恋のソノリティ

 前の晩は、胸のドキドキが止まらなくてうまく寝付けなかった。
 俺は、大きく息をひとつついて、部長のいる教室に向かう。
「先輩、昨日出した退部届なんですけど」
 部長はちょっといたずらっぽい笑顔を浮かべて、机の中から、俺が提出した退部届を取り出した。
「これのことか?」
 ひらひらと、わざと見せるように揺らす。
「……はい」
 一歩、近づく。
「それ、取り下げさせてください」
 部長の手が、ぴたりと止まった。
「……本気で言ってる?」
 試すみたいな目だ。だけど、俺はもう迷わない。
「はい。俺、やっぱり」
 千隼の顔が浮かぶ。勇気が出る。
「放送、やりたいです」
 部長は、しばらく黙って俺を見ていた。それから、ふっと息をつく。
「分かった」
 小さく笑って、退部届を俺の手に返した。
「活動停止は、解除になった。放送コンにも出られる」
 部長は俺の肩を強めに叩いた。
「お前の本気、見とくからな」
 自分の教室に戻ると、廊下に、見慣れたでかい猫背が立っていた。
 好きだと気づいてしまえば、その猫背だって、首にかけたヘッドホンだって、目をそらせないくらい特別なものに見える。
 ごくん、と息を呑んだ。もう逃げてる俺じゃない。自分からいかないと。
「千隼」
 よびかけた声は、情けないくらいカラカラに乾いて上ずってしまった。だけど、千隼は振り向いた。ちゃんと、千隼に届いた。
「先輩」
 目が合った瞬間、顔が熱っぽくなるのが分かる。──やべぇ。俺、今こいつが好きなこと、完全にバレてる。
 見れば、千隼の頬も真っ赤に染まっていた。
 首にかけたヘッドホンのコードを指でいじっている。お互い、顔が赤いのが丸わかりで、気まずくて、でも……なんだか嬉しかった。
「……聞いてくれましたか」
 ぼそっと、千隼が言う。
 音には絶対嘘をつかない、千隼の言葉だ。だから、あの言葉もきっと嘘じゃない。
 昨日から、何回も何回も心の中で響いている言葉。
 ──先輩が、好きなんです。
「……聞いた」
 思わずつっけんどんな言い方になってしまう。千隼は、ちょっと泣きそうな目になった。こいつはいつも、言葉よりも目でものを言う。
 俺だけが知ってる、千隼の本当の部分。
 俺は、こいつに返さなきゃいけない。千隼が本当の気持ちでぶつかってきてくれたんだから、俺も本当の気持ちで勝負しなくちゃいけない。
「答えは」
 手の中の退部届をぎゅっと握りつぶす。
「プレゼンで返す」
 千隼の目の中が嬉しそうに輝いた。
「待ってます」

 放送コンラジオドラマ部門のプレゼンは、録音じゃなくて、全員の前での実演形式で行われることになった。
「その方が実力が分かると思います」
 言い出したのは、早乙女だった。早乙女は、経験値の高い三年の先輩と組んだ。完全に狙いにきてる。
 その場で出したものが、そのまま評価になる。録り直しも編集もできない。その場で出した声と音が、すべて。完璧なエース、早乙女らしい提案だ。
 でも、それでいい。むしろ、その方がいい。
 やってやろうじゃん。今の俺は、そう思える。
 もう逃げないって決めた。
 千隼が作った音だ。あいつが、俺の声じゃないと完成しないって言った音だ。
 千隼は、嘘をつかない。俺は、千隼を信じる。
 部活のあと、土手に向かった。階段を上り、土手の上に立つ。夕焼けの太陽が、川のもっと向こうへゆっくりと沈みかけていた。
 あそこへ、届くように。
 もっと良くします、と家で編集に集中している千隼に届くように。
「森を抜けると──」
 声を出してみる。静かだけど、ちゃんと響く声にしたい。それには、もっと体幹を──。
「そこは、夜の入口だった」
 響きが薄い。
 音が弱い。
 これじゃ、届かない。
 長いことちゃんとやってきてなかったから、声頼みってのが、すぐにバレる。
 手元のシナリオをもう一度チェックする。千隼が作ってくれたデモからシナリオを起こした。
 久し振りにワクワクする徹夜だった。
 ずっと観るのをやめてた九条さんの録画も、再生した。
「あら、また観てるのね」
 母さんは、ふふ、と笑って、部屋を出て行った。変わったこと、気づいてくれたらしい。
 千隼が、俺の声をワクワクするって言ってくれるんなら、俺は俺をあきらめない。
 もう一度、やる。
 俺の声を、取り戻す。
 千隼が組んだ音を思い出す。
 森のざわめき。猫の声。人の笑い声。神社の鈴。その中に、自分の声を置く。
「森を抜けると、そこは、夜の入口だった」
 まだだ。
 でも、胸の奥に灯った熱は、もう消えない。
 俺は、やっぱり放送が好きだ。
 二度も手放してしまったその思いを、取り戻してくれたのは、千隼だ。
 千隼は待ってる。俺が、ちゃんと伝えるのを。
 一番いい声で伝えたい。
 何度でも、やる。
 声が、届くまで。

