秀と連絡がつかなくなった。電話はもちろん、メールもだ。
東京方面へ向かう特急列車に揺られている。秀の泣き顔が、頭から離れなかった。そういえば、秀が泣くところを俺は見たことがなかった。
『もう一度話したい』。おととい、メールでそう伝えた。ファミレスから、一人で帰宅した後だ。
昨日も丸一日、じれったい気持ちで返信を待ったが、梨のつぶてだった。
秀の涙を思い出す。それだけで胸の奥が疼いた。鋭い爪で、内側から皮膚を抉られるような、鈍い痛み。
泣かせてしまったという後悔と反省。それらが引き起こした痛みだと、はじめは思った。
だけど、それだけじゃない。
時間が経つにつれ、胸の中に芽生えた特殊な感情に気がつき始めた。
――秀を放っておけない。放っておきたくない。頼られたいし、あの涙を拭ってやりたい。俺が、支えになりたい。
これは友情なんかじゃない――そんなもの、もうとっくに超えている。
後ろに流れていく窓外の景色を眺めた。そういえば再会の場所も、この特急列車の中だった。こつん、と窓に側頭部を凭れる。
――俺はこんなにあいつのこと、好きだったのか。
真面目すぎるくらい真面目で律儀なところ。皆が羨むほど頭がいいのに、こんな馬鹿な俺を、一度も馬鹿にしたことがないところ。誰にでも敬意を持って振る舞うところ。笑うととても優しい顔になるところ。
そんな秀が、もうずっと愛おしかった。
ずっと、好きだったんだ。きっと子どものときから。垢抜けない同級生たちと団子になって、転校してきた秀を覗きに行ったあの日から。俺はずっと惹かれていたんだ。あの、世界一綺麗な子どもに。
自分でもうんざりするくらいニブい。泣かせてから気づくなんて最低だ。
耳の事情を隠されたことにあんなに腹が立ったのも、秀が特別だからだ。いや――秀の「特別」に、なりたいと思っているからだ。
もちろん、耳のことは簡単な問題じゃない。会話はできるといっても、両耳が聞こえないのは大きなハンディキャップだ。俺が想像する以上の、たいへんな苦労や苦悩があっただろう。そしてそれは、きっとこれからも同じだ。
だけど、だったら、と思う。
だったら、だからこそ、そばにいて支えてやりたい。一緒に悩みたい。苦しいときは一緒に泣きたい。俺にできることがあれば、なんだってしてやりたい。
秀を、助けたい。
だって俺は、これまでに、秀の笑顔に何度も助けられてきた。
音楽の道を諦めそうになったとき、いつも思い出したのは彼の笑顔だ。「約束だ」と指切りしたときの、秀の笑い顔。あの笑顔に、あの約束に、何度救われたかわからない。
だから、今度は俺が助ける番だ。
なあそうだろ、秀。
柏ー、柏ー、と間延びしたアナウンスが車内に流れた。ギターを担いで、電車を降りる。
養成所に向かう足取りは、重かった。今日はボイストレーニングの日だ。にっくき植田に書き直してこいと言われた歌詞には、まだ手を付けられていなかった。ここのところ、秀のことで頭がいっぱいだったのだ。
日当たりの悪い裏通りに面した、煤けたビル。ここが俺の通う養成所だ。「HOPEレコードミュージシャン養成所」と書かれた、錆びついた立て看板がビルの前に置いてある。
ギターを抱え直し、狭いエレベーターで四階に上がった。トレーニングルームの前に到着すると、防音の分厚いドアの隙間から、植田の姿が見えた。誰かと話しているようだ。
話し相手は見知らぬ男だった。アシスタントか何かだろうか。なんとなく入室しづらくて、俺は薄暗い廊下に留まっていた。
もうすぐ大会ですね、とアシスタントらしき男が水を向けた。例のジャパンミュージックフェスのことだろう。来月の頭に開催される予定だ。
「植田さんは、誰か期待している子とかいるんですか?」
