ヘブンリーブルー・スター【BL増補版/期間限定公開】

 人生において、どんなことが起きようと、時間は平等に過ぎていく。
 最悪だった高校二年生の文化祭も、いつしか過去のことになり。俺は、大学二年生になった。

「うわー、なに、あれ。修羅場じゃん」
 白昼堂々、人通りの一番多い大学の中庭で。
 突如始まった男女の修羅場劇に、俺と同じように足を止めた長谷(はせ)が反応する。半分引いて、半分面白がっているような口調だった。
 まぁ、でも、女の子がビンタをかます現場に居合わせたら、誰だってそう思うよな。あーあーという気分で眺めていると、莉愛(りあ)ちゃんが口を開いた。
 長谷も莉愛ちゃんも、同じ学科の友達だ。一緒に行動することが多い、いつメンというやつ。
「っていうか、あの子、あれじゃんね。小説家の。なんだっけ、今度映画になるんだよね」
「え、そうなんだ。すご」
 莉愛ちゃんを狙っている長谷が、さっそうと莉愛ちゃんをよいしょする。
「詳しいんだね、莉愛ちゃん」
「詳しいっていうか、人気あるしねー、ふつうに」
「それは、その……小説が?」
「ううん、顔が。かっこいいじゃん。ひょろガリでもないし」
「あ、そっち」
「咲菜(さな)ちゃんもいいなーって言ってたし。狙ってる子、多いんだよねー。小説家とか、ちょっとかっこいいなって。あと売れてるみたいだし」
「あ、うん。へぇ、……そうなんだ」
 どんどん落ち込んでいく長谷と正反対の軽快さで、莉愛ちゃんはしれっと言い切った。
「ま、向こうも遊んでるみたいだし、あれなんだけどさー。でも、ビンタはないなー、マジウケる」
「うん。ねー、そうだよね。ウケるよね」
 乾いた笑い声を立てた長谷に、「いや、おまえ、そういうときは映画の話を広げんだよ」と心の中で突っ込みを入れる。
 その映画いつやるの? 一緒行かない? みたいな。そんな感じで適当に、デートに誘えばいいんだよ。一ヶ月後の七月二十一日公開だから。
 ……って、なんで、俺が把握してるんだって話なんだけど。
 自分に呆れていると、女の子の漫画のような啖呵が響いた。
「この最低男!」
 立ち去っていく背中は、どこからどう見ても怒り狂っている。マジか。ドン引きしていると、莉愛ちゃんがほとんど同じことを呟いた。
「ないわ~。女もないけど、女見る目ない男もないわ~」
 いや、本当、そのとおり、と笑った瞬間。たまたまこちらを向いたらしい宵と、目が合った。あ、と喉の奥で小さな声が鳴る。
 宵だ。もう三年近く、一言も喋っていない宵。その宵の視線が、すっと俺から外れていく。
 俺を認知した気まずさも、驚きもなにもない、遠巻きに自分を見ていた学生と目が合ったから逸らしただけ、という態度だった。
「なぁ、洸平。このあとどうする? バイトまで時間あるって言ったよな」
 長谷の問いかけに、はっと我に返る。
「あー……」
 宵たちへの興味は消えたらしいふたりと、女の子とは逆方向に消えていった宵の背中。勝手に脳内で比べ、俺はへらりとほほえんだ。
「ごめん。今日はふたりで行ってて」
 ちょっと用事思い出した、と告げて、ひらりと手を振る。
 莉愛ちゃんにまったくその気がないのなら、さすがにアシストはしないけど。つまり、そういうわけだった。
 満更でもない雰囲気のふたりと別れ、すぐ近くにあった購買に足を運ぶ。
 ……それにしても、長谷のあのうれしそうな顔。
 思い出し笑いをしながら、俺はアイスケースの前に進んだ。
 莉愛ちゃんは一言も「自分は宵を狙ってる」とは言わなかったのに、と軽く呆れたところで、すんと真顔になる。
 鈍いのは自分も同じと気づいたからだ。
「…………」
 あーあ、と心の中で呟いて、買うつもりだったアイスを手に取る。購入して店を出ると、六月の蒸し蒸しとした空気が肌を包んだ。
 もう一度、あーあ、と小さく口にして、歩き出す。向かう先は、正門ではなく六号棟の方角だ。
