恋のソノリティ

 千隼の手が、一瞬だけ止まった。そのあと、また作業を続けながら、なんでもないような口調で話し始めた。
「俺、人の声が、よく聞き取れなくて」
「え?」
 思わず聞き返す。……耳鼻科のホームページを検索したときに、たしかにそんなことは書いてあったけど、人の声がよく聞き取れないって、本当にあることなのか。
 千隼の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「聴力に異常はないんですけど、人の声がうまく分からないっていうか……雑音みたいに聞こえることが多くて」
 それだけ言うと、千隼はまた作業に集中しはじめた。その背中は、いつも通り猫背で、なにも気にしてないみたいだった。
 今までの千隼の行動に納得がいった。ひとの話にいまいちついてこれないのも、クラスで一番前の席なのも、それか。
 千隼にとって、音は必死に掴まないとこぼれてしまうものなんだ。目を凝らして、耳を澄ませてやっと拾い上げるもの。
 千隼は、俺なんかの何倍も何十倍も音を真剣に考えてる。そもそも逃げる余地なんてないんだ。
 ふと、千隼は作業の手を止めた。ヘッドホンを外して、俺のほうを振り返った。
「でも、先輩の声だけは分かります。届くんです。ここに」
 千隼は自分の胸をおさえた。
 ……なんだよ、それ。
 心臓をぎゅっとわしづかみにされたみたいになる。
 ワクワクする声だってこいつは言ってた。俺の声が好きだって。本当に、俺の声は届いてるのか。
 そんなこと言われたら──意識するに決まってるだろ。
 千隼のバグった距離感のせいで、勘違いしただけだと思ってた。でも、……やっぱり俺、こいつのこと──。 
「……俺だったら、ここでナレ入れるわ」
 自覚しかけた感情を振り払うみたいに、俺はパソコンの波形を指さした。
「それ、めちゃめちゃいいです!」
 千隼は前みたいにきらきらした目で、俺を見た。もう俺は、心臓が持たなくて思わず視線を下げる。こいつ、無自覚でこれやってんなら、罪だろ……マジで。
「どんなシナリオがいいですかね」
「……んー」
 視線を逸らしたまま、少しだけ考える。
「最初は、静かに入ったほうがいいかもな」
「静かに、ですか?」
「ああ。なんかこう……」
 さっき聞いた音を思い出す。猫の鳴き声、人々の笑い声、そして神社の鈴。
「猫を主人公にしてさ。夏の夜の始まり、みたいな」
 言いながら、自分でも少し照れくさい。でも、俺ならこう言う。
「人の世界に迷い込んだ、とか」
 千隼は俺の提案を聞いて、うん、と頷いた。
「やっぱ先輩は、すごいです」
 照れも遠慮もない声だった。まともに千隼の顔が見られない。
 たたみかけるように、千隼は言った。
「先輩の声で作品作れるなんて、まじ嬉しいです」
 他のやつの前では見せない、まっすぐな笑顔を向けられてるのが自分だって思ったら、……俺、もしかしてこいつにとって特別なのかも、なんて。
 ちょ、何考えてんだよ、俺。
「も、もう風呂の時間だぞ。準備はそれくらいにしとけよ」
「はい」
 千隼はノートパソコンを閉じて、立ち上がった。
「先輩。俺、先輩と放送コンに出られるように、もっと頑張りますから」
 そう言うと、洗面道具を持って楽しそうに部屋から出て行った。
 その背中に聞きたくなる。……聞けるわけはないんだけど。口に出せない問いは、心の中で呟いた。
「お前にとって、俺はなに?」
 
 二泊目の夜も、布団は近かった。
 隣に千隼の気配がある。それだけで、さっきの言葉がまた頭の中でよみがえる。
 ──先輩の声で作品作れるなんて、まじ嬉しいです。
 いろんな感情が混じり合って、なんだか胸の奥が落ち着かない。
 俺の声だけは千隼に届いてる。そう言われたときは嬉しかったはずなのに。
 俺はそんなに褒められるようなもんだろうか。千隼みたいに、いろんなものに正面から向き合ってないし。
 目を閉じても、隣から聞こえる寝息に意識がいって、なかなか寝付けなかった。

