だから、あれほど言ったのに。

 パタンッ――。
 硬いものどうしが出会った音。それは、両目のまぶたをこじ開けるのに、十分すぎるものだった。
 湿度六十七パーセントの教室、窓側一番後ろの席で、私は、重く湿った自分の体を、机上からゆっくり離した。
 右隣に視線をずらす。男子生徒は諦め悪い様子で、さっき目を覚まさせにきた音の主――国語の教科書――を立て直して、その内側で内職をしていた。
 実感がない。
 ――先輩たちは今、未来の幸せのため、受験に就活にとそれぞれ忙しい毎日を送っているのだから、君たちも見習って――、そう口酸っぱく先生が説明してくる朝に、私は心の中で、あっかんべーと舌を出したばかりだというのに。
 何が《未来の幸せのため》だ。
 「今」が充実していなければ、未来なんてあってもないようなものじゃないか。
 幸せ? そんなの、大人たちが分かったような顔をして道筋を照らしている≪偽物のゴール≫じゃないか。意気揚々と、満面の笑みを浮かべて、ゴールテープを手に持ち私たちを今か今かと見つめて待っているだけ。なんて楽な立場だろう、考えただけで反吐が出る。
 飽き飽きして、椅子の背もたれに体重を預ける。ギィっと音が聞こえたような気がして、少しヒヤッとした。
まるで得体のしれない何かに、私の心の奥底をじとりと覗かれた気がした。その目はあまりにも黒い瞳と鮮明な白色、全体的に丸みを帯びていて、もはや出目金のようとしか例えようがない。
 そもそも、夢以前に、目標すら何もない。
そんな私が、未来を思い描くことは、逆立ちをしながら校庭を三周走れとでもいうような、無理難題もいいところで。
 先生が白いチョークでトントンと音を立てて黒板に書き並べたものが、重石のように頭上にのしかかる。それにだけはどうも、抗おうにも抗えない。
もっと言えば、無力な自分を強大な権力で押さえつけるかのごとく、最後に先生が書いたものは、私の喉奥を突き刺した。

《嘘と生きる、ということ》

 教室は、湿って重みを増した空気と、板書に対するクラスメイトたちのヒソヒソとした声が混ざって、いやに気持ち悪さを膨らましていた。
 嘘と生きる――。
頭の中は、クエスチョンマークたちが舞踏会真っ只中。
 あれ、今、国語の時間だったよね? と机上の教科書の表紙に書かれた文字を確認する。
 《現代文》
 胸ポケットに手を入れて、赤色の生徒手帳を取り出す。
まだ頑張れていたはずの一学期に、私が生徒手帳に転記した時間割にも、同じ単語が書かれていた。生徒手帳の革表紙に触れる手のひらに、汗が滲む。
 いわゆる国語の授業であることに、何の間違いもない。それだけは確かなのに、異様に重いこの空気を打ち破る方法だけは、まったく見当つかなかった。
「嘘、と聞いてひんやりではなく、ヒヤリとした人ー」
 先生が不気味な笑顔と、それを滲ませた唇を横に伸ばす。華奢な白い腕を、幼い子どものように精一杯あげて、左手のひらを広げる。
 あまりにも薄気味悪いからか、さっきまで聞こえてきたはずのヒソヒソ声はいつしか、聞こえなくなっていた。
「あっれー? さっきまでの元気さはー? みんな嘘の一つや二つ、ついたことあるよねぇ?」
 ……ねぇ?