 ひさしぶりに宵を見たせいか、頭には懐かしい映像が浮かんでいた。三年――正確に言うと、二年と半年ほど前。宵と最後にふたりで喋ったときの記憶。
 高校二年生の文化祭の、秋の屋上。
 ――恋愛的な、意味ですけど。
 チクリとした罪悪感と、言語化できない胸の疼き。そういったすべてに蓋をして、自嘲する。
 いや、本当。莉愛ちゃんの言うことじゃないけど。なぁ、宵。おまえ、マジで見る目ないと思うよ。

 今年の春、宵は俺と同じ大学に入学した。
 と言っても、俺がその事実を知ったのは、ゴールデンウイークが明けたころだったんだけど。
 ちなみに、三年と少し前。宵が高校に入学したときは、「あのイケメン作家が入ってきた」とすぐ噂になっていた。でも、それは、田舎の県立高校だったからなんだろうな、と思う。
 良くも悪くも狭い世界というやつだ。それに引き換え、俺の通う大学は、大都会・東京のマンモス私大というやつで。
 芸能人もいれば、インフルエンサーもいる。現役作家というだけじゃ目玉の話題になることはない、そんな場所。だから、その、つまり、なんだ。
 俺が宵の存在を認知するに至った噂は、「イケメン作家が入学した」というハッピーなものでなく、「作家のイケメンが女の子と遊びまくっている」だったということだ。
 いや、マジでおまえ、なにやってんの? って話だよ。まぁ、そんなこと、今の俺に言える義理はないんだけど。
 あーあ、と完全に癖になったそれを口の中で転がして、六号棟の裏側に立ち入る。
 今みたいな講義中の時間はとくに、なんだけど。あまり人のいない、気楽な休憩スポットだ。でも、俺はアイスを食べに来たわけじゃない。
 ……お、いた。
 絶対にいる確信があったわけじゃないものの、当たりだったらしい。立ち止まったまま、俺は遠目に宵を眺めた。
 背は、たぶん、高校一年生だった宵が、「追い抜いた」とドヤったときよりも、さらに高くなっている。
 見た目もそう。昔もきれいな顔をしてたけど、今はなんだか垢抜けて。誰が見ても、かっこいいになっている。
 まぁ、その宵が、ビンタされたほっぺに頬杖をつく要領で手を当てて、ベンチに座っているの図は、わりとおもしろいんだけど。
 最後にひとつ茶化してから、俺は一歩を踏み出した。足音に気がついたらしい宵の視線が、俺のほうに動く。
 でも、宵の顔に、昔のような笑顔は浮かばなかった。
 そりゃそうだよなという気持ちで、宵の目の前で立ち止まる。俺だって、あんな現場を目撃しなかったら、こんなとこ来なかったっつーの。
「はい」
 フラットな声音を意識して、買ったばかりのアイスを差し出す。訝しげにアイスを見た宵が、同じくらい訝しい顔で俺を見た。
「いや、なんであずきバー」
「溶けないかなって」
 当然と言えば当然の疑問に、へらりと笑って応じる。季節はまだ夏には少し早いけど、十分すぎるほど日差しはきつい。
 ……それに、立ち止まっちゃうくらいには、いい音してたからなぁ。
 現に、宵の白い頬はうっすら赤くなっている。まぁ、さすがに、そのあたりの指摘はしないけど。
「ほら」
 さらに押しつけると、俺をじっと見上げていた宵が溜息を吐いた。黙ったまま、アイスに手を伸ばす。
 不本意そうながらも素直にアイスを頬に当てる姿は、なんというか、俺の知る宵によく似ていた。
 気持ち良かったのか、冷たくて驚いたのか、ちょっと目を丸くした幼い反応も含めて。
 よかった。開けて食べ出さなくて。いや、べつに食べてもいいんだけど。そんなことを考えながら、宵の様子を見守る。
 現役高校生作家から現役大学生作家になった宵は、本屋に並ぶ新刊の帯に「累計云十万部」なんていう言葉が踊る、押しも押されもせぬ売れっ子作家だ。
 ちなみに、莉愛ちゃんが言っていた映画のキャストも、めちゃくちゃ豪華。それなのに、なにやってんだろうな、こいつ。本当に。