植田の返答は早かった。「ダントツで、沢入薫だよ」
予想しなかったタイミングで自分の名を呼ばれ、内臓が浮き上がった。え、嘘だ、と声を出しそうになる。落としそうになったギターを慌てて持ち直す。
「ルックスも良いし、声の質も抜群。作曲センスもなかなかあるよ。まだ、荒削りだけどね」
隙間から漏れてくる、植田の自信に満ちた声に鼓動が速まった。
「どうも期待のせいでね、こっちも力んじゃって。いつも彼にはきつく言っちゃうんだよ。嫌われてるだろうなあ、僕」
はは、と植田は軽やかな笑い声をあげる。俺の前では滅多に見せないような表情だ。
「問題はね、作詞かな。からっぽなんだよね、彼の詞は」
「からっぽ?」
アシスタントらしき男が俺の気持ちを代弁してくれた。
「伝えたいメッセージとか、強い気持ちが、彼の歌詞にはないんだ。体裁ばっかり気にした、格好良いだけの歌詞。だから人の心に響かない。むなしく聞こえちゃう」
そうして、最後に植田が放った一言は、衝撃的だった。
「恋でもすればいいんだよ、彼は」
後頭部をバットで殴られたような感覚が走った。
どうして自分が歌うのか。その理由を、忘れかけていた。
俺が歌うと、秀が喜んでくれた。笑ってくれた。それが嬉しくて、だから歌い続けようと決めた。秀の……誰かの、喜ぶ顔が見たい。それが俺の、歌い続ける理由だったのに。
大事なのはさ、言葉じゃないんだよね──植田は以前、俺にそう言った。あのときは、そのアドバイスの真意がわからなかった。歌う理由を、見失っていたからだ。
体裁ばかりを気にした、美辞麗句を並べただけの歌詞。そんなもので、誰かの気持ちを動かせるはずがなかった。メッセージや自分の想いを、届けられるわけなかった。
今なら、植田の言葉を理解できる。
伝えたいことが、ある。伝えたい想いが、今はある。
「すごい才能だ、薫」
そう言って手を叩いた、秀の喜ぶ顔がもう一度見たい。あの笑顔で、俺がどれほど強くなれたか、きっとあいつは知らないんだ。
俺に、計り知れない力をくれた。言葉にならないほどの、たくさんの「ありがとう」。
……それから。
こんなに、こんなにお前を想っていること。
全部、歌にのせよう。
***
大会の目前まで、ボイストレーニングと作曲に集中した。出来上がっていたはずの曲も、最後まで何度も練り直した。
秀に連絡はとらなかったし、俺のスマホが鳴ることもなかった。とにかく今は大会に集中するんだ、と自分に言い聞かせた。
ジャパンミュージックフェスには、過去にも一度だけ出場したことがある。出場条件には年齢制限が設けられていないため、毎年、何度でも挑戦は可能だ。
だけど、今回がラストチャンス。俺はそう思っていた。今度の大会に、すべてを賭ける。それでダメなら、潔く諦めるつもりだ。
俺が歌う理由。歌いたいと願う気持ち。秀に伝えたい、たくさんの感謝。それから、たくさんの想い──秀に再会したことで、それら全てが今、最高潮に達している。
歌いたい。歌わなくてはいけない。こんなに強烈に、そう思う。
こんな瞬間、きっと、もう二度とない。
これが、最後のチャンス。そして、最高のチャンスだ。
――秀。お前に伝えたいことが、山ほどあるよ。
俺の作った曲は、三分半の長さ。たった三分半のメロディに、どんなに言葉を詰め込んだって、この思いは伝えきれないだろう。
それに、読唇術では、百パーセント完璧に言葉を読み取ることはできないらしい。どんなに熟練した技術を持っている人でもだ。
だからさ、役に立たない「言葉」なんていらない。そう思ったんだ。
言葉なんかじゃ、伝わりきらない。だから言葉じゃないもので、伝えるよ。
――なあ、秀。お前に、届くだろうか?
