土曜の映画館はカップルや親子連れでごった返していた。
ロープによって整理された列に並んで、お目当ての映画「メトロ」のチケットを二枚買った。指定された8のE、8のFの席を探し出し、腰を下ろす。俺が右、秀が左側に座る形になった。
映画が始まるまで、五分ほど待った。館内の照明が落とされ、海賊版撲滅をうたうコマーシャルが流れ始める。
「薫、」秀が声をかけてきた。「映画に集中したいから、上映中は私に話しかけないでもらえるか?」
「え? お、おう」
マナーとして上映中の私語は慎むべきだろうが、こうして念を押されたのは初めてだ。そんなにこの映画見たかったのか?
上映が始まってから一時間ほどは、秀の言いつけ通り静かに映画を鑑賞した。しかし俺は結局、約束を破ってしまった。劇中に何度も登場した「馨しい」という漢字がどうしても読めなかったからだ。これだから字幕は嫌なのだ。
「ゴメン秀、あれ、なんて読むんだ? ナントカしい、ってやつ」
秀は、画面を凝視し続けたままだ。こちらの質問に答える気はないらしい。
なんだよ、けちんぼ。俺はふてくされた。それくらい教えてくれたっていいじゃないか。秀は以前よりも、頑固で意地悪になったような気がする。
逆隣に座っている女性客は、さっきからゲホゲホと絶え間なく咳き込んでいる。秀はつれないし、逆隣は風邪っぴきだし、なんだか嫌な感じだった。
スタッフロールが流れ、上映が終了した。主人公が十年前にタイムトラベルし男性と恋に落ちるという、可もなく不可もない内容だった。館内が元の明るさに戻ると、俺はすぐに立ち上がって出口へ向かった。秀が焦って追いかけてきて、俺の隣に並ぶ。
「お前、ほんと変わったよ」俺の物言いに、秀は首をかしげている。「昔より、意地悪になった」
つい刺々しい口調になってしまった。
「話しかけたのは悪かったけど、漢字の読み方くらい、教えてくれたっていいだろ」
秀のほうを睨むと、彼は困惑に満ちた顔をしていた。
「そ、それは……すまないことをした」
「謝るくらいなら、はじめから──」
そこで言葉が途切れてしまったのは、秀の顔色があまりにも暗かったからだ。いや、暗いというよりも、ひどく追い詰められたような雰囲気だった。ちょっときつく言い過ぎただろうか。
秀は暗然とした表情のまま、「……実は」とつぶやくように言った。
「実は、私の右耳は、聞こえないんだ」
***
翌朝は目が覚めた瞬間から、身体がだるかった。
時計を確認するより先に、ゲホ、と咳が飛び出す。まちがいなく昨日の女性客のせいだと思った。
盛大に咳き込みながら階下のリビングに下りていく。
「まあー、風邪?」
母さんが眉をハの字に下げた。ウーンそうかも、と曖昧に返事をして俺は食卓につく。セーラー服にリボンを通す綾が、
「あたしにうつさないでね。もうすぐ受験だから。受験生だから、あたし」
と生意気な口をきく。「受験生」が世界で最も尊重され、保護されるべき存在だとでも思っているのかもしれない。
「私も仕事だし、綾も学校だけど……一人で大丈夫?」
心配する母さんに、「余裕、余裕」と歯を見せる。
「ちょっと身体がだるいだけだから。今日はバイトも休みだし、一日寝てれば治るって」
「何かあったらすぐ電話してね」
母さんと綾を送り出してから、リビングのソファで横になる。
熱は計っていないが、あったとしてもせいぜい微熱程度だろう。ぐっすり眠れば治るはずだ。
眠りに落ちる直前、瞼の裏に浮かんだのは、秀だった。
聴覚を失った右耳について、秀は「中一のときからだ。原因は、交通事故」と簡潔に説明した。簡潔すぎるくらいだった。
俺はそれ以上訊かなかった。いや、訊けなかったのだ。辛い記憶について根ほり葉ほり言及するほど、俺だって無神経じゃない。
突然のカミングアウトに少なからずたじろいだ俺は、まともなフォローのひとつもかけてやれなかった。