 先生は語尾に強い圧を込めて見つめてくる。その圧の強さに、思わず、私は俯いて机の木目に視線を落とした。
 いつも、自分が当てられないように、と視線をずらすことはよくあっても、今回ばかりは話が違う。
 嘘の一つや二つ、そりゃあ誰だってついたことくらいはあるはずだ。例外なく、私もある。私にだって、当たり前にある経験。けれど……。
 問題は、その先だ。ついた嘘の内容を聞かれたら、平穏な学校生活が終わりを迎えるかもしれないことに、声をあげられない理由が在る。
 派手でもなく、地味でもなく、可もなく不可もなく――な、今の穏やかで安定した学校生活を、あんな質問一つ、言葉の一つで終わらせるなんて、誰もできるはずない。できるわけがない。
 そんな度胸、少なくとも、私にはない。
 口をギュッと固く結んで、目を閉じる。
「じゃあ今日は三十日だから……三十番、立って」
 三十番――私の出席番号だ。
ほらほら、と手を叩かれて、固く閉じていた目を、音を立てないように静かに開ける。
 古びた校舎の床板と、椅子の足が擦れる音。その音が鼓膜を打ち破って襲いかかってくる。――もう、ここまでだろうか。

 思い起こせば、約一年半前――高校入学前後のこと。
 私は、課題が少ないことを良いことに、春休み中は常にスマホを握りしめて画面から目を離せなくなっていた。
SNSで「#春から西高」と検索し、ポストされた呟きに片っ端から声をかけた。少しは相手のプロフィールページを覗いて、本当に同じ高校に入学する人かどうかを調べた、つもりだった。私の目が、手が、狂うはずないと、この高校に合格したその日から確信を持っていた。

あの音楽系部活だけがやけに有名な、中途半端な偏差値の私学――芝原学院高校――に落ちたときはどうしたものかと思った。けれど、今の高校――偏差値は六十五で申し分ない――に受かった時点で、狂っていたのはあの私学であって、私ではないのだと思えていた。
それから入学手続きを終え、課題もすぐに済ませ、暇を持て余していた。
≪入学者説明会の後、遊ばない? 近くに大きなショッピングモールあるしさ!≫
 その呟きをタイムラインで見つけ、私は我先にと返信した。
≪それな! 午後暇だし、お昼一緒に食べて遊ぼ!≫
 なんの違和感も、「本当に西高生になる人かどうか」の疑いすらも持たず、互いに返信に返信を重ねて、しまいにはダイレクトメール、メッセージアプリへと会話を移行させていた。話題は、西高のことから、趣味、推し、家族のこと、中学のこと、私が過去に投稿した写真や動画のこと……ほぼ私に対する質問責めになっていた。
それでも、私は夢描いていた華の高校デビューが、明るいスタートが切れると思い込んで、質問に答え続けた。
 真剣に、正直に、素直に。
まだ会ったことも、顔すらわからない相手なのに。
向けられる興味関心が、自分の存在を認めてくれている快感に変換されて止められなくなっていた。もはや、これまでの――陰キャだった自分――を忘れさせてくれる、全身麻酔を打たれたときのような時間だった。

入学説明会の日。答え合わせはあまりに残酷だった。
緊張を解きほぐしたくて、早く早く、今か今かと、数日間やり取りし続けた相手を探そうと辺りを見渡す。説明会の開始時刻まで残り数分となり、着席を催促されて足が落ち着かなくなり、そわそわしているところを親に注意され、肩を落とした。
メッセージアプリを起動し、電話をかけようと思ったけれど、さすがにTPOに合わない、マナー違反だと思って、その考えを打ち消すように、トーク画面下部をタップしてメッセージを打ち込んだ。
≪ねぇ、どのあたりにいる? 全然見つかんないよ~泣≫
 そのメッセージに、すぐ既読がついた。それだけだった。
 「説明会を始めます」のアナウンスに導かれるように、私は画面から目を離して、スマホをポケットにしまった。
 もしかしたら、相手も余裕がなくて、探すのに手間取っているのかもしれない。なんせ、西高の入学者数は二百人をゆうに超えているのだから、同じ制服に同じような髪型ばかりで、唯一はっきり区別できるのが性別だけなんて、そりゃ探すのに一苦労するはず。私がそうなんだから、相手もきっとそうに違いない。 
入学者説明会は一時間弱で終わった。
 私は保護者達のPTA役員決め会議を背に、体育館外で行われていた備品購入予約会を済ませ、正門近くに走った。