大会の前日に、『聞きに来てほしい』という一言と、開催日時と場所、それだけをメールで送った。返信はやっぱりなかったけれど。
大会前夜は、ほとんど眠れなかった。日が昇ったのでベッドから這い出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水で頬を叩き、気合を入れた。
いつものラフな服装で、履き慣れたコンバースを足に嵌める。どうせ鳴らないスマホをポケットに押し込み、ギターを担いだ。
大会の開催地は、東京の有明。だから今日もまた、東京方面へ向かう特急列車に乗る。
秀からの連絡はない。でも、彼は必ず来る。俺はそう信じて歌うだけだ。
会場に到着すると、既に参加者と関係者でごった返していた。テレビ用のカメラを抱えた人も多くいる。
待機室では、各々の参加者が準備をしていた。歌詞を確認する者、ギターのチューニングをする者。出番までに、コンディションを自分なりの方法で高めている。
「沢入くん。歌詞は、本当にこれでいくんだね?」
待機室に控えていた植田が、念を押すように確認した。無精髭を綺麗に剃ってきており、いつもよりずっと若々しく見えた。
「はい」
「けっこう、賭けだけどね。吉と出るかな、凶と出るかな」
思いのほか植田は楽しそうだ。
「でも沢入くんは声が良いから、そこに君の気持ちがのっかれば……きっと面白いことになるね」
「だと、良いんですけど」
俺は肩をすくめながら笑った。確かにこの歌詞は、のるかそるかの大博打だ。本番の、自分のパフォーマンスに全てが懸かっている。
不安はある。でも、これ以外に思いつかなかった。この溢れる気持ちの全てを、歌に込める方法が。
順番は抽選で決められた。植田との発声練習を終え、結果を見に行くと、俺はかなり後のほうだった。大トリでなくてよかった、と安堵する。さすがにそれは荷が重すぎる。
一般入場が開始していた。会場には続々と観覧者たちが集まってきている。未来のスターを発掘する注目度の高い大会だけあって、観客の数も一通りではない。
舞台の袖から観客を見渡した。かりに秀が来ていたとしても、この人数ではわからないな……とちょっと気落ちする。本番前に、一目でも秀の顔が見たかった。
「彼女でも来てるの?」
観客席を覗き込む俺に、植田が尋ねてきた。冷かしという感じではなかった。
「いや、彼女ではないんですけど」
俺は首を横に振り、一息おいてから言った。
「俺の、好きな人です」
「若いねえ」
植田が口角をつりあげる。今度は、間違いなく冷かしだった。
「植田さんだって、若々しいですよ」
「『若い』と『若々しい』は、マリリン・モンローとマリリン・マンソンくらい、違うって」
植田はそう言って自嘲する。俺も笑ってしまった。
レディースエンジェントルメーン! と司会者が大袈裟な声を出した。時刻は正午ぴったり。
「いよいよ、始まるよ」
植田が司会者を眩しそうに見た。
出場者たちの演奏が開始する。
自分は案外、心地よい緊張感の中にいた。何千人の観衆がいようが関係ない――そう思っていたからかもしれない。ただ一人のために、俺は歌うのだ。
スマホの画面を確認するが、やはり連絡はない。
――やっぱり、来ないかな……。
そもそも、耳の聞こえない秀を音楽の祭典に誘うということ自体、無神経だったかもしれない。面白くもなんともないだろうし。
第一、俺の顔なんてもう見たくないだろうか。秀が必死に隠そうとした事実を、暴いてしまったのだ。しかも隠されたことに苛立って、怒声まで浴びせた。嫌われたかもしれない。
「まあ、自業自得だよな……」
いまさら、俺の歌を彼に聞かせたところで、何が変わるというのだろう。
「……駄目だ」どんどんネガティブになる。
雑念を払うように、頭を二、三度振る。モニターを見ると、自分の順番が近づいていることに気づいた。
ギターを持って待機室を出た。ちょうどスタッフが「三十六番の沢入さん!」と呼びにきたところだった。「今行きます」と軽快に答える。
ステージの袖に入ると、俺の前の演奏者がマイクに向かうところだった。俺と同じ、弾き語り。でも女性だ。透明感のある声に、うまいな、と素直に感じた。
