恋のソノリティ

「アナウンス部門。次の作品は、県立上池高校放送部、湊翔也(みなとしょうや)君です。どうぞ」
 呼び出しの声がスピーカーから響いた。
 はじめて参加する放送コンテストの県大会だ。客席には、各校の放送部がぎっしり集まっている。だけど俺は、ここで結果を出す。俺なら出せる。
 ブースに入る前、客席の方へちらっと視線を送ると、そこには早乙女がいた。腕を組んで、静かにこっちを見ている。同じ放送部の、俺のライバル。
 ブースの中は、やけに静かだった。ヘッドホン越しに聞こえるのは、自分の呼吸だけだ。
 原稿を握りしめる。早乙女には、負けられねぇ。
 入学式の日から冷めたことのない熱が、ふつふつと腹の底で沸騰した。

「──新入生代表、一年A組、湊翔也」
 一瞬おいて、拍手が広がる。
 壇上を降りると、あちこちから視線が飛んできた。え、俺なんか間違えたか? 不安になりながら自分の席へ戻ると、隣のやつがツンツンと俺の肩をつついてきた。
「おま、めちゃめちゃ声いいな」
 前の女子も振り返った。
「うん。アナウンサーみたいだった。刺さったよ」
 ──刺さった。
 入学式が終わっても、その言葉は消えなかった。それよりも、どんどん強くなっていった。
 高校の門をくぐるとき、俺は焦っていた。いくら勉強の成績が良くたって、きっとすぐに追い抜かれる。苦手な体育にも、伸びない身長にも、悔しい思いを抱えていた。
 だけど。
 声いいな。上手かったよ。感動しちゃった。放送部に入ればいいのに。
 たくさんのクラスメイトから声を掛けられて、ハッとした。
 これだ。
 俺が負けないもの。俺の武器になるもの。
 見つけた、と思った。
 部活勧誘のとき、迷わず放送部へ行った。そのとき、ドアのところでとんとんと肩を叩かれ、振り向いた。
「湊、だっけ。新入生の言葉、すごくよかったよ」
 背筋がぴんと伸びていて、折り目正しい優等生、といった感じだった。
「声はいい。でも原稿に頼りすぎだな。間の取り方がもったいなかった」
 いきなり言われて、言葉が詰まる。
「ちゃんとやれば、もっと上にいける」
 それだけ言って、そいつ──早乙女は歩き去った。
 早乙女は、中学の時からアナウンスの才能で注目を浴びている存在だと知ったのは、あとからだった。
 関係ねぇ。この高校では、俺がエースだ。そう思ってここまでやってきた。

 合図のランプが点いた。俺はゆっくり息を吸う。
「──昨夜からの大雨で、市内を流れる上池川の水位が上昇しています」
 声は出ている。いつも通りだ。何度も練習をした原稿だから間違えようがない。
 原稿を追いながら、言葉をつないでいく。
「今朝、通学路となっている伝馬橋の周辺を確認したところ、水の流れが速くなっており、橋の上から見ても分かるほどでした」
 順調だ。このままいける。俺は原稿を目でなぞりながら続けた。
「なお、市役所に取材したところでは──」
 そこで、ふっと言葉が消えた。え、市役所?
 違う。この話題はまだ先のはずだ。ページをめくり直した瞬間、背筋が冷えた。
 ──しまった、一ページまるごと読み飛ばした。
 戻ろうとしたけれど、どこに戻ればいいのか分からない。
 喉が詰まる。
「……」
 声が出ない。ヘッドホンの中で、自分の息を飲む音だけがやけに大きく響く。
 止まった時間の中で、客席の気配だけがじわりと伝わってくる。審査員席のペンが止まる音が聞こえた気がした。
 原稿の文字が、うまく頭に入らない。読まなきゃいけないのに読めない。
「……っ」
 無理やり次の行を探す。
「生徒が通学に利用している商店街では、雨の影響で──」
 声が震えているのが、自分でも分かった。これじゃない、完全に流れが崩れてしまった。 なんとか立て直して最後まで読み終えたころには、手が汗でびっしょり濡れていた。
 ブースを出る。客席を見る勇気はなかった。
 俺はそのまま会場を出た。
 廊下の突き当たりにあるトイレに入り、個室に鍵をかけて、便座のふたに座る。
 ──やった。やってしまった。
 膝ががくがくする。汗がひかない。原稿の文字が、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。
 なんで止まった。なんで読めなかった。俺はぐっと制服のズボンを両手で握りしめた。
 スピーカーの音が、かすかに聞こえてきた。会場の進行だ。もう他人事みたいに、それは粛々と続いていく。
 ラジオドラマ部門の発表が始まった。早乙女が率いるチームの作品だ。
 応援する気にはとてもなれない。俺はトイレの中で、ぼうっとスマホをスクロールした。何が書いてあるのかなんて、まったく頭に入ってこない。
 やがて、拍手の音が廊下まで響いてきた。発表がすべて終わったみたいだ。
 遠くのスピーカーから結果発表が聞こえてきた。
「ラジオドラマ部門、優勝は──県立上池高校放送部です」
 一瞬、音が消える。
 やっぱりか、と思った。早乙女たちの作品は強かった。というか、早乙女の引っ張る力が凄かった。
 本当はトイレから出てって、祝福しないといけないんだろう。
 だけど、腰は上がらないままだった。
 しばらくして、廊下に足音が増えてくる。会場から出てきた生徒たちだ。
 トイレの前で、何人かが立ち止まる気配がした。話に耳を澄ますと、同じ学校のやつらだった。
「やっぱ凄かったわ、早乙女」
「ドラマめっちゃ良かった」
「演技もだけど、あの雰囲気」
「中学のときの放送コン、県大会で優勝したんでしょ。早乙女君て」
「来年は甲子園の司会狙えるだろ」
「早乙女ならいけるわ」
 その場にいる全員が、早乙女を称賛している。その中に、早乙女の声が混ざる。勝つのが分かっていたかのような、落ち着いた声だった。
「ありがとう」
 少し間があって、誰かが聞く。
「来年は早乙女がアナウンスやればいいんじゃね? 湊はダメダメだったし」
  ダメダメ。そう、俺はダメダメだった。何も言えない。トイレの中で、下を向くしかなかった。
 早乙女は、少し沈黙したあとに言った。
「いや、僕は来年もラジオドラマ一本でいく。音響を強化したいんだ」
「音響?」
「うん」
 早乙女が歩き出したのか、声のかたまりが少しずつ遠くなっていく。
「いい音作れるやつがいれば、もっと面白くなる」
 トイレの中で、俺はじっとしていた。もう俺には関係のない話だ。俺は、負けたんだから。
 ──それから、俺は負け犬のまま新しい学年になった。