恋のソノリティ

 頭の中がぐちゃぐちゃのまま歩いていたら、自然と土手に辿り着いていた。
 放課後の土手は、風が強い。さっきまでまとわりついていた空気が取り払われて、頭の中に少しずつ隙間ができていく。
 それでも、千隼の声だけは強く残って消えなかった。
「翔也先輩の声じゃないと、完成しない」
 胸の奥が、強くきしむ。
 ──逃げたままでいいのか。
 このままなかったことにして、終わらせていいのか。
 俺は、向き合わないといけないんじゃないのか。
 俺の中に芽生えた思いから、目をそらしちゃいけないんじゃないのか。
 遠くの川面がきらきらと陽の光に反射している。それが、千隼の目を思い出させた。
 俺をからかうみたいに、ICレコーダーを高く持ち上げたとき。九条さんのナレーションを真似たとき。土手で、俺の発声練習を聞いてたとき。
 合宿で聞いた俺だけが知ってる土手の音。くっつきそうに近い布団の距離。鈴の紐に触れたときの感触。ひとつのヘッドホンを共有したときの近さ。
 どれもが、俺の中で特別なものになっていた。どれもが、千隼と積み重ねた時間だ。
 俺の声で、千隼の音をもっと輝かせたい。
 あいつの隣に立つのは、俺でいたい。
 ──離れたくない。
 これは、声の話じゃない。
 揺れているのは、俺だ。
 あいつに、揺れている。
 土手の風がひときわ強く吹いた。俺の背中を後押しするみたいに。
 最初は、弱い一歩だった。それでも足は止まらなかった。だんだんと強くなって、スピードが上がっていく。
 ──あいつに、千隼に会いたい。
 会って、なにが言えるのか分かんないけど、とにかく会いたい。
 俺は、土手の階段を駆け下りていた。
 風が頬に当たる。胸が苦しくなる。
 それでも足は止まらなかった。
「先輩!」
 背後から、息を切らした声が飛んできた。
 俺は足を止めて振り返った。土手の上にいたのは、千隼だった。千隼は、階段を下りるのももどかしそうに、途中から土手の斜面を滑るように下りてきた。
「ここだと思ったんです」
 走ってきたのか、千隼は汗をかいていた。いつもより頰が赤い。風で前髪が乱れている。
「よかった……会えて」
「お前、どうして」
 千隼は、冷静になろうとするみたいに、制服の胸の部分をぎゅっと掴んだ。
「……先輩、退部するんですか」
 その一言で、俺はまた、言葉が出なくなる。
 心がぐらぐら揺れた。
 千隼とは離れたくない。だけど、俺なんかが千隼の音に選ばれていいのか。声で失敗してばかりの俺が。
 さっきまでの勢いは消えて、思わず下を向く。しゃり、と草の擦れる音がして、俺の上に影ができた。
「先輩」
 低くてやわらかい声だった。そっと見上げると、いつもより猫背が伸びてしゃんとしてる千隼の姿が目に入った。
「早乙女先輩に、ラジオドラマ誘われました」
 千隼は淡々とそう告げた。俺の心はまた揺れ動く。千隼にとってなにがいいことなのかは、明らかだ。
「俺、断りました」
 俺の心を見透かしたように、千隼は続けた。
「完成してる声じゃなくて、先輩の声がいいんです。先輩のソノリティは、ちゃんと届く。はっきり聞こえるんです……先輩の声だけは」
 俺の胸が、どくんと大きく跳ねた。
 千隼がもう一歩近づく。距離が、急に縮まる。
 俺は思わず後ずさった。
 土手の斜面でバランスを崩しそうになり、千隼が反射的に俺の腕を掴んだ。
「あぶないっ」
 千隼の強い力に引き寄せられる。俺の顔が、千隼の胸に当たりそうになって、あわてて身体を離そうとした。
 だけど、千隼は俺の腕を離そうとしなかった。
「……離せ」
「嫌です」
 いつもみたいに無自覚なゼロ距離なのかと思った。だけど、その声は真剣で熱っぽさがあって、いつもとは違っていた。