「ここは、関係者以外立ち入り禁止ですっ! お客様、困ります!」
そのとき、スタッフの困り果てたような声が響いた。辺りがざわつく。物騒な声がしたほうを振り返った。
「しゅ、秀……!」
心臓が止まりかけた。
「薫ッ」
秀はスタッフに阻まれながらも、それを押しのけるようにして、叫んだ。生真面目な秀がこんな大それた行動を起こすなんて、信じがたいことだった。
「薫! 自分を、信じろ!」
俺は驚きのあまり何も言えなかった。秀の声だけが、頭の中を何度も行き来した。
「君には、才能があるんだ!」
秀は、ほとんど泣き顔だ。でもたぶん、俺も同じだった。
「絶対に、あるんだ!」
観客席へお戻りください、と秀は強制的にスタッフに連れて行かれてしまった。ステージでは前の演奏者が歌い終わり、舞台袖に去った。
俺は呆けたように、しばしその場に立ち尽くした。それからゆっくりと、目線をステージのほうへ向けた。
ステージの真ん中に、ぽつんとマイクスタンドが立ち、俺を待っている。
秀が、来てくれた。秀が見てくれている。心地よい高揚が全身に広がった。
エントリーナンバーと名前を呼ばれる。袖から出て、マイクの前に構えた。ドク、ドク、という自分の心臓の音だけが耳を打つ。
「お兄ちゃんガンバ」と書かれたうちわを持つ綾が遠目に見えた。母さんも一生懸命こっちに手を振っている。ふ、と知らず口元が綻んだ。
秀の姿は、ここからは見えない。だけどもう不安じゃない。
準備は万端だ。オーケー。
ぎゅ、とピックを強く握る。弾いた弦の振動が、内臓と脳にまで届いた。大きく息を吸い、ステージの真ん中で、俺は歌った。
ラララ、と。
歌詞はなかった。はじめから終わりまで、「La」だけだ。
役に立たない言葉なんて、秀に想いを伝えられない言葉なんて、いらない。そう思ったから、俺は歌詞を書くのをやめた。
その代わり、メロディをたどることに全てを懸けた。声はもちろん、表情、しぐさ、息遣い、身体のすべてを使って、音を表現した。感情を、想いを、まるごと全部「ラララ」にのせて、マイクにぶつけた。ハウったって、構うもんか。
秀は「聞けない」。だから「見て」ほしかった。俺の歌を。俺の歌う姿を。
歌い終わると、息が切れた。一曲演奏しただけなのに、ひどく汗をかいていた。
観客席は、しんと静まり返っている。誰かが思い出したように、パチ、と拍手を始め、その拍手が一気にギャラリー全体に伝染した。肌にビリビリくるほどの喝采が、会場に渦巻いた。
観客席の一番前で、植田がにっこりと笑う。そうして俺に、ブイサインをした。
東京方面へ向かう特急列車に揺られている。秀の泣き顔が、頭から離れなかった。そういえば、秀が泣くところを俺は見たことがなかった。
『もう一度話したい』。おととい、メールでそう伝えた。ファミレスから、一人で帰宅した後だ。
昨日も丸一日、じれったい気持ちで返信を待ったが、梨のつぶてだった。
秀の涙を思い出す。それだけで胸の奥が疼いた。鋭い爪で、内側から皮膚を抉られるような、鈍い痛み。
泣かせてしまったという後悔と反省。それらが引き起こした痛みだと、はじめは思った。
だけど、それだけじゃない。
時間が経つにつれ、胸の中に芽生えた特殊な感情に気がつき始めた。
――秀を放っておけない。放っておきたくない。頼られたいし、あの涙を拭ってやりたい。俺が、支えになりたい。
これは友情なんかじゃない――そんなもの、もうとっくに超えている。
後ろに流れていく窓外の景色を眺めた。そういえば再会の場所も、この特急列車の中だった。こつん、と窓に側頭部を凭れる。
――俺はこんなにあいつのこと、好きだったのか。
真面目すぎるくらい真面目で律儀なところ。皆が羨むほど頭がいいのに、こんな馬鹿な俺を、一度も馬鹿にしたことがないところ。誰にでも敬意を持って振る舞うところ。笑うととても優しい顔になるところ。
そんな秀が、もうずっと愛おしかった。
ずっと、好きだったんだ。きっと子どものときから。垢抜けない同級生たちと団子になって、転校してきた秀を覗きに行ったあの日から。俺はずっと惹かれていたんだ。あの、世界一綺麗な子どもに。
