恋のソノリティ

 胸の奥が、まだ落ち着かない。あのとき、あいつは、答えじゃなくて、最初から俺を見てた。俺なら分かるって分かってた。
 小さく息を吐く。このままでいいのか。
 部屋に戻れば、あとは風呂入って寝るだけだ。だけど、それでいい気がしなかった。
 俺は振り向いてロビーのほうを見た。人はもうほとんどいない。さっきまでのざわつきが嘘みたいに静かだった。
 千隼が、まだそこにいた。さっきと同じ場所で、ノートパソコンを片付けているところだった。
「おい」
 千隼がびっくりした顔で俺を見た。
「あ、先輩」
 一瞬だけ迷ってから、俺は続けた。
「……音、取りに行くなら今だぞ」
 千隼の目が、ぱっと見開いた。
「え、いいんですか?」
「お前、レアだって言ってたじゃん」
 少し照れくさくなって、視線を逸らす。
「ほら、傘は出しとくから、お前はレコーダーとか持ってこいよ」
 千隼は一瞬固まったあと、慌てて立ち上がった。
「はい……ありがとうございます、先輩」
 その声が、少し震えていた。つんのめるようにして走り出す千隼の後ろ姿から、なぜか目が離せない。
 ちょっと笑って見てる自分に気づいて、あわてて顔をもとに戻した。
 俺、なにやってんだ? 合宿来てから、なんかおかしい。
「お待たせしました!」
 千隼が、マイクと録音レコーダーを握りしめて、階段をかけ下りてきた。
「別に待ってねぇよ。お前、音のことになるとほんと一直線だな」
「先輩とレアな音が拾えると思ったら、じっとしてらんなくて」
 まただ、千隼のきらきらした目。まったく調子がくるう。
 二人で玄関ポーチに出て、セミナーハウスの喧騒が聞こえなくなるあたりまで歩く。夜の空気がひんやりして、小雨が木々の葉先からやわらかく落ちている。
 俺は傘を広げて、千隼の頭上に差し出した。
 千隼はマイクを傘に向け、レコーダーの録音ボタンを押す。
「録音、開始……」
 小さく呟いて、目を閉じた。
 ポツ、ポツ、ポツ……雨粒が傘を叩いている。一定のリズムが続く。
 その中に、千隼の息遣いがかすかに混ざる。
 俺は傘を握ったまま、千隼の横顔を見ていた。外灯の薄い光が、思ったより長い睫毛に細かい影を落としている。
 千隼はヘッドホンをつけたまま、じっと音に集中している。手を伸ばせば、触れられる距離なのに……なんか、遠くて。
 千隼の横顔を、こんなに近くで見てるのは俺だけなのに。
 ──おい、待て。俺、今何考えてた?
 傘に落ちる雨音より速いペースで、心臓が打っている。怖くなって、傘を持っていないほうの手で、胸元のTシャツをぎゅっと掴んだ。
 千隼は気づいていない。山の中の雨音を録ることだけを考えてる。千隼は雨の音を聞いてて、俺は自分の心臓の音を聞いてる。──同じ傘の中で。
「……翔也先輩」
 不意に名前を呼ばれて、びくっとする。
「な、なに」
「今の音、なんでしょうね」
 え? もしかしてバレた? ……いや、違う。そんなわけあるか。
 千隼は録音を止めて、少しだけ首をこちらに向けていた。
「雨音の中に、たまに粒が跳ねる軽い音、混ざってません?」
「……そんなこともあるんじゃね?」
 適当に返したつもりなのに、声が少し掠れる。
「この感じ、すごく好きです」
 そう言って、千隼はほんの少しだけ笑った。その横顔を見て、また心臓がうるさくなる。……ほんと、なんなんだよ。勘弁してくれ。

