「湊先輩、ミキサーお願いします」
放送部の部室で、後輩が俺を呼ぶ。
俺は返事もせず、音響ミキサーのスライダーを上げた。スピーカーから、部員のマイクテストの声が聞こえてくる。
高校二年になった俺は、副部長という名の雑用係だ。
後輩の練習台、原稿のチェック、機材の準備、録音の確認。先生や他の部とのやりとり、書類書き、エトセトラ。
だけど、マイクの前に立つことだけは、もうない。
去年の放送コンでの大きなミスから、俺は勝負することをやめた。
「──本日放課後、体育館でバスケットボール部の招待試合が──」
スピーカーから流れるのは、これから流すアナウンスのリハーサルだ。俺はヘッドホンを片耳にだけ当てて、音量を確認した。
「声が割れてる。マイクから少し離れてもう一回」
マイクの前の後輩がむっとした顔で振り返る。
「割れじゃないでしょ」
「いや、割れてる」
「それ」
急に聞き覚えのない声が割り込んで、俺は後ろを振り向いた。
「割れじゃないです」
部室の入口に、俺よりも背が高いのに、ずいぶんと猫背のやつが立っていた。上履きの色を見て一年だと分かったけど、一年にしてはやけに落ち着いている。
首にでかいヘッドホン。手にはICレコーダー。髪の毛は寝癖がついていて、制服のボタンはかけ違い。──誰だ、こいつ。
そいつは何も言わず、ずんずんとスピーカーの前まで歩いてくる。少しかがんで、音を確かめるみたいに耳を近づけた。
「この部室、60ヘルツの電源ノイズ出てます」
部員全員の動きが止まる。
「……は?」
「あと窓の方、外の風切り音わずかに入ります」
部員のひとりが聞いた。
「お前、誰? 入部希望?」
その質問に、そいつは答えなかった。代わりに、俺の方へとまっすぐ歩いてきた。
「湊翔也先輩ですよね。一年の小出千隼っていいます」
なんで俺のこと知ってんだ。
「先輩がアナウンスしないんですか」
千隼に不意打ちをくらって、俺の喉はぐっと詰まった。それは、時間が経ってもじくじくとした傷跡のままだ。
「なんでですか。先輩の声、すごいワクワクする波形なのに」
──ワクワクする波形。
そんなことを初対面のやつに言われて、俺は一瞬言葉を失った。
いい声とか、アナウンサーに向いてるとか言われてきたけど、ワクワクするなんて初めて言われた。
こいつ、なんなんだ一体。
千隼は持っていたICレコーダーを小さく振って言った。
「去年の放送コン、聞いてました。先輩の声、あの中の誰よりも一番ワクワクしました。つまづいたあとも、強くて、波形が崩れてなくて、めちゃくちゃ刺さりました」
千隼は俺のいぶかしげな顔にもおかまいなしに、早口で続ける。
「普通は止まると声がブレるんです。でも先輩の声はブレなかった。揺れてたけど、ちゃんとこっちに伝わってきた。あれ、すごいです」
俺は思わず、千隼の顔を見た。こいつ、本気で言ってるのか。去年の大会の声なんて、俺はもう聞き返す気にもならなかったのに。
こいつはあれを聞いて、ワクワクするって言っているのか。
あのあと俺の耳に聞こえてきたのは、
「ああ、放送コンでミスしたやつ」
というささやき声だった。
いや、外野の声なんて気にしちゃいない。そんな話はいくらでもある。
何より悔しかったのは、ライバルの早乙女に負けたことだった。そしてそれ以上に、自分の声を信じられなくなったことが、一番悔しかった。
あれから、俺は抜け殻のようになっている。毎日をただ、無意味に過ごしている。
「俺は、もうアナウンサーじゃないから」
そう声を絞り出すのが精一杯だった。
千隼はそれを聞いて一瞬視線を落とした。もし俺に憧れて入部を希望したんなら、それはお門違いだ。俺はもうアナウンスはしない。
少しの間があって、千隼は顔を上げた。
「それでも、俺はあきらめません」
え?
千隼は顔の下半分を覆うほどのゴツいヘッドホンを外し、まっすぐ俺を見た。イキった音オタクが放送部に口出ししにきただけだと思っていたのに、その真摯な目つきに俺の胸は戸惑う。
「先輩の声で、ラジオドラマを作りたいです」
そう言って、千隼は手に持っていたICレコーダーをこちらにかざした。
「先輩の声、録らしてもらってます」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「先輩の喋ってる声、集めますんでよろしくです」
俺は慌てて手を伸ばした。
「おい、消せよ」
千隼の手からICレコーダーを奪おうとする。でも。
「ちょっ」
ひょい、と上に持ち上げられた。
千隼は俺より頭一つ分は背が高い。腕を伸ばしても、指先はかすりもしない。
「おい!」
思わずジャンプした。でも千隼は、さらに上に掲げる。届くわけがない。
「勝手に録るなよ!」
「先輩の声、好きなんで」
さらっと言われて、俺はジャンプを止めた。──今、なんつった?