自分でもうんざりするくらいニブい。泣かせてから気づくなんて最低だ。
耳の事情を隠されたことにあんなに腹が立ったのも、秀が特別だからだ。いや――秀の「特別」に、なりたいと思っているからだ。
もちろん、耳のことは簡単な問題じゃない。会話はできるといっても、両耳が聞こえないのは大きなハンディキャップだ。俺が想像する以上の、たいへんな苦労や苦悩があっただろう。そしてそれは、きっとこれからも同じだ。
だけど、だったら、と思う。
だったら、だからこそ、そばにいて支えてやりたい。一緒に悩みたい。苦しいときは一緒に泣きたい。俺にできることがあれば、なんだってしてやりたい。
秀を、助けたい。
だって俺は、これまでに、秀の笑顔に何度も助けられてきた。
音楽の道を諦めそうになったとき、いつも思い出したのは彼の笑顔だ。「約束だ」と指切りしたときの、秀の笑い顔。あの笑顔に、あの約束に、何度救われたかわからない。
だから、今度は俺が助ける番だ。
なあそうだろ、秀。
柏ー、柏ー、と間延びしたアナウンスが車内に流れた。ギターを担いで、電車を降りる。
養成所に向かう足取りは、重かった。今日はボイストレーニングの日だ。にっくき植田に書き直してこいと言われた歌詞には、まだ手を付けられていなかった。ここのところ、秀のことで頭がいっぱいだったのだ。
日当たりの悪い裏通りに面した、煤けたビル。ここが俺の通う養成所だ。「HOPEレコードミュージシャン養成所」と書かれた、錆びついた立て看板がビルの前に置いてある。
ギターを抱え直し、狭いエレベーターで四階に上がった。トレーニングルームの前に到着すると、防音の分厚いドアの隙間から、植田の姿が見えた。誰かと話しているようだ。
話し相手は見知らぬ男だった。アシスタントか何かだろうか。なんとなく入室しづらくて、俺は薄暗い廊下に留まっていた。
もうすぐ大会ですね、とアシスタントらしき男が水を向けた。例のジャパンミュージックフェスのことだろう。来月の頭に開催される予定だ。
「植田さんは、誰か期待している子とかいるんですか?」
植田の返答は早かった。「ダントツで、沢入薫だよ」
予想しなかったタイミングで自分の名を呼ばれ、内臓が浮き上がった。え、嘘だ、と声を出しそうになる。落としそうになったギターを慌てて持ち直す。
「ルックスも良いし、声の質も抜群。作曲センスもなかなかあるよ。まだ、荒削りだけどね」
隙間から漏れてくる、植田の自信に満ちた声に鼓動が速まった。
「どうも期待のせいでね、こっちも力んじゃって。いつも彼にはきつく言っちゃうんだよ。嫌われてるだろうなあ、僕」
はは、と植田は軽やかな笑い声をあげる。俺の前では滅多に見せないような表情だ。
「問題はね、作詞かな。からっぽなんだよね、彼の詞は」
「からっぽ?」
アシスタントらしき男が俺の気持ちを代弁してくれた。
「伝えたいメッセージとか、強い気持ちが、彼の歌詞にはないんだ。体裁ばっかり気にした、格好良いだけの歌詞。だから人の心に響かない。むなしく聞こえちゃう」
そうして、最後に植田が放った一言は、衝撃的だった。
「恋でもすればいいんだよ、彼は」
後頭部をバットで殴られたような感覚が走った。
どうして自分が歌うのか。その理由を、忘れかけていた。
俺が歌うと、秀が喜んでくれた。笑ってくれた。それが嬉しくて、だから歌い続けようと決めた。秀の……誰かの、喜ぶ顔が見たい。それが俺の、歌い続ける理由だったのに。
大事なのはさ、言葉じゃないんだよね──植田は以前、俺にそう言った。あのときは、そのアドバイスの真意がわからなかった。歌う理由を、見失っていたからだ。
体裁ばかりを気にした、美辞麗句を並べただけの歌詞。そんなもので、誰かの気持ちを動かせるはずがなかった。メッセージや自分の想いを、届けられるわけなかった。
今なら、植田の言葉を理解できる。
伝えたいことが、ある。伝えたい想いが、今はある。
「すごい才能だ、薫」
そう言って手を叩いた、秀の喜ぶ顔がもう一度見たい。あの笑顔で、俺がどれほど強くなれたか、きっとあいつは知らないんだ。
俺に、計り知れない力をくれた。言葉にならないほどの、たくさんの「ありがとう」。
