翌日。
退部届を部長に提出して、教室に戻ろうとしたときだった。
「湊」
名前を呼ばれて、足が止まる。振り返ると、早乙女が立っていた。
「湊、退部届出したって本当か」
「……ああ」
「どうして。あれは、湊だけの責任じゃないだろ」
「それでもだよ」
自分でも驚くくらい、声は冷静だった。
「事をでかくしたのは、俺だ」
「……それに」
一瞬、言葉が詰まる。
「俺には、声を扱う資格がない。声で、人を傷つけた」
早乙女は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
短く頷く。それで、千隼のことだと察したみたいだった。
「だからって、逃げるのか」
言葉に詰まる。──そうだ。俺は去年に続けて、今回もまた逃げるんだ。
「やめるのは、別に止めない。でも、それで解決すること、ひとつもないぞ」
何も言い返せない。早乙女の言うことは正論だった。
「じゃあさ」
早乙女が、ふっと息をついた。
「湊が手放すなら」
一拍置いて、静かに続けた。
「小出は、僕がもらう」
「は……?」
思わず声が漏れる。心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「湊がやめるなら、あいつ空くだろ。だったら、僕があいつと組む」
早乙女は冷静な表情だった。まるで当然のことのように言ってのけた。その言葉を聞いて、胸の奥がざわつく。
千隼と早乙女。
あいつのまっすぐな目が、完璧な声を持つ早乙女に向けられる。
千隼が、素直に音響をやる姿が頭に浮かんで──嫌だ。
胸の奥に黒いものが広がっていく。
「待てよ……」
思わず声が出ていた。早乙女が、わずかに眉を上げて俺を見る。
自分でも、何を言おうとしてるのか分からない。それでも、喉が熱くなる。
「千隼は……お前のものじゃない」
早乙女は小さく笑った。
「じゃあ、誰のものなんだ? 湊のものか?」
その問いかけに、俺は返す言葉を失った。顔が熱い。耳の奥までじんとなってる。
早乙女はそれ以上追及せず、軽く肩をすくめて去っていった。
俺はなにも言えないまま早乙女の背中を見送った。誰のものかと問われて、言い返すことなんてできっこなかった。
だけど。
渡したくない、と思った。
──いや、俺にはそんなこと思う資格すらないんだ。
だれもいない時間を見計らって、こっそり部室に私物を取りに行った。
この部室で過ごした二年弱。声じゃだれにも負けないと思ってたけど、俺は、俺の声に負けてしまった。
部室を見渡す。ミキサールーム、放送ブース。壁に並んだ機材の数々。
何も変わっていないはずなのに、すべてが遠く感じる。
変えてしまったのは、俺自身だ。
声なら、俺が戦える。武器になる。熱かったはずの思いはどこへ行ってしまったんだろう、俺にも分からない。
私物をバッグへ入れて、部室を出ようとしたとき、廊下の向こうからこっちへ向かってくる足音が聞こえた。
反射的に体が動いた。ミキサーの陰にしゃがみ込み、息を潜める。ガチャ、とドアが開き、外の空気が流れ込んでくる。
「ごめん、すぐ終わる」
「いえ」
声はふたつあった。
「なんですか、話って」
千隼だ。聞き間違えようがない。
「湊のことだ。今日、退部届を出した」
もうひとりは早乙女だった。宣言通り、千隼を自分のラジオドラマ作品に誘おうとしているのはすぐに分かった。
「小出、僕と組まないか」
早乙女らしい、直球勝負の言い方だった。
「僕とだったら、全国へ行ける。小出の音を、全国に届けられる」
迷いのない声だった。そこにあるのは、根拠のない自信じゃない。実力と行動力に裏打ちされた、確信だ。
そんな相手に、千隼を渡したくないなんて思ってる自分が、ひどく、ちっぽけに思えた。
千隼は、早乙女と組んだほうがいい。
千隼の音をみんなに届けられるのは、早乙女だ。──分かってる。
早く答えろよ、千隼。うん、て言え。早乙女なら、お前が人の声を聞き取りづらいことだって、理解してくれる。
きっと俺なんかより、ずっと。
俺はミキサーの陰で膝を抱え、唇を強く噛んだ。
早くこの会話が終わればいい。
千隼が「はい」って言って、早乙女と一緒に笑いながら部室を出て行けば……それで、全部終わる。
これ以上、ふたりの会話を聞いていたくなかった。
「お誘い、ありがとうございます」
千隼の声が聞こえた。……そう、それでいい。お前の音だったら、全国へ行ける。早乙女なら連れてってくれる。
それが、正しい。
「……でも、無理です」
──千隼?