 手持無沙汰に、ピンクの入った茶色い毛先をいじりつつ、口を開く。
「っていうかさ、おまえ」
「はい」
「あー……、なんていうか、大丈夫?」
「べつに」
 俺の問いかけが予想外だったのか、宵は小さく瞬いた。知らないあいだに大人びた瞳がふいと俺から逸れていく。
「ぜんぜん。女子の平手打ちの威力を体験できてよかったなっていうくらい。経験として、ちょうどよかったです」
 あいかわらずの言葉足らずだったものの、小説を書くにあたって役に立つの意だと、すぐにわかった。
 いや、本当、こいつ、マジ。なんなんだろうなと眉を寄せる代わりに、俺はへらりと笑った。
 どうせなら、きれいさっぱりぜんぶ変わっていてくれたらよかったのに。
「いや~、その子その子と本気度に寄ると思うよ」
「そうなんですか?」
 詳しいですね、と宵が言う。ちょっと小馬鹿にしたような言い方だった。
「まぁ、先輩。遊んでそうですもんね、ふつうに」
「はぁ?」
「それで、あいかわらずお節介」
「お節介って、おまえね」
 それは、まぁ、否定しないけど。でも、そうさせてんのはおまえだからな、なんて。長年の癖で口をつきそうになった言葉を、寸前で呑み込む。
 中途半端に黙り込んだ俺をちらりと見、宵は小さく笑った。
「日生さん、俺にいろいろ教えてくれたじゃないですか」
「え?」
「ふつうの人はこういうとき、こういう反応するんだ、みたいな。人付き合いのパターンみたいなの」
 宵から飛び出した懐かしい話題に、思わず宵を凝視する。
 たしかに、あのころの俺は、――まぁ、俺の勝手だったわけだけど、宵のためと思って、いろいろと口を出していた。
「すげー役に立ってます」
「いや、あー……、うん。まぁ、役に立ってるならよかったけど」
「だって、人間、笑ってても、なに考えてるかわからないじゃないですか」
 続いた言葉に、ゆるみそうになっていた表情が固まる。その俺を正面から見ようともせず、宵は言った。
「そういう外面、大事だったんだなって」
 そういう外面。無難に人の世を生きていくための、誰しもが持っているはずの処世術。
 びっくりするくらい言葉足らずなのに、やっぱりわかってしまった。いや、嘘。本当の宵がどう思ってるのかなんて、わかるはずがない。
 だって、俺は、宵が俺を好きだったことも、なにも知らなかった。矛盾が積み上がってあふれた沈黙に、宵がふっとした笑みを落とす。
「あんた嘘つきだったから」
「……は?」
 困惑した俺の声を気にするそぶりのひとつも見せず、宵はベンチから立ち上がった。その流れで、俺の手にアイスを押しつける。
「返します」
「ちょ、宵」
 反射で受け取ってしまったものの、俺は慌てて宵の背中に声をかけた。
 どこに行くにも俺にくっついて歩いた、小さな宵の幻が消えないせいなのか。何度見ても、遠ざかっていく宵の背中は見慣れない。
「宵!」
 もう一度呼びかけると、ようやく宵の足が止まる。
 ただ、ちらりと振り返った宵の瞳は冷たかった。その瞳と同じ温度の声が、きっぱりと拒絶する。
「もう、そういうの要らないんで」
「…………え」
 間の抜けた声がこぼれたものの、宵はそれ以上反応しなかった。前を向いて、さっさと立ち去っていく。
 ……いや、いやいや。
 ひとりぽつねんと取り残されるに至り、俺はアイスを握りしめた。呆然としていた心に、じわじわと怒りのようななにかがにじんでいく。
 いや、いやいや。俺が教えたのなんだのと言うのなら、こういうものは要らなくても貰っておくのが礼儀だし、それになによりも。
 そう、それになによりも。らしくない苛々を抱えたまま、俺は心の中で吐き捨てた。
 たしかに「気持ち悪い」っつったのは悪かったと思うけど。そこまで言われるほどのことはしてねぇだろうがよ。
 しかたなく開封したあずきバーは、びっくりするくらい溶けていなかった。