 ――ここにさえいれば、相手は私を見つけられるはず。SNSで私の顔や声を知っているはずだし、あれだけやりとりしたのだから。
 正門脇の壁に背中を預けながら、来月から同じ高校に通う同級生たちを無言で見送っていた。
≪説明会おつー! 今どこ? 正門のとこいるよ! 黒髪ポニテで、明るいピンク色のヘアゴムしてる!≫
 そう打ち込んですぐ、既読、返信があった。
 返信というより、ただの写真と動画が送られてきた。ただの――というには、あまりにも気味が悪い、吐き気を覚えてしまうようなものが送られてきて、スマホを胸に押し当てて辺りを見渡して相手がどこに隠れているのかを探した。
 その間も、ポンポンと通知音が鳴って、耳の奥に心臓の音が浮いてきて、頭痛が襲ってくる。
≪黒髪ポニテ、いいね。そそられる≫
≪あーうしろ向いたら顔見えないじゃん≫
≪さっきみたいに壁にもたれててよ。こっちから見えるように≫
≪写真何枚も撮っちゃうな^^ もっと近くで見つめたい≫
≪動画見てくれた? よく撮れてるでしょ?≫
≪既読無視しないでよ、見られて喜んでるくせに≫
 気持ち悪い文言に、正門の裏に移動して、身を隠した。頭のどこかではこんな隠れ方をしても無駄なことは分かっているのに、それでも、こうするしか方法がなくて、応急処置的に身を隠した。
 数秒経って、ため息を一つ吐いた。
やっと相手からのメッセージが止んだ。
 安堵が拡がる胸から、スマホを離してポケットにしまった。
 正門から入って目の前にある時計塔に目をやると、長針と短針は午後十三時三十分を指していた。
「ほら、やっぱり直接、近くから見ると舐めたくなるくらい、か・わ・い・い」
 聞いたことがない掠れたダミ声にギョッとして、両肩が一瞬で硬直する。声がした頭上を震えながら見上げると、眉毛も髭も、顔の産毛すらも全く手入れされていない、ボサボサ頭の中年に見えるオジサンが目と口をにんまり曲げて、にやにやと私を見つめていた。
「どうしたの? これからショッピングモールでご飯だよね?」
 そう言いながら近づいてくるオジサンを前に、私は全身が硬くなっているのか、身動き一つ取れなくなっていた。
 その間、ずっとオジサンのスマホから、パシャリ、パシャリと音が聞こえてきた。時折、ビデオの撮影音も聞こえて、すべての音が気持ち悪い音になって聞こえてきて、唯一動いた両手で耳を塞いだ。
 同級生はみんな、私を横目にそそくさと通り過ぎて行く。
 誰も助けてくれない。助けてって叫べなくて、悔しくて唇をかんで、目には涙が浮かび始めていた。
「もっと怯えてよ。全部撮ってあげるから」
 ほら、と距離を詰められて、逃げ場すらも奪われる。
 誰でもいいから、早く助けて! 心の中ではいくらでも大きな声で叫べるのに、口からその言葉がそのままの音量で出て行ってくれることはなかった。
 しばらくして、俯いていた顔を上げると、西高の先生が駆け寄ってきて、私からオジサンを力づくで離してくれた。
 助かった……。
 その後、駆け付けた警察官や、助けてくれた先生に、オジサンは誰なのか、どういった関係性なのか、どこで知り合ったのかとかいろいろ聞かれて、被害者なのに、取り調べを受けている錯覚に陥った。
 オジサンは目の前で逮捕された。私は騙されたと思うことがどうも悔しくて、「知りません、友達を待っていたら話しかけられました」と淡々と嘘をついた。いや、少し笑みを浮かべていたかもしれない。目の前にいる大人たちが、私の反応を前に疑念を抱いた目をしていたから。
 すべての行動は、安定した平穏な学校生活を送り、幸せな未来を実現するためのものだった。
 他の誰のためでもない――私のためだけに、私が行動したもの……。
 そう言えば多少なりとも格好つくだろうと思って、自分にも、あの日の出来事を興味本位で聞いてくる同級生、クラスメイトたちにも、同じように息を吐くように嘘をついた。つき続けてきた。そうすることでしか、守れないと思っているから。
「三十番……は、田中さんね。どうしたの? さっきからぼうっとして目が虚ろになっているわよ? 具合、悪い?」
「え、あ……」
 息すら止まっていたらしい私の口が、無理やり開けられた感覚で情けない声が漏れ出た。
「質問、答えられるかしら」