今、なんて言った?
「無理?」
早乙女の声に、千隼が答える。
「俺の音は、翔也先輩の声じゃないと完成しないんです」
迷いのない声だった。
待てよ、お前、全国行きたくねぇのかよ。ソノリティだの、ワクワクだの、そんなものより、そっちのほうが、よっぽどお前のためになるだろ。
全部終わるはずだった時間が、千隼の言葉で音を立てて崩れていく。
「翔也先輩がいないなら」
きっぱりと千隼は言い切った。
「作る意味、ないです」
その声の熱が、まっすぐに伝わってきた。千隼は、本気でそう言っている。
胸の奥が、強く締めつけられた。息が苦しい。
俺は、何も分かっていなかった。あいつが、どんなふうに音を聞いていたのか。どんなふうに、俺の声を聞いていたのか。何ひとつ分かっていなかった。
込み上げてくる思いが喉から出てしまいそうで、口を押さえて必死に堪える。
……なんでだよ、千隼。お前、俺に傷つけられたのに、まだそんなこと言うのかよ。
沈黙を破ったのは、早乙女だった。
「そっか。小出となら面白いものが作れるって思ったんだけど。……もし気が変わったら言って。湊が放送部を辞めたって、小出の音はどこでも通用するよ」
ひとつの足音が、部室から消えていく。続けて、もうひとつの足音もゆっくり遠ざかっていった。
俺は、ミキサールームの陰で大きく息を吐いた。足が震えて、うまく立ち上がれなかった。
退部届を部長に提出して、教室に戻ろうとしたときだった。
「湊」
名前を呼ばれて、足が止まる。振り返ると、早乙女が立っていた。
「湊、退部届出したって本当か」
「……ああ」
「どうして。あれは、湊だけの責任じゃないだろ」
「それでもだよ」
自分でも驚くくらい、声は冷静だった。
「事をでかくしたのは、俺だ」
「……それに」
一瞬、言葉が詰まる。
「俺には、声を扱う資格がない。声で、人を傷つけた」
早乙女は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
短く頷く。それで、千隼のことだと察したみたいだった。
「だからって、逃げるのか」
言葉に詰まる。──そうだ。俺は去年に続けて、今回もまた逃げるんだ。
「やめるのは、別に止めない。でも、それで解決すること、ひとつもないぞ」
何も言い返せない。早乙女の言うことは正論だった。
「じゃあさ」
早乙女が、ふっと息をついた。
「湊が手放すなら」
一拍置いて、静かに続けた。
「小出は、僕がもらう」
「は……?」
思わず声が漏れる。心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「湊がやめるなら、あいつ空くだろ。だったら、僕があいつと組む」
早乙女は冷静な表情だった。まるで当然のことのように言ってのけた。その言葉を聞いて、胸の奥がざわつく。
千隼と早乙女。
あいつのまっすぐな目が、完璧な声を持つ早乙女に向けられる。
千隼が、素直に音響をやる姿が頭に浮かんで──嫌だ。
胸の奥に黒いものが広がっていく。
「待てよ……」
思わず声が出ていた。早乙女が、わずかに眉を上げて俺を見る。
自分でも、何を言おうとしてるのか分からない。それでも、喉が熱くなる。
「千隼は……お前のものじゃない」
早乙女は小さく笑った。
「じゃあ、誰のものなんだ? 湊のものか?」
その問いかけに、俺は返す言葉を失った。顔が熱い。耳の奥までじんとなってる。
早乙女はそれ以上追及せず、軽く肩をすくめて去っていった。
俺はなにも言えないまま早乙女の背中を見送った。誰のものかと問われて、言い返すことなんてできっこなかった。
だけど。
渡したくない、と思った。
