金曜の柏駅のホームは混雑していた。
レコード会社の養成所は千葉の柏市にある。柏は上野駅を発ったくだりの特急がはじめにとまる駅だが、上野からの乗車率が高いと座席には座れない。
座れなかったら最悪だ。ただでさえイライラしているのに。
養成所でボイストレーニングを担当している植田という男に、今日は散々けちをつけられた。
「沢入薫くん、キミね、ミックスボイスが全然駄目だよ。地声とファルセットのブレークポイントが雑すぎるんだよね」
カタカナ語を乱用した植田の口ぶりを思い出す。どす黒い感情が胃のあたりに湧いた。
「あとさ、一番ひどいのはコレ、この歌詞。キミが書いたんだよね」
そう言って植田は呆れた顔をし、無精ひげを撫でた。
「全然ダメ。気持ちとか感情がさ、全然伝わってこないのよ。言葉にとらわれてばっかり、っていうかさ。言葉に振り回されてるっていうのかなあ」
なんか硬いんだよね、卒業生の答辞じゃないんだからさ、と植田は大して面白くもないたとえをした。
「大事なのはさ、言葉じゃないんだよね」
じゃあ何が大事だっていうんすか。よっぽどそう反論してやりたかった。
柏駅のホームに特急列車が滑り込んでくる。列車内は多少混雑していたが、自由席にはちらほらと空席が見えた。はじめに目に付いた通路側の空席に近寄っていく。
窓側には男性が座っていた。いつもなら「隣、いいですか?」と一声かけるところだが、今日はそんな心の余裕さえ無かった。むっつりと黙り込んだまま、ドカッと席に腰を下ろす。肩に掛けていたギターは足の間に挟んだ。
一息つくと、植田の声が再び脳裏によみがえった。
「この壊滅的な歌詞、書き直してね。こんな歌詞じゃ、大会に出ても恥かくだけだよ」
曲は悪くないんだけどなあ、と植田は困り果てたように右耳を掻いていた。
大会──という単語に、気が重くなった。当日まで、あと一ヶ月もない。
「ジャパンミュージックフェスティバル」。アマチュアが対象の大会としては、全国最大規模のものだ。グランプリを獲得すれば即デビュー決定。数々のヒットを飛ばしたアーティストを過去に何組も輩出している、名のある大会だ。
書類審査、一次審査はなんとか通過した。最終選考となる大会当日は、数千人の観衆の前で歌う公開オーディション形式だ。俺だって恥はかきたくない。
ポケットからしわくちゃになった歌詞を引っ張り出した。「壊滅的」とまで銘打たれた、あの歌詞だ。
自分だって、上出来な歌詞だとは思わない。カッコいい言い回しと表現を繋いだだけの、無意味な言葉の羅列。
だからって、「壊滅的」は言いすぎだろ。ちくしょう、と奥歯を噛んだ。いつか絶対見返してやる。
隣席の男性は、耳にイヤホンをはめていた。何を聞いてるのかな、と勝手に思案する。音楽か、もしくはYouTube? 街行く人々がどんな音楽を嗜んでいるのか、想像を膨らませるのは癖のようなものだった。
男性は、几帳面にアイロンのかかったワイシャツと、左胸に高級ブランドのロゴが光るジャケットを身につけていた。窓のほうを見ているので顔つきは確認できない。
ふと、男性がこちらを振り返った。俺の投げた迷惑な視線を感じとったのだろう。
目が合うと、心臓がとまりそうになった。相手も俺と同じ反応をしている。
「しゅ、秀……?」
男性は裂けんばかりに両目を見開き、耳からイヤホンを外した。
「……薫、か?」
「やっぱり!」
俺が思わず声を高めると、通路を挟んで座っていた中年女性に睨まれた。声のボリュームを下げて続ける。