……それから。
こんなに、こんなにお前を想っていること。
全部、歌にのせよう。
***
大会の目前まで、ボイストレーニングと作曲に集中した。出来上がっていたはずの曲も、最後まで何度も練り直した。
秀に連絡はとらなかったし、俺のスマホが鳴ることもなかった。とにかく今は大会に集中するんだ、と自分に言い聞かせた。
ジャパンミュージックフェスには、過去にも一度だけ出場したことがある。出場条件には年齢制限が設けられていないため、毎年、何度でも挑戦は可能だ。
だけど、今回がラストチャンス。俺はそう思っていた。今度の大会に、すべてを賭ける。それでダメなら、潔く諦めるつもりだ。
俺が歌う理由。歌いたいと願う気持ち。秀に伝えたい、たくさんの感謝。それから、たくさんの想い──秀に再会したことで、それら全てが今、最高潮に達している。
歌いたい。歌わなくてはいけない。こんなに強烈に、そう思う。
こんな瞬間、きっと、もう二度とない。
これが、最後のチャンス。そして、最高のチャンスだ。
――秀。お前に伝えたいことが、山ほどあるよ。
俺の作った曲は、三分半の長さ。たった三分半のメロディに、どんなに言葉を詰め込んだって、この思いは伝えきれないだろう。
それに、読唇術では、百パーセント完璧に言葉を読み取ることはできないらしい。どんなに熟練した技術を持っている人でもだ。
だからさ、役に立たない「言葉」なんていらない。そう思ったんだ。
言葉なんかじゃ、伝わりきらない。だから言葉じゃないもので、伝えるよ。
――なあ、秀。お前に、届くだろうか?
大会の前日に、『聞きに来てほしい』という一言と、開催日時と場所、それだけをメールで送った。返信はやっぱりなかったけれど。
大会前夜は、ほとんど眠れなかった。日が昇ったのでベッドから這い出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水で頬を叩き、気合を入れた。
いつものラフな服装で、履き慣れたコンバースを足に嵌める。どうせ鳴らないスマホをポケットに押し込み、ギターを担いだ。
大会の開催地は、東京の有明。だから今日もまた、東京方面へ向かう特急列車に乗る。
秀からの連絡はない。でも、彼は必ず来る。俺はそう信じて歌うだけだ。
会場に到着すると、既に参加者と関係者でごった返していた。テレビ用のカメラを抱えた人も多くいる。
待機室では、各々の参加者が準備をしていた。歌詞を確認する者、ギターのチューニングをする者。出番までに、コンディションを自分なりの方法で高めている。
「沢入くん。歌詞は、本当にこれでいくんだね?」
待機室に控えていた植田が、念を押すように確認した。無精髭を綺麗に剃ってきており、いつもよりずっと若々しく見えた。
「はい」
「けっこう、賭けだけどね。吉と出るかな、凶と出るかな」
思いのほか植田は楽しそうだ。
「でも沢入くんは声が良いから、そこに君の気持ちがのっかれば……きっと面白いことになるね」
「だと、良いんですけど」
俺は肩をすくめながら笑った。確かにこの歌詞は、のるかそるかの大博打だ。本番の、自分のパフォーマンスに全てが懸かっている。
不安はある。でも、これ以外に思いつかなかった。この溢れる気持ちの全てを、歌に込める方法が。
順番は抽選で決められた。植田との発声練習を終え、結果を見に行くと、俺はかなり後のほうだった。大トリでなくてよかった、と安堵する。さすがにそれは荷が重すぎる。
一般入場が開始していた。会場には続々と観覧者たちが集まってきている。未来のスターを発掘する注目度の高い大会だけあって、観客の数も一通りではない。
舞台の袖から観客を見渡した。かりに秀が来ていたとしても、この人数ではわからないな……とちょっと気落ちする。本番前に、一目でも秀の顔が見たかった。
「彼女でも来てるの?」
観客席を覗き込む俺に、植田が尋ねてきた。冷かしという感じではなかった。
「いや、彼女ではないんですけど」
俺は首を横に振り、一息おいてから言った。
「俺の、好きな人です」
「若いねえ」
植田が口角をつりあげる。今度は、間違いなく冷かしだった。
「植田さんだって、若々しいですよ」
