その週の休日。
本当は週明けの小テストの予習をしなくちゃいけないんだけど、どうしてもやる気が出なくて、昼過ぎまでベッドの上でスマホをいじっていた。
動画を見て、SNSを流して、また動画を見る。そんなことを繰り返しているうちに、時間だけが過ぎていく。
去年までは、こんなんじゃなかった。休みの日でも、朝から発声をして、新聞を読み込んで、ニュース番組を見たりして。
張り合いがあった。
──今は、なんもない。
リビングのテレビの音が、うっすら部屋まで聞こえてくる。バラエティ番組の笑い声が盛り上がったあと、番組が切り替わってニュース番組になったのか、落ち着いた男性の声。
「翔也ー」
リビングから母さんの呼ぶ声がした。
「なにー」
ベッドに腹ばいになったまま、俺はスマホを見たまま答える。
「あんたの好きなアナウンサー出てるわよ、九条さん」
一瞬、スクロールする指が止まった。九条さんのニュース読みは、聞き取りやすくて、どこかあったかさがあって……憧れだった。ああいうふうに読みたいと思ってめちゃくちゃ練習してた。
「……別に、好きじゃねーし」
「え? そうなの? よく見てたじゃない。参考になるって」
「もういいんだって」
「……分かったわよ」
それ以上、母さんは何も言わなかった。
なんとなく、このまま家にいるのが落ち着かなかった。もやもやとした感情が胸の中に広がっていく気がする。
ベッドから起き上がる。靴下を履いてキャップを被ると、スマホをポケットに突っ込んで、部屋から出た。
リビングのテレビの声が、少しだけ大きく聞こえる気がして、またもやもやとする。
玄関で靴を履いていると、
「どこ行くの?」
母さんがリビングから顔を出した。
「図書館」
「勉強?」
「まぁ」
適当に答えて、ドアを開ける。外に出ると、日差しが眩しかった。キャップをかぶって正解だったかもしれない。
特に行き先があるわけじゃなかった。図書館に行くつもりも正直ない。ただ、家にいるのが何となく嫌だっただけだ。
キャップのつばを目深に下げると、ポケットに手を突っ込んで、のろのろと駅の方へ向かった。
駅前の通りは、休日らしく人通りが多かった。どっか空いてるカフェにでも入ろうかな。ハンバーガーショップは……混んでるし、隣の人との距離が近すぎて嫌だ。
いくつか店を覗いてみたけれど、どこも満席だった。ついてない。
そのまま通りをふらふら歩く。しょうがない、コンビニでアイスコーヒーでも買って、適当にうろついて帰るか。
駅ビルの入り口まで来たところで、見覚えのある猫背が通り過ぎていくのが見えた。
千隼じゃん。こんなところで何してんだ。休日の人混みを歩くなんて、あいつらしくなかった。
それともなにか。雑踏の声でも収集してんのか。だとしたら、マジで音ガチ勢だな。
千隼はそのまま、通り沿いのビルへ入っていく。そういやいつものヘッドホン、今日はしてなかった。
俺は何となく足を止めた。ヘッドホンもそうだけど、なんか。なんか、千隼の後ろ姿が胸のどこかに引っかかった。どこへ行くつもりなんだろう。
ビルの入口の上に、看板が出ていた。
耳鼻咽喉科。
……耳? どっか悪いのか?
なんだか見てちゃいけないような気がして、俺は足早にその場を立ち去った。
別に、関係ない。あいつが耳鼻科に来ようが、俺には関係ない。だけど、ガラスドア越しに見えた千隼の横顔がすごく真剣で、本気で何かと向き合おうとしているのが伝わってきて。
俺は、わけもなく息苦しくなった。
なんでだよ。あいつのことを考えて、どうして俺がこんなふうになるんだよ。
俺は、コンビニに飛び込んでアイスコーヒーを買い、一気に半分くらい吸い込んだ。冷たい液体が喉を通っていく。
……落ち着け。
俺は深く息を吐いた。
駅ビルに入り、人の少ない壁際によりかかってスマホを取り出す。耳鼻咽喉科で検索すると、すぐに結果が出た。
感染症、炎症。これは俺も昔中耳炎になったことがあるから分かる。母さんは花粉症で毎年耳鼻科に通ってる。
人の声が聞き取りづらいことがある──?
