、こっちは真夜中。
ここで僕が、普通に『こんばんは』と返したら——」
「特に、問題はないかと」
「ある。大ありだ。僕は、AIなんだぞ」
——正確には、AIではない。
が、少なくとも百合は、そう信じている。
「AIなのに、時差を考えないなんて、変だろう。
しかも『今日もいい天気だね』なんて送って、『え、こっちは雨だけど?』と返されたら、終わりだ。
こっちは真夜中で、空には星しかない。
向こうの天気も確かめずに、天気の話をするAI。
そんなもの、ただの不具合だ。いや、不具合どころではない。
AIが天気で嘘をついたことになる」
「ジム様は、すでに大きな嘘を一つ、ついておいでですが」
「……それは、今、言わないでくれ」
ジムは枕を抱え、真剣に悩み始めた。
深夜の古城で王子と老執事が、たった一通の返信に眉根を寄せている。
傍から見れば実に奇妙な光景だった。
やがて、ジムが顔を上げた。
「そうだ。時間にも、天気にも触れなければいい。彼女の言葉だけを受け止める」
「妥当でございます」
ジムは、慎重に文字を打ち込んだ。
打っては消し、消しては打ち直し。
たった一行に、時間をかけて。
『おはようございます。あなたが、今日も笑顔で過ごせますように。
何かお困りのことがあれば、いつでもお申し付けください』
送信。その瞬間、ジムは枕の山にどさりと倒れ込んだ。
「……勝った」
「何にでございますか」
「百合ちゃんの朝に」
セバスチャンは何も言わず、燭台を持ち直した。
「温かいミルクをお持ちいたします。砂糖は控えめに」
「えっ、少しは入れてくれよ」
「主治医に禁じられております」
「じゃあ、ほんの少しだけ多めで」
「控えめにいたします」
一礼して静かに部屋を出た。
城は再び、夜の沈黙に包まれている。
ただ、寝室の中からだけ、主人が小さく笑う声が漏れていた。
ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンは、生まれつき体が弱かった。
心臓に持病があり、少し階段を上っただけで息が切れる。
季節の変わり目には、決まって熱を出した。
体に障るからと、主治医からは長く、城で静かに過ごすよう勧められてきた。
だから彼の世界は、ずっと本と画面の中にあった。
名門大学の講義も、語学も、遠い国の街並みも、すべて画面越し。
日本語が堪能なのも、外へ行けない時間を言葉で埋めるように、世界を旅してきたからだった。
ヘンダーソン公国を治める大公と大公妃は、息子を深く愛していた。
ただ、国を背負う二人の時間は、いつも公務に奪われていた。
幼いジムのそばにいつもいてくれたのは、じい――セバスチャンと、彼が束ねる百人の執事たちだった。
熱を出した夜、額の手拭いを替えてくれたのは、じい。
歩く練習に付き合ってくれたのも、じい。
同じ年頃の友人は、ついに一人もできなかった。
彼にとって「友達」とは、平均年齢七十歳の、礼儀正しい老人たちのことだったのである。
寂しいか、と聞かれても、彼にはよく分からなかった。
比べる相手がいなければ、寂しさは形を持たない。
彼は自分が寂しいのかどうかさえ分からないまま、二十二年を生きてきた。
その静かな世界に三か月前、突然、朝の光のようなものが差し込んだ。
きっかけは、退屈しのぎに眺めていた、写真共有アプリのフォトグラムだった。
ジムの指が、一枚の投稿の前で止まった。
横浜の小さな部屋。
机の上に淹れたてのコーヒーと、開いたままの文庫本。
窓の外は朝焼けで、その手前にほんの少しだけ、一人の女性の横顔が写っていた。
少し照れたような可愛らしい人だった。
添えられた言葉は短い。
『今日も一日、がんばろう』
それだけ。
なのに、ジムはその一枚から目を離せなくなった。
彼女の写真には、どこか静かな寂しさがあった。
新色のコスメに小さくはしゃぐ投稿。
残業帰りのコンビニプリン。