「で……でも、左耳があれば、日常生活には困らないよな」
なんて、のん気な台詞を吐いた自分を呪いたくなる。
耳の事情を知らなかったとはいえ、映画館の出口で秀を責めてしまった自分。それが、本当に情けなかった。謝りたいと思った。でもきっと秀は、「気に病むことはない」なんて言うんだろうな。いつもの、あの堅苦しい口調で。
小一時間ほど、布団も掛けずにソファで眠った。
そして再び目を覚ました瞬間、まずい、と直感した。急激な発熱を感じた。額はもちろん、腕や頬、自分の吐き出す息さえ熱を持っている。身体がだるさで覆われ、上半身を起こすのもつらい。
「やばい……」
咳の頻度も格段に増している。喉が焼け付くような渇いた咳が連続して出た。
最寄りのクリニックは、徒歩で十五分以上かかる。そんなに歩くのは絶対に無理だ。
スマホを手に取り、電話帳の「し」の列を目で追う。頭がもうろうとして、活字を見るのも苦痛だった。「椎木秀一郎」を探し出し、電話を掛ける。
母さんは仕事中、綾は授業中。秀は気ままな春休み中。誰に看病を頼むべきかは、一目瞭然だ。
看病に来てもらうついでに、昨日のことも謝ろう。呼び出し音を聞きながらそんなことを思った。しかし、秀は一向に電話に出ない。
「なんだよ……何してるんだ、あいつ」
ゲホ、と咳がまた一つ。仕方なくメールを打つことにした。
『風邪ひいた。悪いんだけど、おでこに貼る冷却シートと、風邪薬と、なんか飲み物買ってきて。家に誰もいなくてさ。あと、うつしたら悪いから、マスクも絶対』
送信ボタンを押すと、メールの返信は早かった。ものの一分程度だ。近くにスマホがあったなら電話に出ろよ、と俺は釈然としない。
『すぐに行く』
絵文字はおろか、句点すらなかった。秀らしいといえば秀らしい。俺は唇だけで笑って、ほっと胸をなでおろす。人が来てくれると思うだけで、自然と心が軽くなった。
すぐに行く、と言った秀の言葉に嘘はなかった。自宅のインターホンが鳴らされるまで、三十分もかからなかったろう。玄関の扉を開けると、眉間に浅い皺を寄せた秀が立っていた。
「……大丈夫か」
「大丈夫だったら、呼んでないって」
秀の携えたビニール袋を覗き込む。清涼飲料水の青いペットボトルが、八本も入っていた。アクエリアスのプールでも作るつもりか?
階上にある自分の部屋までの道のりすら、こたえた。手すりに掴まって階段をあがる俺を、秀は不安げに見つめる。
「横になったほうが良い」
部屋に入ると秀は俺を寝かしつけ、自らの持参したコンビニの袋をあさる。ぎょっとするほど次から次へと物品がでてきた。先ほどのアクエリアス、大量の風邪薬と大量の冷却シート、さらには頼んだ覚えのないポテチやチョコまで。
「ありがとう、悪かったな。お金はあとから……ゲホッ」語尾は咳に遮られた。「あー咳、やばい。ごめん、マスクちょうだい」
俺が言うと、秀の瞳が頼りなく揺らいだのが見えた。
「……マスクは、買い忘れた」
「えっ!」介抱していただく側がとやかく言っちゃいけないが、「マスクは絶対って言ったのに」
「申し訳ない」
「いや、俺はいいんだけど」身体の前で手をひらひらとやった。「お前にうつしたら、悪いと思ったから」
「気にするな」
いや、気にするって、ふつうに。
何か食べたいものはあるだろうか、と訊かれ、「おかゆ」と答えた。わかったと立ち上がった秀は、「キッチンをお借りする」と部屋を出て行ってしまった。
おかゆもいいけど、そばに居て欲しかったな──などと女々しいことを思ったのは、きっと熱のせいだろう。
暫くして、秀が盆を手に戻ってきた。盆には小さな土鍋が載っている。秀に料理ができるとは知らなかった。
「自分で食べられるか」
こちらを見て、秀は尋ねた。頷くと、れんげを手渡してくれる。
「熱いので、焦らずに食べるといい」