「『若い』と『若々しい』は、マリリン・モンローとマリリン・マンソンくらい、違うって」
植田はそう言って自嘲する。俺も笑ってしまった。
レディースエンジェントルメーン! と司会者が大袈裟な声を出した。時刻は正午ぴったり。
「いよいよ、始まるよ」
植田が司会者を眩しそうに見た。
出場者たちの演奏が開始する。
自分は案外、心地よい緊張感の中にいた。何千人の観衆がいようが関係ない――そう思っていたからかもしれない。ただ一人のために、俺は歌うのだ。
スマホの画面を確認するが、やはり連絡はない。
――やっぱり、来ないかな……。
そもそも、耳の聞こえない秀を音楽の祭典に誘うということ自体、無神経だったかもしれない。面白くもなんともないだろうし。
第一、俺の顔なんてもう見たくないだろうか。秀が必死に隠そうとした事実を、暴いてしまったのだ。しかも隠されたことに苛立って、怒声まで浴びせた。嫌われたかもしれない。
「まあ、自業自得だよな……」
いまさら、俺の歌を彼に聞かせたところで、何が変わるというのだろう。
「……駄目だ」どんどんネガティブになる。
雑念を払うように、頭を二、三度振る。モニターを見ると、自分の順番が近づいていることに気づいた。
ギターを持って待機室を出た。ちょうどスタッフが「三十六番の沢入さん!」と呼びにきたところだった。「今行きます」と軽快に答える。
ステージの袖に入ると、俺の前の演奏者がマイクに向かうところだった。俺と同じ、弾き語り。でも女性だ。透明感のある声に、うまいな、と素直に感じた。
「ここは、関係者以外立ち入り禁止ですっ! お客様、困ります!」
そのとき、スタッフの困り果てたような声が響いた。辺りがざわつく。物騒な声がしたほうを振り返った。
「しゅ、秀……!」
心臓が止まりかけた。
「薫ッ」
秀はスタッフに阻まれながらも、それを押しのけるようにして、叫んだ。生真面目な秀がこんな大それた行動を起こすなんて、信じがたいことだった。
「薫! 自分を、信じろ!」
俺は驚きのあまり何も言えなかった。秀の声だけが、頭の中を何度も行き来した。
「君には、才能があるんだ!」
秀は、ほとんど泣き顔だ。でもたぶん、俺も同じだった。
「絶対に、あるんだ!」
観客席へお戻りください、と秀は強制的にスタッフに連れて行かれてしまった。ステージでは前の演奏者が歌い終わり、舞台袖に去った。
俺は呆けたように、しばしその場に立ち尽くした。それからゆっくりと、目線をステージのほうへ向けた。
ステージの真ん中に、ぽつんとマイクスタンドが立ち、俺を待っている。
秀が、来てくれた。秀が見てくれている。心地よい高揚が全身に広がった。
エントリーナンバーと名前を呼ばれる。袖から出て、マイクの前に構えた。ドク、ドク、という自分の心臓の音だけが耳を打つ。
「お兄ちゃんガンバ」と書かれたうちわを持つ綾が遠目に見えた。母さんも一生懸命こっちに手を振っている。ふ、と知らず口元が綻んだ。
秀の姿は、ここからは見えない。だけどもう不安じゃない。
準備は万端だ。オーケー。
ぎゅ、とピックを強く握る。弾いた弦の振動が、内臓と脳にまで届いた。大きく息を吸い、ステージの真ん中で、俺は歌った。
ラララ、と。
歌詞はなかった。はじめから終わりまで、「La」だけだ。
役に立たない言葉なんて、秀に想いを伝えられない言葉なんて、いらない。そう思ったから、俺は歌詞を書くのをやめた。
その代わり、メロディをたどることに全てを懸けた。声はもちろん、表情、しぐさ、息遣い、身体のすべてを使って、音を表現した。感情を、想いを、まるごと全部「ラララ」にのせて、マイクにぶつけた。ハウったって、構うもんか。
秀は「聞けない」。だから「見て」ほしかった。俺の歌を。俺の歌う姿を。
歌い終わると、息が切れた。一曲演奏しただけなのに、ひどく汗をかいていた。
観客席は、しんと静まり返っている。誰かが思い出したように、パチ、と拍手を始め、その拍手が一気にギャラリー全体に伝染した。肌にビリビリくるほどの喝采が、会場に渦巻いた。
観客席の一番前で、植田がにっこりと笑う。そうして俺に、ブイサインをした。