 これだけど、と先生は右手の人差し指を折り曲げ、≪《嘘と生きる、ということ》と記した板書をコツンと軽やかに叩いだ。板書の白い文字が、少し滲む。
「これに対し、私はさきほど、皆さんに、嘘をついたことはあるかどうかを訊ねました。どうですか、田中さん」
「えっと……」
「田中さんは、嘘をついたことがありますか」
 はい、いいえ、どちらを答えるべきか、頭の中で堂々巡りをする。
「……と聞かれたところで、田中さんだけでなく、今のあなたたち全員、答えられないと思います。なので」
 先生が私に着席するよう指示し、私はすとんと力尽きたように着席した。
「今からあるビデオを見せます」
 ビデオ、と聞こえた瞬間、あの日の光景や音が脳裏を過ぎり、頭を押さえつけられたような感覚を覚え、眉を中央に寄せる。おそるおそるプロジェクターに写し出された映像を見ると、自分の記憶とは全く異なる、どこかのホールで同じ年代の学生が均等に並んだ映像があった。
「これは、先生の母校かつ、今も大ファンの学校、芝原学院高校の合唱部、吹奏楽部、筝曲部の合同定期演奏会の一部始終です。まずは見てみて」
 先生がパソコンを少し操作して、映像が再生され始める。

“皆さん、本日はお越しくださり、ありがとうございます。元、芝原学院高校合唱部の部員だった、佐々木夕夏です。合唱に詳しい方は、もしかしたら、私や朋美、何名かの他の部員の顔だけはご存じかもしれません。数年越しにまた、こうして、形は違っても、皆さんの前に立って歌うことができたこと、心の底から感謝申し上げます。
私は、去年の今ごろに事故に遭い、その後いろいろあって、合唱部をやめました。
高校三年になってから、ずっと、空っぽな毎日を過ごしていました。大好きだったものをすべて、手放したから。あのころは " 奪われた " とばかり思い込んでいたけれど、今は、それは違うかもしれないなと思い始めました。
長くなるかもしれませんが、聞いていただけると幸いです。
 私事にはなりますが……。
 奪われたと思うことで、私は、他の誰でもない " 自分自身 " を必死に守り抜こうとしました。
 自分を守るため。
 そのために、私は昔から、親に、先生に、友達に、数えきれないくらい、たくさんの嘘をついて生きてきました。親や先生ならまだしも、大好きで大切で、かけがえのない存在のはずだった、幼馴染にまで。
 その行為が、自分にさえも嘘をつき続けることが、間違っていることだと、気づけなかった。
 あまりに、残酷なくらいに、幼かった。
 けれど、だからといって、私がついた嘘の一つひとつが許されるとは、決して思ってはいません。
 たくさん傷つけて、困らせて、迷惑をかけたというのは事実だから。
 ただ、嘘をつくことでしか守れなくなっていた、脆くて弱くて、幼すぎた自分を、これからは、赦したい。
 私が、私の罪を赦して、癒していくことでしか、赦すことはできないんだと思います。
 そのために、これからは自分を偽ることなく、素直に生きていくと、決めました。
 子どもでも、大人でもない、今はまだ十七歳の私ですが、明日、三月十五日。
 十八歳になります。
 大人にならざるをえなくなります。
 法律で決められているから、成人年齢が引き下げられたから。
 明日から、私は、どれだけ抵抗したって、大人になってしまう。
 まだ、未熟な子どもの部分を多く残したまま、強制的に大人にされることが、とても怖いです。
 けれど、そのことを理由に、今までの私がしてきたように、また嘘に嘘を塗り重ねていくことは、できることならしたくありません。
 とはいえ、どうしてもつかなければいけない嘘も、世の中にはたくさん溢れてやまないことを、頭のどこかでわかってはいるつもりです。
 だから、きっとまた、嘘をつく日が来てしまう。
 けれど、せめて、誰のための、何の嘘かは考えて、それでも常に、自分に対して「その嘘は本当に必要か」を問い続けていかなければいけないと考えています。
 それが、今の私にできる、精一杯の
今の私が出した、≪答え≫です。
未来の私が、今の私を見たときにどう思うか、どんな答えを出すのか、今出した答えをどう書き換えてしまうのか、全く想像できません。
だから、私はいつか死んでしまうその瞬間に『私になれて良かった』って思えるように、私を愛して、自由に生きていきたい。