「お、お前、こんなところで何やって──って、まあ電車に乗ってるのか」
「そうだな、電車に乗っている」
冗談をまともに受け取るところも当時のままだ。なんだか感慨深くなった。
「久しぶりだな。今は何してるんだ?」
「大学生をしている」
と手短に返ってくる。へえ、と俺は身を乗り出した。
「どこの大学? 何を勉強してる?」
「聖倫大学の、文学部だ」
聖大か、と俺は舌を巻く。国内屈指の一流私立大学だ。
「わかった、英文科だな?」知らず声が弾んだ。「お前、むかし通訳になりたいって言ってたもんな」
五歳から九歳まで、秀には四年ほどカナダで暮らした経験がある。そのため小さいころから英語が得意で、将来は通訳になるのだと言っていた。
「いや……国文科だ」
秀はほんの少し、気まずそうな顔をした。期待を裏切って申し訳ない、とでも言いたげに。
「国文? そうなのかあ」俺もほんの少し、声のトーンを落とした。「でも、なんで」
別に、と彼は軽く肩をすくめた。
「人の好みや目標が変わったとしても、何もおかしいことはない」
「まあ、それもそうか」
もう八年だもんな、と呟き、背もたれに身を預けた。
勉強ができた秀は、当然、勉強ができる子が集まる私立の中学へ進学した。俺は言うまでもなく公立の中学へ進んだので、秀とはそれ以来疎遠になってしまっていた。今日の再会はじつに八年ぶり、ということになる。
「君は、変わっていないな」
秀の口元がわずかに緩んだ。足の間に挟まった俺のギターを見ている。
俺はおどけるように下唇を突き出す。
「すみませんね、成長がなくて」
「そんなことはない!」
ジョークをいなすにしては強すぎる声に、俺はちょっと驚いた。我に返ったように、秀は浮かしかけた腰を下ろす。
「ミュージシャンを、変わらず目指しているんだな」
生真面目そうな、堅苦しいしゃべり方が懐かしい。
「お前は変わったな、秀。俺と違って」
「……そうかな」
「人の顔を見て話すようになった」
転校生、内向的、口下手、という悲痛な三拍子が揃った秀は、小学校で一人浮いた存在だった。なかなか周囲に馴染めず、いつも俯きがちだった印象がある。
「あと、デカくなりすぎ。前は俺より小さかったよな? 可愛かったのに」
俺が不満げに言うと、秀は困ったように眉を下げた。そんなことに文句を言われてもな、という顔だ。
「そういえば、何の曲を聞いてたんだ?」
イヤホンを片方ひったくり、困惑する秀を無視して自分の耳へ押し込み──二秒でイヤホンを耳から外した。流れ出てきたのは、まさかのヘビーメタル。しかも鼓膜を突き破るような、大音量。
「へ、ヘビメタ……っ?」
秀の持つ風貌や雰囲気からは、まったく予想もつかない嗜好だった。八年という歳月は、かくも人を変えてしまうものなのか、と俺は戦慄すら覚えた。
同じ駅に降り立ち、並んで歩き出した。
「寒ィなー」
冷たい風が骨身にこたえた。ギターを右肩に抱え、両手をジーンズのポケットに突っ込む。今は二月の下旬。暦だけが声高に春の到来を宣言している季節だ。
「何が『立春』だよ。このどこが春? どこがスプリングハズカム?」
矛先不明の非難をぐちぐちと漏らす俺の横で、秀が楽しげに朗笑した。
「それは、誰に対する文句なんだ」
「暦を作ったやつだよ。暦っつーか、よく知らねーけどさ、立春とか立冬とか、そういうのを取り決めたやつ」
「その人とこの寒さには、なんの因果もないだろ」