そんなのもあるのか。説明が並んでいるけど、よく分からない。スクロールして、耳鼻科のホームページを開いてみる。
雑音の中だと会話が聞き取りにくい、とか、複数の声が重なると理解しづらい、とか。
そこまで読んで、指が止まった。
……あいつ。
首から下げたヘッドホン。
誰とも話してない教室。
人の話を聞いてないようにも見えるマイペースさ。
俺は慌ててスマホの画面を消した。
「……いや、関係ないだろ」
小さくつぶやいて、アイスコーヒーをもう一口吸い込んだ。だけど、一度浮かんだことってのは、なかなか頭から消えてくれない。
千隼の顔とか、さっきの耳鼻科の看板とか。検索したこととか。
ああっ、なんなんだ今日は。わけわからん。俺は飲み終えたアイスコーヒーのストローを噛みながら、駅ビルのエスカレーターを適当に上がる。
三階はフロア全体が家電量量販店になっていて、入り口では新しいスマホとか、ゲーム機を試せるようになっていた。
頭の中にあるもやもやを引き剥がすように、俺はそれらを片っ端から触っていく。
展示用のスマホをいじって、カメラを起動して、適当にシャッターを切る。隣のゲーム機のコントローラーを握って、デモ画面をぼんやり眺める。
……別に、何も頭に入ってこないけど。
そのまま店の奥へ歩いていくと、壁一面に並んだテレビが目に入った。
どの画面も、同じドキュメンタリー番組を映している。おととし起こった山火事被害のその後を特集した番組だった。
ナレーションが、テレビコーナーを静かに流れている。
俺は、思わず足を止めた。──間違えようがない。九条さんの声だった。俺が好きだった、聞き取りやすくて、言葉の意味がちゃんと届いて、それでいて温度のある声。
画面には、全焼した家屋や、黒焦げになった山林の映像が流れている。
ナレーションの原稿が、画面の端にテロップで出ていた。
俺はそれを目で追う。
「……火の手がようやく収まったあと、この町に残ったのは、静けさでした」
気づいたら、口が動いていた。
九条さんのナレーションに重ねるみたいに、小さな声で原稿をなぞる。九条さんの番組を、こうやって練習台にしてきた。
そう。去年まで、ずっと努力してきた。俺は、こうやって──。
そのとき。
「翔也先輩」
背後から声を掛けられて、俺はびくっと振り向く。
千隼がまっすぐ俺を見ていた。手にはICレコーダー。首には、さっきまでなかったヘッドホン。いつもの千隼だった。
「今の、今の声、もう一回ください」
俺に突きつけているICレコーダーは、すでに録音開始の赤いランプが点いている。
「は?」
「今のです」
千隼は少し息を荒くしていた。
「今の先輩の声、良かったです。去年の放送コンの時みたくて」
「……は?」
「九条アナの真似してたときは、普通だったんですけど」
千隼はどんどん早口になっていく。
「最後のとこ。静けさでした、のとこ。あそこ、先輩の声出てました」
「いや意味わかんねぇ」
「俺はわかってます」
千隼は俺に突っ込んできそうな勢いで言った。俺は思わず一歩下がる。
「……やんねぇよ」
俺の口から出てきたのは、拒絶の言葉だった。千隼が一瞬止まる。
「なんでですか」
「なんでもだよ」
俺はテレビから目を逸らす。もう関係ない。俺はもうアナウンスをやらないって決めたんだ。
ICレコーダーの赤いランプは、もう切れていた。うっとおしい。俺は口元へ伸ばされている千隼の手を振り払った。
千隼は黙って、振り払われた手を引っ込めた。
「電池買いにきたんですけど」
猫背が一回り縮んだように感じたけど、俺の知ったことじゃない。
「電池取り替えたら、録らせてもらえませんか」
「そういうの、もうやんないんだって。じゃあな」
千隼に背を向けてその場を離れようとすると、後ろから小さく声がした。
「……でも」
千隼の声が、背中を追いかけてきた。
「今の、すごくよかったです。ワクワクしました」
まただ。ワクワクって、なんなんだよ。
俺の声にそんなこと言うの、お前だけだぞ。