 俺の腕を掴んだまま、千隼は強い視線で俺を見つめた。視線をそらせない。
「俺の音が先輩に届かなくて、それだけは傷つきました」
 千隼の目の中に一瞬悲しい色が浮かんで、俺の胸がぎゅっと音を立てる。だけど、千隼は迷いを振り切るように続けた。
「……でもやっぱり、俺には先輩しかいない。先輩が逃げるなら、どこまででも追いかけます」
 やっぱ変な後輩だよ、お前は。だけど、俺は、そんなお前が──。
 俺の中に芽生えた気持ちがなんなのか、はっきりした気がした。
「先輩。合宿の最後に渡したUSBメモリ、聞いてくれましたか?」
「……まだ」
「聞いてください」
 まっすぐな声だった。
「……分かった」
 俺たちの間を吹き抜ける風は、いつの間にか優しい風に変わっていた。

 千隼と別れて、俺は家に戻った。自分の部屋に入って、机の前に座る。
 しばらく、なにもできなかった。
「俺には先輩しかいない」
 頭の中では、千隼の声が繰り返されている。掴まれた手の力強さ。熱っぽい視線。何度もリフレインする。思い出すたびに、俺の胸もじゅわっと熱くなってくる。
 引き出しに手をかけた。あいつが、合宿の最後に渡してきたもの。
 作品の素材だったら、俺はまだ心の準備ができていない。ていうか、心の準備をするもなにも、もう手遅れだ。放送部やめたんだし。
 なにを聞けっていうんだよ、千隼は。
 取り出したUSBメモリをパソコンに差す。
 怖い。一瞬指が止まる。
 大きく深呼吸をして、おそるおそる再生ボタンをクリックした。
 葉ずれの音がした。セミナーハウスの森だ。やっぱり素材の音か。ここから、猫の鳴き声が入るはずだ。
 そう思った瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
 俺の気持ちと千隼の気持ちは違うんだ。
 あいつは、やっぱり俺の声を、素材のひとつとしか思っていないのに違いない。
 ……期待してたのかよ、俺。
 千隼ももしかしたら、なんて。そんなふうに一瞬でも思った自分が、恥ずかしかった。
 もう、いい。
 ここで止めようと再生を切ろうとした、そのとき。
「えっと……」
 人の声が、混ざった。
 手が止まる。千隼の声だった。
「音響やっててよかったです。先輩に会えたから」
「……つか、いつからそんなに音が好きになったんだよ」
「気づいたら、です。俺にとって、音は特別なものだから」
「特別?」
「はい」
 そこで、森の音が一瞬ざわっと大きくなる。包み込むみたいに広がって、それからフェードアウトした。
 これ、千隼の声が録りたいって言ったときのやつだ。先輩に会えたとか、距離感バグってて、千隼には振り回されっぱなしだと思ってた。けど違った。
 振り回されてたんじゃない。
 あいつ自身に、惹かれてたんだ。
 あいつが俺の声を大切にしてくれるって分かったから、俺ももう一度、自分の声を信じてみたいと思った。その気持ちは、たしかに生まれてた。
 俺は──。
 千隼のことをだれよりも分かってやれる存在になりたい。
 あいつが俺のことを素材としてしか見てなくてもいい。
 俺は、あいつの特別になりたい。
 あいつが、千隼が──好きだ。
 USBメモリの再生を今度こそ止めようとした。
「ザッ」
 ノイズが入った。
 びくりと指が止まる。まだ終わってない。
 波形は、小さく揺れている。音が、まだ生きてる。まるでためらってるみたいに。
 その波形を、千隼がそこにいるみたいに見つめた。
「翔也先輩」
 呼ばれた瞬間、息をするのも忘れた。その声はさっきより近くて、すぐそばで呼ばれたみたいに聞こえた。
「先輩の声だけじゃなくて」
 心臓の鼓動が、痛いほど強く胸を打つ。千隼の声の波形は大きく揺れた。
「先輩が好きなんです」