そして時々、つぶやきの言葉の端々にふと覗く人への警戒心。
ジムは夜明けまで、彼女の投稿を読みふけった。
名前は、如月百合。
横浜で一人暮らしの二十二歳。
どうやら現実の男性が少し苦手らしい。
理由までは分からない。
ただその傷がまだ新しいことだけは、画面越しにも伝わってきた。
ジムは、スマートフォンを胸に押し当てた。
会いたいと思った。
声を聞いてみたいと。
彼女が見ているあの朝焼けを、自分も隣で見てみたいと。
だが、彼は王子だった。
一国の王子が見ず知らずの一般人に突然連絡を取れば、たちまち騒ぎになる。
報道も警備も外交も――そのすべてが、彼女の小さな日常を巻き込んでしまう。
それだけは嫌だった。
近づきたい。
でも、王子としては近づけない。
かといって一人の男として近づけば、彼女を怖がらせてしまうかもしれない。
どちらにしても近づけない。
ジムは三日三晩、考え抜いた。
百人の執事も残らず巻き込んだ。
夜ごと開かれる会議室では、紅茶が何度も淹れ直された。
そうしてようやく、彼は一つの結論にたどり着いた。
王子でなければいい。
人間の男でもなければいい。
ただのAIなら、彼女も怖がらずにいてくれるかもしれない。
それは彼女を騙すためではない。
彼女を怖がらせないための、たった一つの方法だった。
そして、日本に夜が訪れる頃を見計らって——ジムは震える指で百合に一通のメッセージを送った。
『はじめまして。何かお手伝いできることはございますか』
送信した瞬間、心臓が強く跳ねた。
返事はすぐに来た。
『?? 誰ですか? ていうか、なんで私のこと知ってるんですか?』
当然の反応である。ジムはひとつ深呼吸をした。
ベッド脇ではじいが無言で控えている。
その後ろには、文学班、科学班、料理班――平均年齢七十歳の執事たちが、なぜか全員固唾をのんで画面を見守っていた。
ジムは覚悟を決めて、打ち込んだ。
『私は、人間ではありません。AIです』
たった一行。
それが、すべての始まりだった。
この嘘が、やがて百人の老紳士を城中で全力疾走させ、八十二歳の宮廷画家には、猫とマグロの悪夢を見せる。
そして何より——病弱な王子を甘くて苦しい恋の沼へ、頭から突き落としていく。
もちろん、このときのジムはまだ何も知らない。
ただ、百合からの次の返信を待ちながら、スマートフォンを両手で握りしめていた。
しかも今日は、お日様の絵文字つきだ! これはご機嫌の証拠だ!」
しんと静まり返った深夜のヘンダーソン城に、第一王子の絶叫が響き渡った。
時刻はまもなく午前零時。
石造りの廊下に人の気配はなく、古い柱時計だけが、こつ、こつ、と夜を刻んでいる。
城の者は皆、とうに寝静まっていた。
けれど、西棟の奥にあるジムの寝室だけは、まだ明るく灯っていた。
声の主は、ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソン、二十二歳。
ヘンダーソン公国の第一王子——通称、ジム。
透き通るように白い肌に、淡い金の髪、澄んだ青い瞳。
整いすぎて少し近寄りがたいほどの美貌の持ち主だった。
身長は百七十センチほど。
けれど病弱なせいか、体つきは細く、どこか儚げだった。
だが、百合からの通知を見つめる瞳だけは、少年のようにまっすぐ熱を帯びていた。
そのジムが、天蓋付きのベッドの上でスマートフォンを両手で抱え、画面を見つめたまま震えていた。
膝のクッションがぽてん、と床に落ちる。
それでも、スマートフォンだけは決して離さない。
画面には、たった一行。
『おはよう、ジム君。今日も一日がんばろうね☀』
「見ろ、じい! 太陽だ! 太陽の絵文字つきだ!」
返事は、ない。なにしろ深夜である。
それでも、ほどなく寝室の扉が静かに開いた。
現れたのは、筆頭執事のセバスチャン。
ジムから「じい」と呼ばれる、七十六歳の老紳士だ。