「あるよ、ありありだよ。すっげー寒くても、まだ冬だったら『まあ冬なら仕方ないか』って割り切れる。だけどこのくそ寒ィのに、『でも季節は春なんですよ』とか言われると、なんかむかつくだろ。どこかだよ、って」
そんなふうに考えたことはなかった、と秀は肩を揺らして鈴のような笑い声をたてる。
「立春のタイミングとか、俺に無断で決めんなっつうの。俺に一言相談しろ」
俺の横暴な物言いに、秀はますます声を高めて笑った。目じりに滲んだ涙を人差し指で拭っている。
「薫は相変わらず、面白いな。君といると楽しい」
率直な秀の口ぶりに、くすぐったい気分になる。
「そ、そう?」照れくさいが、むろん悪い気はしなかった。「秀こそ、そういうクサい台詞を真顔で言うとこ、変わんねーな」
「そうか?」
「そうだよ」
真っ直ぐで、飾らないその口調が懐かしくて、嬉しくなる。「君には、才能がある」と俺に向かって断言していたあの頃と、ちっとも変わらない。
気づけば、俺の自宅の前までたどり着いていた。じゃあまた、と手を挙げようとしたそのとき、
「……秀くん?」
という呟きが背後から飛んできた。長柄箒を手にした母さんが、玄関のところで掃き掃除をしていた。
「秀くんよねえ? まー、大きくなって」
長柄箒を玄関に立てかけ、母さんは歩道のほうへ歩み出てきた。お久しぶりです、と秀が恭しく会釈をする。
「あらあら、まーすごい、懐かしいこと。ちょっとあがって行きなさいな。お夕飯、まだでしょ?」
興奮を見せる母さんは、「ね、薫、いいわよね?」となぜか俺に確認してくる。
「お、俺は構わないけど」
秀のほうに目配せすると、秀は一瞬悩むように黙ったあと、「じゃあ、お言葉に甘えて」と微笑んだ。
秀の登場に、我が沢入家は大いに沸いた。
母さんは「立派になって!」を繰り返し、妹の綾は「相変わらず超イケメン!」と玄関先で飛び跳ねた。
秀の大学も、俺の短大と同じで春休みに突入したのだという。特急に乗っていたのは実家に帰省するつもりだったかららしい。
「綾さんは、今年受験生だっただろうか」
秀の問いかけに、そうなんですう、と綾は猫なで声を出す。
「秀一郎さん、勉強教えてくださいよー」
終始ご機嫌な綾はまだセーラー服のままだ。
「ほんと、秀一郎さんは目の保養になるなあ」
「俺じゃ保養にならないのかよ」
さきほどから俺は蚊帳の外だ。秀が綺麗な顔立ちなのは認めるが、こうも兄を蔑ろにされては面白くない。
「お兄ちゃんも、まあそんなに悪くはないと思うけど」綾はテーブルに頬杖をついた。「なんていうか、もう見飽きた」
幸子! と俺は出しぬけにキッチンに立つ母さんの名を呼んだ。
「あなたは、子育てに失敗した」言って、綾のことを指差す。
「黙れ、へっぽこドリーター」綾が言い返してくる。
「あ、言ったな、お前。夜道に気をつけろよ」
そんな沢入一家のやりとりを前にして、くす、と秀が笑いを漏らしたのがわかる。
「なに笑ってんだよ、秀」
「いや、つい」
肩を揺らす秀に、俺もつられて笑った。昔から、秀が笑うと俺はいつも幸せな気持ちになった。
食事のあとは、自分の部屋で秀と他愛もない話をした。
積もる話は山のようにある……と思ったのだけれど、結局のところは取りとめもない会話ばかりしていた。八年というとひどく長い年月に思えるが、その間に起きた事件といえば、せいぜい童貞を卒業したことくらいだ。
「トリーター、というのは、なんだ」
テレビを見るともなく眺めていた俺に、秀が声をかけてきた。トリーター?