本当は週明けの小テストの予習をしなくちゃいけないんだけど、どうしてもやる気が出なくて、昼過ぎまでベッドの上でスマホをいじっていた。
動画を見て、SNSを流して、また動画を見る。そんなことを繰り返しているうちに、時間だけが過ぎていく。
去年までは、こんなんじゃなかった。休みの日でも、朝から発声をして、新聞を読み込んで、ニュース番組を見たりして。
張り合いがあった。
──今は、なんもない。
リビングのテレビの音が、うっすら部屋まで聞こえてくる。バラエティ番組の笑い声が盛り上がったあと、番組が切り替わってニュース番組になったのか、落ち着いた男性の声。
「翔也ー」
リビングから母さんの呼ぶ声がした。
「なにー」
ベッドに腹ばいになったまま、俺はスマホを見たまま答える。
「あんたの好きなアナウンサー出てるわよ、九条さん」
一瞬、スクロールする指が止まった。九条さんのニュース読みは、聞き取りやすくて、どこかあったかさがあって……憧れだった。ああいうふうに読みたいと思ってめちゃくちゃ練習してた。
「……別に、好きじゃねーし」
「え? そうなの? よく見てたじゃない。参考になるって」
「もういいんだって」
「……分かったわよ」
それ以上、母さんは何も言わなかった。
なんとなく、このまま家にいるのが落ち着かなかった。もやもやとした感情が胸の中に広がっていく気がする。
ベッドから起き上がる。靴下を履いてキャップを被ると、スマホをポケットに突っ込んで、部屋から出た。
リビングのテレビの声が、少しだけ大きく聞こえる気がして、またもやもやとする。
玄関で靴を履いていると、
「どこ行くの?」
母さんがリビングから顔を出した。
「図書館」
「勉強?」
「まぁ」
適当に答えて、ドアを開ける。外に出ると、日差しが眩しかった。キャップをかぶって正解だったかもしれない。
特に行き先があるわけじゃなかった。図書館に行くつもりも正直ない。ただ、家にいるのが何となく嫌だっただけだ。
キャップのつばを目深に下げると、ポケットに手を突っ込んで、のろのろと駅の方へ向かった。
駅前の通りは、休日らしく人通りが多かった。どっか空いてるカフェにでも入ろうかな。ハンバーガーショップは……混んでるし、隣の人との距離が近すぎて嫌だ。
いくつか店を覗いてみたけれど、どこも満席だった。ついてない。
そのまま通りをふらふら歩く。しょうがない、コンビニでアイスコーヒーでも買って、適当にうろついて帰るか。
駅ビルの入り口まで来たところで、見覚えのある猫背が通り過ぎていくのが見えた。
千隼じゃん。こんなところで何してんだ。休日の人混みを歩くなんて、あいつらしくなかった。
それともなにか。雑踏の声でも収集してんのか。だとしたら、マジで音ガチ勢だな。
千隼はそのまま、通り沿いのビルへ入っていく。そういやいつものヘッドホン、今日はしてなかった。
俺は何となく足を止めた。ヘッドホンもそうだけど、なんか。なんか、千隼の後ろ姿が胸のどこかに引っかかった。どこへ行くつもりなんだろう。
ビルの入口の上に、看板が出ていた。
耳鼻咽喉科。
……耳? どっか悪いのか?
なんだか見てちゃいけないような気がして、俺は足早にその場を立ち去った。
別に、関係ない。あいつが耳鼻科に来ようが、俺には関係ない。だけど、ガラスドア越しに見えた千隼の横顔がすごく真剣で、本気で何かと向き合おうとしているのが伝わってきて。
俺は、わけもなく息苦しくなった。
なんでだよ。あいつのことを考えて、どうして俺がこんなふうになるんだよ。
俺は、コンビニに飛び込んでアイスコーヒーを買い、一気に半分くらい吸い込んだ。冷たい液体が喉を通っていく。
……落ち着け。
俺は深く息を吐いた。
駅ビルに入り、人の少ない壁際によりかかってスマホを取り出す。耳鼻咽喉科で検索すると、すぐに結果が出た。
感染症、炎症。これは俺も昔中耳炎になったことがあるから分かる。母さんは花粉症で毎年耳鼻科に通ってる。
人の声が聞き取りづらいことがある──?
