僕と彼の十年間


僕には(めぐる)という、もう十年は付き合っている恋人がいた。

相手は男ではあるんだけれど、大学二年の時に知り合って、サークルも卒論も就活もずっと支えてくれて、もうすっかり心の拠り所で。
引っ込み思案だった僕はごく少ない友達と巡さえいればよくて、正直人付き合いも得意じゃなかったけど、それでも巡はずっと僕の隣にいてくれた。

ちなみに告白はロマンチックでも何でもなくて、服を買いに行った帰りに寄ったファミレスで、

「付き合っちゃう?」

って笑い混じりに言われて。
いつもの冗談だと思った僕が面白がって頷いたら、店を出た瞬間からホントに手を繋がれた。

「えっ、ほっ、ホントに言ってた!?」
「ホントだよ?え、かっちはマジじゃなかったの……?」

「かっち」とは僕のあだ名で、巡にしか呼ばれていなくて。でもその名を呼びながらそろりと手を放す巡に、僕は店の前だということも忘れて慌てて縋りついた。

「待っ、ごめん、嫌じゃないよ!」
「……ほんと?俺に合わせてるんじゃなくて?」
「ちがう、最初はふざけてると思ってうんって言っちゃったけど……!」
「……うん」
「でも、でもほんとなら、それは嬉しいよ……!」

にこり、と嬉しそうに笑う巡に、僕も頬が熱くなる。もう一度繋がれた手はまるで逃がさないかのように掴んでくれていて、ことさらに熱くなったことが今でもありありと思い出せた。


就活でお互いにばたばたと忙しくなるころには、もう全然会ったり遊んだりするタイミングがなくなっちゃって、素直に言えば僕はかなり参っていた。
何社も面接を受けて、内定は決まらないし、お祈りメールは呪いのメールみたいだし、巡の声も聞けてないし。

でも数少ない共通の友人から、

「あいつも就活頑張ってるみたいだな」

って聞いて、僕も自分を奮起した。巡が頑張っているのに、僕だけへこたれるわけにはいかない。立派な会社じゃなくてもいいから、せめて社会人として人並みに胸を張れる大人になろうと思って。

「でもお前はさ、親父さんがどっかの専務なんだろ?」
「いざとなったらコネ入社できるじゃん」

どこか他人事みたいに言う友人に、僕も苦笑いを返す。

父さんは、引っ込み思案であまりにも堂々としていない僕が好きではないのか、必要最低限の会話しかしてくれない。
学校の成績はどうだ。将来のことはしっかり考えているのか。
兄はちゃんとやっているのにお前はなんだ。出来損ないを生んだ覚えはない。

僕だって父さんに産んでもらった覚えはない。母さんは、僕が中学生くらいの時に亡くなってしまっていたし。

そのたびに、僕は巡にちょっとだけ泣きついた。
巡は僕の面倒な家庭事情にも引くことなく、静かに話を聞いてよしよしと頭をなでてくれた。
可哀そうに、なんて言われることもない。偉ぶったようなアドバイスもない。そんな距離感が妙に心地よくて、僕はますます巡に夢中になっていった。


その日も、本当にたまたまお互いに空き時間ができて、僕たちは大学の中庭で待ち合わせをしていて。

――就活どうだも聞かれないし、僕も聞かない。でもその代わり、巡は他にも人がいるのに、僕の両手を取って真正面から、にこりと笑みを向けてきた。

「かっち。俺ね、もうつらい」
「……っえ、え、なんで、ごめん!」
「違う、かっち違うよ。毎日会いたいのに、ここ最近全然会えなくてホント辛い。一緒に住まない?」

……嫌?と首を傾げて覗き込んでくる巡に、俺は首まで真っ赤になって頷いた。
そんなの、嫌なわけがない。僕だって就活に追われて、呪いのメールがたくさん来て、でも巡に会えなくて、ホントに辛かった。

「……で、でも、しゅ、就活終わったらにして」
「ええ~」
「それをご褒美に頑張るから……!」

じわじわと俯いていく僕に、仕方ないな、っていう巡の柔らかい笑い声だけが聞こえてきていた。


無事に就職をすると同時に、僕らは駅の近くにあるルームシェアのできるアパートを借りて、一緒に住み始めた。
家で在宅の仕事をすることになった巡が、朝出社していく僕を見送る。これのなんと気恥ずかしくて、幸せなことか。