「ああ、もしかしてドリーターのこと?」俺は絨毯に横たえていた身体を起こした。「さっき、綾が言ってたやつだろ。トじゃなくてドだよ」
「そう、それだ」
秀はテレビにわき目もふらずに、じっとこちらを見ている。人と目を合わせて話すようになったといっても、なんだか極端だなあ、とおかしくなった。
「ドリーマーとフリーターをかけた、俺をからかう為の母さんの造語。フリーターじゃなくて、一応短大生だっつうの。むかつくだろ?」
なるほどと相槌を打つ秀に、くだらないよな、と俺はため息をついた。
「相変わらず、とてもにぎやかで、楽しい家庭だ」
そうか? と俺が訊き返したところで、テレビがコマーシャルに切り替わった。ずっと見たかった洋画の宣伝が流れる。
「あ、これ。今日から公開だったんだ」
全米興行収入ナンバー1、という文句が画面下に現れた。
「秀、一緒に見に行かないか? どうせ暇だろ」
「……字幕なら」
決して歯切れの良い口調ではなかった。
うーわ、と俺はあからさまに興ざめした顔を作る。
「いるよなー、字幕にこだわるやつって」
「字幕でないのなら、遠慮する」
秀が断固として譲らないので、こちらが折れることにした。主演女優の声はとてもセクシーだから、たまには字幕も悪くない。
部屋の壁かけ時計は、まもなく一時を回ろうとしていた。
「寝るか、そろそろ」
俺は自分のベッドに、秀は隣に敷かれた客用の布団に潜り込んだ。夕飯を食べ終えた時点ですっかり夜が更けきっていた為、結局泊まっていくことになったのだった。
リモコンのスイッチを押すと、室内が闇に包まれる。暗がりの中で一度瞼をおろしたが、一分ほどでまた開いた。
客用布団のほうへ身体の向きを変え、秀の顔を見下ろす。彼の白い頬は、夜にぼんやりと浮かぶおぼろ月みたいだった。
ほんと、綺麗な顔だな――。
小さい頃から美形ではあったけれど、八年の歳月のあいだにますます磨きがかかったようだ。こりゃ、女の子が放っておかないだろうな。俺はぼんやり思う。大学はただでさえ、男女の出会う機会が多いと聞くし。
「秀、」あまり眠くもなかったので、口を開いた。「いま、彼女とかいんの」
秀は答えない。それどころか、目すら開けない。おい秀、聞いてんのかと粘ってみても、無反応。嘘だろ、と俺は眉をひそめた。
「寝るの、早っ!」
どんだけ寝つきいいんだよ。赤ちゃんか、お前は。
レコード会社の養成所は千葉の柏市にある。柏は上野駅を発ったくだりの特急がはじめにとまる駅だが、上野からの乗車率が高いと座席には座れない。
座れなかったら最悪だ。ただでさえイライラしているのに。
養成所でボイストレーニングを担当している植田という男に、今日は散々けちをつけられた。
「沢入薫くん、キミね、ミックスボイスが全然駄目だよ。地声とファルセットのブレークポイントが雑すぎるんだよね」
カタカナ語を乱用した植田の口ぶりを思い出す。どす黒い感情が胃のあたりに湧いた。
「あとさ、一番ひどいのはコレ、この歌詞。キミが書いたんだよね」
そう言って植田は呆れた顔をし、無精ひげを撫でた。
「全然ダメ。気持ちとか感情がさ、全然伝わってこないのよ。言葉にとらわれてばっかり、っていうかさ。言葉に振り回されてるっていうのかなあ」
なんか硬いんだよね、卒業生の答辞じゃないんだからさ、と植田は大して面白くもないたとえをした。
「大事なのはさ、言葉じゃないんだよね」
じゃあ何が大事だっていうんすか。よっぽどそう反論してやりたかった。
柏駅のホームに特急列車が滑り込んでくる。列車内は多少混雑していたが、自由席にはちらほらと空席が見えた。はじめに目に付いた通路側の空席に近寄っていく。
窓側には男性が座っていた。いつもなら「隣、いいですか?」と一声かけるところだが、今日はそんな心の余裕さえ無かった。むっつりと黙り込んだまま、ドカッと席に腰を下ろす。肩に掛けていたギターは足の間に挟んだ。
