恋のソノリティ

 夕食と片付けが終わるころには、外はすっかり暗くなっていた。
 セミナーハウスのロビーに集められ、放送部恒例、肝試し録音の説明が始まる。
「はい、これから肝試しやるぞー。昼間と同じ部屋ごとで、一年から順番にスタートな。途中にある神社で、鈴の音、ちゃんと鳴らして録音してくること。電灯はあっても暗いから、くれぐれも気をつけろよ」
 部長がにやりと笑って、少しだけ間を置く。
「証拠がないと、行ったことにはしないからなー」
 さらに、思い出したみたいに付け足す。
「……あと、途中で引き返したやつも、分かるから」
 一年たちが「えー」「こわいって」とかたまり出す。
 二年は去年の合宿で、どんなものか分かっているので、その様子をにやにやしながら見ている。途中に三年が立っているので、危ないこともない。
 一年のペアがセミナーハウスを出て行った。扉が閉まると同時に、ロビーのざわめきが少しだけ小さくなる。
 残ったやつらは、なんとなく落ち着かない様子で順番を待っている。笑ってはいるけど、声のトーンが少し高い。
 しばらくして、次のペアが呼ばれる。人数が減るたびに、空気がじわじわ静かになっていく。
「じゃあ、一年の最後な。小出……あと湊か。湊、ネタバレすんなよ」
「分かってます」
 俺は、千隼とセミナーハウスの外に出た。街灯はあってもほとんど真っ暗で、昼間歩いた森が、まるで別の場所みたいに見える。
「先輩、ネタバレってなんですか?」
「それ言ったらダメだろ。内緒」
「……?」
 千隼は首をかしげたまま、少しだけ考えて、
「事前情報があると、音の感じ方も変わりますもんね。分かります」
 なんて、ずれた方向に納得している。変なやつ。
 昼間録った音の話なんかをぽつぽつしながら、しばらく歩く。
 暗さにはもう慣れてきた。道も昼間と同じだし、どこで何があるかも、だいたい分かってる。
 そろそろ来るな。そう思った瞬間。
 ──ガサッ。
 人ひとり隠れられそうな大きさの茂みが揺れた。
「先輩」
 すぐ隣から声がして、肩と肩が触れ合う。
 思ったより距離が近くて、思わず心臓が跳ねた。反射的にそっちを見ると、千隼が暗がりをじっと見ている。なんだ、音に集中してるだけか。
「今の、人の足音に聞こえましたけど」
「三年の先輩な」
「あ、なるほど。そういうことですか」
 納得したみたいに頷く。
「おばけにしては、はっきりしてるなと思ったんです」
 ……おい。お前、おばけの足音、聞いたことあんのかよ。ツッコみかけた自分がアホらしくてやめる。
 肩はまだ触れたままだ。体温だけが、やけに伝わってくる。
「……離れろ」
「あ、すみません」
 ぱっと肩が離れる。
 その瞬間、「あ」と思った。
 ……なんだそれ。
 自分でも分からない違和感を振り払うみたいに、前を見る。
「行くぞ」
「はい」
 さっきより少しだけ距離を取ったはずなのに、気配だけは、やけにはっきりしていて、胸の動悸が止まらない。
 これじゃあ、俺のほうが驚かされたみたいじゃないか。

 そのまましばらく進むと、木々の間に小さな灯りが見えてきた。神社だ。
 千隼はいつものICレコーダーを取り出すと、周囲の音を確かめるみたいに耳を澄ませた。
「……鈴、あそこですね」
 小さな鳥居の先に目を凝らすと、いかにも古い鈴が社にぶら下がっている。
「さっさと鳴らして帰るぞ。早く録れよ」
 鳥居をくぐって、鈴の前に立つ。何も考えずに手を伸ばした、その瞬間。
 上から、千隼の大きな手が重なった。
「……え?」
「鈴の音、安定させたほうがいいと思って」
 そのまま、鈴の紐を一緒に握っている。腕と腕も重なって、千隼の筋肉の硬さが、ダイレクトに伝わってくる。
「……いや、ちょ」
「このまま引いてください」
 逃げ道がない。手をどける理由も、タイミングも分からないまま、千隼と一緒に紐を引く。
 カランと鈍い音が夜の森に広がった。静寂の中に余韻が残る。
 録れた。音は確実に録れたはずなのに、手は、まだ重なったままだ。千隼は、音のほうに意識がいってるのか、微動だにしない。こいつの考えてることは、やっぱり分からない。
 音を安定させるって、それだけでこんなに距離詰める必要あるか?
 つか、俺も俺だ。くっつかれたくらいで、どうしてこんなふうになるんだよ。指先から伝わる体温をもろに感じて、心臓が口から飛び出そうになってる。
「……もう録れただろ」
「あ、はい」
 ようやく、手が離れる。千隼はICレコーダーを確認し、俺はチェックポイントの紙にしるしをつけた。
 行きの会話が嘘みたいに、どちらも口を開かない。足音だけが、夜の森にサクサクと響く。
 やがて、セミナーハウスの灯りが見えてきた。俺は自分だけの秘密にするみたいに、千隼に触れられたほうの手をポケットに突っ込んだ。

