キスの仕方がわかりません

「市原」

 すぐそばで名前を呼ばれた。

 呼ばれ……。
 僕は条件反射で布団から飛び起きた。

「おわっ」

 驚いた声でとととっと後ずさるのを横目に見て。

「あ、ごめ……おはよう」

 それは松川で、朝で。

 ……違った。あの人……近藤さんではなかった。目の前にいるのは松川だ。疲労感を感じつつもそのことに大きく安堵の息を吐き。
「おはよ。飯食いに行ける?」

 食堂が開く時間なのか。いつまでもここに籠っているより外に出た方がいいと思ってくれているのだろう。確かにその通りで。どっちにしろ明日は月曜日で学校がある。明日いきなり部屋を出るより、リハビリした方が明日がスムーズだ。いつまでも松川のカップ麺に頼るのは迷惑掛けすぎだし、言ってみればたかが筋肉痛、一日ごろごろしていれば体は元に戻りつつある。今だって、そこそこ早く動けた。スポーツに長けているわけではない僕はそんなものだろう。

 ……正直に言って、僕は思考がまとまらなくて。
 昨日の真夜中のあれはなんだったのか。結局どういうことだったのか。恐怖感よりも疑問符に埋め尽くされて、とてももやもやしている。

「……うん」
「よかった。朝飯食ったらきっと元気が出る。そのあとは散歩でもする?」
「そうだね。コンビニで何か奢るよ」

 せめて食べたカップ麺分はお返ししないと。

「そういうのいいって。お前は何も悪くないんだから。俺も別に迷惑だと思ってないし、堂々としてろよ」
「ううん、松川には感謝してるから」

 僕の中でいくつも松川を疑ったお詫びでもあるんだよ。
 松川と一緒に歩いた食堂までの道のりは結構さくさくだった。つまり筋肉痛はすっかり良くなっていて。

 松川ほどに親しいという間柄にまでは発展していないから、廊下ですれ違う同じクラスの一年や近くの部屋の一年からは丸一日ぶりに僕が姿を現しても誰にも、その理由を訊かれなかったし、そもそも声もかけられなかった。

「市原、なんか久しぶりじゃね?」

 その中で唯一、クラスの副委員長は声をかけてくれた。松川の次に今のところ仕事柄話す機会が多い。

「こいつ、腹下してて部屋から出られなかったんだよ」
「うわ、そりゃ災難。昨日の晩飯唐揚げてんこ盛りだったのに」

 僕が口を開く前に松川がそう言うと、お大事にと両手を合わせられた。あはは、と僕は笑うしかなくて。

 松川と差し向かいで朝ごはんを食べる。温かいご飯と味噌汁は言う通り美味しくて元気が出て。大袈裟かもしれないけど体に生きる力がみなぎる気がした。そうなると頭もクリアになって。

「松川」
「うん?」
「昨日の夜どこ行ってたの?」

 焼き鮭に箸を入れていた松川の手が止まった。

「……昨日?」
「たまたま夜中に目が覚めたら松川いなくてさ」

 近藤さんとのことは、言えない。言わない方がいい気がした。

「あ、ああ……ええと、人に会いに行ってた」
「そうなんだ」
「うん」

 みんな遅くまで起きてるものなんだな。松川だって親しい友達がいるだろう。ここが地元だし同じ中学出身の人もいるかもしれない。翌日が日曜ともなれば夜通しでしゃべったりスマホゲームしたりするんだろうな。

 僕は松川の親友ではない。相部屋の好(よしみ)で何かと声をかけてくれるけど。

「ごめん、何も言わずに出て行って」

「いや全然。ただいなかったなって思って。何かあったとしてもスマホで連絡できるし」

 そうだ、あの時。松川のスマホを鳴らせばよかったのだ。番号は交換していた。……いや、枕元に目覚まし時計代わりに置いていることも恐怖ですっかり失念していたし松川と会わせたくないと思ったんだった。