一息つくと、植田の声が再び脳裏によみがえった。
「この壊滅的な歌詞、書き直してね。こんな歌詞じゃ、大会に出ても恥かくだけだよ」
曲は悪くないんだけどなあ、と植田は困り果てたように右耳を掻いていた。
大会──という単語に、気が重くなった。当日まで、あと一ヶ月もない。
「ジャパンミュージックフェスティバル」。アマチュアが対象の大会としては、全国最大規模のものだ。グランプリを獲得すれば即デビュー決定。数々のヒットを飛ばしたアーティストを過去に何組も輩出している、名のある大会だ。
書類審査、一次審査はなんとか通過した。最終選考となる大会当日は、数千人の観衆の前で歌う公開オーディション形式だ。俺だって恥はかきたくない。
ポケットからしわくちゃになった歌詞を引っ張り出した。「壊滅的」とまで銘打たれた、あの歌詞だ。
自分だって、上出来な歌詞だとは思わない。カッコいい言い回しと表現を繋いだだけの、無意味な言葉の羅列。
だからって、「壊滅的」は言いすぎだろ。ちくしょう、と奥歯を噛んだ。いつか絶対見返してやる。
隣席の男性は、耳にイヤホンをはめていた。何を聞いてるのかな、と勝手に思案する。音楽か、もしくはYouTube? 街行く人々がどんな音楽を嗜んでいるのか、想像を膨らませるのは癖のようなものだった。
男性は、几帳面にアイロンのかかったワイシャツと、左胸に高級ブランドのロゴが光るジャケットを身につけていた。窓のほうを見ているので顔つきは確認できない。
ふと、男性がこちらを振り返った。俺の投げた迷惑な視線を感じとったのだろう。
目が合うと、心臓がとまりそうになった。相手も俺と同じ反応をしている。
「しゅ、秀……?」
男性は裂けんばかりに両目を見開き、耳からイヤホンを外した。
「……薫、か?」
「やっぱり!」
俺が思わず声を高めると、通路を挟んで座っていた中年女性に睨まれた。声のボリュームを下げて続ける。
「お、お前、こんなところで何やって──って、まあ電車に乗ってるのか」
「そうだな、電車に乗っている」
冗談をまともに受け取るところも当時のままだ。なんだか感慨深くなった。
「久しぶりだな。今は何してるんだ?」
「大学生をしている」
と手短に返ってくる。へえ、と俺は身を乗り出した。
「どこの大学? 何を勉強してる?」
「聖倫大学の、文学部だ」
聖大か、と俺は舌を巻く。国内屈指の一流私立大学だ。
「わかった、英文科だな?」知らず声が弾んだ。「お前、むかし通訳になりたいって言ってたもんな」
五歳から九歳まで、秀には四年ほどカナダで暮らした経験がある。そのため小さいころから英語が得意で、将来は通訳になるのだと言っていた。
「いや……国文科だ」
秀はほんの少し、気まずそうな顔をした。期待を裏切って申し訳ない、とでも言いたげに。
「国文? そうなのかあ」俺もほんの少し、声のトーンを落とした。「でも、なんで」
別に、と彼は軽く肩をすくめた。
「人の好みや目標が変わったとしても、何もおかしいことはない」
「まあ、それもそうか」
もう八年だもんな、と呟き、背もたれに身を預けた。
勉強ができた秀は、当然、勉強ができる子が集まる私立の中学へ進学した。俺は言うまでもなく公立の中学へ進んだので、秀とはそれ以来疎遠になってしまっていた。今日の再会はじつに八年ぶり、ということになる。
「君は、変わっていないな」
秀の口元がわずかに緩んだ。足の間に挟まった俺のギターを見ている。
俺はおどけるように下唇を突き出す。
「すみませんね、成長がなくて」
「そんなことはない!」
ジョークをいなすにしては強すぎる声に、俺はちょっと驚いた。我に返ったように、秀は浮かしかけた腰を下ろす。