 女子チームが数人途中離脱したのをのぞけば(途中ガサガサ茂みが鳴ったところで叫んで引き返したらしい)、あとは全員ちゃんと鈴の音を録って戻って来た。
「じゃあ、これでお楽しみは終わり。あとは風呂と就寝まで、明日の作品づくりの準備しとけよー」
 部長が手を叩いて、場を締める。
 「はーい」と気の抜けた返事があちこちから上がって、部員たちはそれぞれ部屋に散っていった。
 俺もその流れに乗って歩き出す。ポケットの中の手には……まだ千隼の手の感触が残ってる。
 部屋に戻ると、千隼はもう戻っていて、レコーダーとパソコンを繋いでなにやら作業をしていた。
「あ、先輩。昨日録った雨音とか、今日の猫の鳴き声とか鈴の音とか、取り込んだところです」
 画面を軽く指さす。波形がいくつも並んでいた。
「相変わらず音になると、やること早ぇな」
「楽しみなんで。先輩と作品作ること」
「……」
 作品づくり。やるかどうか先延ばしにしてたやつ。千隼はその気でいる。俺は……どうしたらいい?
 声を出したい自分がいるのは分かってる。実際、千隼となんやかんやで一緒にいて楽しいのも本当だ。
 だけど、一回ほっぽり出した声ともう一度向き合うのは、思ってたよりハードルが高い。
 中途半端にやるくらいなら、やらないほうがマシだって、どこかで思ってる。
「先輩」
「ん?」
「これ、聞いてもらっていいですか」
 千隼が自分のヘッドホンを外して、片方の耳当てを差し出してきた。
 ……顔が近い。ずっとそうだけど、こいつ、こういうときだけ距離感おかしい。
 ずい、とヘッドホンを押し付けるみたいに近づけられて、反射的にそれを受け取る。そのまま耳に当てると、千隼ももう片方を自分の耳に当てた。
 自然と距離が詰まる。肩が、触れ合う。俺の座高に合わせるみたいに、千隼が猫背を丸めた。
「聞こえますか?」
「……ああ」
 森がさわさわとそよぐ音の中に、遠くから猫の鳴き声が混ざる。あのときの空気が、そのまま耳の奥に戻ってくるみたいで、小さく胸が鳴る。
 しばらくして、音が切り替わった。ざわざわと笑い声が重なる。たぶん食堂の声を録ったんだろう。
 そして笑い声がフェードアウトしていき、──カラン。神社の鈴の音が、すっと混ざった。
「……夏祭りっぽいな」
 思わず、口から出る。
「先輩ならそう言ってくれると思いました」
 すぐ隣で、千隼が小さく笑う気配がした。ドキドキして、横が見られない。
「あと、盆踊りの素材を組み合わせたら……どう思いますか?」
 千隼の口調はワクワクしていて、なんだか俺までこの作品づくりがうまくいきそうな気がした。
「悪くないんじゃね?」
 素直な気持ちが思わず口に出た。俺の一言で、千隼の気配がぱっと明るくなるのが分かる。
「ありがとうございます。じゃ、これでちょっと構成組んでみますね」
 千隼はそう言って、すぐにパソコンに向き直った。キーボードを叩きながら、何か小さくぶつぶつ言っている。
 その横顔を見ながら、ふと、引っかかっていたことを思い出す。
 昼間、森の中で聞きそびれたこと。「音は特別なものだから」──千隼にとって、音ってなんなんだ。
 そういえば、一学期の休日に耳鼻科で千隼を見かけた。あのときは分からないままにしてた。千隼のことを、俺はまだ全然知らない。
 ──知りたい。
「……お前さ、なんでヘッドホンいつもしてんの」