 鍵は返してもらった。だからもう昨日のようなことは二度とない。それでいい。いつまでも過ぎたことを言っていても仕方ない、と今はそう思えるから。

「市原悦己君?」

 と。
 落ち着きがありながらも華やかなオーラを駄々洩れさせている人が僕たちのテーブルのところへ来た。どう見ても一年生ではない。

「……はい」

 まさか返事をしないわけにもいかず。

「わあああ」

 松川が握っていた箸をトレイの上に落とした。そんなに驚いてどうしたのだろう。それにこの人は誰? 僕を知ってるみたいだけど。

「市原。この人、生徒会長」
「えっ!?」

 僕はその人をまじまじと見てしまった。ここの生徒の中で一番偉い人。失礼ながらあまり男臭くなくて綺麗な人だ。ニコニコ顔がとても自然で。
 なんでそんな人が僕のところに。そりゃ松川も驚くはずだ。全然接点もない三年生で、申し訳ないけど名前も知らない。

「和臣君から執行部のお手伝いに来てくれるって聞いたんだけど」
「へ?」

 かずおみくん?

「市原、俺の知らないところで近藤さんと何か話したのか?」

 近藤……和臣、そうか。話はしたけど、そんな話は知らない。

「え、ええと……」

 あの人の顔を立てた方がいいのか。何となく松川の声が怒っていてどう答えていいものか迷っていると、

「僕は彼からご紹介にあずかりました、生徒会長の桜野由貴(さくらのゆき)と言います」
「あ……ご丁寧に。市原悦己です」
「うん、知ってる。で、お手伝いは来てくれるのかな?」
「あ、えと……はい」
「ええっ?」

 とは松川。ごめん、勝手に。いや、でも。

「そっか。ありがとう。手が足りてなくてね、助かるよ」
「よろしく……お願いします」

 生徒会長が満面の笑みで右手を差し出したので僕はそっと握った。

「ん? そちらの彼も来る?」
「いえ、俺は部活があるんで」
「そう。あまり無理はしないようにね」
「ありがとうございます」

 部活よりも勉強に励むべきだと言ってるのかな、この人。確かにインターハイを狙うとか、ここはそういう部活ではないみたいだけど。

「じゃあ、月曜の放課後、生徒会室に来てね」

 そう言うと生徒会長は食堂を出て行った。朝食は終わっていたようだ。

「市原、どういうこと?」

 姿が見えなくなるとすぐさま松川は僕を見た。

「うーんと、よくわからないんだけども……」
「よくわからないのに返事したのか」
「うん……でも会長さん困ってる感じだったし」

 わざわざ僕のところまで来てくれて。
 何かとてつもなく悪いことをさせられるわけではないだろう。生徒会執行部のお手伝いなんてコピーとか冊子綴じとか荷物運びだとか。これまでそういったものに関わったことがないからよく知らないけど。

「でも知らない話だったんだろ?」
「そうだけど……行かない方がいい?」

 詳しそうな松川の意見を聞いてはみたかった。

「聞きたそうだから言うけど、会長の桜野さん以下近藤さん以外良い人だと思う」

 以外、って……。

「生徒会室には近藤さんも当然いるわけだし、何よりお前あそこで」

 松川は最後までは言わなかった。

「うん……」

 それは一瞬思った。あの時の現場にまた足を踏み入れることになる。けど。僕の中ではもう、あの悲惨だった出来事は薄らいでいて。
 ……それはあの不可解なことがあったからなんだけども。怒ってるわけではないと言っていたし。で、何なのかと訊くまでには至らなかった。何を最初からやり直すのかわからない。その言葉の意味が。

「まあ、俺がとやかく言うことじゃないし、そういう活動も悪くはないしな。一度やって無理そうなら断ればいい」
「うん、ありがとう、松川」

 少々心配症な松川の許可も貰って。
 僕は月曜日、お手伝いに行ってみることにした。