恋のソノリティ

 濡れたTシャツをハンガーに掛けると、俺は千隼とふたりきりでいる落ち着かなさから逃げるみたいに、二年の他のやつらの部屋へ行くことにした。
 ちらっと振り返ると、千隼は自分のノートパソコンを広げて、なにかをチェックしてるみたいだった。俺は、そっとドアを閉めた。
 盛り上がってる部屋へ行ってみると、すでに数人が集まっていて、カードゲームを広げていた。早乙女の姿もある。俺を見ると、「湊、おつかれ」なんて声をかけてきた。……わざとらしいっつの。
「お、湊来たじゃん」
「小出と仲良くやってる?」
「ねぇねぇ副部長、晩ご飯なにー?」
「うるせぇよ」
 適当に返しながら、空いてる座布団に腰を下ろす。
 こういう空気、前は嫌いじゃなかった。去年までは、俺もこの中で普通に笑ってた。でも今は、どこか一歩引いてる自分がいる。
 なんだろう、俺の居場所じゃない感。
「湊、作品どうすんの?」
 誰かが聞いてきた。
「……考え中」
 カードを一枚引きながら、ふと頭に浮かぶ。あいつ、まだ部屋でパソコンいじってんのかな。
 どうにも盛り上がりきれなくて、三十分ほどで自分の部屋に戻った。ドアを開けると、カチカチというキーボードの音。
 千隼は、さっきと同じ姿勢でパソコンに向かっていた。こいつの集中力、どうなってんの。
「おい……おい、千隼」
 声をかける。
 千隼はぴくっと肩を揺らして、ようやくこっちを見た。
「あ、先輩。おかえりなさい」
「もうすぐ夕飯の時間だぞ」
 一瞬、間があく。それから千隼は、画面をちらっと見て、よし、というように頷いた。
「ありがとうございます。それも、いただきました」
「は?」
 意味が分からず聞き返す。
「先輩の声、今バックアップ取りました。ご馳走様です」
 さらっと言われて、ドン引きする余裕すらない。俺の声はおかずか! なんて言おうものなら、「主食です」とか答えてきそうだ。
「……バカなこと言ってないで、行くぞ。食堂」
「あ、はい。行きましょう」
 今の会話なんかすっかり忘れたように、千隼はパソコンを閉じて立ち上がった。

 食堂はすでに人でいっぱいだった。ほかの部活も来てるから、結局学校みたいになってるのが笑える。
「湊、こっち!」と呼ばれて、俺は二年のかたまりのほうへ向かった。
 千隼は一年のテーブルについたけど、会話にはほとんど入っていない。ヘッドホンをして、いつも通りマイペースだ。
 地元の豚肉を使ったポークカツレツ定食を口に運んだけど、味が全然頭に入ってこない。
 ちらっと視線を向けると、千隼が時々天井を見ながら、黙々と食べているのが見えた。
 ──あいつ、自分の咀嚼音でも聞いてるのか?
 この合宿で、ちょっとでも千隼とまわりのやつらが上手くやれたら、なんて思ってたけど、この調子じゃ、あいつのこと分かるやつ誰もいないままかもしれない。
 夕食後、ロビーに全員が集められた。
「よし、レクリエーションやるぞー!」
 部長の声で、部員がざわつく。俺も少し驚いた。この雨で、外でやるはずだった学年対抗ゲームは中止になったはずだ。
「音当てゲームな」
「音当て?」
「録音した音を流すから、何の音か当てる。小出が用意してくれた」
 ……さっきの時間で、もしかしてこれ作ってたのか?
 そうか。千隼なりに部活のこと考えてたんだな。
 本人はと見れば、相変わらず周りには目もくれず、スピーカーのほうだけ見ていた。自分の作った音の出来ばえだけが気になるみたいだ。
 部員たちは、一斉に盛り上がる。
「へぇ」
「面白そうじゃん」
「余裕だろ」
「よし、じゃあ第一問」
 カチ、カチ、という軽い打鍵音。少し間を置いて、短い通知音。
「あー、パソコンか?」
「タブレット……じゃないもんな」
「スマホでしょ、これ」
「スマホ、正解!」
 あっさり当たって、場が一気に温まる。
「余裕じゃん」
「楽勝すぎ」
「じゃあ第二問いくぞー」
 次に流れたのは、派手な音だった。
 ジャッジャッ、という連続音。途中で少しだけ強くなって、また一定に戻る。
「シャワー?」
「いや台所の水のような気がする」
 部長がにやにや笑いながら、ヒントを出した。
「台所ってのは合ってる」
 あれだの、それじゃないだの盛り上がったけど、結局第二問は誰も分からなかった。
「チャーハンを炒める音でした!」
 さっきよりいきなり難しくなって、どっと笑いが起きる。
 そのまま何問か続いて、場の空気が完全に出来上がった頃。
「じゃあ最後の問題でーす」
 部長がパソコンの画面を見ながら言った。
「これ、ちょっと難しいな……いくぞ」
 スピーカーから、音が流れ始めた。ザッ、ザッ、と湿った地面を蹴る音。その奥で、荒い息遣い。少し遅れて、ワンッ、ワンッ、と短く鋭い鳴き声。
「犬?」
「散歩してるやつ?」
「公園とかじゃね?」
 みんなの予想が飛び交うなか、俺の耳に、何かが引っかかった──いや、違う。公園じゃない。
 もう一度、頭の中で音をなぞる。足音のリズム。息の荒さ。鳴き声の高さ。それから──奥の方でさあっと流れる風の音が聞こえた気がした。
 ……ああ。この風景、俺知ってる。
 草が生い茂る斜面。湿った土。リードを引きずるみたいに全力で走る犬。草むらの向こうにきらめく川面。俺だけがわかる音。
「……土手だろ」
 気づけば、口に出していた。まわりが一瞬、静まる。
「は?」
「なんで分かんの」
「……なんとなく」
 答えようがなくて、ごまかすように肩をすくめる。
 数秒の沈黙があって、部長はおお、と顔をほころばせて言った。
「……正解! これ、当てるとは思わなかった」
「湊、すげぇな」
「さすが、やっぱ耳がいいわ」
 去年のミスさえなければ、あいつだってエースだったのに──そんな声が、どこかから聞こえる。
 その中で、ひとつだけ違う視線がある。
 千隼は何も言わず、ただまっすぐ俺を見ていた。目がいつもより少しやわらかい。
『先輩なら分かってくれると思いました』
 そう言われた気がして、俺は視線をそらすタイミングを失う。
「湊、すごいじゃん」
 横から声がして、ようやく千隼から視線をはがすと、早乙女が立っていた。
「あれを聞き取れるやつ、そういないだろ」
 その顔に冗談はなかった。分かってる。早乙女は、いつもこうだ。誰に対しても誠実な、放送部のエース。
「じゃあこれでレクリエーション終わり。今日は解散。明日はプリントの通り七時起床。夜遅くまで起きてんなよ」
「はーい」
 部長の声で、場がほどけた。それぞれが立ち上がって、だらだらとロビーを出ていく。俺も、その波について部屋へ戻ろうとした。
 廊下の小窓から外をのぞく。雨は、だいぶ小降りになっていた。ポツポツと軒下を伝うしずくを見ながら、さっきの千隼の視線を思い出す。
 ……なんなんだよ、あれ。