秀はそうアドバイスすると、ポケットからイヤホンとスマホを引っ張り出した。すぐさまワイヤレスイヤホンを両耳に嵌める。聞こえないはずの右耳にも装着するのは癖のようなものなのか。さらに今度はコンビニの袋から文庫本を取り出した。秀が本を開いた瞬間、彼の世界から俺は完全に追い出された。
秀のおかゆは、とても美味しかった。東京で一人暮らしをする上で身についたのだろうか。おかゆ美味いよ、と俺が言っても、秀の反応は無い。どうせ、あの悪趣味なヘビーメタルにかき消されたのだろう。
ヘビメタがそんなに好きかね……。
本を読むか音楽を聴くか、どっちかにすればいいのに。
空になった土鍋に蓋をして、秀の横顔を眺めた。何を読んでるんだろう、と気になる。随分と集中しているようだ。面白いのかな、邪魔しちゃ悪いかな、と躊躇ったけれど、俺は手を伸ばして秀の腕をつついた。
秀はこちらに気づいて、イヤホンを外す。
「どうした」
「おかゆ、ごちそうさま」
俺が言うと、秀は土鍋の蓋を開けて中身を確認した。粥がきれいに平らげられたのを見て、安堵の表情をつくる。
「食欲があるのなら、良かった」
うん、と俺は頷き、ベッドの上で体育すわりをした。両足の指先をもじもじさせてから、秀、と彼の名を一度呼ぶ。
「昨日は……、ごめんな」
ここ数年で俺が口にした「ごめん」の中で、一番心を込めた「ごめん」だった。
「なんの話だ」
秀は、とぼけているふうではなかった。
「ほら、映画館の出口で、お前を責めたこと」
「そ、」秀の声が裏返る。「そんな、気に病むことはない」
やっぱり、そう言うと思った。くす、と思わず笑みがこぼれる。
「かえって、気を遣わせてしまったな」
ううん、とかぶりを振ると、秀が鷹揚な声色で続けた。
「……薫のそういうところが、昔から好きだ。ごめんとか、ありがとうを、照れながらもちゃんと言えるところ。親しいからって、うやむやにしないところ」
うなじが熱くなった。「な、なんだよ急に」
うろたえる俺を見て、秀は静かに目元の笑い皺を深めた。
秀が買ってきてくれた風邪薬を飲むと、途端に眠気が襲ってきた。
「睡眠が一番だ。ぐっすり眠るといい」
丁寧な手つきで、秀は布団を掛けなおしてくれる。ありがとう、と俺はうわごとみたいな声で礼をした。
「秀はもう、帰る?」
俺が問うと、秀は首を斜めに傾げて、「薫は、どうしてほしい?」と反問してきた。答えは決まっていた。
「……ここにいてほしい」ベッドの傍らに立つ、秀のワイシャツの裾を掴んだ。「俺が、起きるまで」
秀は軽快に首を振り、「では、そうするとしよう」と床に腰を下ろした。
「……秀、手、つなご」
自分でもよくわからないけれど、ふと思いついたので、言ってみた。相手が男であっても手を繋ぎたくなるほど、風邪というのは人を物寂しい気持ちにさせるのか。
秀は肩透かしを食らったみたいに、パチパチと何度か瞬きした。
「それは別に、かまわないが……」
おずおずと伸びてきた秀の手を、俺が奪うように握る。秀の肩に、あからさまに力がこもった。
「手を繋ぐのは、かまわないが、」秀の声は上擦っている。「これは何か、変ではないか?」
「……いいじゃん。別に誰も見てないし」
秀の手は冷たい。そのことを俺は、ずいぶんと昔から知っていた。どうしてだろう、と薄れゆく意識の中で考え、思い出した。
そうだ、指切りをしたことがあるんだ。
ロープによって整理された列に並んで、お目当ての映画「メトロ」のチケットを二枚買った。指定された8のE、8のFの席を探し出し、腰を下ろす。俺が右、秀が左側に座る形になった。
映画が始まるまで、五分ほど待った。館内の照明が落とされ、海賊版撲滅をうたうコマーシャルが流れ始める。
「薫、」秀が声をかけてきた。「映画に集中したいから、上映中は私に話しかけないでもらえるか?」
「え? お、おう」
マナーとして上映中の私語は慎むべきだろうが、こうして念を押されたのは初めてだ。そんなにこの映画見たかったのか?