自由って、正解を何回でも、どんな風にでも書き換えられる、魔法みたいなものだと思います。
 そして、生きていくことは、きっと――自由に書き換えていく" 自分にとって "の正解を、何度も作り直していくということ。
 そのことを、たとえ、いつか忘れてしまっても思い出したタイミングが、思い出す必要がある時なんだということ。
 今はこれを結びとし、一度筆を置きたいと思います。
 最後にはなりますが、今後、芝原学院高等学校合唱部をはじめ、関わってくださる皆様全員に対し、益々のご多幸、ご健勝をお祈り申し上げます。
 本日は、本当に、本当に、ありがとうございました。“(※1)
 そこで映像は止まっていた。
「私は、佐々木夕夏さんが語ったこの内容を、今のあなたたちにも伝えたくなった。伝えて、記憶のどこかに残して、いつか思い出した時にお守りみたいなものになってくれたらいいなと思った。だから、あえて、少し煽ってみました」
 なんだ、そんなことだったのか。
 全身に入っていた変な力が、するすると椅子の下に流れ落ちていく。
「でも、そうでもしないと、あなたたちは関心を寄せた状態で聞いてはいられないだろうから。酷いやり方だとは理解しているけれど、そこは許してね」
 先生、こっわー。脅さないでよー。急に真面目になるからそこはヒヤッとしたよね。
 でも、佐々木夕夏って人の演説、良かったよね、なんか。
 クラスメイトが口々に感想を投げては、返ってこないボールが教室中に積もり続ける。
 先生が、はいはい聞いて、と手を叩いた。
「佐々木さんは、最後の方で『誰のための、何の嘘かは考えて、それでも常に、自分に対して「その嘘は本当に必要か」を問い続けていかなければいけないと考えています』って言っていたでしょ? 私ね、それを聞いて、一つ、考えたことがあって」
 言いながら私たちを背にした先生は、再び右手でチョークを持って何かを書き始める。
≪嘘は誰のためにつくのか、誰のために存在する嘘なのか≫
「何の目的をもってついた嘘か、誰のためだったのか、それを、その嘘の根っこ、もっと言えば種の部分はなんだったのかをちゃんと理解できている人って……いないんじゃないかと思うの」
 今の私だけでなく、過去の自分にも言い聞かせられている気がして、目が泳いでしまう。
「この悩みっていうか、一度ついてしまった嘘って、難しいよね」
 その声色に、先生という職業の仮面が剥がれ落ちた、生まれたままの身体にさせられている先生を薄っすら察してしまう。私も同じように制服で守られている自分の身体が見えて、頬が一気に赤くなる。急激に上がった体温と、拍動に、自分だけが置いていかれそうになり、息が上がる。
「私はある」
 息が苦しくて、酸素を求めて立ち上がった。
「え?」
「あります、嘘ついたこと」
 教室がクラスメイトのざわめきで埋め尽くされる。
「え、ちょっと、田中さん、座って」
「言えないけど、あるんです、嘘をついたこと」
 私の一言で、クラスメイトの声達が鎮まる。
「誰のためとか、なんの目的がとか、そんなのよくわかりません。でも、私は佐々木さんの言うような、自分を偽らずに素直に生きていくことなんて絶対無理です。それだけは嘘ではありません。……ていうか、私だけじゃなくない!? みんなが、とまでは言いたくないけど、実際そうなんじゃないですか、人間は」
 みんなとは言いたくないのに、それ以上の単位で言ってしまった、言い切ってしまった口を「しまった」とばかりに左手で押さえる。もう、遅いのに。
 クラスメイトから向けられているであろう視線が、見てはいないのに、想像だけは容易いようで、胸の奥深くまでグサリと刺して私を追い詰めてくる。
 ああ、痛い。痛い。痛すぎる。
 自分の発言を、急に温度が下がった頭で捉えなおすと、あまりに、青い。青いどころではない、青くさい。
 私が私でなくて、発言の主がクラスメイトだったら、きっと、私は獲物を強くとらえて絶対に離さないようにギロリと睨むはずだ。こいつだけは、こいつにだけは、もう関わらない。だけど、自分の弱みを一ミリたりとも握らせないように、細心の注意を払うために虫かごに入れて観察し続けるはず。
 もっと手ごわい人間であれたら、きっと、弾き出すために徹底的にいじめる。それこそ、相手を貶めて退学にまで追い込めるような、相手にとって不利な嘘を、私が私を守るためにつきつづける。そして、追い詰める。
