恋のソノリティ

 放課後の放送を終えて部室を出ると、ドアの前に千隼が立っていた。手にはICレコーダー。
「うおっ、びっくりした」
「先輩、入部届受理してもらえましたか」
 入部したいやつを断ることはできない。三年の部長には提出済だ。
「受理されたよ……てかお前、待ち伏せしてんなよ。普通に入ってこいよ」
「や、先輩の声録ってたら、なんかいいポイント来るまで動けなくなっちゃって」
「だから勝手に録るなって言ってんだろ」
 俺は手を伸ばす。でも千隼は慣れたみたいに、ひょいとレコーダーを持ち上げた。
 これじゃ、さっきと同じじゃん。
「やめろっての」
「嫌です」
 まっじで意味が分からん。俺の声なんか録ってどうするんだ。ラジオドラマって……本気で言ってんのか、こいつ。
 そのとき、部室の中から声がした。
「湊先輩、ミキサー落としてもらっていいすか?」
 後輩だ。俺は雑用係だから、後輩の指示も聞かなきゃいけない。
「ああ、今やる」
 俺は振り返って答えた。
 放送はもう終わっている。俺は音量の調整と録音の確認を担当しただけだ。メインの作業は、二年の他のやつと、一年で事足りていた。ぶっちゃけ俺がいなくても、部は回る。
 今や俺は、放送部にいてもいなくてもどっちでもいい存在になっていた。
 俺は再び千隼を見る。
「満足か。もう帰れ。今日はミーティングもないし、明日部長から紹介すっから」
「まだです」
 即答だった。千隼は今日は天気がいいですね、ぐらいのテンションで続けた。
「先輩。今のアナウンス、音量絞りすぎでした」
 俺は思わず言い返す。
「お前さ、今日来たばっかだろ。口出してくんじゃねぇよ」
 ただでさえ、今の俺には大した役割もない。そこにダメ出しまでされたら、ほんとに俺の居場所がなくなる。
「音、好きなんで譲れないです」
 千隼は悪びれる様子もなく言った。まるで、それが当たり前のことみたいに。
 俺が言葉に詰まった、そのときだった。

「へえ」
 後ろから声がした。振り向くより先に、背中が固くなる。一発で誰だか分かる声。
「音の話、できるやつがいるんだ」
 ゆっくり振り返ると、廊下の窓際によく知った顔が立っていた。
 背筋の伸びた姿勢。きっちり整った制服。まるで高校のパンフレットの表紙みたいな、隙のない立ち方。
 そして癖も揺れもなく、きれいに整った正統派の声。完璧な波形。
 ──早乙女潤。
 去年の放送コンの県大会で、優勝したやつ。放送部の絶対的エース。そして、俺が一番聞きたくない声の持ち主。
 早乙女は壁から背を離して、こちらに歩いてきた。
「放送、聞いたよ。バスケ開始のアナウンスは任せて」
 そう、肝心の実況アナウンスは、早乙女が担当する。みんなが聞いている中での花形アナウンスだ。これから早乙女とその取り巻きは、体育館へ向かうんだろう。
 俺はそっと視線をずらして、早乙女と目が合わないようにした。
 早乙女は興味深そうに千隼のヘッドホンを指さした。
「音響やりたいの?」
「放送コンで、ラジオドラマが作りたいです」
 千隼はヘッドホンに少し手を置くと、少しためらいがちに言った。さっきまで俺に対してはずいぶんふてぶてしい態度だったくせに、早乙女の前では少しだけ言葉を選んでいる。
 音オタクの千隼なら分かったことだろう、そいつが去年優勝したやつだよ。
 早乙女は少し笑った。
「ラジオドラマか。いいね」
 早乙女はそう言って、千隼の手にあるICレコーダーに目を向けた。
「もう素材録り始めてるんだ、早いね」
 千隼は一瞬だけ間を置いた。早乙女の口元を見てから、ゆっくり答える。
「翔也先輩の声、集めてます」
 まだ言うのか。俺は思わず千隼の顔をまじまじと見つめた。
 早乙女の眉も、ぴくりと動いている。
「湊の?」
 千隼は早乙女の顔を見て、それから俺を見て、うなずく。
「はい」
 早乙女は一瞬だけ俺を見て、面白そうというような表情を浮かべた。
「それよりもさ、俺の声で録ってみない? 準備はいつでもできてるよ」
 千隼は、早乙女を見定めるようにじっと見つめると、口を開いた。
「……やめときます」
「どうして?」
 千隼は少しだけ首をかしげたあと、何を言ってるんだというような顔で言った。
「完成してる声なんで」
 廊下の空気が、わずかに変わる。ざわっと早乙女の取り巻きが色めき立った。
 千隼はかまわず続けた。
「俺が作りたいのは、そういうんじゃないです」
 そして、隣にいる俺を指さした。
「翔也先輩の声で作りたいんです」
 心臓が、どくっと鳴った。
 去年までの俺なら、一二もなく「やってやろうじゃん」ってなっただろう。だけど、今は。今はもう──。
 早乙女は、ふっと小さく笑った。
「そっか」
 怒るでもなく、気を悪くするでもない、いつもの早乙女。ただ、少し面白そうに俺を見る。
「湊」
 名前を呼ばれて、肩に力が入る。
「面白い後輩入ったね」
 じゃ。早乙女は取り巻きを連れて廊下の向こうへ歩いていった。
 その背中を千隼はしばらく見たあと、俺を振り返った。
「……先輩。あの人、今、なんて言ってました?」
 いや、面白いって言ってたけど? なに、自覚ないわけ?