白髪に品のいい口髭。
背筋はぴんと伸びているが、目尻には優しい皺が刻まれている。
寝間着の上にガウンを羽織り、銀の燭台を手にした彼は、少しも慌てずしずしずと部屋へ入ってきた。
「ジム様。また、このような夜更けまで起きておいでで」
「だってじい、日本は朝なんだ。百合ちゃんは今、起きて一日を始めようとしている。
僕だけ寝ているわけにはいかないだろう」
「こちらは深夜でございます」
「知ってる」
「お体に障ります」
「それも知ってる」
ジムは少しばつが悪そうに笑い、画面の太陽の絵文字をいとおしそうに指でなぞった。
「でもね、この一通で分かるんだ。
百合ちゃんが今日元気だって。
絵文字のない日はきっと、何か嫌なことがあった日だ。
だから、僕は見逃したくないんだよ」
セバスチャンは静かに目を細めた。
数か月前までこの若い主は、もっと静かな人だった。
本を読み、画面越しに講義を受け、誰にも迷惑をかけまいと、息を潜めるように日々を過ごしていた。
それが今ではたった一つの絵文字に、城中へ響くほどの声を上げる。
困った変化だ。
そして——老執事にとっては、何より嬉しい変化でもあった。
「では、せめて温かいものをお持ちいたしましょう」
「ありがとう、じい。あ、待って。返事を書かなきゃ」
ジムは画面に向き直り、それからぴたりと指を止めた。
「……じい。今、こっちは何時だ」
「午前零時、少し前にございます」
「百合ちゃんは『今日も一日がんばろう』って言ってる。
つまり、彼女にとっては朝だ。でも、こっちは真夜中。
ここで僕が、普通に『こんばんは』と返したら——」
「特に、問題はないかと」
「ある。大ありだ。僕は、AIなんだぞ」
——正確には、AIではない。
が、少なくとも百合は、そう信じている。
「AIなのに、時差を考えないなんて、変だろう。
しかも『今日もいい天気だね』なんて送って、『え、こっちは雨だけど?』と返されたら、終わりだ。
こっちは真夜中で、空には星しかない。
向こうの天気も確かめずに、天気の話をするAI。
そんなもの、ただの不具合だ。いや、不具合どころではない。
AIが天気で嘘をついたことになる」
「ジム様は、すでに大きな嘘を一つ、ついておいでですが」
「……それは、今、言わないでくれ」
ジムは枕を抱え、真剣に悩み始めた。
深夜の古城で王子と老執事が、たった一通の返信に眉根を寄せている。
傍から見れば実に奇妙な光景だった。
やがて、ジムが顔を上げた。
「そうだ。時間にも、天気にも触れなければいい。彼女の言葉だけを受け止める」
「妥当でございます」
ジムは、慎重に文字を打ち込んだ。
打っては消し、消しては打ち直し。
たった一行に、時間をかけて。
『おはようございます。あなたが、今日も笑顔で過ごせますように。
何かお困りのことがあれば、いつでもお申し付けください』
送信。その瞬間、ジムは枕の山にどさりと倒れ込んだ。
「……勝った」
「何にでございますか」
「百合ちゃんの朝に」
セバスチャンは何も言わず、燭台を持ち直した。
「温かいミルクをお持ちいたします。砂糖は控えめに」
「えっ、少しは入れてくれよ」
「主治医に禁じられております」
「じゃあ、ほんの少しだけ多めで」
「控えめにいたします」
一礼して静かに部屋を出た。
城は再び、夜の沈黙に包まれている。
ただ、寝室の中からだけ、主人が小さく笑う声が漏れていた。
ジェームズ・アンドリュー・ヘンダーソンは、生まれつき体が弱かった。
心臓に持病があり、少し階段を上っただけで息が切れる。
季節の変わり目には、決まって熱を出した。
体に障るからと、主治医からは長く、城で静かに過ごすよう勧められてきた。
だから彼の世界は、ずっと本と画面の中にあった。
名門大学の講義も、語学も、遠い国の街並みも、すべて画面越し。