そんなのもあるのか。説明が並んでいるけど、よく分からない。スクロールして、耳鼻科のホームページを開いてみる。
雑音の中だと会話が聞き取りにくい、とか、複数の声が重なると理解しづらい、とか。
そこまで読んで、指が止まった。
……あいつ。
首から下げたヘッドホン。
誰とも話してない教室。
人の話を聞いてないようにも見えるマイペースさ。
俺は慌ててスマホの画面を消した。
「……いや、関係ないだろ」
小さくつぶやいて、アイスコーヒーをもう一口吸い込んだ。だけど、一度浮かんだことってのは、なかなか頭から消えてくれない。
千隼の顔とか、さっきの耳鼻科の看板とか。検索したこととか。
ああっ、なんなんだ今日は。わけわからん。俺は飲み終えたアイスコーヒーのストローを噛みながら、駅ビルのエスカレーターを適当に上がる。
三階はフロア全体が家電量量販店になっていて、入り口では新しいスマホとか、ゲーム機を試せるようになっていた。
頭の中にあるもやもやを引き剥がすように、俺はそれらを片っ端から触っていく。
展示用のスマホをいじって、カメラを起動して、適当にシャッターを切る。隣のゲーム機のコントローラーを握って、デモ画面をぼんやり眺める。
……別に、何も頭に入ってこないけど。
そのまま店の奥へ歩いていくと、壁一面に並んだテレビが目に入った。
どの画面も、同じドキュメンタリー番組を映している。おととし起こった山火事被害のその後を特集した番組だった。
ナレーションが、テレビコーナーを静かに流れている。
俺は、思わず足を止めた。──間違えようがない。九条さんの声だった。俺が好きだった、聞き取りやすくて、言葉の意味がちゃんと届いて、それでいて温度のある声。
画面には、全焼した家屋や、黒焦げになった山林の映像が流れている。
ナレーションの原稿が、画面の端にテロップで出ていた。
俺はそれを目で追う。
「……火の手がようやく収まったあと、この町に残ったのは、静けさでした」
気づいたら、口が動いていた。
九条さんのナレーションに重ねるみたいに、小さな声で原稿をなぞる。九条さんの番組を、こうやって練習台にしてきた。
そう。去年まで、ずっと努力してきた。俺は、こうやって──。
そのとき。
「翔也先輩」
背後から声を掛けられて、俺はびくっと振り向く。
千隼がまっすぐ俺を見ていた。手にはICレコーダー。首には、さっきまでなかったヘッドホン。いつもの千隼だった。
「今の、今の声、もう一回ください」
俺に突きつけているICレコーダーは、すでに録音開始の赤いランプが点いている。
「は?」
「今のです」
千隼は少し息を荒くしていた。
「今の先輩の声、良かったです。去年の放送コンの時みたくて」
「……は?」
「九条アナの真似してたときは、普通だったんですけど」
千隼はどんどん早口になっていく。
「最後のとこ。静けさでした、のとこ。あそこ、先輩の声出てました」
「いや意味わかんねぇ」
「俺はわかってます」
千隼は俺に突っ込んできそうな勢いで言った。俺は思わず一歩下がる。
「……やんねぇよ」
俺の口から出てきたのは、拒絶の言葉だった。千隼が一瞬止まる。
「なんでですか」
「なんでもだよ」
俺はテレビから目を逸らす。もう関係ない。俺はもうアナウンスをやらないって決めたんだ。
ICレコーダーの赤いランプは、もう切れていた。うっとおしい。俺は口元へ伸ばされている千隼の手を振り払った。
千隼は黙って、振り払われた手を引っ込めた。
「電池買いにきたんですけど」
猫背が一回り縮んだように感じたけど、俺の知ったことじゃない。
「電池取り替えたら、録らせてもらえませんか」
「そういうの、もうやんないんだって。じゃあな」
千隼に背を向けてその場を離れようとすると、後ろから小さく声がした。
「……でも」
千隼の声が、背中を追いかけてきた。
「今の、すごくよかったです。ワクワクしました」
まただ。ワクワクって、なんなんだよ。
俺の声にそんなこと言うの、お前だけだぞ。