上映が始まってから一時間ほどは、秀の言いつけ通り静かに映画を鑑賞した。しかし俺は結局、約束を破ってしまった。劇中に何度も登場した「馨しい」という漢字がどうしても読めなかったからだ。これだから字幕は嫌なのだ。
「ゴメン秀、あれ、なんて読むんだ? ナントカしい、ってやつ」
秀は、画面を凝視し続けたままだ。こちらの質問に答える気はないらしい。
なんだよ、けちんぼ。俺はふてくされた。それくらい教えてくれたっていいじゃないか。秀は以前よりも、頑固で意地悪になったような気がする。
逆隣に座っている女性客は、さっきからゲホゲホと絶え間なく咳き込んでいる。秀はつれないし、逆隣は風邪っぴきだし、なんだか嫌な感じだった。
スタッフロールが流れ、上映が終了した。主人公が十年前にタイムトラベルし男性と恋に落ちるという、可もなく不可もない内容だった。館内が元の明るさに戻ると、俺はすぐに立ち上がって出口へ向かった。秀が焦って追いかけてきて、俺の隣に並ぶ。
「お前、ほんと変わったよ」俺の物言いに、秀は首をかしげている。「昔より、意地悪になった」
つい刺々しい口調になってしまった。
「話しかけたのは悪かったけど、漢字の読み方くらい、教えてくれたっていいだろ」
秀のほうを睨むと、彼は困惑に満ちた顔をしていた。
「そ、それは……すまないことをした」
「謝るくらいなら、はじめから──」
そこで言葉が途切れてしまったのは、秀の顔色があまりにも暗かったからだ。いや、暗いというよりも、ひどく追い詰められたような雰囲気だった。ちょっときつく言い過ぎただろうか。
秀は暗然とした表情のまま、「……実は」とつぶやくように言った。
「実は、私の右耳は、聞こえないんだ」
***
翌朝は目が覚めた瞬間から、身体がだるかった。
時計を確認するより先に、ゲホ、と咳が飛び出す。まちがいなく昨日の女性客のせいだと思った。
盛大に咳き込みながら階下のリビングに下りていく。
「まあー、風邪?」
母さんが眉をハの字に下げた。ウーンそうかも、と曖昧に返事をして俺は食卓につく。セーラー服にリボンを通す綾が、
「あたしにうつさないでね。もうすぐ受験だから。受験生だから、あたし」
と生意気な口をきく。「受験生」が世界で最も尊重され、保護されるべき存在だとでも思っているのかもしれない。
「私も仕事だし、綾も学校だけど……一人で大丈夫?」
心配する母さんに、「余裕、余裕」と歯を見せる。
「ちょっと身体がだるいだけだから。今日はバイトも休みだし、一日寝てれば治るって」
「何かあったらすぐ電話してね」
母さんと綾を送り出してから、リビングのソファで横になる。
熱は計っていないが、あったとしてもせいぜい微熱程度だろう。ぐっすり眠れば治るはずだ。
眠りに落ちる直前、瞼の裏に浮かんだのは、秀だった。
聴覚を失った右耳について、秀は「中一のときからだ。原因は、交通事故」と簡潔に説明した。簡潔すぎるくらいだった。
俺はそれ以上訊かなかった。いや、訊けなかったのだ。辛い記憶について根ほり葉ほり言及するほど、俺だって無神経じゃない。
突然のカミングアウトに少なからずたじろいだ俺は、まともなフォローのひとつもかけてやれなかった。
「で……でも、左耳があれば、日常生活には困らないよな」
なんて、のん気な台詞を吐いた自分を呪いたくなる。
耳の事情を知らなかったとはいえ、映画館の出口で秀を責めてしまった自分。それが、本当に情けなかった。謝りたいと思った。でもきっと秀は、「気に病むことはない」なんて言うんだろうな。いつもの、あの堅苦しい口調で。
