ラララ 【BL】

 熱が引き、体調が全快するまでには三日かかった。看病のお礼に食事でも奢ろうと、秀に電話をかけたがやはり出ない。

『この前はサンキュ。奢るからさ、今度メシでも行こう』

 とメールで伝えれば、返信は早い。

『割り勘なら』

 それじゃあ意味がない、と俺は秀の律儀さに笑ってしまう。

『スマホがそばにあるなら、電話に出ろって』とためしに送ってみると、『すまない。いま、電車で』という簡潔な返信がくる。まあ、それなら仕方ないか。
 暇つぶしにギターでも弾こうかと手を伸ばしたところで、階下から母さんの声が飛んできた。

「ご飯できたわよ」
「わかった、今行く」

 伸ばした手を引っ込め、リビングへ向かう。母さんと綾は既に食卓についていた。夕飯はビーフシチューだ。

「そういや、テストどうだったんだ? この前言ってた、古典の」

 話しかけた俺も悪いが、綾は行儀悪く口に物を含みながら喋った。「すごいの!」とテーブルに身を乗り出してくる。

「秀一郎さんの教え方、ほんとに分かりやすくて。すらすら解けちゃった。まだ答案は返されてないけど」

 へえ、と俺は秀の才能に驚く。「そりゃ、すごいな」
「あ……そういえば」

 先ほどとは打って変わって、綾が少し暗い声を出した。俺は食事の手を止める。

「どうした?」
「秀一郎さんの耳のこと、聞いたよ。話しかけても全然気づいてくれなくて、どうしたんですかって訊いたら、実は事故で片耳が……って」
「ああ、右耳のことな」
「え、右?」

 何気なく俺が漏らした言葉に、綾は困惑したような表情を見せた。

「秀一郎さん、あたしには──左耳が聞こえないって」

 ボト、と俺のスプーンから牛肉が落ち、シチューが服にはねた。数秒、時が止まった。

***

 それから何日か、秀の耳のことについて考えていた。
 俺と綾が聞いた話の食い違いに、母さんは「単に間違えただけでしょ」とまともに取り合わず、綾は「え、え、どういうこと? 結局、どっちの耳が聞こえないの?」とうろたえていた。
 単に間違えただけ──本当に、そうだろうか?
 俺は自室のベッドの上で腕を組んだ。
 ふつう、右利きの人が間違えて左手でペンを持つなんてことはしない。本来は右耳が聞こえない人が、「聞こえないのは左耳」なんていう間違いをするだろうか。それはあまりに不自然じゃないか?
 第一、これまでにも、秀にはどうも妙な言動があったように思う。「おかしい」とまではいかないが、「自然ではない」という言動が目立った。目を見て話すのが苦手だったのに、テレビにわき目も振らずに話し相手の顔を凝視するようになったり、俺のわがままは大抵呑んでくれるのに、映画の字幕だけは頑なに譲らなかったり。秀の幼い頃を知っている俺だからこそ、その違和感を強く感じたのかもしれない。
 幼少期と比べて、秀はあまりにも「変わりすぎた」。
 ──聞こえないのは、右耳なのか、それとも左耳か。
 頭を必死に働かせて、俺はひとつの答えを出した。でもその答えは、決定的な矛盾を含んでいた。
 その矛盾を解決したのは、バイト先の本屋で見つけた、一冊の本だった。

『メシ行こう。前、約束しただろ? お言葉に甘えて、割り勘で』

 後日、そう秀に伝えた。もちろん、メールでだ。

『了解した。場所はどうする』

 待ち合わせ場所と時間は俺が指定した。場所にも時間にも、特にこだわりはない。男二人で入りやすい店を選んだ。
 約束の午後六時より三十分早く、俺は待ち合わせ場所であるファミレスに到着した。常に持ち歩く財布とスマホのほかに、一冊の本を携えていた。
「禁煙で」と告げると、無愛想な店員に窓際の席を案内される。秀が来るまではドリンクバーで時間を潰した。気分がそわそわして落ち着かない。
 秀は、六時きっかりに姿を現した。俺は持ってきていた本を背中に隠す。
「こっち、こっち」と秀に手招きする。笑顔を作るのにほんの少し苦労した。
 秀は向かいの席に腰を下ろし、俺と同じドリンクバーを注文した。愛想が悪かったはずのさきほどの店員は、今は惜しげもない営業スマイルを俺たちに向けている。秀の姿を見たからだろう。この店員といい綾といい、世の中の女はイケメンに甘すぎる。
 俺たちのテーブルには、ポテトフライとほうれん草のソテーがやってきた。
 ポテトを半ば無理やりに胃に押し込み、しばらくの間はくだらない世間話をした。ケチャップをどんなにつけても、なんの味も感じなかった。
 三十分ほど経ったところで、俺は覚悟を決め、切り出した。

「古典のテスト、よく出来たらしいよ。綾」
「本当か」秀の声が明るくなる。
「クラスで一番だったって。秀にえらい感謝してた」
「私の力ではない。綾さんは理解が速くて、教えるのが楽だった」