──いや、俺にはそんなこと思う資格すらないんだ。
だれもいない時間を見計らって、こっそり部室に私物を取りに行った。
この部室で過ごした二年弱。声じゃだれにも負けないと思ってたけど、俺は、俺の声に負けてしまった。
部室を見渡す。ミキサールーム、放送ブース。壁に並んだ機材の数々。
何も変わっていないはずなのに、すべてが遠く感じる。
変えてしまったのは、俺自身だ。
声なら、俺が戦える。武器になる。熱かったはずの思いはどこへ行ってしまったんだろう、俺にも分からない。
私物をバッグへ入れて、部室を出ようとしたとき、廊下の向こうからこっちへ向かってくる足音が聞こえた。
反射的に体が動いた。ミキサーの陰にしゃがみ込み、息を潜める。ガチャ、とドアが開き、外の空気が流れ込んでくる。
「ごめん、すぐ終わる」
「いえ」
声はふたつあった。
「なんですか、話って」
千隼だ。聞き間違えようがない。
「湊のことだ。今日、退部届を出した」
もうひとりは早乙女だった。宣言通り、千隼を自分のラジオドラマ作品に誘おうとしているのはすぐに分かった。
「小出、僕と組まないか」
早乙女らしい、直球勝負の言い方だった。
「僕とだったら、全国へ行ける。小出の音を、全国に届けられる」
迷いのない声だった。そこにあるのは、根拠のない自信じゃない。実力と行動力に裏打ちされた、確信だ。
そんな相手に、千隼を渡したくないなんて思ってる自分が、ひどく、ちっぽけに思えた。
千隼は、早乙女と組んだほうがいい。
千隼の音をみんなに届けられるのは、早乙女だ。──分かってる。
早く答えろよ、千隼。うん、て言え。早乙女なら、お前が人の声を聞き取りづらいことだって、理解してくれる。
きっと俺なんかより、ずっと。
俺はミキサーの陰で膝を抱え、唇を強く噛んだ。
早くこの会話が終わればいい。
千隼が「はい」って言って、早乙女と一緒に笑いながら部室を出て行けば……それで、全部終わる。
これ以上、ふたりの会話を聞いていたくなかった。
「お誘い、ありがとうございます」
千隼の声が聞こえた。……そう、それでいい。お前の音だったら、全国へ行ける。早乙女なら連れてってくれる。
それが、正しい。
「……でも、無理です」
──千隼?
今、なんて言った?
「無理?」
早乙女の声に、千隼が答える。
「俺の音は、翔也先輩の声じゃないと完成しないんです」
迷いのない声だった。
待てよ、お前、全国行きたくねぇのかよ。ソノリティだの、ワクワクだの、そんなものより、そっちのほうが、よっぽどお前のためになるだろ。
全部終わるはずだった時間が、千隼の言葉で音を立てて崩れていく。
「翔也先輩がいないなら」
きっぱりと千隼は言い切った。
「作る意味、ないです」
その声の熱が、まっすぐに伝わってきた。千隼は、本気でそう言っている。
胸の奥が、強く締めつけられた。息が苦しい。
俺は、何も分かっていなかった。あいつが、どんなふうに音を聞いていたのか。どんなふうに、俺の声を聞いていたのか。何ひとつ分かっていなかった。
込み上げてくる思いが喉から出てしまいそうで、口を押さえて必死に堪える。
……なんでだよ、千隼。お前、俺に傷つけられたのに、まだそんなこと言うのかよ。
沈黙を破ったのは、早乙女だった。
「そっか。小出となら面白いものが作れるって思ったんだけど。……もし気が変わったら言って。湊が放送部を辞めたって、小出の音はどこでも通用するよ」
ひとつの足音が、部室から消えていく。続けて、もうひとつの足音もゆっくり遠ざかっていった。
俺は、ミキサールームの陰で大きく息を吐いた。足が震えて、うまく立ち上がれなかった。