 場所を変えて数パターンの雨音を録音した千隼は、満足そうに頭を下げた。
「先輩、付き合ってくれてありがとうございました」
「おう……さすがに冷えたから、もう戻ろうぜ。一年は風呂の時間だろ」
「あ、そうですね」
 千隼は小さく頷いて、レコーダーの電源を切った。
 さっきまで降っていた雨は、いつのまにかやんでいて、見上げると雲の切れ間から星がいくつか覗きはじめていた。
 セミナーハウスの軒先から落ちる最後の雫だけが、ぽつ、ぽつと遅れて響いている。靴をしまってロビーに入ると、一年がまとまって風呂場へ行くところだった。
「やべ。俺、先行きますね」
「ああ」
 頷くと、千隼は一段とばしで階段を上っていったかと思うと、洗面用具を持って、集団のあとを追いかけて行った。
 俺は、千隼が集団に追いつくのを見届けると、ゆっくり階段を上った。足が少し重い。
 同じ傘の下で、さっきまですぐ隣にあった気配は、もうなくて。
「……だからなんだよ。二泊三日だぞ」
 自分に言い聞かせるみたいに呟いて、俺も部屋へと戻った。

 二年の番がきて風呂から上がってみると、部屋には布団が二組敷いてあった。
「あ、先輩。おかえりなさい。布団、敷いときました」
 ジャージに着替えた千隼が、ヘッドホンを外しながら振り向いた。布団の上であぐらをかいて、何かを聞いてたみたいだ。きっと、さっき録った雨音だろう。
 うん、いいんだけどさ。布団敷いといてくれたのは助かるんだけどさ。
「……くっつけすぎじゃね?」
「あ、俺、寝相いいので大丈夫です」
「そこじゃねぇよ」
「このくらいのほうが、録音的には……」
「お前、俺のいびきまで録るつもりか!」
「せっかく先輩と同じ部屋になったんで」
 マジでやめてほしい。そうじゃなくても千隼といるとなんか落ち着かないのに、こんな近い距離、寝づらいわ。
「離せ」
「……はい」
 千隼は布団の端を気持ちずらした。気持ちかよ。
 たいして距離は変わってない。かといって、また注意するのも、こっちばっかり引っかかってるみたいで嫌で、結局、俺はそれ以上なにも言えなかった。
「消灯したかどうか、三年が見回りにくるから、音出すなよ」
「わかりました」
 千隼はもう気にした様子もなく、布団に入った。頭から布団をかぶって、ヘッドホンを耳に当てている。
(ほんと、音オタクなやつ)
 俺はふっと小さく笑って、部屋の電気を消した。
 廊下の向こうから、誰かの足音や水音がかすかに聞こえるくらいで、セミナーハウスの中は静かになった。どの部活も部屋で息をひそめながら、合宿の夜を過ごしているんだろう。
「先輩」
 暗闇の中で、千隼が小さく声をかけてくる。
「……なんだよ」
「さっきの雨音、ちゃんと録れてました」
「そりゃよかったな」
「先輩が手伝ってくれて嬉しかったです。ありがとうございます」
「べつに。……もう寝ろよ」
「はい。おやすみなさい」
 それだけ言って、また静かになった。部屋に広がる沈黙がやけに長く感じる。
 目を閉じても、すぐには眠れない。隣の気配が、妙に近い。スマホでも見ようかとも思ったけど、バッテリーが切れると困るから、触らないでおく。
 二年になってから、変な後輩に会った。
 俺の声が好きだとか言って、勝手に録音してコレクションにするし。距離バグってるし、空気も読まないし、会話もどこかズレてる。なのに、音の話になると急に饒舌で、やたら楽しそうで。
 俺なんかよりずっと真っ直ぐに向き合ってる。音と。
 ──だからなんだよ。
 頭の中で繰り返して、無理やり思考を切る。
 しばらくして、隣から規則正しい呼吸が聞こえてきた。……もう寝たのかよ。
 思わず小さく息を吐く。俺だけが取り残されたみたいな感覚と、妙な安心とが、変なふうに混ざる。
「……ほんと、なんなんだよ」
 静けさの中で、自分の心臓の音だけが耳の奥に響く。規則的なそれが少しずつ遠のいていって、俺の意識も、ようやくゆっくり沈んでいった。