「おべんと作ったよ、かっち」
「ねえ、めぐも仕事してるんだから、いいよ……!」
「家にいるんだから変わんないよ。お仕事頑張ってね」

まるで奥さんみたいに見送ってくれる巡は、……いや、旦那さんかもしれないけれど、僕が家に帰る頃にはすべてを整えてくれている。
お風呂を沸かして、ご飯を作って、お洗濯をして。
ちゃんと仕事できてるのかなってちょっと不安になった僕に、巡の自室のノートパソコンをくるりと向けて、

「ちゃんとやってるよ!」

と言う。僕も、その画面から慌てて目を逸らした。

「うわ、そういうのって外部に見せちゃダメなんじゃない!?」
「かっちは俺の嫁さんなんだから外部じゃないでしょ……?」
「……ええ……?」

若干引いたように肩を落として、でもやっぱりその画面に目を向けられない僕に、やっぱり巡の笑い声が聞こえていた。


僕なんか魅力もないだろうに、恋人らしいこともちゃんとあった。一緒に風呂に入ったり、キスをしたり、抱かれたり。
僕が辛かったりひどいようなことはされなくて、なんでこんなにだいじにされるんだろうって思った。
デートに行けば笑わせてくれるし、在宅の仕事で稼いでるからってふざけた口調で高い腕時計もくれる。

「めっめぐ、こんなの貰っても僕返せないよ……!」
「え、じゃあもっと高い結婚指輪にしちゃおうかな」
「も、もう……!!」

そんなの僕が返せないってわかってて言ってるじゃん、と首が熱くなる。
巡はしょっちゅうこうして、嫁だとか、結婚だとか、おどけたように、軽やかに、でもあまりに大切そうに口にする。だから僕も一概に冗談にもできなくて、徐々にそれが当然になっていった。


付き合って五年になる記念日には、一緒に台湾へ旅行にも行った。
パスポートの取り方すらわからなかった僕に、巡も一緒になって首を捻りながらパスポートを取った。

「俺だってなんでも知ってるわけじゃないよ……」

と恥ずかしそうに言う巡は本当に可愛くて、でも本当に頼りになる彼氏で。
それなのに台湾では日本語と中国語を器用に使いながら、三泊四日の食い倒れ旅をエスコートしてくれた。
日本に帰ってきてから見事に揃って体重が増えていて、二人で苦笑いしたんだ。


付き合って八年目、僕が二十八になる誕生日には、巡は本当に指輪を用意していた。
その頃には僕もすっかり会社にも慣れて、後輩も増えて、上司から注意をされることも減ってきていて。

「……だってなんか最近後輩との飲みとか多いじゃん……」

なんてむすくれる巡から、泣き笑いしながら指輪を受け取った。もちろん、左手の薬指に。


在宅の巡に任せっきりになりたくなくて、ちょっとずつ家事も教えてもらった。

「ゴミの日は家中のゴミ箱を集めることから始まるんだぞ」
「洗濯機についてる埃とるアミ、意外と溜まるんだぞ」
「掃除機に溜まったゴミは、ここ外して捨てるんだ」

ってたくさん言われて、ああ、これが名前のない家事か、なんて思った。

「待てよ、でもさ、かっちがあんまり家事出来るようになったら、俺のこといらなくなるじゃん……」

とまたむすくれた巡をそんなことないと説得するには、ちょっと時間がかかったけれど。







「いつまでやってる。もういいだろう」




それは、ある日突然家に訪れた父さんが、玄関先で固まる僕らに言った言葉だった。


(――っなんで、)

何で父さんがここに。

アパートを教えたことなんてないのに。

ここ数年、干渉もなかったのに。

巡と付き合っているのがバレた?

別れろって言われる?