 そんな想像が、頭の中を覆いつくして、離さない。想像の主は私で、想像の被害者も私だ。
 一緒にするな、それは耳の奥には一つも届いていない声なのに、どこからか聞こえた気がして、右手を握った。
「田中さん、あなたの言うことも、さっきの佐々木さんの話も、どちらもそうだろうし、奏じゃない部分もあるかもしれない」
 先生が出した想定外の返答に、素っ頓狂な声が出そうになった。口元から離れかけていた左手を再び口元に寄せる。
「”自由って、正解を何回でも、どんな風にでも書き換えられる、魔法みたいなもの”、“生きていくことは、きっと――自由に書き換えていく" 自分にとって "の正解を、何度も作り直していくということ。そのことを、たとえ、いつか忘れてしまっても思い出したタイミングが、思い出す必要がある時なんだということ。“そう、佐々木さんは言っていた。」
「だからなんですか」
 冷静になろう、冷静な自分を装わないと。何度もそう自分に言い聞かせて、落ち着こうとするけれど、先生に対する反抗心が邪魔をしてくる。
「嘘をつくことの良い悪いとか、誰のためとか、目的とかそういうことを抜きにして、一つの在り方として、いいなと思う」
「……そんなの、理想論じゃないですか」
「そうね、理想論だわ」
 先生は振り返り、私と対面で向き合う。
 距離はあるはずなのに、手の届きそうな距離まで詰められているようで息苦しい。
「理想を掲げるだけなら簡単ですよね」
 私は先生を睨みながら、右手の拳に力をこめる。殴りかかりたいわけではない。殴らないために、自分の手を汚さないために、握って耐えるしかないのだ。
「そうね、簡単ね。でも」
「でも?」
「佐々木さんの言葉を言い換えるならば、田中さんが理想論だと言ったその考えを、田中さんが生きやすいように、書きかえることはできるんじゃないかしら。人間なんて、単純よ。みんな、思ったより、自分にとって都合よくなるように嘘をついて生きている」
 そんなの、大人の……。
「大人だからでしょ、嘘が積もったら、転職すればいい、逃げられるけど、私たちはそう簡単に学校を変えられない。友達のことで悩んでも、学校という社会から逃げることが難しいから、嘘ついてごまかして、生き抜いていくしかないじゃないですか」
 先生は、私の話に静かにうんうんと頷く。
「いいんじゃない? それで」
「は?」
 否定されると思っていたのに。むしろ、大人に否定してほしいのに。
「今まで、みんな、大人から正解を借りていたでしょう。でも、これからはそうはいかなくなるのよ? 大人になるにつれて、あなたたちにこれでもかと本気で言葉をかける、正解を教えてくれる大人は減っていくの。それが最初は心地良くても、ある日突然、わからなくなる、自分の今経っている場所が合っているのか間違っているのか」
 淡々と言われて、返す言葉を見失う。
「将来を考えるとき、そこにいるのは、他の誰でもないあなただけ。誰も自分の人生を保証なんてしてくれない。守ってくれない。そういうとき、自分すら自分に嘘をつく、騙していたら、それは本当に自分の人生を生きている、生きたと胸張って言えるのかしら」
 よく考えなさい、今の自分を。
 そう締めくくられ、授業終了のチャイムが響いた。
 私は自分の席で立ちすくんだまま、凝り固まった顔を窓の向こうを見るために動かした。

 休み時間、いつもなら誰かが話しかけにやって来るはずなのに、今日は――それどころか、その後、この休み時間以降、誰も話しかけに来なくなった。
 あの日聞かせられた佐々木さんの演説を、頭の中で繰り返す毎日が続いている。
 結局、ずっと考えて、堂々巡りを続けるだけで何も変わらない。変える努力すらも、今は重く感じて何もできない。
 でも、一つ、考えを巡らせるうちに気づいたことがある。
 自分を偽らないで、素直に生きるということ――自分に嘘をつかないということ。それは、他の誰でもない、「私」という人間を私が守るためには、やはり無理なことだと。いくら考えても、辿り着く先はここしかなかった。
 私は私を守るために、これからも嘘をつくだろうし、それを良いか悪いかなんて判断を下すこともしない。
 だから、大人や周りの人間がどう言おうが、関係ない。
 私は、何度も、嘘をつくだろう。