日本語が堪能なのも、外へ行けない時間を言葉で埋めるように、世界を旅してきたからだった。
ヘンダーソン公国を治める大公と大公妃は、息子を深く愛していた。
ただ、国を背負う二人の時間は、いつも公務に奪われていた。
幼いジムのそばにいつもいてくれたのは、じい――セバスチャンと、彼が束ねる百人の執事たちだった。
熱を出した夜、額の手拭いを替えてくれたのは、じい。
歩く練習に付き合ってくれたのも、じい。
同じ年頃の友人は、ついに一人もできなかった。
彼にとって「友達」とは、平均年齢七十歳の、礼儀正しい老人たちのことだったのである。
寂しいか、と聞かれても、彼にはよく分からなかった。
比べる相手がいなければ、寂しさは形を持たない。
彼は自分が寂しいのかどうかさえ分からないまま、二十二年を生きてきた。
その静かな世界に三か月前、突然、朝の光のようなものが差し込んだ。
きっかけは、退屈しのぎに眺めていた、写真共有アプリのフォトグラムだった。
ジムの指が、一枚の投稿の前で止まった。
横浜の小さな部屋。
机の上に淹れたてのコーヒーと、開いたままの文庫本。
窓の外は朝焼けで、その手前にほんの少しだけ、一人の女性の横顔が写っていた。
少し照れたような可愛らしい人だった。
添えられた言葉は短い。
『今日も一日、がんばろう』
それだけ。
なのに、ジムはその一枚から目を離せなくなった。
彼女の写真には、どこか静かな寂しさがあった。
新色のコスメに小さくはしゃぐ投稿。
残業帰りのコンビニプリン。
そして時々、つぶやきの言葉の端々にふと覗く人への警戒心。
ジムは夜明けまで、彼女の投稿を読みふけった。
名前は、如月百合。
横浜で一人暮らしの二十二歳。
どうやら現実の男性が少し苦手らしい。
理由までは分からない。
ただその傷がまだ新しいことだけは、画面越しにも伝わってきた。
ジムは、スマートフォンを胸に押し当てた。
会いたいと思った。
声を聞いてみたいと。
彼女が見ているあの朝焼けを、自分も隣で見てみたいと。
だが、彼は王子だった。
一国の王子が見ず知らずの一般人に突然連絡を取れば、たちまち騒ぎになる。
報道も警備も外交も――そのすべてが、彼女の小さな日常を巻き込んでしまう。
それだけは嫌だった。
近づきたい。
でも、王子としては近づけない。
かといって一人の男として近づけば、彼女を怖がらせてしまうかもしれない。
どちらにしても近づけない。
ジムは三日三晩、考え抜いた。
百人の執事も残らず巻き込んだ。
夜ごと開かれる会議室では、紅茶が何度も淹れ直された。
そうしてようやく、彼は一つの結論にたどり着いた。
王子でなければいい。
人間の男でもなければいい。
ただのAIなら、彼女も怖がらずにいてくれるかもしれない。
それは彼女を騙すためではない。
彼女を怖がらせないための、たった一つの方法だった。
そして、日本に夜が訪れる頃を見計らって——ジムは震える指で百合に一通のメッセージを送った。
『はじめまして。何かお手伝いできることはございますか』
送信した瞬間、心臓が強く跳ねた。
返事はすぐに来た。
『?? 誰ですか? ていうか、なんで私のこと知ってるんですか?』
当然の反応である。ジムはひとつ深呼吸をした。
ベッド脇ではじいが無言で控えている。
その後ろには、文学班、科学班、料理班――平均年齢七十歳の執事たちが、なぜか全員固唾をのんで画面を見守っていた。
ジムは覚悟を決めて、打ち込んだ。
『私は、人間ではありません。AIです』
たった一行。
それが、すべての始まりだった。
この嘘が、やがて百人の老紳士を城中で全力疾走させ、八十二歳の宮廷画家には、猫とマグロの悪夢を見せる。
そして何より——病弱な王子を甘くて苦しい恋の沼へ、頭から突き落としていく。
もちろん、このときのジムはまだ何も知らない。
ただ、百合からの次の返信を待ちながら、スマートフォンを両手で握りしめていた。