 謙虚だなあ、と俺は相槌を打ちながらも、胃の底に鉛が溜まるような感覚を味わっている。秀に気づかれないように一度深呼吸をした。

「綾に、説明したんだって? 左耳が、聞こえないこと」

 俺の言葉に、秀はすんなり頷いた。

「何度も話しかけてくれたらしいのに、気がつかなかったんだ。それで、事情を説明した」
「秀、覚えてるか?」

 口の中がカラカラに渇いた。でも、コーラを飲む気にもなれない。

「お前は、俺には『右耳が聞こえない』って説明したんだ」

 ティーカップを口に運んでいた秀の手が、小さく震えるのが見えた。知性に満ちた彼の瞳が、困惑に揺らぐ。

「そ……そうだったか?」秀の引きつった無理な笑顔が、悲しかった。「きっと、間違えたんだろう」

 秀、と俺は今一度彼の名を呼んだ。

「お前に嘘は似合わないよ」
「……」
「おい、秀」

 呼びかけても、秀は口を噤んだままだ。
 ポテトはすっかり冷めてしまった。だけど問題はない。俺も秀も、もうそれを食すことはないだろう。
 俺がこれから話すことは、秀を傷つけるかもしれない。
 だけど、俺だって傷ついている。おあいこなんだ、秀。

「秀、お前が聞こえないのは、右耳でも左耳でもない」

 綾から話を聞いて、考えた。秀の耳は、どちらが使えないのか。右なのか、左なのか。だけど、どっちもハズレだった。

「両耳──なんだろ、秀?」

 びく、と秀は肩を震わせた。が、黙っていた。反論は飛んでこない。

「ずっと引っかかってた。映画に誘ったとき、お前が妙に字幕にこだわったこと。スマホがそばにありながら、いつも電話に出ないこと」

 秀は観念するように、長く息を吐きだした。

「……君は、へんなところで勘がいい」 

 両耳が聞こえない。それが正しいのなら、一つ大きな疑問が残る。どうして彼は、人と会話ができるのか。
 俺は、バイト先の本屋で見つけた一冊の本を、テーブルに載せた。表紙には、『読唇術』というタイトルが大書されている。
「映画館で、『上映中は話しかけるな』って念を押したのは、室内が暗くなるからだ」
 右耳が聞こえないというのなら、はじめから彼が右側に座ればいい話だった。でも、秀はそうしなかった。咄嗟に「右耳が」と嘘をついたのは、俺を怒らせたと思ったからだ。
 俺はさらに続ける。

「『ドリーター』を『トリーター』と聞き違えたこともある」
「……読唇術では、濁点の有無を見分けるのが一番難しいんだ」

 しっかり者の秀が、マスクだけを買ってこなかった理由も今ならわかる。マスクで俺が口元を覆ってしまえば、会話が成立しなくなる。秀はそれを恐れた。

「通訳の夢を諦めたのも、耳のせいなのか」
「通訳は『聞く』仕事だからな。読話では、母語の日常会話を成立させるだけで精一杯だった。それに加えて英語なんて、とても無理だ」

 秀はまつ毛を伏せ、両眉をぎゅっと力ませた。

「知られたくなかった、君には。……君にだけは」

 低く、くぐもった、聞き取りづらい声だった。

「数年ぶりに会っても、薫はなんにも変わっていなかった。私と違って。眩しかった、君が」

 そんなこと誰も聞いてない、と思った。そんなことを聞きたいんじゃない。

「どうして、隠したりなんかしたんだ」

 つい荒っぽい声になってしまった。
 そんなに重要なことを、隠された。嘘までつかれて。そのことに、俺はひどく傷ついた。
 そんな大事なこと、どうして話してくれなかったんだ。俺はそんなに頼りないかよ。なんでも言い合える親友だと思ってたのは、俺だけかよ。
 苛立つ俺に、秀は冷静な目を向けた。

「私の耳のことを知って、それでも君は以前と同じように、私に接することができるのか?」

 その言葉に、俺は喉をつまらせた。
 言い返すことができなかった。「右耳が聞こえない」と告げられたとき、俺は実際、戸惑ったのだ。それが両耳だったら、尚更のことだったろう。

「どう接していいかわからず、一線を引いたはずだ。同情して、下手くそな愛想笑いをしたはずだ……!」

 こんなに感情的になった秀を、俺は初めて見た。

「前と同じ笑顔では……もう二度と笑いかけてくれなくなる」

 秀はそう言い切ると、席を立って出口へ向かった。秀! と叫んだが、声というものは彼に届かない。追いかけて、後ろから秀の腕を掴んだ。

「秀、待てって!」
「離してくれ!」

 手を振り払われる拍子に、秀の涙ぐんだ瞳が見えた。

「……君との約束を、守りたかった」

 そう言い残し、走り去った秀の背中が夜の闇に埋もれて、消えた。
 俺はただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。