色んな事が頭をよぎった。僕の真後ろで、巡も顔を青くして俯いている。
ぎろ、と僕たちを睨んだ父さんは、紙の束をばさりと投げつけてきた。

『生活基盤形成・社会的自立支援にともなう業務委託契約書』


一番上の紙にでかでかと書かれていた太字のそれに、僕の視線が落ちる。
父さんがそれを拾うことはない。……巡も。


(……な、なにこれ……)


「もう必要ない。これ以降は契約金は払わんぞ」

吐き捨てるように言った父さんは、ふん、と鼻をひとつだけ鳴らして帰っていった。
二人きりになった静かな玄関で、床に散らばった紙束を僕が拾い上げようとすれば、後ろから腕を掴まれた。

「――かっち、聞い」
「放して」
「っ……」

半ば振り切るようにその手を切って、僕が床に屈み込む。
雑多に散ったそれは、けれど何もかもが、十分すぎるものだった。

十年前の契約書。甲が父さんで、乙は巡。……僕の名前なんてなくて、『対象者』と表記されていた。
毎年の契約更新の控え。更新日は、僕らが大学で出会った日だった。

父さんが巡に同居を承認した書類。拇印らしきが押してあった。
月々、巡に支払われていた報酬の記録もあった。十年分。

腕時計にも、台湾旅行にも、経費の精算書がついている。
僕の仕事のこととか、家での様子とか、掃除機のゴミの捨て方を覚えた経過報告書もあった。


「……違うんだ、かっち」
「かっちって呼ばないで」

それは、恋人の巡だけが呼んでくれたあだ名だから。
あれ、でもそれも、契約の一部だったのかな。

「……、……克樹(かつき)、聞いて」
「ここに全部書いてる」
「ちがくて」
「違わない」


だって本当に、ここに全部書いてある。


対象者と継続的に接触し、信頼関係を形成しろ。
学業、就職活動、人間関係に関する相談はいついかなる時も受けろ。
対象者の情緒の安定を損なわない範囲で、外出や交友を促せ。
生活習慣および家事能力の習得を補助しろ。女は役に立たない。
対象者の状況を、定期的に甲へ報告しろ。
支援終了に向け、依存を段階的に軽減しろ。

『対象者との関係性の形態については、合理的な範囲において乙の裁量に委ねる』とあった。

就活がうまくいっていないようだという報告書に、『手段は問わない』という連絡事項が付いていた。

後ろから、巡に抱きすくめられる。

「……聞いて、克樹」
「…………」
「最初はそうだったけど、でも、もう俺は本当に…………大事なんだ、克樹……」
「……"対象者にバレたらそう言え"って書いてあるよ」
「え――」

はく、と息を呑んだ巡が、僕の肩越しに紙面に目を落とす。
僕を抱きしめる手のひらが震えていて、ひやりとしていた。

「――ち、ちがう、俺は真剣に――」
「十年もずっと、そばにいて、」
「……う、ん」
「恋人も満足に作れなかったんじゃ、そりゃ僕みたいな穴でもいいよね」
「かっち!!」

ぐん、と強く肩を引かれ、僕らは真正面から向かい合う形になった。僕を見下ろす巡の視線は狼狽えていた、けど、でも、


これまでの甘い声も、優しい笑顔も、僕を宥める眼差しも、
呆れたように笑う顔も、パスポートの取り方を知らなくて照れてた顔も、
僕に指輪をくれたときのむすくれた顔も、全部契約だったんだ。



――じゃあ、その涙も契約じゃないか。



「在宅の仕事も、父さんとの契約ってことだったんだ」
「……ッ……」
「僕を育てるシミュレーションゲームはどうだった?」
「違う、聞いて、真面目に好きなんだって……!!」
「ああ、そうだね、困るよね。父さんに契約を切られた今、明日から君は無職なんだから」


自分でも、驚くほどの冷たい声が出ていた。
心は死にそうなのに、人間悲しすぎると涙は出ないんだ――と思った。


――じゃあ、やっぱり、今流れている巡のその涙は、本物じゃないんだな、とも思った。


「……ねぇ、かっち……!」
「いいよ、じゃあ、明日は何食べる?」


ぴたりと巡が動きを止める。

肩を掴む手を振り払って、僕は手の中の紙束を静かにまとめていた。





――【僕と彼の十年間】