恋のソノリティ

 夏休みも八月に入り、合宿の日がきた。
 集合場所は学校の正門前だった。バスが一台停まっていて、部長が人数を確認しながら、「忘れ物ないかー!」と声を張り上げている。
 俺はリュックを背負って、端っこでぼーっと立っていた。正直、気が重い。
 作品を一本作れって言われたはいいけど、俺はもうマイクを持つ気なんてない。早乙女の試すような視線も、千隼の期待する目も、全部重たくて。
 でも、断れないまま今日を迎えてしまった。
「先輩、よろしくお願いします」
 背後から低い声。振り向くと、千隼がいつもの猫背で立っていた。首にヘッドホン、肩に大きなリュック。ICレコーダーを握りしめてる。
「……おう」
 俺は小さく頷くしかなかった。
 バスに乗り込むと、部員たちはワイワイ騒いでいる。早乙女は窓際の席で他の二年と喋りながら、ちらっと俺を見てきた。
 千隼は俺の隣の席に座ってきた。
「先輩、今日は雨予報です」
「……へえ」
「雨の音、録りたいんです。マップで見たら、セミナーハウス近くの森、いい残響ありそうで」
 千隼は真剣な顔で言う。俺は窓の外を見ながら、ため息をついた。
 こいつは本当に、音のことしか考えてない。でも、なぜかその真剣さが、俺の胸を少しだけ軽くする。
 バスが動き出し、高速を走る。山道に入る頃には、千隼の言う通り雨がぱらぱらと降り始めていた。

 バスがセミナーハウスの入り口に横付けになった瞬間、雨脚が一気に強くなった。ワイパーがフル稼働しても、フロントガラスが白く霞む。
 部長が車内に向かって声を張り上げた。
「予定変更、夕飯まで自由行動な。部屋の整頓とか荷物の整理とか。さぼりは禁止。湊、機材運んどけ」
 副部長って肩書が、こういうときに一番重い。俺はため息をつきながら立ち上がった。
「はい、分かりました」
 雨の中、荷物スペースの方へ移動すると、千隼がすでに機材の前にしゃがみ込んでいた。録音レコーダー、マイクスタンド、予備バッテリーのケース……全部、雨に弱いものばかりだ。
 千隼は無言で防水カバーを広げ始めている。誰にも指示されてないのに、自分からやり始めるあたり、本当に好きなんだな、と思う。
「先輩、そっち持ってください」
 千隼が俺の方を振り返らずに言う。俺は隣にしゃがんで、カバーの端っこを受け取った。
「ったく、なんで俺が……」
 ぼやきながらも、手を動かす。千隼が動いてるのに、名指しされた俺が動かないのはカッコ悪い。
 千隼がレコーダーにカバーを被せ、テープで固定する。俺はマイクスタンドの長い部分にカバーをかぶせて、端を折りたたんだ。
 ふと、指先が触れ合った。千隼の手は冷たくて、少し震えていた。雨で濡れてるせいだ。
「これで大丈夫です」
 冷たい手を気にするふうもなく、千隼は大きくうなずいた。
 部長が玄関ポーチで待っていて、「早くしろよ、濡れるぞ!」と急かした。雨は容赦なく叩きつけてくる。
「千隼、走れ」
「はい」
 俺と千隼は、機材を持って小走りでポーチまで移動した。
 バスとポーチを行き来する千隼の背中がびしょ濡れになっている。Tシャツが肌に張り付いて、肩甲骨のラインがくっきり浮かんでいる。
 最後の機材を持ってポーチに着いた瞬間、千隼が小さく息を吐いた。
「先輩、ありがとうございます」
「別に……お前に礼を言われる筋合いなんてねぇよ。指示されたのは俺だし」
 千隼はいや、と言って笑った。
「先輩が走れって言ってくれたから」
 一瞬、言葉に詰まった。俺は大したことなんかしてない。重い機材はほとんど千隼が持ってくれた。
 学校ではめったに見せない千隼の笑顔が、雨に濡れた前髪の下から覗いて、俺の胸はざわつく。
「……まあ、いいけど」
 俺は視線を逸らして、ケースをもう一度持ち直した。
 千隼は俺の横に並んで、びしょ濡れのままロビーの中へ入っていく。部長から指示された場所に機材を置いて、俺たちは自分の荷物をピックアップした。

 部長がロビーのテーブルにプリントを広げて、部員たちを呼び集めた。
「よし、部屋割り発表するぞ。男女別で、相部屋はランダムだ。文句言うなよ」
 みんながざわつく中、部長がプリントを読み上げ始めた。
 一年の名前が次々と呼ばれる。最後に小出。
「……小出、それと二年から湊。湊、面倒見てやれ」
 俺の名前が出た瞬間、隣にいた千隼がぴくりと反応した気がした。
 部員たちはくすくすと小さく笑ってる。絶対、面白がってる。
「えー、湊先輩かよ」「ラッキーじゃん、小出」とざわつく中、俺は千隼をちらっと見た。
「先輩、同じ部屋ですね。よろしくお願いします」
「……ああ」
 俺は喉が乾くのを感じた。
 二泊三日、隙あらば俺の声を録りたがる、様子のおかしい後輩と同じ部屋。
 部屋は二階の角部屋だった。部屋には布団のかたまりがふたつ。──そうだよな。千隼と布団並べて寝るんだよな。
 どきんと小さく鳴る胸の音まで、千隼には聞こえてないよな。
 千隼は、まったく気にしてない様子で、濡れたTシャツを着替え始めた。
 重い機材をいつも持ち歩いてるからか、二の腕が意外としっかりしてるのが、ちらっと目に入った。
 慌てて視線を外して、自分の荷物を解く。……別に、俺だって。もうちょっと鍛えたら、あれくらい。
 千隼は新しいTシャツを頭から被りながら、俺の方を向いた。
「先輩も着替えた方がいいですよ。風邪引きます」
「……わかってるよ」
 俺は、なんとなく千隼に背を向けて着替えを済ませた。ちらっと振り向くと、千隼はもう着替え終わって、自分が持ってきた録音レコーダー(学校の機材よりいいやつだ)の調子を見ていた。
 いつもの様子にほっとして、俺も千隼からちょっと離れたところに座る。
 レコーダーの準備ができたらしく、千隼は顔を上げて俺を見た。乾ききってない前髪からぽたりと水滴がたれて、畳に小さな染みを作った。
「先輩、あとで傘に落ちる雨音録りたいんですけど、手伝ってもらえませんか」
「……今日は無理だろ」
「この環境で録ると、揺れが違うんです。レアだから、どうしてもほしくて」
 千隼の部屋にあった膨大な環境音のコレクションを思い出した。こいつ、あきらめるってことを知らないんだな。
「……傘さすぐらいしかやんねぇぞ?」
 千隼の目が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
 その笑顔に、俺はまた胸が鳴るのを感じた。
 雨は止む気配がない。