小一時間ほど、布団も掛けずにソファで眠った。
そして再び目を覚ました瞬間、まずい、と直感した。急激な発熱を感じた。額はもちろん、腕や頬、自分の吐き出す息さえ熱を持っている。身体がだるさで覆われ、上半身を起こすのもつらい。
「やばい……」
咳の頻度も格段に増している。喉が焼け付くような渇いた咳が連続して出た。
最寄りのクリニックは、徒歩で十五分以上かかる。そんなに歩くのは絶対に無理だ。
スマホを手に取り、電話帳の「し」の列を目で追う。頭がもうろうとして、活字を見るのも苦痛だった。「椎木秀一郎」を探し出し、電話を掛ける。
母さんは仕事中、綾は授業中。秀は気ままな春休み中。誰に看病を頼むべきかは、一目瞭然だ。
看病に来てもらうついでに、昨日のことも謝ろう。呼び出し音を聞きながらそんなことを思った。しかし、秀は一向に電話に出ない。
「なんだよ……何してるんだ、あいつ」
ゲホ、と咳がまた一つ。仕方なくメールを打つことにした。
『風邪ひいた。悪いんだけど、おでこに貼る冷却シートと、風邪薬と、なんか飲み物買ってきて。家に誰もいなくてさ。あと、うつしたら悪いから、マスクも絶対』
送信ボタンを押すと、メールの返信は早かった。ものの一分程度だ。近くにスマホがあったなら電話に出ろよ、と俺は釈然としない。
『すぐに行く』
絵文字はおろか、句点すらなかった。秀らしいといえば秀らしい。俺は唇だけで笑って、ほっと胸をなでおろす。人が来てくれると思うだけで、自然と心が軽くなった。
すぐに行く、と言った秀の言葉に嘘はなかった。自宅のインターホンが鳴らされるまで、三十分もかからなかったろう。玄関の扉を開けると、眉間に浅い皺を寄せた秀が立っていた。
「……大丈夫か」
「大丈夫だったら、呼んでないって」
秀の携えたビニール袋を覗き込む。清涼飲料水の青いペットボトルが、八本も入っていた。アクエリアスのプールでも作るつもりか?
階上にある自分の部屋までの道のりすら、こたえた。手すりに掴まって階段をあがる俺を、秀は不安げに見つめる。
「横になったほうが良い」
部屋に入ると秀は俺を寝かしつけ、自らの持参したコンビニの袋をあさる。ぎょっとするほど次から次へと物品がでてきた。先ほどのアクエリアス、大量の風邪薬と大量の冷却シート、さらには頼んだ覚えのないポテチやチョコまで。
「ありがとう、悪かったな。お金はあとから……ゲホッ」語尾は咳に遮られた。「あー咳、やばい。ごめん、マスクちょうだい」
俺が言うと、秀の瞳が頼りなく揺らいだのが見えた。
「……マスクは、買い忘れた」
「えっ!」介抱していただく側がとやかく言っちゃいけないが、「マスクは絶対って言ったのに」
「申し訳ない」
「いや、俺はいいんだけど」身体の前で手をひらひらとやった。「お前にうつしたら、悪いと思ったから」
「気にするな」
いや、気にするって、ふつうに。
何か食べたいものはあるだろうか、と訊かれ、「おかゆ」と答えた。わかったと立ち上がった秀は、「キッチンをお借りする」と部屋を出て行ってしまった。
おかゆもいいけど、そばに居て欲しかったな──などと女々しいことを思ったのは、きっと熱のせいだろう。
暫くして、秀が盆を手に戻ってきた。盆には小さな土鍋が載っている。秀に料理ができるとは知らなかった。
「自分で食べられるか」