「ミュージシャンを、変わらず目指しているんだな」
生真面目そうな、堅苦しいしゃべり方が懐かしい。
「お前は変わったな、秀。俺と違って」
「……そうかな」
「人の顔を見て話すようになった」
転校生、内向的、口下手、という悲痛な三拍子が揃った秀は、小学校で一人浮いた存在だった。なかなか周囲に馴染めず、いつも俯きがちだった印象がある。
「あと、デカくなりすぎ。前は俺より小さかったよな? 可愛かったのに」
俺が不満げに言うと、秀は困ったように眉を下げた。そんなことに文句を言われてもな、という顔だ。
「そういえば、何の曲を聞いてたんだ?」
イヤホンを片方ひったくり、困惑する秀を無視して自分の耳へ押し込み──二秒でイヤホンを耳から外した。流れ出てきたのは、まさかのヘビーメタル。しかも鼓膜を突き破るような、大音量。
「へ、ヘビメタ……っ?」
秀の持つ風貌や雰囲気からは、まったく予想もつかない嗜好だった。八年という歳月は、かくも人を変えてしまうものなのか、と俺は戦慄すら覚えた。
同じ駅に降り立ち、並んで歩き出した。
「寒ィなー」
冷たい風が骨身にこたえた。ギターを右肩に抱え、両手をジーンズのポケットに突っ込む。今は二月の下旬。暦だけが声高に春の到来を宣言している季節だ。
「何が『立春』だよ。このどこが春? どこがスプリングハズカム?」
矛先不明の非難をぐちぐちと漏らす俺の横で、秀が楽しげに朗笑した。
「それは、誰に対する文句なんだ」
「暦を作ったやつだよ。暦っつーか、よく知らねーけどさ、立春とか立冬とか、そういうのを取り決めたやつ」
「その人とこの寒さには、なんの因果もないだろ」
「あるよ、ありありだよ。すっげー寒くても、まだ冬だったら『まあ冬なら仕方ないか』って割り切れる。だけどこのくそ寒ィのに、『でも季節は春なんですよ』とか言われると、なんかむかつくだろ。どこかだよ、って」
そんなふうに考えたことはなかった、と秀は肩を揺らして鈴のような笑い声をたてる。
「立春のタイミングとか、俺に無断で決めんなっつうの。俺に一言相談しろ」
俺の横暴な物言いに、秀はますます声を高めて笑った。目じりに滲んだ涙を人差し指で拭っている。
「薫は相変わらず、面白いな。君といると楽しい」
率直な秀の口ぶりに、くすぐったい気分になる。
「そ、そう?」照れくさいが、むろん悪い気はしなかった。「秀こそ、そういうクサい台詞を真顔で言うとこ、変わんねーな」
「そうか?」
「そうだよ」
真っ直ぐで、飾らないその口調が懐かしくて、嬉しくなる。「君には、才能がある」と俺に向かって断言していたあの頃と、ちっとも変わらない。
気づけば、俺の自宅の前までたどり着いていた。じゃあまた、と手を挙げようとしたそのとき、
「……秀くん?」
という呟きが背後から飛んできた。長柄箒を手にした母さんが、玄関のところで掃き掃除をしていた。
「秀くんよねえ? まー、大きくなって」
長柄箒を玄関に立てかけ、母さんは歩道のほうへ歩み出てきた。お久しぶりです、と秀が恭しく会釈をする。
「あらあら、まーすごい、懐かしいこと。ちょっとあがって行きなさいな。お夕飯、まだでしょ?」
興奮を見せる母さんは、「ね、薫、いいわよね?」となぜか俺に確認してくる。
「お、俺は構わないけど」
秀のほうに目配せすると、秀は一瞬悩むように黙ったあと、「じゃあ、お言葉に甘えて」と微笑んだ。
秀の登場に、我が沢入家は大いに沸いた。
母さんは「立派になって!」を繰り返し、妹の綾は「相変わらず超イケメン!」と玄関先で飛び跳ねた。
秀の大学も、俺の短大と同じで春休みに突入したのだという。特急に乗っていたのは実家に帰省するつもりだったかららしい。
「綾さんは、今年受験生だっただろうか」