 翌朝。寝不足のせいか、少し身体が重たく感じた。無理やり体を起こして布団を片付け、食堂に向かう。
 朝食も、なんとなく喉を通らない。
「あれ、湊。今日も寝不足っぽいな。大丈夫か?」
 早乙女に声をかけられる。心配されるのも、なんだか落ち着かなくて、少しだけ強めに返した。
「枕変わると寝れないタイプなんだよ。別に平気」
「そっか」
 早乙女はそれ以上は突っ込まずに、軽く頷いた。そのまま、いつもの調子で言う。
「今日の作品、楽しみにしてる」
 早乙女は一足先に食べ終えると、食器を片付けに行った。残った俺は、もそもそとロールパンをスープで喉に流し込む。
 作品は上手くできるはずだ。千隼が構成してくれてるんだから。
 ──問題は、俺だ。
 午前中のトレーニングを終えて昼食のあと、セミナー室での編集が始まった。
「先輩、ナレーションここで入れたいです。どうですかね」
 千隼は、もう構成をほとんど組み終えていた。猫の鳴き声から入り、祭り、神社、そしてまた猫。少し不思議な世界がありありと浮かぶ。頭の中で、自然とシナリオが広がっていく。 
 やっぱり、千隼の作る音の世界は、引き込まれる。
 ……だからこそ、怖い。
 せっかく千隼が作った世界を、俺が壊したらどうする。 
 ソノリティなんて、俺には重たいよ。
「湊、ナレやるの?」
 横から声が飛んできて、思考が途切れる。早乙女が、いつの間にか後ろに立っていた。
「構成いいじゃん。雰囲気もあるし」
 画面をのぞき込んで、軽く頷く。
「……まあな」
 曖昧に返すと、早乙女はそのまま続けた。
「だったら、あとはちゃんと乗せるだけだな。湊の声にかかってる」
 早乙女の言葉にハッとした。
 千隼と組むのは、早乙女みたいに、ちゃんと声と向き合って負けないやつがやるべきだろ。……俺じゃない。
 俺、なんか勘違いしてたのかもしんない。千隼の隣に立てるみたいに、思ってた。
「……俺、やっぱ降りる。なんか違うわ」
 パソコンをいじる千隼の手が、ぴたりと止まった。
「……違う、って」
 千隼はゆっくりとヘッドホンを外した。夢中になって音を組み立ててた顔が、けわしくなる。
「何がですか」
「いや、なんか……」
 説明できるわけがない。
 去年のこと、まだ引きずってるとか。
 負けたまま、ずっと浮上できないでいるとか。
 そんなの、言えるかよ。
「俺じゃないほうがいいだろ、きっと」
「どうしてですか」
 間髪入れずに返ってくる。追い詰められるみたいで、思わず視線を逸らした。
「千隼の作品だし。ちゃんとできるやつがやったほうが──」
「先輩」
 遮られる。静かに、でもはっきりと強く呼びかけられた。
「先輩、逃げてます」
 ぐっと喉が詰まった。図星すぎて言葉が出てこない。
「……は?」
 やっと出た声は、思ったより低かった。
「違いますか」
 千隼は、まっすぐこっちを見たまま言う。こいつはいつもそうだ。まっすぐで、ひたむきで、あきらめない。
 だけど。
 俺は、そんな千隼から認められるような俺じゃないんだ。お前の期待には応えられない。
「……わかったようなこと言うなよ」
 それだけ言って、俺はセミナー室をあとにした。千隼の作品なんだから、千隼が仕上げればいい。早乙女が組みたがってたからちょうどいいだろう。
 やっぱり俺は、要らない。