「先輩の近くにいたいんで、入部します。あ、入部届持ってきたんで、よろしくお願いします。音響全般やれますんで」
千隼はポケットから八つ折りにした入部届を取り出すと、俺に押し付けた。
「じゃ、放課後来ます」
千隼はヘッドホンをつけると、部室を出て行った。俺は、呆然として千隼の猫背を見つめるしかできなかった。
マジで、変なやつ。意味が分からない。
だけど胸の奥には、やけに千隼の言葉が残っていた。
──先輩の声が好き。
放送部の部室で、後輩が俺を呼ぶ。
俺は返事もせず、音響ミキサーのスライダーを上げた。スピーカーから、部員のマイクテストの声が聞こえてくる。
高校二年になった俺は、副部長という名の雑用係だ。
後輩の練習台、原稿のチェック、機材の準備、録音の確認。先生や他の部とのやりとり、書類書き、エトセトラ。
だけど、マイクの前に立つことだけは、もうない。
去年の放送コンでの大きなミスから、俺は勝負することをやめた。
「──本日放課後、体育館でバスケットボール部の招待試合が──」
スピーカーから流れるのは、これから流すアナウンスのリハーサルだ。俺はヘッドホンを片耳にだけ当てて、音量を確認した。
「声が割れてる。マイクから少し離れてもう一回」
マイクの前の後輩がむっとした顔で振り返る。
「割れじゃないでしょ」
「いや、割れてる」
「それ」
急に聞き覚えのない声が割り込んで、俺は後ろを振り向いた。
「割れじゃないです」
部室の入口に、俺よりも背が高いのに、ずいぶんと猫背のやつが立っていた。上履きの色を見て一年だと分かったけど、一年にしてはやけに落ち着いている。
首にでかいヘッドホン。手にはICレコーダー。髪の毛は寝癖がついていて、制服のボタンはかけ違い。──誰だ、こいつ。
そいつは何も言わず、ずんずんとスピーカーの前まで歩いてくる。少しかがんで、音を確かめるみたいに耳を近づけた。
「この部室、60ヘルツの電源ノイズ出てます」
部員全員の動きが止まる。
「……は?」
「あと窓の方、外の風切り音わずかに入ります」
部員のひとりが聞いた。
「お前、誰? 入部希望?」
その質問に、そいつは答えなかった。代わりに、俺の方へとまっすぐ歩いてきた。
「湊翔也先輩ですよね。一年の小出千隼っていいます」
なんで俺のこと知ってんだ。
「先輩がアナウンスしないんですか」
千隼に不意打ちをくらって、俺の喉はぐっと詰まった。それは、時間が経ってもじくじくとした傷跡のままだ。
「なんでですか。先輩の声、すごいワクワクする波形なのに」
──ワクワクする波形。
そんなことを初対面のやつに言われて、俺は一瞬言葉を失った。
いい声とか、アナウンサーに向いてるとか言われてきたけど、ワクワクするなんて初めて言われた。
こいつ、なんなんだ一体。
千隼は持っていたICレコーダーを小さく振って言った。
「去年の放送コン、聞いてました。先輩の声、あの中の誰よりも一番ワクワクしました。つまづいたあとも、強くて、波形が崩れてなくて、めちゃくちゃ刺さりました」
千隼は俺のいぶかしげな顔にもおかまいなしに、早口で続ける。
「普通は止まると声がブレるんです。でも先輩の声はブレなかった。揺れてたけど、ちゃんとこっちに伝わってきた。あれ、すごいです」
俺は思わず、千隼の顔を見た。こいつ、本気で言ってるのか。去年の大会の声なんて、俺はもう聞き返す気にもならなかったのに。
こいつはあれを聞いて、ワクワクするって言っているのか。
あのあと俺の耳に聞こえてきたのは、
「ああ、放送コンでミスしたやつ」
というささやき声だった。
いや、外野の声なんて気にしちゃいない。そんな話はいくらでもある。
何より悔しかったのは、ライバルの早乙女に負けたことだった。そしてそれ以上に、自分の声を信じられなくなったことが、一番悔しかった。
あれから、俺は抜け殻のようになっている。毎日をただ、無意味に過ごしている。
「俺は、もうアナウンサーじゃないから」
そう声を絞り出すのが精一杯だった。
千隼はそれを聞いて一瞬視線を落とした。もし俺に憧れて入部を希望したんなら、それはお門違いだ。俺はもうアナウンスはしない。
少しの間があって、千隼は顔を上げた。
「それでも、俺はあきらめません」
え?
千隼は顔の下半分を覆うほどのゴツいヘッドホンを外し、まっすぐ俺を見た。イキった音オタクが放送部に口出ししにきただけだと思っていたのに、その真摯な目つきに俺の胸は戸惑う。
「先輩の声で、ラジオドラマを作りたいです」
そう言って、千隼は手に持っていたICレコーダーをこちらにかざした。
「先輩の声、録らしてもらってます」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「先輩の喋ってる声、集めますんでよろしくです」
俺は慌てて手を伸ばした。
「おい、消せよ」
千隼の手からICレコーダーを奪おうとする。でも。
「ちょっ」
ひょい、と上に持ち上げられた。
千隼は俺より頭一つ分は背が高い。腕を伸ばしても、指先はかすりもしない。
「おい!」
思わずジャンプした。でも千隼は、さらに上に掲げる。届くわけがない。
「勝手に録るなよ!」
「先輩の声、好きなんで」
さらっと言われて、俺はジャンプを止めた。──今、なんつった?
「先輩の近くにいたいんで、入部します。あ、入部届持ってきたんで、よろしくお願いします。音響全般やれますんで」
千隼はポケットから八つ折りにした入部届を取り出すと、俺に押し付けた。
「じゃ、放課後来ます」
千隼はヘッドホンをつけると、部室を出て行った。俺は、呆然として千隼の猫背を見つめるしかできなかった。
マジで、変なやつ。意味が分からない。
だけど胸の奥には、やけに千隼の言葉が残っていた。
──先輩の声が好き。