秀の問いかけに、そうなんですう、と綾は猫なで声を出す。
「秀一郎さん、勉強教えてくださいよー」
終始ご機嫌な綾はまだセーラー服のままだ。
「ほんと、秀一郎さんは目の保養になるなあ」
「俺じゃ保養にならないのかよ」
さきほどから俺は蚊帳の外だ。秀が綺麗な顔立ちなのは認めるが、こうも兄を蔑ろにされては面白くない。
「お兄ちゃんも、まあそんなに悪くはないと思うけど」綾はテーブルに頬杖をついた。「なんていうか、もう見飽きた」
幸子! と俺は出しぬけにキッチンに立つ母さんの名を呼んだ。
「あなたは、子育てに失敗した」言って、綾のことを指差す。
「黙れ、へっぽこドリーター」綾が言い返してくる。
「あ、言ったな、お前。夜道に気をつけろよ」
そんな沢入一家のやりとりを前にして、くす、と秀が笑いを漏らしたのがわかる。
「なに笑ってんだよ、秀」
「いや、つい」
肩を揺らす秀に、俺もつられて笑った。昔から、秀が笑うと俺はいつも幸せな気持ちになった。
食事のあとは、自分の部屋で秀と他愛もない話をした。
積もる話は山のようにある……と思ったのだけれど、結局のところは取りとめもない会話ばかりしていた。八年というとひどく長い年月に思えるが、その間に起きた事件といえば、せいぜい童貞を卒業したことくらいだ。
「トリーター、というのは、なんだ」
テレビを見るともなく眺めていた俺に、秀が声をかけてきた。トリーター?
「ああ、もしかしてドリーターのこと?」俺は絨毯に横たえていた身体を起こした。「さっき、綾が言ってたやつだろ。トじゃなくてドだよ」
「そう、それだ」
秀はテレビにわき目もふらずに、じっとこちらを見ている。人と目を合わせて話すようになったといっても、なんだか極端だなあ、とおかしくなった。
「ドリーマーとフリーターをかけた、俺をからかう為の母さんの造語。フリーターじゃなくて、一応短大生だっつうの。むかつくだろ?」
なるほどと相槌を打つ秀に、くだらないよな、と俺はため息をついた。
「相変わらず、とてもにぎやかで、楽しい家庭だ」
そうか? と俺が訊き返したところで、テレビがコマーシャルに切り替わった。ずっと見たかった洋画の宣伝が流れる。
「あ、これ。今日から公開だったんだ」
全米興行収入ナンバー1、という文句が画面下に現れた。
「秀、一緒に見に行かないか? どうせ暇だろ」
「……字幕なら」
決して歯切れの良い口調ではなかった。
うーわ、と俺はあからさまに興ざめした顔を作る。
「いるよなー、字幕にこだわるやつって」
「字幕でないのなら、遠慮する」
秀が断固として譲らないので、こちらが折れることにした。主演女優の声はとてもセクシーだから、たまには字幕も悪くない。
部屋の壁かけ時計は、まもなく一時を回ろうとしていた。
「寝るか、そろそろ」
俺は自分のベッドに、秀は隣に敷かれた客用の布団に潜り込んだ。夕飯を食べ終えた時点ですっかり夜が更けきっていた為、結局泊まっていくことになったのだった。
リモコンのスイッチを押すと、室内が闇に包まれる。暗がりの中で一度瞼をおろしたが、一分ほどでまた開いた。
客用布団のほうへ身体の向きを変え、秀の顔を見下ろす。彼の白い頬は、夜にぼんやりと浮かぶおぼろ月みたいだった。
ほんと、綺麗な顔だな――。
小さい頃から美形ではあったけれど、八年の歳月のあいだにますます磨きがかかったようだ。こりゃ、女の子が放っておかないだろうな。俺はぼんやり思う。大学はただでさえ、男女の出会う機会が多いと聞くし。
「秀、」あまり眠くもなかったので、口を開いた。「いま、彼女とかいんの」
秀は答えない。それどころか、目すら開けない。おい秀、聞いてんのかと粘ってみても、無反応。嘘だろ、と俺は眉をひそめた。
「寝るの、早っ!」
どんだけ寝つきいいんだよ。赤ちゃんか、お前は。