こちらを見て、秀は尋ねた。頷くと、れんげを手渡してくれる。
「熱いので、焦らずに食べるといい」
秀はそうアドバイスすると、ポケットからイヤホンとスマホを引っ張り出した。すぐさまワイヤレスイヤホンを両耳に嵌める。聞こえないはずの右耳にも装着するのは癖のようなものなのか。さらに今度はコンビニの袋から文庫本を取り出した。秀が本を開いた瞬間、彼の世界から俺は完全に追い出された。
秀のおかゆは、とても美味しかった。東京で一人暮らしをする上で身についたのだろうか。おかゆ美味いよ、と俺が言っても、秀の反応は無い。どうせ、あの悪趣味なヘビーメタルにかき消されたのだろう。
ヘビメタがそんなに好きかね……。
本を読むか音楽を聴くか、どっちかにすればいいのに。
空になった土鍋に蓋をして、秀の横顔を眺めた。何を読んでるんだろう、と気になる。随分と集中しているようだ。面白いのかな、邪魔しちゃ悪いかな、と躊躇ったけれど、俺は手を伸ばして秀の腕をつついた。
秀はこちらに気づいて、イヤホンを外す。
「どうした」
「おかゆ、ごちそうさま」
俺が言うと、秀は土鍋の蓋を開けて中身を確認した。粥がきれいに平らげられたのを見て、安堵の表情をつくる。
「食欲があるのなら、良かった」
うん、と俺は頷き、ベッドの上で体育すわりをした。両足の指先をもじもじさせてから、秀、と彼の名を一度呼ぶ。
「昨日は……、ごめんな」
ここ数年で俺が口にした「ごめん」の中で、一番心を込めた「ごめん」だった。
「なんの話だ」
秀は、とぼけているふうではなかった。
「ほら、映画館の出口で、お前を責めたこと」
「そ、」秀の声が裏返る。「そんな、気に病むことはない」
やっぱり、そう言うと思った。くす、と思わず笑みがこぼれる。
「かえって、気を遣わせてしまったな」
ううん、とかぶりを振ると、秀が鷹揚な声色で続けた。
「……薫のそういうところが、昔から好きだ。ごめんとか、ありがとうを、照れながらもちゃんと言えるところ。親しいからって、うやむやにしないところ」
うなじが熱くなった。「な、なんだよ急に」
うろたえる俺を見て、秀は静かに目元の笑い皺を深めた。
秀が買ってきてくれた風邪薬を飲むと、途端に眠気が襲ってきた。
「睡眠が一番だ。ぐっすり眠るといい」
丁寧な手つきで、秀は布団を掛けなおしてくれる。ありがとう、と俺はうわごとみたいな声で礼をした。
「秀はもう、帰る?」
俺が問うと、秀は首を斜めに傾げて、「薫は、どうしてほしい?」と反問してきた。答えは決まっていた。
「……ここにいてほしい」ベッドの傍らに立つ、秀のワイシャツの裾を掴んだ。「俺が、起きるまで」
秀は軽快に首を振り、「では、そうするとしよう」と床に腰を下ろした。
「……秀、手、つなご」
自分でもよくわからないけれど、ふと思いついたので、言ってみた。相手が男であっても手を繋ぎたくなるほど、風邪というのは人を物寂しい気持ちにさせるのか。
秀は肩透かしを食らったみたいに、パチパチと何度か瞬きした。
「それは別に、かまわないが……」
おずおずと伸びてきた秀の手を、俺が奪うように握る。秀の肩に、あからさまに力がこもった。
「手を繋ぐのは、かまわないが、」秀の声は上擦っている。「これは何か、変ではないか?」
「……いいじゃん。別に誰も見てないし」
秀の手は冷たい。そのことを俺は、ずいぶんと昔から知っていた。どうしてだろう、と薄れゆく意識の中で考え、思い出した。
そうだ、指切りをしたことがあるんだ。