「三隅、早乙女チーム」
 プレゼン当日。参加者の名前が呼ばれて、部室の空気が引き締まる。
 部員の手元には、どのチームの作品が一番よかったかを書く投票用紙が配られていた。
 早乙女は、まっすぐ前だけを見ていた。いつもと変わらない姿勢でブースに入り、迷わずヘッドホンを装着する。
 音響のほうは一度も見ない。まるで、いつでも用意はできている、とでも言うかのように、
 ──始まった。
 川のせせらぎが、耳に心地よい。そこに、早乙女の声が重なる。
 無駄がなくて、ちょうどよい。揺れない。音と完全に噛み合っている。息の置き方も、間の取り方も、全部、計算されているみたいだった。
 部室のざわめきが、いつの間にか消えている。全員が、聞かされている。みんな納得した顔をして、うなずいている。
 うまい。そう思った瞬間、それすら遅いと感じるくらい、すべてが完成されていた。
「──以上です」
 早乙女が原稿を机に置いた。一拍おいて、拍手がわっと大きく鳴った。取り巻きたちが、ブースにいる早乙女を取り囲む。
「すげぇ」
「さすが早乙女」
 飛び交う声のひとつひとつに、早乙女はきちんと応じている。実力に裏打ちされた余裕。今のエースは間違いなく早乙女だった。
 その早乙女が、ふと俺のほうを見た。ゆっくり、こっちに歩いてくる。
 ざわついていた空気が少しだけ静かになって、俺と早乙女は向き合った。
「湊、待ってたよ」
 挑発でも皮肉でもない。本気で、そう思ってる声だった。
「ああ」
 俺は、短く返事をした。きっと、伝わる。──だって、俺も本気だから。
「湊、小出チーム」
 部長に呼ばれて、俺はふうっと大きく息を吐いた。原稿を持ち直して、ブースへ入る。
 マイクを目の前にして……足が、すくんだ。
 汗が、背中を伝う。手元に目をやれば、原稿を持つ手が小刻みに震えていた。
 だめだ。こんなときに。思い出しちゃだめだ。
 だけど、頭の中で打ち消そうとすればするほど、去年の放送コンのときのトラウマが蘇る。目の前の原稿から文字を見失った、あの瞬間。
 目の前が白く飛ぶ。喉が、締めつけられる。──俺。
「翔也先輩」
 背中に、あたたかさを感じた。大きな手のひらだ。なだめるみたいに、俺の汗ばんだ背中をゆっくり上下した。
 上がった息が、少しずつほどけていくのが分かる。
「先輩。大丈夫です。俺がいます」
 ──そうだ。俺には、千隼がいる。
 息を吸って、吐く。喉が少しずつ開いてくる。頭の中に、千隼の作ってくれた音が戻ってきた。
 この音を辿ればいい。俺の声を、千隼の音に乗せる。ただ、それだけでいい。
「行くぞ」
「はい」
 震えはまだ残ってる。でもいい。それが、今の俺なんだから。
 千隼は、俺の声だけじゃなくて、俺を好きだと言ってくれた。その言葉を信じて、行く。
 千隼がミキサーの前に立った。大きくうなずく。俺もうなずいて前を向いた。
 ──森のざわめき。草を踏む足音。
 三分間のラジオドラマが始まる。俺は、マイクに声を乗せた。
「森を抜けると、そこは、夜の入口だった」
 声が震えそうになるのをぐっとこらえる。波形はブレたかもしれない。でもいい。千隼はきっとミキサーの前でうなずいている。
 届け。
 俺の全部を、声に乗せるから。
 受け取ってくれ。
 声を乗せるたびに、千隼の音に溶けていく感じがした。ふたりで作った作品だ。すごく大切な時間が積み重なってできてる。
 ──森のざわめきや祭りの音が、だんだん遠ざかっていく。
「夏の夜。猫は、音に導かれた」
 マイクをオフにして、俺は視線を上げた。
「以上です」
 部室が静まりかえった。驚いた顔が、あちこちに浮かんでいる。誰もすぐには声を出せないみたいだった。
 パチ……パチパチパチ。
 小さく生まれた拍手が、少しずつ広がっていく。やがて、それは一気に弾けた。
「やべぇ!」
「湊、戻ったじゃん!」
「いや、前と変わった気がする」
「伝わってきました!」
 次々に声が飛んできて、肩や頭を叩かれる。うまく言葉が返せなくて、俺は、あはは、と曖昧に笑った。
 返事を返しながら、俺はミキサールームを振り返る。気になるのはひとりだけだ。
 ──千隼。
 千隼はヘッドホンを下げながら、小さく、でもはっきりと親指を立てた。その目はきらきらしている。
 あいつに、届いた。この気持ちが、本気が届いた。俺も、あいつに向けて親指を立てた。